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1巻
1-2
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翌朝。
夢じゃないかと頬をつねり、お仕事に向かうクレセット様を見送った私は、料理長の元を訪ねた。明るい茶色の瞳と、同色の短い髪。熊のように逞しい体躯に白のコック服を纏っている。彼は私を見ると、人懐っこい犬のように笑った。
「奥様、何か作りましょうか?」
料理長は、昨夜たくさん食べた私を気に入ってくれていた。せっかく用意されたものだし、それにあまりに美味しくて、最後の晩餐だと思って残さず食べた。でもこれからはそれでは駄目だ。
「今日はご相談があって……」
「ダイエットメニューを作れってんなら、お断りですぜ」
彼は眉間に皺を寄せた。この世界でダイエットメニューと言えば、サラダとスープだけ。それでは腕の振るい甲斐がないだろう。でも、前世の私の世界では違った。
「ダイエットメニューですけど、ちょっと違った物をお願いしたいのです」
怪訝な顔をする料理長に、昨夜紙にメモした内容を見せた。
鶏の胸肉には筋肉を作るのに効果的な栄養素が含まれ、蒸せば油分も少なくヘルシー。牛肉なら赤身の肉を。豚肉は肌に良く疲労回復にも効果があるため、積極的にとりたい。ただ、脂身はたくさんとっては駄目。魚介類やキノコ類も大切。野菜は煮野菜をメインに、炒めるならオリーブオイルで。
脂肪を落としつつ、筋肉を付けるのが目的。筋肉が付けば熱を発して脂肪が燃える。パンなどの炭水化物は抜かずに少なめで。でも週に一度は代謝を上げるために、炭水化物と糖質を少し多めにとる。基本は、食物繊維とたんぱく質メインの食事。
「こういったメニューにしていただきたいのです」
紙を見つめた料理長は、感嘆の溜め息をついた。
「これは腕が鳴るな……。いや、鳴りますね」
「ふふ、気楽に話してくださって構いませんよ?」
「そうですかい? じゃあ遠慮なく、っと、うちのカミサンには黙っててくださいよ? ミンチにされたくないんでね」
彼の奥さんはこのお屋敷のメイド長で、厳しくて有名な人だとクレセット様から聞いた。昨日は私にも「明日からはご案内と運動を兼ねて、毎日庭園の散策をいたしましょう」と言った。でもその視線には侮蔑も嫌悪もなく、ただ身体を気遣ってのことだと伝わってきた。
(心根の優しい、お似合いの夫婦だなあ)
二人は、私を見た目で判断しない。メイドたちはさすがに、あれが旦那様の奥様? 嘘でしょ? という視線を向けてきたけれど。憧れの旦那様に嫁いだ女がこれでは、受け入れられない気持ちは理解できる。
「でも奥様、こんな専門的なことをどこで学ばれたんです?」
「その……独学で。こちらのお屋敷では知識を生かせると思いましたの。それにこのままでは、旦那様のお隣に立てませんから」
「あー、奥様もとんでもないお方に嫁がれてしまいましたね」
料理長は社交辞令を言うでもなく、私を憐れむでもなく、明るく笑う。
「あの旦那様のお隣なんて、美の女神様でも気後れしますって」
「ふふ、そうね。むしろ旦那様が美の神様のようだわ」
「それっすよ」
何でも笑い飛ばしてくれる彼といると、気持ちが明るくなる。このお屋敷でもきっと上手くやっていける。ダイエットもきっと上手くいく。そんな前向きな気持ちのまま、しばらく料理について熱く語り合った。
「まったく、あんなのが旦那様の奥様だなんて」
厨房から自室へ戻る途中、メイドたちが噂話をしている現場に遭遇してしまった。
「旦那様が婚約も飛ばしてお迎えした方だから、どんな美人が嫁いでくるかと思ったら、あの肉の塊よ? ありえないわよ」
「横幅、旦那様の何倍あるのかしらね?」
「細く見える鏡を見て育ったんじゃない?」
そう言って笑い合う。分かっていたけど、容赦ないな……
「ダイエットとか話してたけど、パンも肉も食べてたのよ? やる気あんの? って感じ」
野菜だけだと肌も血管もボロボロになるし、胸から減るわよ~。
「家畜でも食欲をコントロール出来るわよね。旦那様に見限られるのも時間の問題でしょ」
「そうそう。あんな肉の塊見せられても、女として見れないって」
それが私、胸だけは形もいいのよね……。大きいのに垂れてなくて、自分の胸なのに思わずたぷたぷ触ってしまうほど。
「公爵家で甘やかされて育ったのね」
……愛されて育った子は、こんなに太る前に止めて貰えるものよ。
乳母だけは止めてくれた。でも私はそれを聞かず、愛されない寂しさを甘いもので埋めた。乳母だけは私を愛してくれたのに、甘いものを奪おうとする乳母を田舎へ帰してしまった。
(今の姿で何を言っても、彼女たちには鼻で笑われるだけね)
貴族の令嬢なんて特に容姿で判断される。たとえ自分の意思で体型を選んでいたとしても。
「あの……でも旦那様、奥様とお話しされるとき、嬉しそうにしていらっしゃるので……今まで縁談を断っていらしたのは、もしかして……ぽっちゃりな女性がお好みなのではと……」
旦那様にぽっちゃり好き疑惑が!?
ダイエット、ますます頑張らなければ!
