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「メリーナ。君に会わせたい人がいる」

 お休みの日。そうおっしゃったクレセット様と馬車に乗り、二時間ほど揺られた先。
 窓の外に広がる、のどかな田園風景。
 太陽に照らされて黄金に輝く小麦畑。
 心がほどける景色を眺めていると、一件のレンガ造りの家の前で馬車は止まった。

「ここだよ」

 クレセット様の手を取り馬車から降りると、家の扉が開いた。


「ばあや……?」

 扉のそばに佇む女性。髪色はとても明るい茶色に変わっているけど……。

「ばあやっ……!」
「お嬢様!」

 ばあや。ばあやだ。
 駆け寄った私を、優しい手が抱きとめてくれる。

「ばあや、今までごめんなさいっ……。ばあやはずっと私を愛してくれてたのにっ……」
「お嬢様っ……」

 言葉の代わりに、ばあやは昔のように私の背をあやすように撫でてくれた。



 ぼろぼろ泣いてしまった私たちは、涙が止まると顔を見合わせてクスリと笑う。

「お噂は届いておりましたよ。そちらがお嬢様の旦那様のラーナ伯爵ですね」
「クレセットと申します」

 クレセット様は優雅に一礼される。

「あらまあ、ご丁寧にありがとうございます」

 ばあやも綺麗な礼をする。王太子妃教育を私に教えてくれたばあやも、所作が綺麗だ。

「公爵夫人からもお手紙をいただいたのですよ。あの王太子の妃にせずに済み、とても素敵なお方に嫁がれたから安心してほしいと」
「お母様が……。ばあや、私、今とても幸せよ」

 心からの笑顔を浮かべると、ばあやも優しく笑ってくれた。



 家の中に案内され、リビングの木製の椅子に座る。テーブルも一枚板で素敵な風合い。どれもこの家の家主の作品だと教えてくれた。

「おばーちゃん。このおねえちゃんとおにーちゃん、天使さま?」

 ばあやの後ろから、小さな男の子と女の子がヒョコッと顔を出した。

「こちらのお兄さんは、伯爵様よ。とても偉いお方なの。お姉ちゃんは、おばあちゃんが昔お仕えしていたお嬢様よ」
「おばあちゃん……?」

 おばあちゃん?
 この子たちは、ばあやのお子さんじゃなくて……?


「メリーナ。乳母殿は母親より、祖母殿に近いご年齢だったよ」
「おばあ様とっ?」

 おばあ様は、今年五十七歳だ。

「あの……私が十歳の頃、二十七歳で……」
「実際には、当時四十三歳だった」
「今は五十一歳ですよ」

(五十代!?)

 とても見えない。
 今は三十五歳だとばかり……肌のハリも、シワやシミのなさも、三十代と言われても信じてしまう。
 そういえば、言われるままにばあやと呼んでいたけど、十代や二十代の女性がばあやと呼ばれて複雑な気持ちにならないわけがない。

「後々公爵からの危害が及ばないようにと、髪を染めて、年齢も詐称するように公爵夫人からご指示があったのです」

 お母様は、乳母のことも密かに守っていたのだ。


「でも、どうしてそこまでして私を……」
「お嬢様は……理由があって兄夫婦に預けた私の子に、とても似ていらしたのです」

 だから、大切に育ててくれた。
 手放すしかなかった我が子の代わりに。

(私は、その子が受けるはずだった愛情を……)

「この子たちの母親です。もう少ししたら畑から帰ってきますので、ご挨拶させていただければと」
「乳母殿とご一緒にお住まいなのですか?」
「ええ。三年ほど前から」

 ばあやは、そう言って頬を緩めた。
 お孫さんたちも懐いている。それなら、娘さんとも仲良く暮らせているはずだ。

「ばあやも今、幸せなのね」
「ええ、とても幸せですよ」 

 心からの笑顔をこの目で見られて、私の心にわだかまっていたものが溶けていく。
 酷いことを言ってしまった私も、ばあやは優しく包み込んでくれた。


「あら私ったら、お客様にお茶もお出ししないで……」

 ばあやはパタパタとキッチンへと向かう。

「乳母殿。その髪飾りは……?」

 クレセット様が突然神妙なお声を出された。
 ばあやの横髪を後ろでまとめているのは、向日葵と、白い花を咥えた青い鳥があしらわれた髪飾り。

「私が子供の頃にプレゼントしたものです。まだ持っててくれたなんて……」
「お嬢様からの初めてのプレゼントですもの。ずっと大事にしていましたよ」

 私が七歳の時なのに、こんなに綺麗なままで使ってくれている。嬉しくてまた目の奥が痛んだ。


「あの時の子供は、君だったのか……」

(あの時……?)

