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しおりを挟む何があろうと、君の感情を殺す必要はない。
クレセット様はそうおっしゃって、扉を開けた。
「……お母様」
正面のソファに、紫のドレスを着たお母様……いえ、ベラーディ公爵夫人が、座っていた。
「私は、あなたの母ではありません」
公爵夫人は、私が真実を知っていると分かっている。きっと先程の騒ぎを聞いていたから……あの場に、いたかしら?
「メリーナ」
名前を呼ばれ、カツ、とヒールの音が響く。
反射的に目を閉じると、すぐそばで足音は止まった。
「メリーナ……、頑張ったのね」
「え……」
聞いたことのない、柔らかな声音。
驚いて顔を上げると、慈しむような紅い瞳がこちらを見つめていた。
「あの……」
別人のように穏やかな顔。
訳が分からず視線をそらせずにいると、クレセット様が私の手を取り、ソファに座らせてくださった。
「本当の母君のことを全て伝えてから、夫人に会わせたかった」
隣に座り、私の手をそっと握る。
「復讐するべき相手が、それに値しない人物だったとしたら……君は、その憎しみを呑み込んでしまうのだろうか」
クレセット様は、私が公爵夫人を許すことを心配されている。だから、感情を殺す必要はないとおっしゃった。
きっと、リリアのことも許したと……。でもそれは、私たちが、与える罰に対する価値観が違うからだ。
「今はただ、混乱しています。ただそれだけ……。なので私は、本当のことを知りたいです」
クレセット様の手を握り返し、揺れる湖水色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……夫人は、メリーナを屋敷の隅に追いやるよう公爵に進言し、外へ出さないようにしていた。その全ては、公爵家の者からメリーナを守るためだったのだ」
(守る、ため……)
頭では理解できるのに、知らない言葉のように感じる。
きっとクレセット様から伝えられなければ、少しも信じられなかっただろう。
「私には、そんな手段でしかあなたを、っ……」
夫人はそこで言葉に詰まり、口元を抑えてうつむく。
「……リリアが生まれて、公爵はあなたを冷遇し始めた。それで使用人たちは、あなたを公爵の子ではないと思ったのでしょう」
すぐに顔を上げて、公爵夫人らしい凛とした表情で私へ視線を向けた。
「公爵家のためと言って、メリーナを我が子のように育ててみてはと公爵に進言したのだけど……」
その結果、私は公爵夫人と一緒に物置部屋に閉じ込められ、丸二日水すら与えられなかった。
弱っていく私を抱きしめながら、私を公爵の目の届かないところに遠ざけることを決心されたという。
「メリーナのせいで閉じ込められた、あの子にはもう関わりたくないと、そう叫んで公爵に訴えたの」
淑女のお手本のような夫人が発狂した演技で訴えれば、きっと公爵もすぐに信じただろう。
(……そうだわ。私、公爵夫人には……何もされていない)
罵倒されたのも身体を傷つけられたのも、リリアと公爵と使用人にだけ。
夫人には、ただ追い払われていただけだ。
(それは、私を守るため……)
実の子ではない私を、ずっと守ってくれていた。自分が悪者になっても、ずっと。
「お母様は……私を、ずっと守ってくださっていたのですね……」
「っ……私は、あなたの母ではないのよ……」
たまらずに駆け寄り抱きつくと、公爵夫人……お母様は、震える声で私をきつく抱きしめてくれた。
***
「あなたは、本当にあなたのお母様に似ているわ」
「っ……、ご存知なのですか……?」
「ええ。とても美しくて、優しく明るい、いい子だったわ」
お母様にとっては、夫の不倫相手。それなのにこんなに寂しげな顔をされるなんて。
「あなたのお母様は、……おばあ様と、とても仲の良かったメイドよ」
真実を告げられたのに、私の心は予想もしないほどに凪いでいた。
(私の母は、おばあ様に愛されていたのね……)
虐げられて不遇のうちに亡くなったわけではなかった。今の私には、それが救いに思えた。
母が幸せだと思っていたかは、……分からないけれど。
「でもお母様は、おばあ様とは……」
「私が嫁いだ時に、おばあ様から仲の悪いふりをして欲しいと頼まれたの」
それは、聞いたことのない話だった。
「夫に従順な妻は愛される。でも、父親に何も言えない母は惨めで格好悪く、軽視しても良いのだと……それが公爵がおばあ様を嫌う理由よ」
「そんな、身勝手な理由で……?」
本当の母親なのに、そんな理由で憎んでいたの?
「あの人は、どうしようもなく自分勝手な人なのよ」
視線を伏せて、唇を引き結んだ。
世間体のために様子を見ているふりだと言って、お母様はおばあ様の元を訪れていた。そこで私の母と出会い、仲良くなったそうだ。
「あの子は公爵を憎んでいたのに、おばあ様の孫を産めるなら、幸せだと……」
視線を伏せ、お母様は一度きつく目を閉じた。
「おばあ様とは、本当の親子のようだったわ。あなたの髪はおばあ様譲りで、瞳はお母様譲りなのよ」
私の髪に触れて、懐かしむように私を見つめる。
メリーナは、この髪色のせいで父親に愛されないと悲しんでいた。でも、この髪色は綺麗で、好きだった。
瞳はおばあ様とお母様の色が混ざったのではなく、実の母と同じ。
(母のことを、何も知らないのに……)
目の奥が鈍く痛んで、胸が暖かくなる。
泣き叫びたいような、縋りたいような、怒りたくもあるこの気持ちは……。
(……寂しい、のだわ)
繋いだ手を突然離された子供のように、不安で、悲しくて、……寂しい。
(母には、もう何も伝えられない……)
私を産んでくれてありがとうと、私は望まれて生まれた子なのだと、感謝も喜びも、何も伝えられない。
「メリーナ……」
お母様に優しく抱きしめられて、私は自分が泣いていることに気付く。
気付いてしまえばもう止められずに、お母様に縋りついて子供のように泣き出してしまった。
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