(……なんて、張り切ってはみたけどね)
昼食前にメイド長と近場の庭園を散歩して、昼食後に消化を待ってから、改めて庭に出た。広大な庭を歩きながら、早速泣き言を言いそうになる。歩くだけで息切れがする。身体が重い。全身から吹き出した汗で気持ちが悪い。
「これは……相当手強いわ……」
まだこうして肉を引きずるように歩くしか出来ない。走るのは重さで足首を傷めるから、まずはウォーキングから。庭を軽く一周……なんて、軽くない。全然軽くない。
「でも、負けない……。私はここで立ち止まってるわけには……いかないのよ!」
グッと水筒の水を呷り、背筋を伸ばしてまた歩き始めた。
幸せだから今までの憎しみは忘れよう……なんて、私にはできない。私の復讐は、命を奪ったり殴ったりするわけじゃない。ただ、私を晒し者にした妹と殿下を見返すために。両親に、あの家に、私を捨てたことを後悔させるために。そして……クレセット様のお隣に、堂々と立つために。
「私は! 痩せる! やるの! やり遂げる! の! よ!」
自己暗示を掛け声にしながら、ズンズンと歩いて行く。ドスドスと音がして、庭を歩く度に土埃が舞う。そのダイナミックな様子を、屋敷のメイドたちがこっそりと眺めていた。
歩いて休んで半身浴をして。あっと言う間に陽は沈んでいた。
「クレセット様。おかえりなさいませ」
「ただいま、メリーナ」
出迎えた私を、クレセット様は人目もはばからずに抱きしめた。
「あのっ、旦那様っ……みなさんの前ですのでっ」
「ああ、すまない」
クスリと美しく微笑み、私の手を取り部屋までエスコートしてくれる。あまり速く歩けない私に合わせてゆっくりと。使用人たちの半数は不快な顔をしていたけれど、何人かは何故かキラキラした瞳で私たちを見ていた。
私に与えられた部屋は、クレセット様と同じ二階の、階段を上がってすぐの場所。寝室とリビングが分かれていて、それぞれにクローゼットとバスルームがある。どこも公爵家のものより広く、洗練されていた。
リビングの広々としたソファに並んで座る私たちの前に、使用人が次々に箱を運んでくる。
「君にプレゼントだよ」
プレゼント? 私に?
本当に? と思っている間に、綺麗にラッピングされた箱が、目の前の床を埋め尽くした。
「気に入って貰えるといいのだが」
私の反応に柔らかな微笑みを向け、クレセット様自ら箱を開け始めた。
大きな箱の中身は、服だった。来客用が三着、普段用が七着、運動着や寝間着まで。靴や帽子や手袋など小物類もある。どれも十八歳という年齢に相応しいものだった。
「メイド長が、君は持参した荷物が少なく、服もほとんどないと言っていたんだ」
服……は、とても持って来られなかった。リボンたっぷりのピンクのドレスや、結婚式のようなふわふわの白いドレス、ピチピチの真っ赤なセクシードレス……家族からドレスを買うお金だけは貰えていたのは、面白がっていたからだろう。
結局持参したのは、まともな普段着と寝間着を二着ずつと、お気に入りの本とボロボロの手鏡、髪留めが一つ。それから、教会の子供たちから貰った手紙などの思い出の品だ。
「私は女心には疎いが、センスはあると言われた。君に似合うと思ったものを選んだつもりだよ」
そう言って別の箱を開けると、手鏡やアクセサリーが出てきた。
「パーティー用のドレスはまだ必要ないと思ってね。しばらくは私だけのメリーナでいて欲しい」
ドレスも小物もひとつずつ私に見せる。
「来客用は……父と母が、君に会いに来てしまうかもしれないから用意した。新婚のうちは来ないように念を押してはいるのだが……」
そういえば、ご両親の問題もあった。今のままでは反対されるに決まっている。お会いするまでに痩せる、とまたダイエットの理由が追加された。
全ての箱を開けても、私はまだ……いえ、ますます唖然としてしまった。これが全て、私へのプレゼント……
「君の好みには合わなかったかな」
「あ……い、いえ……あの……」
私に似合うものを、クレセット様自ら選んでくださった。嬉しい。嬉しいのに、上手く言葉にできない。ゆっくりで良いのだと、隣に戻ってきたクレセット様に背を撫でられた。
「クレセット様が、私のために……っ、選んで、くださってっ……」
じわりと視界が滲む。私のことを想い、選んでくれたもの。私のために、貴重な時間を使って。
「っ……クレセット様、ありがとうございます。とても、嬉しいです」
言葉で伝えきれない感謝の気持ちを込めて、精一杯笑ってみせた。
「君のその笑顔が見たかったんだ」
クレセット様は澄んだ瞳を細め、頬を緩めた。その笑顔を見ていると、ぽろ、と涙がこぼれる。あまりに美しくて。あまりに、嬉しくて。
「泣くほど嬉しい、と自惚れてもいいのかな」
「はいっ……」
コクコクと頷くと、クレセット様はまた綺麗な笑みを浮かべて私を抱きしめる。泣いてばかりで迷惑をかけているのに、暖かな体温が泣いて良いのだと伝えてくれていた。
「私には……お返しできるものが、何も……」
お金もなく、もう公爵家の者でもない。女性としての魅力もない。独りの時間が長くて勉強だけはしていたけれど、伯爵夫人として屋敷の管理ができるかどうか……
「先程の言葉と笑顔で充分なのだが」
クレセット様はそこで言葉を切り、思案する。
「そうだな……。君に家族との縁を切らせたお詫び、とでも思ってくれ」
