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モモコガール
しおりを挟む斉藤桃子は、四月生まれなので十四歳になったばかり、肩甲骨まで届く黒髪は、ゆるくウエーブを得て華やかに広がっています。
前髪を、美しいカーブを描く眉毛の上で切りそろえて、いかにも利発な印象です。ちょっとのぞいている白いヘアバンドがポイント。丸いあごは、優しげなカーブを描いて、福福しい耳につながっています。身長は百三十三センチと、小柄なほうですが、贅肉の付く前の、しなやかな手足はすらりと伸びています。
街角を走り抜ける足取りは、仔犬のように軽やかにリズムを刻みます。
中央区立第三中学の制服は、紺色のセーラーカラーに、白いプリーツスカートで、通学カバンに特に規制はありません。
今時に似せない、標準丈のスカートが、清楚な印象を与えます。
声は、少し線の細い感じで、三オクターブ出るのが自慢です。
そんな中で、区立第三中学は猫の額のような敷地に、八〇〇人ほどの子供を抱える、小さな中学校です。土地柄なのか、いろいろな言葉が乱れ飛び、江戸弁も東北弁も九州弁も飛び交います。
築地川公園を右に、聖路加病院看護大学を左に見て、小路を南西に進むと築地本願寺前交差点です。これを右に折れると、桃子の住むマンション、左に折れると親友の片岡御津葉の家が見えてきます。
「なあなあ、桃子ちゃん。」
折りしも、片岡御津葉は桃子に声をかけてきました。鈴を転がすような、可憐で澄み切った声です。
桃子も標準以上に美少女ですが、御津葉はさらにその上を行く、超美少女でした。
栗色の長い髪(お団子だけど…)。
卵形の瓜実顔。
少しつり目気味の、黒目がちな瞳。
ほっそりした手足と、意外とメリハリのあるボディ。
スカートの下に、ペチコートを入れて、ふわりと広げているようすが優雅です。スカートの丈は、モモコと同じく標準丈ですが、広がった分ヒザが出ているところがステキです。
彼女を見ていると、自分が限りなく凡庸に思えてくる桃子でした。
「なあに、御津葉ちゃん。」
「こんどの土曜日、ちょっと付き合ってくれへん?お泊りで。」
「お泊り?御津葉ちゃんち?」
御津葉の家は、純和風の作りで、廃業した料理旅館です。
料理旅館を買い取って、お店として使おうと思っていたのですが、どうも手狭なところが気に入らず、それでは住んでしまえと父親が言うので、住居になったという曰く付きの家です。
ですから、大変広く部屋数は四〇を超え、しかも平屋というぜいたくさ。御津葉は、小さな八畳間をもらって、自室としています。桃子は、その部屋を思い浮かべて聞いたのでした。
「ううん、おじいちゃんとこ。」
桃子は、田園調布にある御津葉の母方の祖父の家を思い浮かべました。石造りの洋館で、広い庭を持つ古臭い家です。一部には、西洋のお城を思わせる厳格さもあります。
祖父と言う人は、柔らかな笑顔の優しい人です。
「そう?帰ったらお母さんに聞いてみるわね。私ひとりでは決められないから。」
「それでええわ、よろしゅうお頼のもうします。」
築地川公園の前を、二人で歩きながら、御津葉は頼みごとをしたのでした。
公園からは、遅咲きの八重桜の花びらが、ひらひらと飛んできて御津葉の髪を飾ります。
御津葉は、滑らかな京都祇園言葉で話します。御津葉の父親の実家が、京都の呉服(ごふく)卸(おろし)だそうですので、その影響でしょうか。
桃子の父親は、『小野寺開発』という会社の、観光事業セクションに在籍していて、青山のアンテナショップの店長代理という肩書きがあります。西欧方面に強い会社ですが、本人は新婚旅行と家族旅行で行った、ハワイ以外は海外経験がありません。家族割引で、たいへんお安くハワイ旅行ができたそうです。観光事業セクションばんざ~い。
実は、飛行機が苦手という、裏事情もありますが…
母親は専業主婦。
兄弟はいません。
いつも手に持っているのはPDA、片時も手を離しません。
新大橋通りの築地本願寺を過ぎて、四丁目交差点で二人は別れました。
右に折れて新橋演舞場をこえると、すぐそこにマンションがあります。
桃子の家は、その三階。
軽快に階段を駆け上がって、家にたどり着きました。
「おかあさん、ただいまー。」
「あら、おかえりなさい。早かったのね。」
「うん、今日は部活の先生が、お出かけなのー。」
「ふうん、じゃあおやつ食べる?」
「うん、着替えたら行くわ。」
桃子は、御津葉やほかの友人と、新体操部に籍を置いています、が、ほとんど幽霊部員。
御津葉が忙しいせいでもあります。それに、無理やり付き合わされる感じで、桃子は後を着いていくのです。
桃子は、クリーム色のトレーナーと、ピンクのチェックのスカートという、普段着でリビングにやってきました。
都心の一等地にあるマンションですが、四LDKと、けっこう広々とした自宅です。
ソファの前には、暖かいほうじ茶と大福。
色白の桃子に負けない、ふっくらと丸い大福は、いかにもおいしそうに皿に乗っていました。
「お母さん、だいふく?」
「あら、いやだった?」
「ううん、食べる。」
桃子は、テレビをつけると、その音を聞きながら、雑誌を開くと言う、器用な体制で大福を口に運びました。このへん、桃子のバランス感覚と言いますか、PDAばかりに情報を優先しないところが、中学生に似せず慎重です。
「お母さんも食べようっと、桃子ちゃん、宿題は?」
「もう、学校で御津葉ちゃんとやっちゃった。」
「あらまあ、手回しがいいわねー、さすが、御津葉ちゃんね。」
「そうね、あ・お母さん、御津葉ちゃんのおじいちゃんのところに、お泊まりに行ってもいい?御津葉ちゃんに頼まれたの。」
「御津葉ちゃんに?」
「うん、おじいちゃんが呼んでるから、一緒に行ってほしいんだって。」
「お泊りで?」
「そう言ってたわ。」
「そうねえ、親戚の家だから、悪くはないけど、先様(さきさま)にはご迷惑じゃないかしら?」
「あの、御津葉ちゃんのおじいちゃんよ、そんなこと気にするとは思えないわ。それに、いつも優しいし。」
「そう言われれば、そうねえ。」
桃子の母親は、娘とよく似た白い顔をかたむけて、考えました。
「じゃあ、お父さんにはお母さんから、お願いしてあげるわ。」
「ほんと?ありがとう、お母さん!」
娘には若干甘い母親でした。
「じゃあ、お母さんは夕食の買い物に行くけど、モモちゃんはどうする?」
「私は、お留守番してるわ。」
「そう?じゃあ、お願いね。」
桃子は、こう言うなんでもない夕方が好きでした。今日は特に、お稽古もなにもない日です。
特にしたいこともなく、家の中でぶらぶらしていると、刻々と色合いを変えていく太陽の色が、とても愛おしく感じられるのです。
今も、ぼんやりと窓を眺めていると、家電(いえでん)がコールされました。
「もしもし?」
『ああ、桃子ちゃん?私、麗奈よ。』
「麗奈ちゃん?どうしたの?」
『桃子ちゃん、御津葉ちゃんから、話を聞いた?』
「ええ、聞いたわ。お母さんに話したら、いいって言ってくれたわ。」
『そう、私もオーケーよ。詳しい時間とかは、明日学校で話しましょ。』
「ええ、そうね。よろしく。」
『ありがと、話しはそれだけなの。』
「そう?おやすみなさい。」
『ええ、おやすみなさい。』
用件だけのそっけない電話ですが、坂上麗奈という女の子は、だらだらと無駄話をするような性格ではありません。
どんなときにも、沈着冷静。
麗奈はこの細腕で、エアライフルのジュニアチャンピオンです。三年生でも歯が立ちませんでした。
髪の毛は、しっかり金髪。
制服もぎりぎりのミニで、しかも素材は絹。
まだ凹凸が目立たない体型ながら、持っているものはほとんどがブランドもの。
麗奈は最近急上昇してきたIT関連会社の社長の娘で、大変なお金持ちのようです。
本人に聞くと、「いやだわ、あれは親のお金でしょ。あたしは、しがないお小遣いで暮らしているのよ。」と答えます。桃子の印象ですが、どうやら、親の仕事にはあまり感心がないようです。
麗奈には、姉が一人。名門精華女学園の高等部に通っています。
麗奈との電話が終わるとすぐに、もう一件電話がありました。
「はい、もしもし?」
『こんばんは、桃子ちゃん。弥生ですわ。』
「あ、こんばんは、どうしたの?」
『いま、御津葉ちゃんから、電話がありましたのよ。』
「ああ、おじいさんの処へ、お泊まりに行くっていうお話ね。」
『そうですわ。』
萩本弥生は、大人びた顔つきに、きれいにカールした栗毛で、出るところの出た体型は、男子の熱い視線を集めています。
弥生は三歳から薙刀を始めて、いまでは切り紙の腕前です。
弥生には水無月という妹があります。
この妹は、小学五年生で、こちらも名門・精華女学園の小学部に通う才媛です。
