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1巻

1-3

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 ◆


「申し訳ありません~、手が滑って~」

 背中を衝撃が襲った。じわじわと広がる冷感と、服の張り付く感触。振り向くとメイドが五人、こちらを見ていた。

「奥様がこんなとこにいるとは思わなくて~」
「わざとじゃないんですよ~?」

 顔だけは申し訳なさそうだが、馬鹿にした声だ。
 手が滑ったなら仕方ない。私がこんなところにいたから悪かった。頭が勝手に考える。口にも出していた。……私が、昔のメリーナならね。

「あなたたち、何をしたか分かっているの?」

 今の私は、新人の教育担当もしてきた社会人だ。言うべきことは言える。

「私が気に入らないのは理解しているわ。でもこれは、許されないことよ」

 はっきりとした口調で告げる。彼女たちは一瞬怯んだ。噂を聞き、何をしても黙っている女だと思われていたのだろう。

「手が滑っただけなのに、酷くないですか~?」
「故意かそうでないかは関係ないの」

 見たところ、その意味に気付き始めたのは二人だけ。もう一人は怪訝な顔をし、後の二人は敵意を向けてきた。

「勤めているお屋敷の、伯爵夫人という立場に、水をかけたの。その意味を理解できるかしら?」
「はあ?」
「っ……申し訳ございませんっ!」

 一人が顔を青くしてその場にひれ伏した。

「はっ? 何してんのよ?」
「申し訳ございませんでしたっ!」

 もう一人も震えながら座り込んだ。

「伯爵家に仕える自覚があるのは、二人だけね」

 もう一人くらい、と思ったものの、逆に敵意を向けられてしまった。

「カリン」

 水をかけたメイドの名を呼ぶ。彼女はビクリと震え、目を見開いた。

「残念だわ。子爵令嬢なら、この場の誰より理解しているべきなのに」
「なっ……なんで、私のこと……」
「屋敷で働く者のことくらい、全て覚えているわ」

 一度来店した人も忘れない。それが美容部員としての私の武器だった。

「今は、私が屋敷の女主人なの。不満でしょうし、納得もできないでしょう」

 それは私が一度よく分かっている。うつむきそうになる顔を、グッと上げた。

「それでも、秩序は守らなければならないの。そしてそれは、あなたたちを守るためでもあるわ。だから今後はこんなことをしては駄目だと、理解してほしいの」

 ひれ伏していた二人は、震えながら頷く。でも、残りの三人は。

「……今の私が何を言っても、響かないでしょうね」

 体型が全てとばかりに私を睨み付けている。この国でそう考えること自体は間違いではない。ただ、身分というものは絶対的なものだ。陰口ならまだしも、身分が上の者に何らかの危害を加えるなど、相手によっては手首を切り落とされても文句は言えない。

(ベラーディ公爵家なら、やりかねないわね)

 ふっと嘲笑がこぼれた。

「あなたたちは、旦那様がお戻りになる前に片付けておきなさい。また後でお話ししましょう」

 理解を示した二人を連れて、私はメイド長の元へと向かった。二人は、震えながらついてくる。

「申し訳ございません、奥様っ……」
「外見を重視するのは、この国では当然の感情よ。ただ、相手が誰であろうと、人を傷付けるのは悪いことよ。今のあなたたちなら分かってくれるかしら」
「はいっ、もう二度とこのようなことはいたしませんっ」
「大変申し訳ございませんでしたっ……」

 そもそも、この二人はカリンの後ろでただ見ていただけだ。

「一応メイド長には報告させて貰うわ。でも追い出したりはしないから、安心してちょうだい」

 反省ができるなら、成長ができるということ。育つ可能性がある者を放り出したりはしない。
 メイド長には一部始終を説明した。告げ口のようで気分は良くないけれど、権威あるラーナ伯爵家に仕える自覚があの三人にないのは困る。気に入らないからとお客様に何かしでかしては、取り返しのつかないことになるからだ。
 メイド長は顔を青くして私に謝罪した。自身の監督不行届だと思っているのだろう。立場は理解しているけれど、メイド長を罰するつもりはない。