私がプレゼントを断ると思ったのか、長いこと思案してからそう言った。言葉にしてから、失言だったと表情を変える。縁を切ったお詫びの品を、喜んで着られるわけがない。そんな顔で。
「私にお渡しできるものがあって良かったです。では、ありがたく頂戴いたします」
私はクスリと笑って、揺れる湖水色の瞳を見上げた。最初こそ直視できなかったけれど、クレセット様の素直な表情を見たくて顔を上げてしまう。今は美の神様かと見紛うほどの美しい微笑みをたたえていた。
「あの……どうして、縁を切ることが結婚の条件だったのですか?」
「君の家族の態度が、気に入らなかった」
気に入らないものは容赦なく切り捨てる。噂は本当だった。思わず目をパチパチさせると、クレセット様はそっと視線を伏せた。
「すまない。君に対する家族の態度が、我慢ならなかったのだ。君にとっては、良い家族だったのだろうか……」
「いえ、違います。二度と帰りたくない場所です」
誤解を生まないようキッパリと言い切ると、また美しい笑みが返ってくる。
「それなら、これからもずっと私の元にいてくれるね?」
「はい」
お許しいただける限り、ずっと……ずっとおそばにいたいと、心から願ってしまう。
クレセット様が私の髪を撫でながらベルを鳴らすと、メイド長と数名のメイドが現れて、ドレスや小物をクローゼットにしまってくれた。出て行く際、メイドの一人がニコッと笑う。悪意は感じない。意図が分からず閉まった扉を見つめ続けていると、突然クレセット様に抱きしめられた。
「メリーナ、愛しているよ」
「っ、クレセット様っ……」
「屋敷に帰れば、君が暖かく迎えてくれる。何という幸福だろう」
湖水色の瞳を細め、ポヨポヨと私の顎を指先で撫でる。
「私も、クレセット様をお出迎えできて……あなたの傍にいられて、幸せです」
おそるおそるクレセット様の背に腕を回すと、綺麗なお顔が美しく微笑んだ。
クレセット様は私の腰に腕を回し、まるで子猫を撫でるように背に触れる。撫でられるたびに、ぽよ、と弾む背肉。
「あの……私が痩せたら、困りますか……?」
「君がそうなりたいのなら、止めないよ。私は、君という存在全てを愛しているからね」
そう。クレセット様は、この体型だから愛してくださっているわけではない。
「ただ、この世に君という存在が減ってしまうのは……寂しいな」
妻の私へと、ただただ惜しみない愛情を注いでくれるのだ。
「すまない、メリーナ……。今の君は、男性に好まれない外見だと言ったね。そのことに、安堵していたんだ」
安堵? 私は首を傾げる。
「外見が変わり、愚かな男共が君の魅力に気付いてしまったら……つまらない私などより、別の男を愛するのではないかと」
私の肩口に頭を乗せる。甘えるような仕草に、クスリと笑みがこぼれた。
「クレセット様がつまらない人だなど、初めて聞きましたわ」
冷酷、女嫌いとは聞いていても、つまらないとは聞いたことがない。
「他の男性に好まれたところで、クレセット様より素敵な方はいらっしゃいませんし、私がクレセット様以外を愛することなど一生ありません。それこそ、どのようなお姿になられてもです」
「それは……私が、カエルに変わろうとも?」
「ふふ。カエルになられても、です」
例えが可愛くて、クレセット様の新たな魅力を知った。
「爵位がなくなり、平民として……農業を始めたとしても、ついてきてくれるだろうか」
「もちろんです」
「商人となり、各国を旅する身となっても」
「ついて行きます。……ですが、それにはやはり痩せなくてはいけませんね」
何をするにも、動けなくては足手まといになってしまう。
「私が今の地位ならば、君に不自由はさせないな。爵位は大切にしよう」
そう言って私の髪を撫でた。
「……それでもやはり、私は痩せようと思います。家族と殿下を見返したいですし……それに何より、クレセット様より先に死なないために、痩せたいのです」
「メリーナ……」
百キロ超えの身体は、健康面で言えばほぼ確実にクレセット様より先に召されてしまう。それだけは避けたかった。
「君は努力家だから、すぐに叶えてしまうのだろうね」
湖水色の瞳が、どこか寂しそうに揺れる。
「服はサイズが合わなくなるだろうと思い、少しにしたんだ。緩くなってきた頃にまた贈るよ」
「いえっ、しばらくはサイズをお直しして着られるのでっ」
「君は伯爵夫人だ。そんなことしなくても」
「いいえっ、領民の血税を湯水のように使ってはなりませんっ」
つい力説してしまう。経済を回すために必要なことでも、浪費と捉えられるほどはいけない。
「素晴らしいな……。君はそこまで民のことを考えているのか……」
クレセット様は瞳を輝かせ、私の手をぎゅっと握った。
「偉そうに申し訳ありません……。それに私は、クレセット様から初めていただいたお洋服を、できる限り長く着たいのです」
どちらも本音。だからこそ強く反論してしまった。
「そうか……君は聡明であり愛らしい、素晴らしい女性だ。君を妻に迎えられたことを、改めて嬉しく思うよ」
とろけるような瞳で見つめられ、甘い声で囁かれて、私の顔はタコのように真っ赤に茹だってしまった。
◆
メリーナが伯爵家に嫁いだ日の晩。公爵邸で父親から姉の嫁ぎ先を聞いたリリアは、金切り声を上げた。
「ラーナ伯爵ですって!? どういうこと!? バルロスとの結婚は王太子の命令なのよ!?」
扇子を床に打ち付け、騒ぎ立てる。今日も夜会に出て、姉の嫁ぎ先が決まって良かったと言いふらしてきたばかりだ。バルロス伯爵に女性として愛されるなら幸せでしょう、と皆で笑い合って。