まあ、べつに弥生の頭が悪いわけではなく、弥生がこの公立の学校に通うには、訳がありました。
それは、後ほど…
「来週の予定ね。」
『そうですわ、わたくし、麻生のおじさまのパーティに、呼ばれていたのですわ。』
「あら、じゃあ麗奈ちゃんは、今回パス?」
『いいえ、あちらをパスですわ。それはもう、御津葉ちゃん優先。』
「まあまあ、友達思いなのね。」
『まあ、それでもよろしくてよ。おじいさまのご命令ですの。友達は大事にしなくてはいけないと。』
「おじいさまの?」
弥生は大手銀行の頭取の孫という立場で、父親も銀行の取締役に名を連ねています。
当然、彼女も精華女学園に通うものだと思っていました。
ところがです、このおじいさまに命じられて、やってきたのは区立第三中学。
古くさいデザインの制服には、うんざりしています。
『まあ、よろしいわ。それでは、桃子ちゃんも参加ですのね。』
「ええ、そうよ。」
『それが聞きたかったの。では、ごきげんよう。』
「はい、おやすみなさい。」
あくまで素直な桃子でした。
麗奈も弥生も、標準以上に美少女で、御津葉、桃子と連れだって歩くと、世間の目が一気に注がれます。
これはもう、お約束と言うものでしょうか。
「だれからのお電話?」
お遣いから帰った母親は、興味深そうに桃子に聞きました。
「麗奈ちゃんと弥生ちゃん。おもしろいわね、ちゃんと麗奈ちゃんの電話が終わってから、弥生ちゃんの電話がかかってくるのよ。」
色白の顔にほほえみを浮かべて、桃子は母親の傍らに立ちました。お買い物の中身が気になるように、エコバッグの中をのぞいています。
中学二年になって、周りの景色はますます輝きを増したように思います。
その証拠に、お友達とのお出かけに、両親からクレームが付くことがなくなってきました。ティーンズと呼ばれるようになり、少しは大人になったと認めてくれているのでしょうか。
さて、その夜は、いたってのんびりと、もしくはだらだらと過ごした桃子は、翌朝いつものように築地本願寺前交差点で御津葉と落ち合って、学校に向かったのでした。
「桃子ちゃん、どうやった?」
御津葉はさっそく聞いてきました。
「ええ、お父さんもお母さんも、OKですって。」
「そう?よかったわぁ、ちょっと今度は、めんどうなこと言われそうなんやー。」
「めんどう?」
「うん、まあそんなにひどいことにはならへんやろうけど…」
「そう?おじいさんの所って、近いの?」
「うん、すぐそこ。京都やよ。姉小路と堺町通りが交差するところ。うん、切符はウチが用意するよって、モモちゃんは心配せんといて。ウチのご招待どす。」
「す・すぐそこって…」
「まあ、気ィ使うようなところでもないし、ホンマ心配せんといてなー。」
校庭に入るまでに、御津葉は簡単な説明だけで、桃子をケムにまいていました。桃子は、京都と言う言葉がぐるぐる頭の中を回っています。
頭に浮かんだのは、おなじみの清水の舞台や、舞妓さんの後姿。五重の塔(たぶん法観寺の八坂の塔ですね。)の浮かぶ夕暮れ時のシルエット…大晦日につかれる梵鐘の音。
横合いからかけられた声に、桃子は我にかえりました。
「おはよう、御津葉ちゃん桃子ちゃん。」
「あ、麗奈ちゃん、おはよう。」
「おはようさんどす~。その顔は、オーケーやね。」
「そうよ、お母さんに許可出してもらったわ。」
「ほな、よろしゅうお頼の申します。」
「はい、こちらこそ。」
こういうところは、麗奈が大人に見えるところです。落ち着いて、話すべきことをはっきりと相手に伝えることができる中学生は少ないと思います。しかも、語尾まではっきり発音するので、曖昧なところがありません。
桃子は、麗奈の口調に感心していました。
「なにやら、職員室がさわがしいなあ。」
「あら、弥生ちゃんよ。」
職員室からは、萩本弥生が顔を出しました。
「あら、ごきげんよう。御津葉ちゃん、私、出席でお願いしますわ。」
「おはようさんどす、ほな、みんな出席どすな、詳しい日程は教室で説明するわー。」
桃子は、御津葉のやわらかい祇園言葉が、ここちよく耳に入ることが不思議でした。
「弥生ちゃん、職員室がざわついているのは、なに?」
麗奈が、改めて聞くと、弥生はすまして答えました。
「ええまあ、転校生ですわ。ここではあまり珍しくもありませんもの。」
「まあ、そうよね。」
土地柄なのか、生徒の出入りもけっこう繁茂にある学校です。
「それで、どんな子なの?」
桃子の興味も、当然のことですが、弥生はあまり興味もなさそうです。
「女の子よ、なんて言うか…ふつうっぽいって言うのか、ちょっとおとなしい感じの。」
「ふうん、ウチのクラスに来るかしら?」
「そうね~、まあ、ウチは万年欠員が出てるクラスだもの。」
桃子のクラスだけは、いつも三〇人そこそこしか生徒がいません。
「先生方も、うちのクラスに放り込めば、安心なんでしょ。迷惑な話ですわ。」
「あはは、まあ、ウチのクラスには麗奈ちゃんも、弥生ちゃんも居てるから、もめ事はないわなあ。」
御津葉の言葉に、二人はぎょっとして振り返りました。
「まさか御津葉ちゃん、自覚がないってことはないわよね。」
麗奈は、御津葉の顔を見つめなおして言いました。
「麗奈ちゃん、御津葉ちゃんに自覚が会ったら、こんなことは言いませんわよ。」
「「はあ…」」
二人同時にため息をついたのでした。
桃子も苦笑いするしかありません。
リーダーシップと言う点においては、麗奈の行動が群を抜いていますが、ここ一番の決断と行動は、御津葉の方が的確でしかも早いのです。
クラスには別にクラス委員もいますから、実務的なところはこの委員長がまとめています。
ですが…
ひとたび揉め事がおこったとき、矢面に立って解決しようとするのは、御津葉たちのグループと言うことです。
もちろん、桃子もその中にいるのですが、実際には緩衝材の役目とでも言うのでしょうか。
お互いの意見が衝突したときに、やわらかく間をもたせるには、桃子は適役だと言えるのでしょう。ですから、このクラス…学校自体に、程度の低いいじめは存在できないのです。
すべてにおいて、話し合いが浸透していて、人権の尊重が上げられていることも、校長の方針なのでしょう。公立のほったらかしが多い、都内の中学にしては異例のようです。
週中(しゅうなか)の教室は、いつもどおりのざわめきと、窓から差し込む春の日差しに満ちていました。
桃子は、自分の席にかばんを置くと、御津葉の机にやってきました。
「ねえ、御津葉ちゃん。おじいさまのご用事って、どんなことなの?」
「たぶんねえ、来年のカレンダーの写真撮り。このあったかくならはってから、ほわほわマフラーして、お正月さんの振袖写真を撮るんやわ~。」
「はあ、それはたいへんねえ。」
桃子は、わかったようなわからないような、曖昧な返事をしていました。京都は去年、家族旅行で回りましたので、御津葉の言う清水寺もわかります。父親の家族割引で、安く宿泊できて、リッチなご飯が食べられました。移動の新幹線も安くなったようです。
清水の舞台を背景に、振袖で立つ御津葉は、たいそう見栄えがするだろうとは思いますが、あそこまで登って、ほわほわマフラーは暑いだろうなあとも思いました。
そろそろ葉桜も青々として来ようという季節です。
朝からテンションの高い、二年G組。担任が来るころには、みなそろってざわざわと話し声が飛び交っていました。全校でだいたい八百人程度の中学校ですから、一クラスが三十三~三十五人くらいに分かれていて、約八組。最後のG組で帳尻を合わせるようにしているので、G組は大体三十人を割っています。
前述のとおり、出入りの激しい学校ですので、G組をつぶして振り分けてしまうと、転入生の入る余裕がなくなってしまうのです。
さあ、そんなわけで一学期になって早々の転入生が、モモコのクラスにやってくることになりました。
担任は、ちょっと体育会系の入った、男性教諭。声が大きいのでモモコには不評です。だって、ちょっとコワイじゃないですかー。
そんな中、担任に伴われて教室に入ってきたのは、女の子でした。
見るからにジミな印象の、女の子。黒髪を低い位置でひとまとめにして、短い三つ編みに結っています。色白の顔に、丸っぽいめがねをかけています。制服は間に合ったようで、みんなと同じなんですが、少し大きめなようです。ぷくぷくとよくお肉がついていて、一部はちきれそう。特に、おムネのあたりが…
こういうとき、ぜったいおチョーシくれて、舞い上がるのが早川。
「うわ、ダッセー、転校生ってカッペかよ~。」
「ハヤカワ~、またあんたか!そういうことを口にださはったらアカンやろ!」
さっそく御津葉の声が響きます。人を罵倒したり、侮辱したりする行為がいちばんきらいなのです。