「あの子たちの処罰は、あなたと旦那様にお任せするわ。ただ、許されるならいくつか条件を出したいの」

 詳細を告げるとメイド長は深くお辞儀をして、二人のメイドにはひとまず謹慎を伝える。そして屋敷の衛兵を連れて、メイド三人の元へと向かった。一人になり、そっと息を吐く。

「……クレセット様からいただいた服じゃなくて良かったわ」

 服はもうほとんど乾いている。公爵家から持参したペラペラの服だ。つらい思い出と共に捨ててしまおうと、最後にウォーキング用に着ていた。髪も、放っておいても乾きそうだ。今日は、天気がいいから。

「運動、しなくちゃね……」

 私は庭に向かって歩き出す。バケツの水をかけられ、リリアのことを思い出してしまった。公爵家でも何度もかけられていた。庭に出たら、頭上の窓からバケツも一緒に降ってきたこともある。

(……ここは、あの家とは違う)

 主人であるクレセット様が、私を虐げていない。主人がしないなら、使用人もしてはいけない。
 きっと、もう大丈夫。
 大丈夫、なのに……
 庭に出るだけなのに、脚がすくむ。
 かつての記憶が、今目の前で起きている現実であるかのように私の心臓をうるさくする。
 冷や汗が流れ、目の前が暗くなって……

「奥様!」
「お顔が真っ青です! こちらへ!」

 倒れる寸前、先程のメイドとも違う二人が、私を支えて一階の仮眠室へと連れて行ってくれた。

「……驚かせてごめんなさい。もう、大丈夫よ」
「ですが、念のためお医者様を……」
「ありがとう。でも、少し驚くことがあっただけなの。本当にもう平気よ」

 私は精一杯笑ってみせた。二人はまだ少し濡れた私の髪を見て、ある程度の事情を察したようだった。もしかしたらメイド長と衛兵の姿を見たのかもしれない。

(優しくしてくれる人がいれば、心は落ち着くのね……)

 ここは大丈夫。この子たちは大丈夫。そう思うだけで心が凪いだ。

「あなたたちは、確か……姉妹だったわね」
「私たちをご存知なのですかっ?」
「ええ。メイド長から名簿を見せて貰ったの」

 ここに来てからの短時間で、侍女でもない一般のメイドまで覚えているなんて。二人は分かりやすくそんな顔をした。そして顔を見合わせ、頷き合う。

「あのっ、大変失礼ながら、その……」
「その……奥様は、お痩せになる方法をたくさんご存知ですのに、何故……」
「……実家では、私が運動をするどころか、外に出るのさえ良く思わない人たちがいたのよ」

 彼女たちが真剣に聞いてくれるなら、私も本当のことを話す。相手が誰かという部分だけは伏せた。

「でもこのお屋敷では、知識を存分に生かせるわ」

 嬉しくなって満面の笑みを浮かべる。そんな私に、彼女たちはまたソワソワしはじめた。

「あのっ、私たち、奥様がお庭で運動されているのを、ずっと拝見していましてっ……お食事も奥様が監修されたとうかがいましたっ」
「た……大変おこがましいのですがっ……」
「私たちにも、ダイエット法を教えていただけないでしょうかっ……!」
「ええ、いいわよ。私の知識が役に立つなら嬉しいわ」
「あ……っ、ありがとうございますー!!」