「ラーナ伯爵の方は、国王陛下のご命令らしい」
その言葉に、リリアはピタリと動きを止める。
「なぁんだ。陛下のご命令で、仕方なく引き取ったのね」
「そうでなければ、あんな肉塊を引き取る気にならんだろ?」
「やだぁ、そうよねぇ」
すっかり怒りを収め、愉しげな笑みを浮かべた。
「何に使うつもりか知らんが、どうせ用済みになれば追い出されるだろう」
「そうよね~。ラーナ伯爵は冷たくて怖いお方だって有名だもの」
「何を考えているか分かったものではない。お前を嫁にと願われなくて良かった」
「顔はいいのに残念よねぇ」
男はやっぱり、殿下みたいに言いなりになる人じゃなくちゃ。リリアは艶のある桃色の唇に弧を描かせた。
「あっ、いいこと思いついたぁ」
リリアは父親の腕に抱きつき、甘えた顔で見上げる。
「ねぇ、お父さま。追い出されたら、うちの下女として雇ってあげましょ?」
「それはいいな。もう公爵家の者ではないからな」
「早く追い出されないかしら~」
「なに、すぐに用済みになるさ」
愉しげに笑い合う二人を、ソファに座る母親は笑みを深めて見つめていた。
翌日、王城内に与えられた執務室で、クレセットは一人の男と対面していた。
火のように赤い髪に、日に焼けた健康的な肌。前髪から覗く瞳は鋭く光る金色だ。青の軍服を纏った彼は、国の騎士団に所属している。しなやかな筋肉の付いた細身の身体と、格好良いより可愛い顔立ち。クレセットと同じ二十二歳だが、身長差もあり、二つ三つ年下に見えた。
シュタイン侯爵家の次男で、幼い頃から家同士の交流もあり、クレセットにとっては唯一の気の置けない間柄だ。
「どうだ? 新婚生活は~」
そんな彼、セドは、ニヤニヤしながら第一声をかけた。
「あれ? 思ったのと違った?」
てっきり惚気の一つでも返ってくるかと思えば、クレセットは眉間に皺を寄せて、頭を抱えた。
「……妻が、可愛くて困る」
重々しく呟かれた声。なんて? とセドも重々しく返した。
「ぬいぐるみのようにふわふわの身体と、丸く愛くるしいつぶらな瞳。じっと見つめられると、たまらずに場所も忘れて抱きしめてしまう」
「お、おう、お前を直視できるってすげーな……」
「突然頬を染めて目を伏せるところも可愛い」
「やっぱちゃんと照れるんだ」
「可愛くて、何でもしてあげたくなる。何でも買ってあげたくなる」
孫が可愛いじいさんか? と思ったが、新婚に言う言葉ではないため我慢した。
「服を十数着と小物をプレゼントしたのだが、泣いて喜んでくれた」
「そっかぁ」
「嬉しいと泣くんだ。私の言動で泣いてしまう。……たまらない」
最後は低く重く、ボソリと呟かれた。
「……お前、そんな趣向だったっけ?」
「妻が純粋無垢で可愛いという話をしている」
「う、う~ん」
本気だった。これはもう、クレセットにまともな恋愛経験がないのだから仕方ない。
「手が、焼き立ての白パンのようでまた愛くるしい」
「それ本人に言うなよ~」
「何故だ?」
「女の子が丸々した白パンみたいって言われて嬉しいわけないだろ?」
「……そういうものか」
クレセットはひとつ賢くなった。
「今ダイエットをしているのだが、一生懸命で可愛いんだ。土埃が舞うほど真剣に歩いて……」
あの体型なら舞うだろうな、とは言わない。セドは女心がクレセットよりは分かっている。
「それが全て、私のためなんだ」
晴れやかな顔。ん? とセドは首を傾げた。
「妹と元婚約者を見返すためじゃなくて?」
「それは最終目的だが、気持ちは全て私に向いている」
キッと睨む。
「私より先に召されないためにダイエットをすると言ってくれた。妻は、天寿を全うするまで傍にいると当然のように考えてくれている。この歓びをどう表せば良いだろう」
初めて見るテンションの上がったクレセットに、セドは何とも言えない顔をする。親友が幸せなのはとても喜ばしい。だが、普段とあまりにかけ離れていて、頭の処理が追いつかない。
「あー……そのぬいぐるみみたいな令嬢が痩せたら、興味なくすとかじゃないよな?」
「何を言っている?」
「馬鹿か? って顔やめて~」
「私はメリーナがメリーナであることを愛している。外見がどう変わろうと、包み紙の柄が変わるようなものだろう? 中の品が変わるわけじゃない」
「うーん、微妙にデリカシーないんだよな」
女心に関してはセドの圧勝だが、それを喜べないほどクレセットが心配になる。もしもメリーナがクレセットに愛想を尽かした場合、いくら行き場のない令嬢でも、家庭内別居という手段もある。痩せれば他の男に見初められる可能性も。
「……ようやく手に入れたんだ。決して手離すものか」
心を読んだかのような呟きに、セドは背筋が凍った。
「こっわ~……」
ボソリとこぼすと、クレセットは輝く笑みを浮かべる。そんな顔すらほとんど見たことがない。
「ま、幸せならいっか。そういや、事後承諾で陛下から結婚の許可得たんだって?」
「ああ。王太子がバルロスを選んだなら、それ以上の権力で私の元に来たことにしたかった」
「陛下もお前のお願いは断れないからなぁ」
つまり、何かしらの条件での脅しだ。
「今頃ベラーディの奴等は、陛下の命令で私が仕方なく結婚したと思っているだろうな」
「ラーナ伯爵、悪い顔出てますよ~」
揶揄するとますます悪い顔になる。セドでなければ腰を抜かしそうな顔だ。
「しっかし、メリーナ嬢なぁ……」