「んだってよぉ。」
「だって、なに?ほれ、言うてみなはれ。聞いてあげますよって。」
「うう…」
御津葉ににらまれて、ハヤカワは、静かになったようです。
「片岡、もういいか?今日から転校してきた、後藤久美子さんだ。」
担任が紹介すると、女の子はぴょこりと頭を下げました。
「後藤久美子です。宮城県石巻市から来ました。よろしくお願いします。」
若干訛りがあるようですが、特に不健康そうな様子もありません。ほほもピンクですし、たぶん緊張しているんでしょうね。鼻の付け根あたりにそばかすが少々。色が白いので、浮かんでくるんでしょうね。
弥生ちゃんを軽く凌駕するお胸は、あるくたびにぱいんぽいんと揺れています。
「はあ、これはハヤカワでなくても騒ぎそうな…お母さんより大きいもの。」
モモコも、久美子のおムネを見ながら、そう思いました。
「後藤の席はあそこだ。」
担任に指差されたのは、いちばん後ろの席でした。
「黒板は見えるか?」
「あ、はい、見えます。」
短く言って、久美子は席に向かいました。まあ、見るからに内気そうな表情、気弱な性格が彼女の目を落ち着きなくさまよわせます。
一方、片岡御津葉は、興味津々。なにごとも新しいことや、珍しいことには飛びつくタイプなので、聞きたいことが山盛りあるのでしょう。まあ、反面、興味のないことには一切触らないという、極端な面も持っています。
さて、自分の隣に座ったこの女の子、モモコはそっと声をかけました。
「教科書は、同じ?」
「え?さ・さあ…」
久美子は、戸惑ったように目を伏せ、机を見つめました。
内気も、ここまでくるとちょっとねえ…モモコは、机を寄せることにしました。がたがたと、音を立てて机をくっつけるものだから、その向こうの御津葉が、振り向いたようです。
「あ、教科書違ってはるん?」
「ええまあ。」
「そうどすなあ、石巻ってけっこう遠いしねえ、うちも行ったことおへんもん。」
「そう?仙台の東でしょ?私は、仙台までは行ったことがあるわ。」
「へえ、そらよろしおすなぁ。」
「よろしおすー。」
変なイントネーションで、御津葉に返すと、久美子に向き直りました。
「ああ、やっぱり教科書が、ぜんぜん違うわ。じゃあ、一緒に見ましょうね。」
「あ…」
「あ?」
「ありがとう。」
蚊の鳴くような小さな声で言うものだから、危うく聞き逃すところでした。
「どういたしまして。あ、そうだ、斉藤桃子です、よろしくね。」
「ウチは、片岡御津葉やよ~、よろしゅうお頼もうします~。」
斜め前から、御津葉も声をかけてきました。
「おた?」
「ああ、祇園ことばで、お願いしますって言う言葉の、古い言い方よ。」
「ああ、そうなんだ。」
やはり、少しアクセントの違う言葉に、東北という単語が、頭に浮かびました。ほら、年末になるとカマクラとか、雪がいっぱいあるイメージでしょ?
「ちょっとモモちゃん、古いはないやろ、古いは。」
「あらそう?」
「今でも、現役の言葉どす。」
そうかしら?
まあ、一部地域限定ということなら、現役と言えるかしら?
机の上に、ぽいんと乗っかった久美子のお胸が、丸く『鶴の子もち』のようにつくねんとしています。うう~、さわってみたいなあ。
モモコは、ついそんなことを考えていました。
「ほら、寺田先生がにらんでるわよ、御津葉ちゃん、前を向きなさい。」
麗奈の言葉に、御津葉はあわてて前を向きました。こういうところは、御津葉のバランス感覚と言いますか、先(せん)達(だつ)には逆らわないという不文律が存在します。要するに、生意気なことはしないんです。おうちの躾ですね。年長者を立てるとか、しっかりしています。
御津葉いわく「子供やないんやから。」ってことなんですけど、どう見ても子供よねえ。
体育会系が入っていても、寺田先生は国語の教師。一時間目が国語なのは、お約束です。
寺田良幸二十四歳。肩幅の広い、がっしりした体格。髪は短めで、でも暑苦しい印象はありません。どちらかというと、さわやかな好青年という感じ。まあ、もてるかというと、どうなんでしょう?いまどきの、遊びには無縁のタイプ。特に、趣味が散歩と読書と来ては、女性向とは思えません。いい人って、つまらないんですよね。
それはさておき、国語程度ではお隣の久美子ちゃんの実力を測るのは無理。次の数学と社会がどうかですね。日本語なんて、話せて当たり前。国語の読解力なんて、どれだけたくさんの本を読んでいるかで決まります。その点において、モモコは小学校から、ずいぶんと本を読んできましたので、自信がありました。久美子の能力についても、標準的な解釈に不安はないようです。若干、古い言葉に不慣れなところは、中学生のレベルですからしかたがありません。
数学、理科は標準より若干落ちる感じ。理解するまで、何度も繰り返さないと頭に入り込まないけれど、いったん頭に入ってしまうと、かなりの深さまで理解できるということでしょうか。
そう言う点からは、社会科の暗記する部分は、ほぼパーフェクト。データをそのまま覚える能力に長けているようです。
これで、午前中は終わり。
給食の時間になって、彼女の無口な理由がよくわかりました。久美子は、よく噛むのです。何度も何度も、ゆっくり噛んで食べるので、自然と話す言葉も少なくなります。
「久美子ちゃんって、しっかり噛むタイプなのねー。」
「むぐ?」
「だから、口数も少なくなるのね。納得しましたわ。」
「弥生ちゃんは、小食やけど、ようしゃべらはるやんなあ。」
「御津葉ちゃんこそ、どこに入っているの?っていうくらい、食べるじゃない。」
「麗奈ちゃんの言うとおりですわ。」
「ウチ、燃費が悪いにゃもん。すぐお腹がすくし。」
「ほほほ、燃費が悪いと言うのは、言い得て妙ですわ。」
「あ~もう、中学生がほほほとか笑わんといてぇ。もーかなんわー。」
御津葉は、勝手なことを言っていますが、弥生は気にした様子もありません。
「貴婦人のたしなみですわ。御津葉ちゃんも、もう少し自覚なさったら?」
「ウチは、このまんまでええんどす。」
「ま、まあまあ、後藤さんがあきれているわ。ふたりとも、飛ばしすぎよ。」
モモコにいさめられて、二人は食事に戻りました。
「後藤さんは、どこに住んでいるの?」
「深川です。郵便局が近くにあるのよ。」
「ああ、えっと東洋町のあたりかしら?」
「そうそう、小さな賃貸だけど、親子四人で暮らすには、十分ですよ。」
「はあ、ご兄弟いてはんの?」
「ええ、兄がひとり。」
「ま~、そう言えばこの中で、お兄さまがいるのは後藤さんだけですわ。」
「そう言えばそうね。」
「お父さんは何をしてるの?」
「モモちゃん、そこまで聞いてもアカンとちゃう?」
「いえ、いいですよ。今度の引っ越しは、おとうさんの仕事が変わったからなの。甚目寺運輸の、仙台ステーションから、港区の本社に転勤になったの。マンションも会社が用意してくれたのよ。」
「ふうん、急な異動ねえ。」
麗奈が、真顔で聞いてきました。
「後藤さん、得意技はなに?」
「得意技?内股。」
「やっぱりね。御津葉ちゃん、どうします?」
「まったく、奈美子おばさんも弱ったことしはりますなあ。久美子ちゃん、そうとう強いんやね。」
「さあ?私は試合なんか出たことないもの。性格も、試合向きじゃないし。」
「そうなん?」
「ええ、人見知りがはげしいから、柔道でも習ったらって、お母さんが無理矢理通わせたのよ。おかげで、たいへん。」
「ふうん、そうなんやー。そのわりには、耳とかつぶれてへんやん。投げられへんのは、じょうずな証拠やよ。」
久美子ははにかんで首を横に振りました。
「それで、人見知りは克服できましたの?」
弥生は、お茶を持ち上げて聞きました。水筒に入れて、上等の玉露を持って来たようですよ。
「まあまあです。もともとの性格は変えられませんよ。」
「そうね。でも、転校初日に、これだけ話せれば、十分じゃない?」
麗奈は、すまして言い切りました。
「そうね、まあ御津葉ちゃんがいるクラスでよかったわね。誰とでも仲良くなれるのは、もう特技だもの。」
「モモコちゃん、それ、ほめてるように聞こえへんよ~。」
「そう?とってもほめているのに。」
モモコは意外そうに御津葉の顔を眺めました。
御津葉は、久美子に向き直って、聞きました。
「久美子ちゃん、ウチら週末に京都に行こうと思うてますにゃけど、ごいっしょせえしまへん?お泊り先はウチのおじいちゃんの家どすにゃわ。」
「お泊りですか?う~ん、お母さんに聞いてみないことには…」
「そらそうどすな。ぜひ聞いておくれやす。転校生との親睦を図る一大イベント言うことで、ぜひ参加しとくれやす。」
そう言われて、お母さんが断るとも思えませんが、そこのところはどうなんでしょうね?