 二人は飛び上がってハイタッチをした。よく見れば二人とも少しだけぽっちゃりしている。服で隠せる程度だけど、着る服によってはウエストや二の腕が気になりそうだ。

「ではさっそく質問よ。何を食べた翌日に体重が増えたと感じるかしら?」
「私は、ケーキです!」
「私は、パスタを食べすぎた時です!」

 元気良く答えた。その他にも、ミルク、クッキー、パン、肉類など、ヒアリングを重ねていく。

「そうね……。あなたはミルクで脂肪が付くタイプ。あなたは小麦よ。パンやパスタには、ひよこ豆やアーモンドの粉を混ぜたものがあるわ。休日だけでもそれに換えれば、大分変わるはずよ」

 分析すると、彼女たちはすぐさまメモを取る。

「あなたはミルクだけど、ヨーグルトやチーズはそこまでないみたいね。ミルクや生クリームの摂取頻度を減らしてみて」

 二人は真剣な顔でうんうんと頷いた。

「食べる順番も大事。先に野菜を食べて吸収率を緩やかにして、それからスープ、肉類、パンやパスタの順番がいいわ」
「野菜が最初……」
「噛む回数を増やして、脳に満腹信号を送るの」
「よく噛んで……」
「胸を維持しつつ体を引き締めるには、たんぱく質……肉や卵を食べて、運動することが大事よ」
「肉や卵……運動……」
「あまり節制するとストレスで逆に太ったりするから、好きなものを食べたら多めに運動するようにしたらいいわ。運動できない時はストレッチでもいいの」

 楽しくなってついつい語っても、彼女たちは真剣にメモを取る。

「少しだけ、室内でできる運動をしてみましょうか」

 そう言うと、二人は目を輝かせた。
 最初に教えたのは、絨毯の上に横向きになり、片脚をゆっくり上げたり下げたり。この世界でははしたないと言われかねない運動だけれど、よく効くの。

「奥様……本当にこのような運動を……?」
「そうよ。太ももの内側を鍛えて、ヒップアップも同時に出来るわ」

 妹の方が先に、羞恥心より実を取った。

「はい! いち、に、いち、に!」
「いっ、ちにー、いっちにー!」
「腰にくびれを作るには、腹式呼吸! 腹斜筋を意識して!」
「はい!」
「次は、仕事中にできる、ながら運動! 窓拭きの時は~」

 ふたつほど教えるつもりが、短い運動をいくつも教えてしまった。それでも二人は、「効いてる! 効いてる~!」と大喜びでひとつずつ完璧に覚えてくれた。


 その晩。クレセット様との夕食を終え、並んでソファに座る。夕食後に私の部屋でお話しするのは、すっかり恒例になっていた。

「メリーナ。……すまなかった」
「えっ、あのっ……? クレセット様が謝られるようなことは何もっ……」
「屋敷の者が、君を傷つけた……。君がつらい目に遭っていることにも気付かず、私は……」
「いえ、そんな……何かされたのは今回が初めてですもの。気付かなくて当然ですわ」
「だが私は……」
「クレセット様。私は大丈夫です」

 頭を下げたままのクレセット様の頬をそっと包み、お顔を上げさせる。

「案じてくださり、ありがとうございます。ですがクレセット様が謝られることはございません」

 私のために傷ついた顔をしてくださる、優しいお方。私は精一杯の明るい笑顔を見せた。

「私はもう、伯爵家の一員です。これからは私がこのお屋敷の方々を管理しなければなりませんもの。今回のことでたくさんのことを学べました」
「メリーナ……」
「それに、仲良くしてくれる子たちもいます。私は私の力で、みなさんの信頼を得られるように頑張りたいのです」

 私には小説の主人公のように特別な力も、優れた頭脳も、話術もない。前世でも平凡な社会人だった。私にあるのは努力をすること、綺麗になる方法を教えること、そして新人教育をしていた経験だけ。

「メリーナ……。君は、子供たちとも、そうして諦めずに仲良くなったのだったね」

 クレセット様の腕が、私を優しく抱きしめる。大きな私の身体が、まるで包み込まれるような暖かさを感じた。

(あら? でも、何故クレセット様がそのことを? 垣間見るだけじゃ分からないわよね?)