「夫人だ」
「はいはい、ラーナ伯爵夫人な」
言い直すと、にこにこと満面の笑みが返ってくる。こわ、とセドはまた笑った。
セドはクレセットから聞いてメリーナの事情や人となりを知っているが、滅多に姿を現さない彼女を知る者がどれ程いるだろう。この国では外見が重要となる。時に、身分すら蔑ろにする者もいるほどに。
「屋敷の女たちに虐められてないか、注意してた方がいいんじゃないか?」
クレセットの屋敷には、さすがにそんな愚かな使用人はいないと思いたいが。
夢じゃないかと頬をつねり、お仕事に向かうクレセット様を見送った私は、料理長の元を訪ねた。明るい茶色の瞳と、同色の短い髪。熊のように逞しい体躯に白のコック服を纏っている。彼は私を見ると、人懐っこい犬のように笑った。
「奥様、何か作りましょうか?」
料理長は、昨夜たくさん食べた私を気に入ってくれていた。せっかく用意されたものだし、それにあまりに美味しくて、最後の晩餐だと思って残さず食べた。でもこれからはそれでは駄目だ。
「今日はご相談があって……」
「ダイエットメニューを作れってんなら、お断りですぜ」
彼は眉間に皺を寄せた。この世界でダイエットメニューと言えば、サラダとスープだけ。それでは腕の振るい甲斐がないだろう。でも、前世の私の世界では違った。
「ダイエットメニューですけど、ちょっと違った物をお願いしたいのです」
怪訝な顔をする料理長に、昨夜紙にメモした内容を見せた。
鶏の胸肉には筋肉を作るのに効果的な栄養素が含まれ、蒸せば油分も少なくヘルシー。牛肉なら赤身の肉を。豚肉は肌に良く疲労回復にも効果があるため、積極的にとりたい。ただ、脂身はたくさんとっては駄目。魚介類やキノコ類も大切。野菜は煮野菜をメインに、炒めるならオリーブオイルで。
脂肪を落としつつ、筋肉を付けるのが目的。筋肉が付けば熱を発して脂肪が燃える。パンなどの炭水化物は抜かずに少なめで。でも週に一度は代謝を上げるために、炭水化物と糖質を少し多めにとる。基本は、食物繊維とたんぱく質メインの食事。
「こういったメニューにしていただきたいのです」
紙を見つめた料理長は、感嘆の溜め息をついた。
「これは腕が鳴るな……。いや、鳴りますね」
「ふふ、気楽に話してくださって構いませんよ?」
「そうですかい? じゃあ遠慮なく、っと、うちのカミサンには黙っててくださいよ? ミンチにされたくないんでね」
彼の奥さんはこのお屋敷のメイド長で、厳しくて有名な人だとクレセット様から聞いた。昨日は私にも「明日からはご案内と運動を兼ねて、毎日庭園の散策をいたしましょう」と言った。でもその視線には侮蔑も嫌悪もなく、ただ身体を気遣ってのことだと伝わってきた。
(心根の優しい、お似合いの夫婦だなあ)
二人は、私を見た目で判断しない。メイドたちはさすがに、あれが旦那様の奥様? 嘘でしょ? という視線を向けてきたけれど。憧れの旦那様に嫁いだ女がこれでは、受け入れられない気持ちは理解できる。
「でも奥様、こんな専門的なことをどこで学ばれたんです?」
「その……独学で。こちらのお屋敷では知識を生かせると思いましたの。それにこのままでは、旦那様のお隣に立てませんから」
「あー、奥様もとんでもないお方に嫁がれてしまいましたね」
料理長は社交辞令を言うでもなく、私を憐れむでもなく、明るく笑う。
「あの旦那様のお隣なんて、美の女神様でも気後れしますって」
「ふふ、そうね。むしろ旦那様が美の神様のようだわ」
「それっすよ」
何でも笑い飛ばしてくれる彼といると、気持ちが明るくなる。このお屋敷でもきっと上手くやっていける。ダイエットもきっと上手くいく。そんな前向きな気持ちのまま、しばらく料理について熱く語り合った。
「まったく、あんなのが旦那様の奥様だなんて」
厨房から自室へ戻る途中、メイドたちが噂話をしている現場に遭遇してしまった。
「旦那様が婚約も飛ばしてお迎えした方だから、どんな美人が嫁いでくるかと思ったら、あの肉の塊よ? ありえないわよ」
「横幅、旦那様の何倍あるのかしらね?」
「細く見える鏡を見て育ったんじゃない?」
そう言って笑い合う。分かっていたけど、容赦ないな……
「ダイエットとか話してたけど、パンも肉も食べてたのよ? やる気あんの? って感じ」
野菜だけだと肌も血管もボロボロになるし、胸から減るわよ~。
「家畜でも食欲をコントロール出来るわよね。旦那様に見限られるのも時間の問題でしょ」
「そうそう。あんな肉の塊見せられても、女として見れないって」
それが私、胸だけは形もいいのよね……。大きいのに垂れてなくて、自分の胸なのに思わずたぷたぷ触ってしまうほど。
「公爵家で甘やかされて育ったのね」
……愛されて育った子は、こんなに太る前に止めて貰えるものよ。
乳母だけは止めてくれた。でも私はそれを聞かず、愛されない寂しさを甘いもので埋めた。乳母だけは私を愛してくれたのに、甘いものを奪おうとする乳母を田舎へ帰してしまった。
(今の姿で何を言っても、彼女たちには鼻で笑われるだけね)
貴族の令嬢なんて特に容姿で判断される。たとえ自分の意思で体型を選んでいたとしても。
「あの……でも旦那様、奥様とお話しされるとき、嬉しそうにしていらっしゃるので……今まで縁談を断っていらしたのは、もしかして……ぽっちゃりな女性がお好みなのではと……」
旦那様にぽっちゃり好き疑惑が!?
ダイエット、ますます頑張らなければ!