夜になって、夕食の席で久美子はそっと聞いてみました。
「御津葉?片岡のお嬢さんと、会ったのか?」
父親は、驚いた顔をして聞き返しました。
「うん、同じクラスだもの。みんな親切で、おせっかいなくらい面倒見のいい人たちよ。」
「なんとまあ、さすがジモクジ、手回しがいいなあ。」
「?」
「いや、こっちの話だ。久美子に柔道をさせたのはよかったな、こんなご縁があるとは思わなかったよ。」
「そうなの?」
「ああ、お父さんがお世話になっている人のお嬢さんだから、御津葉ちゃんとは仲良くしてくれ。それから、なにかあったら、久美子の柔道で守ってあげるんだよ。」
「うん、わかったわ。御津葉ちゃんは好い子よ。」
微妙にかみ合っていなかった会話が、ここにきてやっと同じ路線に戻ったような気がします。大人ってめんどくさいですね。
「そうか、週末の京都は、一緒に行ってくるといい。お小遣いもあげるよ。」
「わあ!ありがとうお父さん!」
父親は、二つ返事でオーケーを出しました。このお父さん、若いのにかなりの遣り手らしく、カタオカとジモクジの関係を知っているようです。もともとが、仙台ステーションの所長代理まで上がった人ですから、本社に来て、またどこかのステーションに出る頃には所長の肩書きがつくのでしょう。
それはさておき、父親からはお小遣いを提供され、母親からは旅費をもらって、久美子はお金持ちの気分を味わっていました。
「ちぇっ、久美子はいいなあ。」
高校生の兄は、少し不満顔で久美子を見たのでした。
「まあそう言うな、お父さんが出世できるかどうかは、久美子にかかっているんだからな。」
「そうなの?」
久美子は首をひねっていました。
「まあ、そういうことならしかたがないね、オレもがまんするかー。」
「そうだな、そのうちボーナスが出たら、なにか買ってやるからな。」
「へいへい、期待しないで待ってるよ。」
高校も二年になると、転校してもそれほど居心地が悪くないらしく、兄は機嫌の良さそうな顔で、久美子に笑いかけました。
「じゃあ、学校でいじめられたりはしてないんだな。」
「もちろんよ。御津葉ちゃんのグループは、学校でも一目置かれているみたいよ。」
「まあ、そうだろうな。中学の社会では、意見の言える度胸のあるやつが、リーダーになっていくものだし、その子はすごく良い子なんだろう?」
「そうね、そのうえ美人よ-。」
「へえ、タレントで言うと?」
「う~ん、ちょっと居ないタイプね。だって、すっごく上品で、どこかが悪いとか、思えないんだもの。」
「なんだそりゃ?」
「わかんない、ただかわいいとかきれいとかって、超えた感じ。」
「う~む、東京の学校はおそるべしか…」
「お兄ちゃんとこの高校は?」
「ああ、進学校でもないし、まあ、平均的なところだよ。一部、頭の悪そうなのもいるけどさ、それはどこにでも居るもの。」
「そうなんだー、転校生っていじめられない?」
「まあ、大丈夫だろう。オレは、進学先の選択肢が増えてうれしいけどね。」
「そうなの?」
「東京の大学はたくさんあるじゃないか。」
「ああ、そう言うこともあるのね。でも、お父さんが転勤したらどうするの?」
「大学の寮にでも入るさ。そのくらいはできるもの。」
「そうなんだー、お兄ちゃんも考えているのねー。」
「なんだとこいつー、兄上をバカにしてはいかんよ。」
「あはは、ごめーん。」
翌朝、学校で報告をすると、御津葉は嬉しそうに笑ってくれました。まあその顔のきれいなこと、久美子は思わず見とれてしまいました。
『うきゃ~!』
そんな久美子の後ろから、ぎゅむっとおムネをつかんだ手がありました。
「いたたたた!いたっ!いったーい!」
「うわ~でけえ~!すっげえなあ。」
「ハヤカワ!あんた、なんちゅうセクハラしはんの!」
「いや、だってよう、どのくらいでかいかわかんねんだもん。」
「そういう問題か-!」
ぱちーん!と音がして、早川の顔に御津葉の平手が飛びました。早川はくるくると回りながら、掃除道具の入ったロッカーにぶつかりました。
久美子は胸をおさえてうずくまっています。
「そういう乱暴なことすると、お胸は痛いねん!久美子ちゃん、だいじないか?」
「う、うん…」
久美子は目に涙を浮かべて、痛みに耐えているようでした。
「ほれみい、泣かしてしもて、なんちゅうアカン子やねん!」
「う…」
「な~かしたーな~かした~!せ~んせ~にいってやろ~!」
「しょ、小学生かよ!」
「アホ言ってんと、早うあやまりよし!」
「う…」
「う?」
御津葉は、世にも恐ろしい目で、早川をにらみました。普段が美しく整った顔だけに、怒るとすさまじく怜悧な刃物のような顔になります。
早川は気圧されたように一歩下がりましたが、がくりと頭を落としました。
「ごめん。」
「久美子ちゃん、あんなこと言ってはりますけど、どないしはります?ゆるさへんて言わはんにゃったら、裸にして窓からつるしてあげますけど?」
やるときは本当にやるので、桃子は真っ青になりました。
久美子はふるふると顔を振って、御津葉に言いました。
「も、もう痛くないから、許してあげて。」
「そう?そうどすか?ほな、早川、グランド十周!今から走ってきなはれ!」
「は!はい~?いま、許すって言ったじゃんか~!」
「アホ!これは迷惑したウチのぶんや!」
早川は、御津葉の剣幕に圧倒されて、教室を飛び出していきました。
「御津葉ちゃん、容赦がないねえ。」
桃子はあきれて言いました。
「まったくあのお調子モンが、久美子ちゃんが許してくれはらへなんだら、どないするつもりやねん。」
「今のは少しむっとしたので、御津葉ちゃんがいなかったら投げ飛ばしてました。」
御津葉はきょとんとした顔をして、一気に笑いました。
「あはは!ほなら、ウチは早川の命の恩人やなあ。あとで、なんかおごらせたろ。」
あくまで容赦のない御津葉でした。
「どうなさったの?ハヤカワが慌てて校庭を走っていますわよ。」
弥生が、教室に入ってきました。
「じつはかくかくシカジカで…」
「ああ、それはハヤカワが悪いですわ、本当に痛いんですもの。」
出るところの出ている弥生には、久美子の気持ちがよくわかるようです。桃子には、まだぜんぜんわかりませんでした。
「そやけど、久美子ちゃんもけっこう大きな声がでるもんやね~。」
「そ、そりゃあいきなりあんなことされたら、びっくりするわ。」
「まあそうやね、コラ~!さぼるな~!」
御津葉は、窓から拳を振り上げて、早川をどなりました。
行儀悪く、窓枠にお尻を乗せて見ていたのです。
久美子は御津葉の大声にびっくりしました。御津葉はグランドを見て、ハヤカワが足を止めたところを見つけたのです。ハヤカワは、慌てて走り出しました。
「早川君って、御津葉ちゃんの言うことを素直に聞くのね。」