「君は、その髪飾りを握りしめて、座り込んでいた」

 クレセット様が呆然として呟く。
 私がこの髪飾りを買った日、あの日は……。

「すぐに立ち上がり、泣きそうになりながらもしっかりと前を向いて……」
「……危ない場所に向かおうとしていた私を、引き留めてくれた男の子が、いました……」

 ごろつきの多い場所だからと、私の手を取り、その場から連れ出してくれた。
 私が広場に行きたいと伝えると、案内してくれて。

「でも、あの時の男の子は、黒髪で……」
「あの時期は父の仕事に同行する時は、黒に染めていた……」

 それは、あの男の子がクレセット様だったという証拠。

「てっきり、親からはぐれた平民の子供だと……」

 そう思われても仕方ない。貴族令嬢や裕福な子なら、常に護衛が付いている。あんな場所で迷子にはならない。


「あらまあ、運命ですね」

 呆然として見つめ合う私たちに、ばあやは嬉しそうに微笑む。

「私は、再び君に出逢い、惹かれる運命だったようだ」
「私も……誰にも言えませんでしたが、あの子が、初恋でした」

 密やかで淡い恋心。
 私を助けてくれたあの子は、とてもかっこよくて眩しいヒーローだった。

「クレセット様……。私を見つけてくださって、ありがとうございます」

 路地裏でも、教会でも、復讐を終えた日の大広間でも。クレセット様は何度でも私を見つけて助けてくださった。

(私、とても、とても幸せだわ)

 抱きしめられて暖かな体温を感じながら、どうしようもなく溢れる想いにまた涙が止まらなくなってしまった。



***



 乳母の孫たちはメリーナにすぐに懐き、クレセットと乳母の見つめる先で一緒にお絵描きをしていた。

「お嬢様のあの笑顔……。本当に……娘に、よく似ております」

 まだ幼かった娘の笑顔を思い出し、乳母はそっと視線を伏せた。

「あなたが血の繋がった祖母だと、メリーナに伝えなくてよろしいのですか?」

 乳母は、メリーナの実母の母親だった。
 メリーナが冷遇され始めた頃、公爵夫人が社交のために訪れた夜会で、メリーナの母親にとてもよく似た面影の女性と出会った。
 まさかと思い話をする中で、公爵夫人は乳母が彼女の母親だと確信した。

 それが、メリーナの乳母になった本当の理由。娘の忘れ形見を、大切に大切に育てていた。
 公爵が献身的な乳母に疑いを抱き始め、メリーナに飛び火しないうちに、父親の介護のためと理由をつけて屋敷を後にするまでは。


「……私は、あの子の祖父を手にかけた者です。とても血縁だなどと名乗れません」
「あの傲慢な暴力男が死んだところで、救われた者しかいません」

 先代公爵は、気に食わないことがある度に妻や使用人に手を上げるような男だった。

「再調査の結果、先代公爵が奥方に毒を盛ろうとし、誤って自らが口にした形跡しかありませんでしたが」

 クレセットはフッと笑みを浮かべる。

「よく似たグラスを使用していたため、その日はたまたまメイドが取り違えて給仕してしまったのです」
「……ラーナ伯爵がそうおっしゃるなら、そうなのでしょうね」

 乳母は諦めに近い表情で眉を下げた。
 憎い男の父親。
 その男が、娘を大切にしてくれた女性に手を上げていた。それを目の当たりにした。あの日起きたことは、ただ、それだけ。


「ですが、私よりも、優しい方々の元で育てられた方が娘も幸せでした」

 男爵夫妻も、先代公爵夫人も、惜しみない愛情を注いで育ててくれたと聞いている。

「子を想う母親と離れて、寂しくない子はいません」
「……ありがとうございます。……そうであればと、願っております」

 そっとハンカチで目元を押さえた。


「乳母殿。私はあなたに、メリーナの夫として認めていただけますか?」
「そうですね……。私の足取りを掴めなかったところは、まだまだですが」

 乳母の足取りが掴めなかった理由は、単純なものだった。
 年齢と外見の詐称。それから、そもそも公爵家の敷地から移動していなかった。先代公爵夫人のメイドとして、姿を変えて二年ほど共に暮らしていた。
 商家勤めも、夫の転勤も、全て嘘。田舎に帰ることだけが本当だった。

「孫の旦那様としては、これ以上ないお方です」

 乳母は慈しむような瞳でクレセットを見つめる。

「このご恩、どうお返しすれば……」
「礼を言うのはこちらです。あなたが育ててくださったから、メリーナは心優しいままでいられたのですから」

 クレセットは柔らかな笑みを浮かべ、メリーナへの愛情に溢れる瞳に、乳母はようやく心からの笑顔を見せることができた。



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