(……なんて、張り切ってはみたけどね)
昼食前にメイド長と近場の庭園を散歩して、昼食後に消化を待ってから、改めて庭に出た。広大な庭を歩きながら、早速泣き言を言いそうになる。歩くだけで息切れがする。身体が重い。全身から吹き出した汗で気持ちが悪い。
「これは……相当手強いわ……」
まだこうして肉を引きずるように歩くしか出来ない。走るのは重さで足首を傷めるから、まずはウォーキングから。庭を軽く一周……なんて、軽くない。全然軽くない。
「でも、負けない……。私はここで立ち止まってるわけには……いかないのよ!」
グッと水筒の水を呷り、背筋を伸ばしてまた歩き始めた。
幸せだから今までの憎しみは忘れよう……なんて、私にはできない。私の復讐は、命を奪ったり殴ったりするわけじゃない。ただ、私を晒し者にした妹と殿下を見返すために。両親に、あの家に、私を捨てたことを後悔させるために。そして……クレセット様のお隣に、堂々と立つために。
「私は! 痩せる! やるの! やり遂げる! の! よ!」
自己暗示を掛け声にしながら、ズンズンと歩いて行く。ドスドスと音がして、庭を歩く度に土埃が舞う。そのダイナミックな様子を、屋敷のメイドたちがこっそりと眺めていた。
歩いて休んで半身浴をして。あっと言う間に陽は沈んでいた。
「クレセット様。おかえりなさいませ」
「ただいま、メリーナ」
出迎えた私を、クレセット様は人目もはばからずに抱きしめた。
「あのっ、旦那様っ……みなさんの前ですのでっ」
「ああ、すまない」
クスリと美しく微笑み、私の手を取り部屋までエスコートしてくれる。あまり速く歩けない私に合わせてゆっくりと。使用人たちの半数は不快な顔をしていたけれど、何人かは何故かキラキラした瞳で私たちを見ていた。
私に与えられた部屋は、クレセット様と同じ二階の、階段を上がってすぐの場所。寝室とリビングが分かれていて、それぞれにクローゼットとバスルームがある。どこも公爵家のものより広く、洗練されていた。
リビングの広々としたソファに並んで座る私たちの前に、使用人が次々に箱を運んでくる。
「君にプレゼントだよ」
プレゼント? 私に?
本当に? と思っている間に、綺麗にラッピングされた箱が、目の前の床を埋め尽くした。
「気に入って貰えるといいのだが」
私の反応に柔らかな微笑みを向け、クレセット様自ら箱を開け始めた。
大きな箱の中身は、服だった。来客用が三着、普段用が七着、運動着や寝間着まで。靴や帽子や手袋など小物類もある。どれも十八歳という年齢に相応しいものだった。
「メイド長が、君は持参した荷物が少なく、服もほとんどないと言っていたんだ」
服……は、とても持って来られなかった。リボンたっぷりのピンクのドレスや、結婚式のようなふわふわの白いドレス、ピチピチの真っ赤なセクシードレス……家族からドレスを買うお金だけは貰えていたのは、面白がっていたからだろう。
結局持参したのは、まともな普段着と寝間着を二着ずつと、お気に入りの本とボロボロの手鏡、髪留めが一つ。それから、教会の子供たちから貰った手紙などの思い出の品だ。
「私は女心には疎いが、センスはあると言われた。君に似合うと思ったものを選んだつもりだよ」
そう言って別の箱を開けると、手鏡やアクセサリーが出てきた。
「パーティー用のドレスはまだ必要ないと思ってね。しばらくは私だけのメリーナでいて欲しい」
ドレスも小物もひとつずつ私に見せる。
「来客用は……父と母が、君に会いに来てしまうかもしれないから用意した。新婚のうちは来ないように念を押してはいるのだが……」
そういえば、ご両親の問題もあった。今のままでは反対されるに決まっている。お会いするまでに痩せる、とまたダイエットの理由が追加された。
全ての箱を開けても、私はまだ……いえ、ますます唖然としてしまった。これが全て、私へのプレゼント……
「君の好みには合わなかったかな」
「あ……い、いえ……あの……」
私に似合うものを、クレセット様自ら選んでくださった。嬉しい。嬉しいのに、上手く言葉にできない。ゆっくりで良いのだと、隣に戻ってきたクレセット様に背を撫でられた。
「クレセット様が、私のために……っ、選んで、くださってっ……」
じわりと視界が滲む。私のことを想い、選んでくれたもの。私のために、貴重な時間を使って。
「っ……クレセット様、ありがとうございます。とても、嬉しいです」
言葉で伝えきれない感謝の気持ちを込めて、精一杯笑ってみせた。
「君のその笑顔が見たかったんだ」
クレセット様は澄んだ瞳を細め、頬を緩めた。その笑顔を見ていると、ぽろ、と涙がこぼれる。あまりに美しくて。あまりに、嬉しくて。
「泣くほど嬉しい、と自惚れてもいいのかな」
「はいっ……」
コクコクと頷くと、クレセット様はまた綺麗な笑みを浮かべて私を抱きしめる。泣いてばかりで迷惑をかけているのに、暖かな体温が泣いて良いのだと伝えてくれていた。
「私には……お返しできるものが、何も……」
お金もなく、もう公爵家の者でもない。女性としての魅力もない。独りの時間が長くて勉強だけはしていたけれど、伯爵夫人として屋敷の管理ができるかどうか……
「先程の言葉と笑顔で充分なのだが」
クレセット様はそこで言葉を切り、思案する。
「そうだな……。君に家族との縁を切らせたお詫び、とでも思ってくれ」
私がプレゼントを断ると思ったのか、長いこと思案してからそう言った。言葉にしてから、失言だったと表情を変える。縁を切ったお詫びの品を、喜んで着られるわけがない。そんな顔で。
「私にお渡しできるものがあって良かったです。では、ありがたく頂戴いたします」