「ああ、入学早々に、ウチのスカートめくったので、ケリくれたったんよ。小学生やないんやから、中学に入ってまでスカートめくりはねえ…」
一同は、うんうんと同意しました。
「みんな、一回はハヤカワにめくられてはるし。」
「ぜえぜえ、お、おわったぜ~。」
早川は、汗だくの顔を上下させながら、教室に入ってきました。普通にしていたら、中学二年にしては背も高い方だし、顔もまずくないのに、どうしてこうお調子者なのか…
「早川~、いいかげんにしろよ~。」
クラスからも、合いの手が入るくらい。
「う、うるせぇよ、オレの生き甲斐を取るんじゃね~よ。」
早川は、自分の席に戻ると、ぐったりと机に突っ伏してしまいました。
「この短時間にグランド十周なんて、けっこう体力あるのね、早川君。」
「桃子ちゃん、グランドがせまいんやよ~。」
「そうかしら?それでもそこそこあるわよ。」
「まあね、体力だけは無駄にあるヤツやからねー。」
とはいえ、始業前に全力疾走した早川は、もはや使い物にはなりそうもありませんね。
合掌。
「だけど、久美子ちゃんのおムネはおおきいものねえ。私も触ってみたいと思ったわ。」
「桃子ちゃんも?ウチも~。」
「鶴の子餅みたいに柔らかそうでしょ。」
「そうやねん。そら早川やのうても、触りたいと思うわねえ。」
「お互い、ブラには縁がないものねえ。」
「たしかに…」
中学二年にしては凹凸の少ない胸を見て、お互いため息をつきました。
「モモちゃん、ブラ買った?」
モモコはふるふると首を振り、御津葉を見返しました。
「御津葉ちゃんは?」
御津葉も首を振ります。
「まだ必要ないでしょって、お母さんが…」
前の方で説明書きにあった、意外とメリハリのあるボディって、なんなんやー!
「「うえ~~ん」」
かたんかたんと枕木のたてる心地よい音が、いつしかモモコを夢の世界に誘ったようです。
富士山も、浜名湖も、夢の中で見たような気がしますが、規則正しいかたんかたんと言う音に、どこかに流れて行ったようです。
「桃子さん、よく眠ってらっしゃるわね。」
「横浜からずっとよ。」
「昨夜眠れなかったんちゃうの?」
「遠足の前ですかー?」
「そうそう、興奮してなかなか眠れへんって、そんなんかいなあ?」
「あはは、良い天気でよかったですね。ほら、富士山ですよ。」
久美子に指さされて、一行が右を見ると、頂に雲をはらんだ富士山が見えました。
「はあ、やっぱり日本の象徴と言うか、誇りに思えるくらいきれいな山ですねー。」
「久美子ちゃんも、けっこう思い入れがあるみたいやね。」
「そうですよー。飛行機から見ると、すっごく感動しますよ。」
「ああ、なるほど。日本に帰ってきたんやなーって、思うわねぇ。」
「ああ、それ、わかりますわ。ここが自分の国だって、誇らしく思いますもの。」
「弥生ちゃん、大きくではったなあ。」
「あら、御津葉ちゃんは何度もパリに行っているのに、そうお思いになりません?」
「まあ、愛国心って言わはったら、そうかもせぇしまへんけど、最近は着くまで寝てることのほうが多いもん。」
「あ~、情緒がありませんわ!」
「そやし、このまえ登ってきたえー。途中までやったけど。」
「どうでしたの?」
「どうもこうも、石ばっか。かなんわー。」
「まあ、そうなの?」
「やっぱし、富士山は見るだけがええねー。」
浜松、名古屋、米原と通過して、車窓からは琵琶湖が見えました。
「わあ、これが琵琶湖ですか!」
久美子は、歓声を上げました。
「久美子ちゃん、初めてですの?」
「ええ、こんな近くで見たことないです。」
「そらまあ、関東に居てはったら、縁のない所やもんねえ。」
「うわ~、なんだか長い橋が架かってますよ。」
「あれが琵琶湖大橋ですわ。」
「春のカスミがかかって、きれいです-。」
いやそれ近江大橋じゃないかな?
かたんかたんと揺られながら、やがて電車は京都駅に滑り込みました。
ぷしゅ~っと音がして、ドアが開きます。
一泊の旅行ですので、荷物も少ない一行は、軽快にホームに降り立ちました。
御津葉と桃子は、デイパックに荷物を入れてきたので、ほとんど手ぶらの状態です。
久美子は、事前に桃子から連絡を受けていたので、同じくデイパックですが、弥生と麗奈はボストンバッグでした。
しかも弥生のボストンは、LとかVとか書いてある暗い焦げ茶色のアレですよ~。
「またまた弥生ちゃんは、そういうの好きやねー。」
「まあ、個人の趣味ですわよ。使いやすいものを選んだら、これだったと言うだけですわ。」
「へえ、そうなんやー。麗奈ちゃんのは、ふつうっぽいけどねー。」
「あら、麗奈さんのだって、ワンダースワンでしょう?キャメルカラーと言えば、このブランドですわね。」
革製のボストンと言うだけで重そうですが。
「だって、これでないと私のワルサーが入らないんですもの。しかも、皮が薄いと飛び出してしまうし。」
「はあ、それはタイヘンですわね。」
麗奈は、普通の時でもエアライフルを持ち歩いているようです。
「ほならやー、まずは姉小路和泉屋に行って、荷物を置いてきまひょ。」
「それがいいわね。麗奈ちゃんも、今日は荷物なしでも大丈夫よ。」
「ええまあ…」
地下鉄に移動して、烏丸通りを北上、烏丸御池で地下鉄を降りると、車屋町通・東洞院通・間之町通・高倉通と東に進んで、堺町通に行き当たります。ちょっと有名なのはホテル・ギンモンド京都。昔ながらのホテルですが、だれもが名前だけは聞いたことがあると言う、老舗です。高倉通には、京都文化博物館があって、おじいちゃんちのすぐお隣です。
御池通から、姉小路にはほんの一本下がるだけ。モモコたちは、おしゃべりするヒマもないほどに早く、御津葉の祖父の家に着いたのでした。
「御津葉ちゃんのおじいさんのおうちって、ここなんですか?」
久美子が驚くのも無理からぬこと。姉小路和泉屋は間口が八間半と京町屋としては最大級の幅を持っています。奥行きは十一間。
「大きいですね~、時代劇に出てくるお店みたい。」
「まあ、ここで一六〇年お商売していらっしゃるそうですから、時代劇というのは当たってますわ。」
弥生の意見は、的を射ているのかもしれませんね。
正面の大木戸は閉められており、御津葉は脇の入り口から、中に声をかけたのでした。
「こんにちわぁ、御津葉どすー。」
「あれまあ、嬢ちゃん。ようおこしやす。旦那さんがお待ちどすえ。」
住み込みの家政婦(今ではヌシのような。)お政さんです。
「へえ、おおきに。」
ぞろぞろと、入り口をくぐる五人。
「おばあちゃん、今日のおばんざい、なにー?」
「いもぼうと、こんにゃくの炊いたんと、ほうれんそうの白和え。」
「わおー、こんだけでご飯三杯はいけます。」
「なんとまあ、女の子が。さあさあ、卓に着きよし。」
「あ、お参りが先ー。」
御津葉は、仏間に飛び込むと、ちーんとリンを鳴らしました。