 ふと疑問が湧くけれど、きっと部下の方からの報告にあったのだろうと、問うのはやめた。

「クレセット様がありのままの私を受け入れてくださったから、私は強くなれました。これからもどうか、私を……」

 愛して……
 その言葉を、口にするのが怖い。私の中の愛されなかった記憶が口を噤ませる。

「……頑張れたら、褒めていただけると嬉しいです」

 口にできるのは、子供のような望みだけ。それすらも怖くて、拒絶されることが、捨てられることが怖くて、顔をうつむけてしまった。

「そうだね……案じすぎるのも良くないか。君はもうこの屋敷の伯爵夫人だというのに」

 クレセット様は苦しげな声を出して、私の頬を撫でた。そして。

「愛しているよ、メリーナ」
「あ……あのっ……」
「伯爵夫人らしい威厳のある対応だったと、メイド長から聞いたよ。君はやはり素晴らしい人だ」

 クレセット様は私を褒めながら、髪を撫でながら、……額や目元に、キスをした。

(まって、今の私には刺激が強いのっ……)

 心臓が痛いほどに脈打つ。願った通りに褒められ、言葉にできなかったことも伝わったかのように愛される。

「わ……私は、ただ叱っただけで……メイド長が解決してくれたのですっ」

 クレセット様を押し返すと、優しく微笑まれて、最後に手の甲に口付けられた。

(心臓止まるかと……冗談にならないわ……)

 身体を離されたものの、肩は抱かれる。それでも何とか心停止は免れた。

「謙遜することはない。君の言葉で目が覚めたと、メイド二人から話を聞いたからね。彼女たちには、二週間の馬小屋掃除を命じた。その程度の罰で済み、君に泣きながら感謝していたよ」

 ふっと微笑み、私の頬を撫でる。指先で顎の下をポヨポヨしながら。

「家族に仕送りをしている子達だから減給はやめて欲しいと、君からメイド長に訴えたそうだね。この短時間で使用人の事情まで覚えるとは、やはり君は聡明な人だ。朝まで名簿を読み込んでいた君の努力の賜物でもあるのだね」
(溺愛が、すごい……)

 つらつらと流れるように褒めちぎられ、輝く笑顔も昨日より増していた。

「私は、下女への格下げと三ヶ月の休日返上および二ヶ月の無給、以後半年の減給を一度告げたのだが」
(ブラック企業だ!)

 反省した子にもあまりに冷酷でブルッと震える。

「君の訴えを聞き、最も軽い罰に変えた。反省できるなら成長できる。その考えは、私にはなかった」

 優しい瞳が私を見つめた。

「今回の件、処罰の決定を私たちに委ねてくれて感謝するよ」

 私は伯爵家に来たばかりで勝手が分からない。公爵家のやり方は参考にならなかったから……

「残りの三人は、明日の朝に追い出すつもりだ。再教育などしても無駄だからね」
「ですが、私から離れて教育機関で学べば自覚が生まれるかもしれませんし……」

 仕えていたお屋敷の紹介状がなければ、他のお屋敷で雇って貰えない。ラーナ伯爵の怒りを買ったという噂が広がれば、街で働くことも、縁談さえも難しくなる。

「私がこの外見でなければ、あの子たちもあんなことは、っ……」

 ハッとして口を覆う。前世の記憶が甦っても、私はメリーナだ。十八年生きてきた記憶や経験が消えたわけではない。

「メリーナ。君なら分かっているはずだよ。相手が何を主張しようと、身分が上の者に危害を加えることは許されない」
「っ……分かって、います……」

 私も彼女たちに主張したことだ。身分が上の者に危害を加えれば、上の者に逮捕されるほどの非がない限りは下の者が処罰される。でも、そこまでの罰は望んでいない。彼女たちには私から離れて、お屋敷に仕える自覚を学んで欲しかった。