私はクスリと笑って、揺れる湖水色の瞳を見上げた。最初こそ直視できなかったけれど、クレセット様の素直な表情を見たくて顔を上げてしまう。今は美の神様かと見紛うほどの美しい微笑みをたたえていた。
「あの……どうして、縁を切ることが結婚の条件だったのですか?」
「君の家族の態度が、気に入らなかった」
気に入らないものは容赦なく切り捨てる。噂は本当だった。思わず目をパチパチさせると、クレセット様はそっと視線を伏せた。
「すまない。君に対する家族の態度が、我慢ならなかったのだ。君にとっては、良い家族だったのだろうか……」
「いえ、違います。二度と帰りたくない場所です」
誤解を生まないようキッパリと言い切ると、また美しい笑みが返ってくる。
「それなら、これからもずっと私の元にいてくれるね?」
「はい」
お許しいただける限り、ずっと……ずっとおそばにいたいと、心から願ってしまう。
クレセット様が私の髪を撫でながらベルを鳴らすと、メイド長と数名のメイドが現れて、ドレスや小物をクローゼットにしまってくれた。出て行く際、メイドの一人がニコッと笑う。悪意は感じない。意図が分からず閉まった扉を見つめ続けていると、突然クレセット様に抱きしめられた。
「メリーナ、愛しているよ」
「っ、クレセット様っ……」
「屋敷に帰れば、君が暖かく迎えてくれる。何という幸福だろう」
湖水色の瞳を細め、ポヨポヨと私の顎を指先で撫でる。
「私も、クレセット様をお出迎えできて……あなたの傍にいられて、幸せです」
おそるおそるクレセット様の背に腕を回すと、綺麗なお顔が美しく微笑んだ。
クレセット様は私の腰に腕を回し、まるで子猫を撫でるように背に触れる。撫でられるたびに、ぽよ、と弾む背肉。
「あの……私が痩せたら、困りますか……?」
「君がそうなりたいのなら、止めないよ。私は、君という存在全てを愛しているからね」
そう。クレセット様は、この体型だから愛してくださっているわけではない。
「ただ、この世に君という存在が減ってしまうのは……寂しいな」
妻の私へと、ただただ惜しみない愛情を注いでくれるのだ。
「すまない、メリーナ……。今の君は、男性に好まれない外見だと言ったね。そのことに、安堵していたんだ」
安堵? 私は首を傾げる。
「外見が変わり、愚かな男共が君の魅力に気付いてしまったら……つまらない私などより、別の男を愛するのではないかと」
私の肩口に頭を乗せる。甘えるような仕草に、クスリと笑みがこぼれた。
「クレセット様がつまらない人だなど、初めて聞きましたわ」
冷酷、女嫌いとは聞いていても、つまらないとは聞いたことがない。
「他の男性に好まれたところで、クレセット様より素敵な方はいらっしゃいませんし、私がクレセット様以外を愛することなど一生ありません。それこそ、どのようなお姿になられてもです」
「それは……私が、カエルに変わろうとも?」
「ふふ。カエルになられても、です」
例えが可愛くて、クレセット様の新たな魅力を知った。
「爵位がなくなり、平民として……農業を始めたとしても、ついてきてくれるだろうか」
「もちろんです」
「商人となり、各国を旅する身となっても」
「ついて行きます。……ですが、それにはやはり痩せなくてはいけませんね」
何をするにも、動けなくては足手まといになってしまう。
「私が今の地位ならば、君に不自由はさせないな。爵位は大切にしよう」
そう言って私の髪を撫でた。
「……それでもやはり、私は痩せようと思います。家族と殿下を見返したいですし……それに何より、クレセット様より先に死なないために、痩せたいのです」
「メリーナ……」
百キロ超えの身体は、健康面で言えばほぼ確実にクレセット様より先に召されてしまう。それだけは避けたかった。
「君は努力家だから、すぐに叶えてしまうのだろうね」
湖水色の瞳が、どこか寂しそうに揺れる。
「服はサイズが合わなくなるだろうと思い、少しにしたんだ。緩くなってきた頃にまた贈るよ」
「いえっ、しばらくはサイズをお直しして着られるのでっ」
「君は伯爵夫人だ。そんなことしなくても」
「いいえっ、領民の血税を湯水のように使ってはなりませんっ」
つい力説してしまう。経済を回すために必要なことでも、浪費と捉えられるほどはいけない。
「素晴らしいな……。君はそこまで民のことを考えているのか……」
クレセット様は瞳を輝かせ、私の手をぎゅっと握った。
「偉そうに申し訳ありません……。それに私は、クレセット様から初めていただいたお洋服を、できる限り長く着たいのです」
どちらも本音。だからこそ強く反論してしまった。
「そうか……君は聡明であり愛らしい、素晴らしい女性だ。君を妻に迎えられたことを、改めて嬉しく思うよ」
とろけるような瞳で見つめられ、甘い声で囁かれて、私の顔はタコのように真っ赤に茹だってしまった。
◆
メリーナが伯爵家に嫁いだ日の晩。公爵邸で父親から姉の嫁ぎ先を聞いたリリアは、金切り声を上げた。
「ラーナ伯爵ですって!? どういうこと!? バルロスとの結婚は王太子の命令なのよ!?」
扇子を床に打ち付け、騒ぎ立てる。今日も夜会に出て、姉の嫁ぎ先が決まって良かったと言いふらしてきたばかりだ。バルロス伯爵に女性として愛されるなら幸せでしょう、と皆で笑い合って。
「ラーナ伯爵の方は、国王陛下のご命令らしい」
その言葉に、リリアはピタリと動きを止める。
「なぁんだ。陛下のご命令で、仕方なく引き取ったのね」
「そうでなければ、あんな肉塊を引き取る気にならんだろ?」
「やだぁ、そうよねぇ」
すっかり怒りを収め、愉しげな笑みを浮かべた。
「何に使うつもりか知らんが、どうせ用済みになれば追い出されるだろう」