「そう言うところは、透吾と一緒やなあ。」
「そら、娘どすー。あ、お隣もお参りせなあかんなあ。」
「あれまあ、律儀なこと。ま、いっといやす。」
「そうしますー。みんな待っててやー。」
御津葉は、庭のつっかけをはくと、木戸を開けてお隣に向かいました。
「お隣って?」
久美子が聞くと、モモコは少し声を落として言いました。
「なんでも、お父さまの幼なじみが亡くなっているんですって。御津葉ちゃんは、いつもお参りに行くのよ。」
「ふうん…」
「そこの娘さんと、御津葉ちゃんのお母様がよく似ていらっしゃるのよ。だから、御津葉ちゃんが顔を出すと喜ばれるの。」
弥生は、庭に目を向けて独り言のように言いました。
「そうなんだ。」
「おばちゃ~ん、こんにちはあ。」
御津葉は、遠慮もなく裏の戸を開けて、中に声をかけました。
「あれまあ、御津葉嬢ちゃん、ようおこしやす。」
「へえ、おじゃまします。ちょっとお参りさせてください。」
「へえ、お願いします。」
御津葉は、ここでもお仏壇に向かって、ちーんとおリンを鳴らしました。
「ホンマに、御津葉ちゃんはお母さんそっくりにならはったなあ。」
「そうどすか?」
「ウチにも孫がいてたら、このくらいになってはったやろうに。」
「なに言うてはんの、ウチが居てますやないの、ウチはおばちゃんとこの孫でもあるんやから。」
複雑な顔で御津葉をながめて、ため息をひとつ。
「そうどすな…」
「あはは、次はゆっくり遊びに来ます。今日はお仕事やねんわ。」
御津葉は、軽くお辞儀をして裏木戸をくぐってきました。
「行ってきた。おばちゃん、毎年寂しそうやなあ。」
「まあ、しょうがないよ、一人娘やったしなあ。」
「ま、ウチが面倒見たげます。ウチは友美のムスメどすえ。」
「あはは、そらそうや。お魚、なにか焼こか?」
笙子さんは、気さくに聞いてきました。
「棒だらが、はいってますやん。」
御津葉が答えると、笙子さんおばあちゃんは、すまして言いました。
「それは、味付け。魚はさかな。」
「ほな、アジでも。」
「へえへえ、若狭からええ開きが、届いてますえー。」
「やった、ほなお政さん、すぐ焼いて。」
「へえ、承知しました。」
なにやら、どこにでもあるような食材が、京都で聞くと、とってもいい物に思えてきます。
和泉屋の台所には、大きな飯台が置いてあります。縦六尺(約一八〇センチ)、横二尺五寸(約七五センチ)という、ケヤキの一枚板でできている、途方もなく重たい逸品です。
厚さは三寸(約一〇センチ)。
じきに七輪と炭が用意されて、アジの開きが乗せられました。香ばしい香りが、台所に立ちこめます。
ここに陣取った子供たちは、きゃいきゃいと言いながら、食事を始めました。
「こんなハンパな時間にごはん食べると太りそう。」
久美子は下を向いてもごもご言っています。
「だ~いじょうぶやて~、今日はいっぱい歩くことになるよって、朝のウチにエネルギー充填しておかへんと、途中でヘバってしまうえ。」
「そうなんですか?」
「そうそう、モモコちゃんもちゃんと食べてはるやろ?」
「むぐ?」
「つきあい長いから、ペースがわかってはるのよー。」
「そうですね、今日の予定は…清水寺からですか?」
「うん、金閣と嵯峨野は明日やよ。」
「有名な観光地は総なめですわね。」
「大原は行かないの?」
「モモちゃん、明日の朝イチで行って、とんぼ返りやよ。」
「うわ~、たいへんね。」
「たいへんなのは、大文字の合成やて~、今日の昼は三条大橋で、浴衣の撮影やよ。寒いよ~。」
ぶるぶる、まだ春なのに、浴衣一枚では本当に寒そうです。
「みんな食べた?ほな、顔洗って、着替えますゑ。」
「き、着替えますえって、もしかして私も写るの?」
久美子は不安そうに聞きました。
「シャレやん洒落。まあ、一人だけ洋服っちゅうのも、仲間はずれみたいでいややんなあ。」
「そうね、久美子ちゃんも振り袖着ようよ。」
モモコに言われて、久美子はしぶしぶ頷いたのでした。でしたが…
「わあ、似合う似合う、久美子ちゃん色が白いから、黄色い振り袖が合うのね-。」
モモコが嬉しそうにはしゃいでいるものだから、なぜか久美子のテンションも上がって、ほほを染めながら微笑みました。
「そ、そうかな?」
隅には日本髪を結う美容師の匡さんが来ていて、着物を合わせる間に『割れしのぶ』に結い上げてくれます。この人は、ほんものの舞妓さんたちの頭を触る、いわゆる祇園の髪結いさんなのです。
できあがった髪は、少し重くて、変な感じ。モモコは、久しぶりの鬢付け油の香りに、京都らしさを感じていました。
一方、久美子はがちがちに緊張していて、しかも着付けが男の人なので、顔も真っ赤になっています。
「立花定雄どす。はじめての衣装は、たいへんやろけど、きばってええ舞子はんになっておくれやす。」
定雄さんは、ごま塩の角刈りで、紺の紬をきりりと着付け、太い眉が印象的です。
鼻筋が通って、若い頃はお姐さんに、モテたんだろうなあと思わせます。
しかしながら、男の人の力でぎゅうぎゅう締め付けられて、さっき食べたごはんがおなかから上がってきそうです。
「あ、あんこがでるよう。」
久美子は、さっそく悲鳴を上げています。
「しんぼうしとくれやす、ここで手を抜くと、あとで大変なことになります。」
たいへんなことって、どんなことなんでしょう?
「最悪、帯がばらけて、着物が脱げます。」
立花さんは、含み笑いで言うものだから、すかさず御津葉が見つけていました。
「あ~、立花のおっちゃん!そこで笑ってはるやん。さては、ウソやね~。」
「これこれお嬢、全部ウソやないよ。だらりの帯が、だらだらの帯になったにせ舞子ちゃんを何人も見ましたよ。帯は、きちんと着けへんとね。」
「まあ、そらそうどすけど…」
立花さんは、くすくす笑いながら、久美子ちゃんの帯をきりりと結びました。これがまた、まあるいお顔と、色白な肌で、そらもうおたべちゃん人形みたい。
そこへ、からりとフスマが開いて、きれいな女性が入ってきました。
「あっ、春菜さんお母さん、こんにちは。」
「へえ、御津葉ちゃん嬢ちゃん、ようおこしやす。どうどす?」
「へえ、見ての通り、難儀してます。」
この春菜さんという人は、御津葉ちゃんのお父さんと同級生なんだそうです。なんでも、高校に入ってすぐのころ、なんども助けてもらったと話してくれました。そのころから、お父さんはあこがれのひとだったとか。うふふ、ステキね。
「ひゃー、この子、ウチの舞子ちゃんに欲しいわあ!」
御津葉を通り越して、久美子の前に座った春菜という女性は、大きな声で言いました。
「色も白いし、だいいち品がおす。嬢ちゃんたちは、きれいすぎて、ちょっと舞子ちゃんには向きまへんにゃー。女は愛嬌言いますやろ?」
そんなものでしょうか?