「君は、あの三人に成長する可能性があると?」
「分かりません。ですが、やってみなければ分からないことです」

 何故庇うのかと、クレセット様は苦しげな顔をする。いつも優しかったクレセット様の、少しだけ冷たい瞳。また捨てられるのではと、無意識に身体が恐怖に震える。
 それでも、彼女たちが人生まで潰されると分かっていて、了承することはできなかった。

「……私を説得しようなど、君は度胸があるな」

 クレセット様は、ふっと表情を緩めた。

「やはり君には、教育者の才能があるようだ。今回は君に免じて、再教育を罰としよう」
「っ! ありがとうございますっ!」
「君が私以外のためにこれほど心を砕いたことには、嫉妬しているけどね」

 美しい笑みを浮かべ、私の頬を撫でる。

(今頃冷や汗が……というか、笑顔に圧が……)

 蛇に睨まれた蛙……いえ、ドラゴンに睨まれた丸腰の村人だわ。

「申し訳ありません……」
「謝罪より、別の言葉を…………いや、そうか」
「クレセット様?」

 クレセット様は突然難しいお顔をして、でもすぐに微笑んだ。

「あの女共は、知り合いの屋敷に送るよ。性根の腐った者の対応に長けた人物だ。教育機関より適しているだろう」
「そのようなお知り合いが……お手数をおかけします。よろしくお願いいたします」

 頭を下げる私の額に、柔らかいものが触れる。キスをされたと気付くと、全身が熱くなった。

「伯爵夫人らしい対応へのご褒美と、私を嫉妬させたことへのお仕置きだよ」
「えっ、あのっ、クレセット様っ……」

 目元や頬、手の甲、指先へと口付けられる。

(し、死ぬっ……)

 恋愛小説の王子様よりキラキラしたクレセット様にそんなことをされては、死んでしまう。クラクラしてきたところで解放されて、……限界を分かっていてやっているのかもしれない。

「あの女共……メリーナを傷つけたことを、日々泣いて悔いればいい」

 ぼそりと低く呟かれる声は、頭がクラクラしている私には少しも聞き取れなかった。私の髪を撫でながらの愚痴だけ、どうにか耳に入る。

「あの女は、子爵家の者だったか。家族ぐるみの悪事で没落したというのに、奴等は自尊心ばかり高く、他人を見下し傲慢に振る舞う。爵位を剥奪しなかった陛下のご判断には、疑問の残るところだよ」

 陛下の決定に愚痴を言えるのはきっと、クレセット様くらいだ。


 ◆


 その晩、クレセットが訪れたのは、屋敷の端にある古びた建物だった。石造りの長い階段を下りる度に、カツン、と建物全体に靴音が響く。その先には薄暗い廊下が伸び、両側には鉄格子が並んでいた。

「食事は与えていないな?」
「ご命令通り、水の一滴も与えておりません」

 忠実な牢番の答えに、クレセットは口の端を上げる。三人は衛兵に捕らえられた後、地下牢で食事も与えられずに放置されていた。ボロボロの藁だけが敷かれた、何もない狭い空間。そこに三人は身を寄せあっていた。

「旦那様!」

 クレセットの姿を見るなり、三人は鉄格子に駆け寄る。

「どうか私たちの話をお聞きください!」
「わざとではありません! 手が滑ってしまったのです!」
「どうかご慈悲を!」

 三人は口々に訴える。鉄格子を掴み、クレセットを見上げた。

「自覚がないというのは、本当だったのだな」

 彼女たちに返ったのは、呆れた声と溜め息だった。

「私は反対していたのです! それをこの女が無理矢理っ」
「なっ……彼女の言っていることは嘘です! 私は止めようとしてっ」
「アンタがバケツの水かけようって言ったんじゃない!」