「そうよね~。ラーナ伯爵は冷たくて怖いお方だって有名だもの」
「何を考えているか分かったものではない。お前を嫁にと願われなくて良かった」
「顔はいいのに残念よねぇ」
男はやっぱり、殿下みたいに言いなりになる人じゃなくちゃ。リリアは艶のある桃色の唇に弧を描かせた。
「あっ、いいこと思いついたぁ」
リリアは父親の腕に抱きつき、甘えた顔で見上げる。
「ねぇ、お父さま。追い出されたら、うちの下女として雇ってあげましょ?」
「それはいいな。もう公爵家の者ではないからな」
「早く追い出されないかしら~」
「なに、すぐに用済みになるさ」
愉しげに笑い合う二人を、ソファに座る母親は笑みを深めて見つめていた。
翌日、王城内に与えられた執務室で、クレセットは一人の男と対面していた。
火のように赤い髪に、日に焼けた健康的な肌。前髪から覗く瞳は鋭く光る金色だ。青の軍服を纏った彼は、国の騎士団に所属している。しなやかな筋肉の付いた細身の身体と、格好良いより可愛い顔立ち。クレセットと同じ二十二歳だが、身長差もあり、二つ三つ年下に見えた。
シュタイン侯爵家の次男で、幼い頃から家同士の交流もあり、クレセットにとっては唯一の気の置けない間柄だ。
「どうだ? 新婚生活は~」
そんな彼、セドは、ニヤニヤしながら第一声をかけた。
「あれ? 思ったのと違った?」
てっきり惚気の一つでも返ってくるかと思えば、クレセットは眉間に皺を寄せて、頭を抱えた。
「……妻が、可愛くて困る」
重々しく呟かれた声。なんて? とセドも重々しく返した。
「ぬいぐるみのようにふわふわの身体と、丸く愛くるしいつぶらな瞳。じっと見つめられると、たまらずに場所も忘れて抱きしめてしまう」
「お、おう、お前を直視できるってすげーな……」
「突然頬を染めて目を伏せるところも可愛い」
「やっぱちゃんと照れるんだ」
「可愛くて、何でもしてあげたくなる。何でも買ってあげたくなる」
孫が可愛いじいさんか? と思ったが、新婚に言う言葉ではないため我慢した。
「服を十数着と小物をプレゼントしたのだが、泣いて喜んでくれた」
「そっかぁ」
「嬉しいと泣くんだ。私の言動で泣いてしまう。……たまらない」
最後は低く重く、ボソリと呟かれた。
「……お前、そんな趣向だったっけ?」
「妻が純粋無垢で可愛いという話をしている」
「う、う~ん」
本気だった。これはもう、クレセットにまともな恋愛経験がないのだから仕方ない。
「手が、焼き立ての白パンのようでまた愛くるしい」
「それ本人に言うなよ~」
「何故だ?」
「女の子が丸々した白パンみたいって言われて嬉しいわけないだろ?」
「……そういうものか」
クレセットはひとつ賢くなった。
「今ダイエットをしているのだが、一生懸命で可愛いんだ。土埃が舞うほど真剣に歩いて……」
あの体型なら舞うだろうな、とは言わない。セドは女心がクレセットよりは分かっている。
「それが全て、私のためなんだ」
晴れやかな顔。ん? とセドは首を傾げた。
「妹と元婚約者を見返すためじゃなくて?」
「それは最終目的だが、気持ちは全て私に向いている」
キッと睨む。
「私より先に召されないためにダイエットをすると言ってくれた。妻は、天寿を全うするまで傍にいると当然のように考えてくれている。この歓びをどう表せば良いだろう」
初めて見るテンションの上がったクレセットに、セドは何とも言えない顔をする。親友が幸せなのはとても喜ばしい。だが、普段とあまりにかけ離れていて、頭の処理が追いつかない。
「あー……そのぬいぐるみみたいな令嬢が痩せたら、興味なくすとかじゃないよな?」
「何を言っている?」
「馬鹿か? って顔やめて~」
「私はメリーナがメリーナであることを愛している。外見がどう変わろうと、包み紙の柄が変わるようなものだろう? 中の品が変わるわけじゃない」
「うーん、微妙にデリカシーないんだよな」
女心に関してはセドの圧勝だが、それを喜べないほどクレセットが心配になる。もしもメリーナがクレセットに愛想を尽かした場合、いくら行き場のない令嬢でも、家庭内別居という手段もある。痩せれば他の男に見初められる可能性も。
「……ようやく手に入れたんだ。決して手離すものか」
心を読んだかのような呟きに、セドは背筋が凍った。
「こっわ~……」
ボソリとこぼすと、クレセットは輝く笑みを浮かべる。そんな顔すらほとんど見たことがない。
「ま、幸せならいっか。そういや、事後承諾で陛下から結婚の許可得たんだって?」
「ああ。王太子がバルロスを選んだなら、それ以上の権力で私の元に来たことにしたかった」
「陛下もお前のお願いは断れないからなぁ」
つまり、何かしらの条件での脅しだ。
「今頃ベラーディの奴等は、陛下の命令で私が仕方なく結婚したと思っているだろうな」
「ラーナ伯爵、悪い顔出てますよ~」
揶揄するとますます悪い顔になる。セドでなければ腰を抜かしそうな顔だ。
「しっかし、メリーナ嬢なぁ……」
「夫人だ」
「はいはい、ラーナ伯爵夫人な」
言い直すと、にこにこと満面の笑みが返ってくる。こわ、とセドはまた笑った。
セドはクレセットから聞いてメリーナの事情や人となりを知っているが、滅多に姿を現さない彼女を知る者がどれ程いるだろう。この国では外見が重要となる。時に、身分すら蔑ろにする者もいるほどに。
「屋敷の女たちに虐められてないか、注意してた方がいいんじゃないか?」
クレセットの屋敷には、さすがにそんな愚かな使用人はいないと思いたいが。
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