「うそうそ、こういうちょっと引いた感じが、男はんを惹きつけるんよー。」
「そういうもんかいなあ?」
「まあねえ、こうして白粉のばして…ほらほら、ようなったやん。やっぱ、ええわあ。」
久美子の顔は見る間に真っ白になって、薄く黛をのばすと、少し大人っぽく見えました。
「ほんでね、こうして紅をさすと…」
小指の先に少しだけつけられた紅は、下唇のほうにほんの少しのせられました。
「下だけなんですか?」
桃子は、不思議に思って聞いてみました。
「へえ、一年生の舞妓ちゃんは、下だけ。われしのぶの鹿の子も赤いんどす。」
「ふうん、そう言うものなんですかー。」
桃子は、順番待ちの間に、着物をあてて、どれにしようかと迷っていました。
「やっぱ、ももちゃんはこれやて~。」
御津葉が持ち上げたのは、濃い桃色の華やかな衣装でした。
「これ?」
「うんうん、モモちゃんには桃色が合うと思うわー。」
「そうかしら?」
桃色の地に、御所車と手鞠。御所車の花生けには春の桃の花。
「新年のページに桃の花?」
「ええやん、縁起もんやんかさあ。年の初めは新春やよー。」
「そんなこじつけくさい…」
「ま、カレンダーなんやから、それでええねん。うちの商品の説明も兼ねてるんやし。」
「そう?じゃあ、これにするわ。」
白い襦袢の上に乗った、かわいい舞妓さんが、にっこりすると、御津葉は朗らかに笑い返したのでした。
できあがった久美子は、こめかみにかかるブラのしゃらりがきらきらして、なかなかいい感じの舞子ちゃんになっていました。
春菜さんお母さんが、あんまりほめるものだから、ゆでだこのように赤くなっていますが、まんざらでもないみたい。
まあ、女の子ですから、きれいだと誉められたらうれしいですよね。
「ですから、染め直すのは困りますー。」
麗奈は、ド金髪ですので、匡さんは黒く染め直したいと言うのですが、がんとして聞こうとはしません。
しかたなく、金髪のまま割れ忍を結うという、暴挙に出ました。
モモコとしては、これはこれでなかなかいいと思うのですが、いかがなものでしょうか?
「あらまー、これは…」
春菜さんは、ちょっと絶句。
「外人さんで、こういう子も居てたけど、まあ一日だけやしねえ。」
「春菜さんお母さんには、ちょっと不満らしいねぇ。」
「うふふ、昔ながらのお母さんですものね。」
「私の髪も染め直しって言われるかと思ったわ。」
「匡さんもあきらめたんでしょ。」
匡さんは、難しい顔をしていましたが、黙って弥生の髪も作ってくれました。御津葉ちゃんは、つやつやした黒い髪なので、匡さんは満足そうにしていましたが…
「桃ちゃんの髪は、少しパーマが入っているから、痛いかも知れないけど、我慢してね。」
元々は東京の人で、日本髪の勉強のために京都にやってきた人です。言葉は、なかなか京都には染まっていないみたい。
「ひう!」
ぐいっと引っ張られた髪は、痛いというかなんというか…
金髪舞妓さんは、どうやら緑色の振袖を着て、だらりの帯を締めてもらいました。
御津葉は紅、弥生は蒼、五人が並んでみると、みごとに舞妓戦隊ダイニッポンですね。
五色そろうと、壮観です。
「何が何でも、レッドはウチやあ~。」
御津葉は気勢を上げています。
「タクシーが着きましたえ、みなさんどうぞ。」
笙子さんおばあさまが、呼びに来てくれました。
「うん、ほなみんな、行けます?」
「ええ、大丈夫よ。」
「私も。」
天井に三つ葉のクローバーが付いたタクシーが三台、和泉屋の前に待っていました。
「あれまあ、店だしどすか?」
和泉屋から五人も舞妓が出てきたものだから、向かいのおばあさまがじょんくんと一緒に出てきました。
「おかあさん、和泉屋は呉服卸どすえ。これは、孫の御津葉どす。」
「はれまあ、御津葉ちゃん!ひゃ~、きれいにならはってぇ。」
「これからちょっとお参りに行きますのや。」
「へえ、そらまた…きれいなべべきて、ええなあ御津葉ちゃん。」
「へえ、おおきに。どうどす?おばあちゃん、似合うてますか?」
「へえ、そらもう、なんちゅうか…なあ笙子さん、お隣の友美ちゃんが帰ってきたみたいやなあ。」
「そうどすなあ、御津葉はよう似てますやろ?」
「ホンマに、生き写しやんなあ。なんでやろう?」
「そうどすなあ…あ、もう時間や、ほな、またこんど目。」
御津葉はにこやかに頭を下げると、タクシーに乗り込みました。
となりで桃子は御津葉を待っていました。
「あの犬、恐い顔してるわねー。」
「へえ、じょんくんどす。あんな顔して、甘えん坊どすえ。」
「そうなの?」
「へえ、番犬にならへん言うて、おばあちゃんボヤいてはったもん。」
「へえ~、そうなんだ。」
ジョンくんは、白黒のシベリアンハスキーで、大きな鼻がそばにくると、鼻息がすごいです。ふさふさしたしっぽが、あたたかそうなのですが、そのことを御津葉に言うと、「ああ、あのしっぽは寝るときに鼻を守るためにあるんどす。」と答えました。
「鼻を守る?」
「へえ、ハスキーはマイナス三〇℃でも外で寝ることが出来る犬どす。そやし、呼吸器官はそこまで丈夫にでけてないんどす。そやから、あのふさふさしっぽで鼻を覆って、寒気が直接肺に入らへんように守ってはるんどす。」
「へえ~、そうなんだ。御津葉ちゃん、よく知っているわね。」
「そらまあ、ウチにも流星号が居てはりますよってに、ハスキーは慣れたもんどす。」
「ああ、なるほど。あの子、長生きね。」
「まあ、あの流星号もじょんくんといっしょで、二代目どすけど。初代は、ウチが一〇歳の時亡くならはったし。」
「へえ~、何歳だったの?」
「えっと、十六歳かな~?ハスキーにしては長生きやったね。」
「ふうん、そうなの?」
「まあね。大型犬は十年が寿命なんやよ。」
「そうなんだ、じゃあ彗星号も?」
「うん、あの子は十二歳やったもん。彗星二号は少し小振りな、フラットコーテッド=レトリバーにしたんよ。」
「なるほどー。ワンコにも歴史ありなんやね。」
「まあそうやね。彗星二号は、桃ちゃんも仲良しやんね。」
「ええ、私も大好きよ。」
混み合った東大路を避けて、瓦町通を南下したタクシーは、そのまま五条通に出て、東を目指しました。立体交差になっている五条通をよけて、直進すると突き当たりが五条坂、人混みを避けて、タクシーは茶碗坂を突き当たりまで上がりました。延命院前の広場でタクシーを降りると、正面の石段に向かいます。
身長百三十センチ前後の舞妓ちゃんが五人も歩いてくると、観光客の足が止まってしまいました。縮尺がいまいち飲み込めないみたいで、あは、反応がおもしろいです。
レフ板を持ったアシスタントが二人と、カメラバッグを持ったアシスタントが二人、かなり大がかりな撮影になりそうです。
「舞台の撮影許可ももらっていますが、まずはこの山門の階段で一枚撮りましょう。」
カメラマンの先生も、うっすらと汗を浮かべていますが、着物で締め付けた娘達はお化粧が崩れないか心配!
やはりというかなんというか、センターは御津葉ちゃんなのは、お店のカレンダーなので当たり前なんですね。
「舞子戦隊!ダイニッポン!」
どかーん!