 言い争いは罵りに変わる。自分だけは助かろうと、必死に嘘をつく。

「……醜いな」

 メリーナなら、もし無実の罪で投獄されようとも、他人を庇って処刑されることを選ぶだろう。いや、冷静に潔白を証言し、真実を勝ち取るかもしれない。諦めずに正面から向き合う。彼女ならきっとそうする。そんな彼女だから守りたいと思うのだ。
 儚げだったメリーナは、この屋敷に来て変わり始めた。そんな彼女の邪魔をする者は、誰であろうと許してはおけない。

「明日の朝、移送する。それまで何も与えるな」

 牢番に命じ、彼女たちに背を向ける。

「っ……この程度のことでっ!」

 ガシャンッと鉄格子が鳴った。
 この程度のことで、あの女のせいで、あの女に騙されている。鉄格子を掴み、口々に叫ぶ。だがクレセットが鉄格子に近付くと、声は止む。代わりに小さな悲鳴がこぼれた。

「お前らがどの程度と思うかも、何を投げ付けたかも問題ではない」

 牢番に鍵を開けさせ、鉄格子の内側に踏み入る。

「悪意があろうと、なかろうと、罪の大きささえも、関係のないことだ」

 一言ずつゆっくりと告げ、彼女たちを見下ろした。

「あ……あ……」

 微かな悲鳴。獰猛な獣に睨まれたかのように、ガクガクと震える。
 醜い。もう一度呟き、帯びていた剣を鞘から抜いた。

「お前たちは、私の妻に危害を加えた。ただ、それだけだ」
「ヒッ……」

 三人は目を閉じる。クレセットの手にかかれば、一振で三人の命を奪うことすら容易いこと。
 だが剣は空を切る音だけで、鞘に収められた。ハラリと落ちる髪の束。ポタポタと落ちる数滴の赤い液体。三人の手首には、僅かな切り傷ができていた。

「手首を切り落とされなかったのは、妻の温情だ。感謝するといい」

 凍えるほどの冷たい声音で告げ、クレセットは牢を後にした。


 ◆


 窓から射し込む清々しい光。軽やかに鳴く鳥の声。そして、ノックの音と共に扉が開いた。

「おはようございます。奥様の侍女に任命されました、サラと申します」

 朝の支度に訪れたメイド長は、一人の女性を連れていた。マロンブラウンの髪を後ろでお団子にまとめた、背の高い綺麗な女性だ。瞳は優しいミルクティー色をしている。年齢は二十歳前後だろうか。落ち着いた大人の雰囲気を纏っていた。

「誠心誠意お仕えいたします。ご用がございましたら、どのようなことでも何なりとお申し付けくださいませ」

 そう言って、ニコッと明るい笑顔を見せる。この笑顔。クレセット様からいただいた服をしまいに来てくれた、最後に笑顔で帰って行ったあの人だ。

「これからよろしくお願いしますね、サラさん」

 伯爵夫人らしく……と思っても呼び捨てにすることが出来ずにそう呼ぶと、サラさんは一度口を開けてから閉じて、ニコッと笑った。
 メイド長が部屋を出て行くと、サラさんは温かい紅茶を淹れてくれた。クレセット様に見つめられながらの朝食は、寝起きでは心臓の負担が大きい。だからこうして心を落ち着けるために、ゆったりとした時間を取っている。

(どうして朝からあんなに美しいのかしら……)

 まるで数時間前から起きていたように凛々しくて眩しい。 甘く微笑まれると、気付いた時には私のフォークやナイフは床で音を立てている。三度目の失態をしないように、しっかり頭と心の準備をしなくては。花の香を感じる爽やかな紅茶を飲み、ゆらゆらと揺れる琥珀色を見つめた。

「あの、サラさん。私の気のせいかもしれないけれど……旦那様からいただいたプレゼントをしまいに来てくれた時に、私に笑いかけてくれたかしら?」
「わ、私、顔に出ておりました……?」
「え? ええ……」
「大変失礼いたしました」

 慌てて顔も赤かったのに、すぐにキリッと侍女の顔に戻る。


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