「そこでポーズとるのやめてー!」
久美子が悲壮な声を上げています。
「イエローが、なんかゆうてはるえ。」
「イエローゆうな!」
「あはは、センセどうどす?」
「うん、いいねー、毎年綺麗になっていくね、御津葉ちゃん。今度、専門に撮影させてよ。」
「あらまあ、写真集でも出さはるん?それは、お父さんに言うてやー。」
「うわ、社長は恐いんだもんな~。」
「あはは、ウチのお父さんは、親バカちゃんりんやもん。」
「ホンマやー、写真集なんて言ったら、ボクはクビになっちゃうよー。」
「反対に、褒められたりしてなー。あれで、お父さんはウチの写真撮るの好きやし。」
「ああ、そう言えばおじさまって、よく写真撮ってらっしゃるわね。」
「そうやろ?勧め方次第では成功するかもやねー。」
「しかし、世間に売り出したりしないでしょう?」
「そやにゃー、親戚うちにばらまくかもせえしまへんけど。千部単位やろなあ。」
みんなニコニコしているうちに、どんどん写真は撮られていきます。
「じゃあ、舞台に移動しましょう、ここは十分ですよ。」
五人はぞろぞろと、石段を上がり始めました。後ろからカメラの音がたくさん聞こえてきました。モモコが振り返ってみると、外人さんも日本人さんも、みんなシャッターを切っています。
「ありゃ~、目立ちすぎ?」
「しょうがないよ、毎年こうやもん。」
「うわ~、なんだかコワイですねえ。」
久美子は、心配になってきました。
「心配いらへんてー、それでどうにかなるほど、ウチはやわな企業やないよー。」
「そうなんですかー?」
「へんなことに使ってるのが見つかったら、徹底的に追いつめて二度と立ち上がれなくすればええんやもん。」
うわ、恐いこと考えてますよ、お嬢さまは。
モモコも、階段を廻って本殿の舞台に出ました。あいかわらず、舞台からは京都の街が一望できます。
「きれいねー。」
「あいかわらずですわ。」
「カバンがないと、すかすかするわ。」
「うわ~、きれいです~。」
「だれが何を言ってはるかわかるかなあ?」
モモコは、御津葉の声にクビをひねりました。上からモモコ、弥生、麗奈、久美子の順なんですが、みんなはしゃいでいるようです。
「ここの舞台で写真を撮って、桜の映像と合成するんですよー。」
「なるほど、それなら納得ですわ。」
「その辺で話していてくれますか、ロングで向こうの子安の塔から撮りますから。」
「ここでええのん?」
「はい、お願いします。」
そう言って、カメラマンさんはアシスタントを連れて、子安の塔に向かいました。けっこう距離もあって、機材をかついでの移動は大変そうです。カメラマンって重労働なのね。
「そやし、ここも久しぶりやねえ。」
「そうね、最近来ていないし。」
「桃子ちゃんはどうやろ?」
「私?私も最近は、来ていないわ。お父さんも忙しいみたいだし。」
「私なんか、初めてですよ。東北から京都って、韓国より遠い気がします。」
「あはは、なるほど、飛行機に乗るのはどっちも一緒やんなあ。そら、海外に行くわ~。」
「一度は来てみたかったんですけどね。」
「そらまあ、京都は見るところがいっぱい集中してはるよって、観光には不自由しませんなあ。」
「そうなんですか?」
「そらもう、清水さんの界隈には、高台寺さんをはじめ、霊山観音さんやら、歴史館やら龍馬の墓とか、いっぱいありますえ。」
「へえ、坂本龍馬のお墓なんてあるんだ。」
「へえ、そうどすな。日本で唯一、お墓参りにお金がかかるって、評判どす。」
「へえ、そうなんですかー。」
「龍馬と中岡慎太郎の銅像も立ってますえ。」
「わあ~、見たい見たい。」
「ほな、撮影が終わったら、見に行ってみまひょ。すぐそこどすし。」
御津葉は、気楽に言って笑いますが、振り袖を着慣れていない久美子には、少しきついんじゃないでしょうか?モモコは心配になってきました。
実を言えば、久美子はこの体で仲間を肩車して、神社の階段を上り下りしているんです。五〇段くらいあるんですって。
やがて、カメラマンの先生は、撮影を終えて戻ってきました。
「あいかわらず道がぬるぬるするよ~。」
「おつかれはんどしたー。」
「その格好で、祇園言葉が出るとどきっとするねえ。」
「そうどすか?ウチには普通なんやけど。」
「うひゃ~、ぞくぞくする。本物でもこうはならないよねえ。」
「まあ、昔は十三歳の舞妓やら当たり前に居てましたしなあ。戦前は十八で襟かえやったそうやよ。」
「へえ~、十八?今じゃ二十過ぎの舞妓もいるのにねえ。」
「それは、トウがたってますやろ。せめて二十には襟かえせんとねえ。」
「そうだね、じゃあ次は…」
「センセ、ちょっと龍馬の墓に行きたいんやけど。」
「?ああ、いいよ。そこでも撮ろうか。」
カメラマンの先生は、二つ返事で龍馬の墓に向かってくれました。
「うわあ、見晴らしがいいですねえ。」
「はあはあ、けっこう登るのね~、振り袖でこれはつらいものがあるわ。」
「モモちゃん、鍛え方が足らへんのとちゃうの?みんな、平気やよ。」
確かに麗奈ちゃんも弥生ちゃんもけろっとしていますが、大変なのはカメラマンの先生たち。ぜいぜいいはあはあ、もうダウン寸前。
「た、たしかにもっと鍛えておかないとだめかも…」
「あ~あ、轟沈。」
それでも、少し休んで撮影をして、すぐに祇園に向かいました。土曜のお昼時、五人の舞妓が石畳に現れると、カメラおじさんが群がってきました。すぐに偽舞妓とばれたんですけど、(そりゃあ金髪や栗色の割れ忍が混じっているんだもの、ばれるわよ。)地毛で割れ忍を結っているのがめずらしいと、カメラをぱしゃぱしゃ、それを蹴散らして建仁寺道を背に祇園甲部で撮影を敢行!すっごい人だかりができてしまって、脱出するのに一苦労でした。そりゃまあ、美少女五人がそろって舞妓ちゃんしてるんだから、あたりまえですね~。
そのあと、お茶屋の松本屋さんに入り、座敷で撮影。ここは先ほどの春菜さんがお母さんをしている置屋で、お茶屋なんです。
三味線・笛・太鼓を前に麗奈・弥生・久美子が座り、その真ん中でモモコと御津葉が舞いを舞っているというシチュエーションで撮ります。
「はいはい、御津葉ちゃんおいどもっと下げて、桃子ちゃん、右手ここ。」
「うわ~、ただの撮影やのに、お母さん本気で指導してはる~。」
「松本屋で写真撮るのに、変なかっこうさせられますかいな。はい、左足はここ。」
まあ、そのおかげで、写真自体はすばらしいものになったんですけど。
松本屋さんでは、すぐに振り袖を脱いで、今度は浴衣に着替えます。
「あはは~、やってはるねぇ。」
「あっ!友音さんお姉さん!うわあ、久しぶりやねえ。」
「御津葉ちゃんも元気そうで、今日は恒例の写真撮り?」
「そうなん、お姉さんはもうじき卒業やろ?来年はどないしやはんの?」
「ああ、ウチは高校にはいかへん。ここで、仕込みさんするつもり。」
「へえ?舞子ちゃんにならはんの?」
「しゃあないやん、ウチが松本屋の暖簾を守らな、だれがしまんの?ウチは跡継ぎやよ、お便所掃除もウチがするんやよ。」
「お姉さん。」
「ええか、御津葉ちゃん、伝統やら歴史言うもんは、一朝一夕でできあがるもんやないんや。それを受け継いでいくのは、そこに生まれた者の義務でもあるけど、楽しみでもあるとウチは思っているんよ。」
「お姉さんは偉いなあ。ウチと一つしか違わへんのに。」
「ウチなあ、このまえお父さんと相談したんよ、それはもうずっと。気が付いたら朝になるくらい。お父さんはすごいなあ、ちゃんとつき合ってくれはるんやよ、朝まで。」
「ふうん、そら根気のええことやー。」
「それでな、ウチの思ってること、全部話したら、そらもうすっきりしてなあ。」
「…」
「ウチは、ウチが何をしたいんか、やっとわかったんよ。」
友音は夢見るように、天井を見上げて言い切りました。
(お父さんって、すごいんやなあ。あんなにふらふら、ちゃらんぽらんしてはった友音さんお姉さんを、ここまで集中力出せるようにするんやもん。)
「わあ~、友音さん、舞子ちゃんになるの?すてきねえ。」
モモコは白地にピンクの朝顔が裾にいっぱい咲いている、華やかな浴衣。御津葉は、生成りっぽい一重の着物で、裾には芙蓉が一輪咲いている絵柄。麗奈は深緑の格子縞に、菖蒲の絵柄が涼しげな一重。弥生は紺地の木綿に金魚と水草。久美子は黄八丈っぽい単衣に、赤い帯を合わせています。
「うひゃ~、やっぱすかすか~。」
「外に出たら寒そうね~。」
「これで、小道具が団扇なんですの?」
みんなぶつぶつ言いながら、やってきたタクシーに乗り込みました。
「いってらっしゃ~い。」
友音に見送られて、三条大橋西詰めに向かいます。
大文字山は斜め左方向に見えていますが、どうやらこれもはめ込み画像でごまかすみたい。
三条大橋西詰めに五人並んで、はいぱちり。ってここでも何十枚も写真を撮っているんですが。
すぐにタクシーに戻って、その足で姉小路和泉屋に入ります。また着替えです。今度は秋らしい落ち着いた着物で、袖も振り袖ではありません。
「さて、次は銀閣やよ~、若王子から歩くよって、よろしゅうねー。」
「よ、よろしゅうねって、御津葉ちゃん、けっこうあるわよ。」
「しゃあないやん、哲学の道は車が入れへんねんもん。」
「そりゃあわかるけど。」
「今日は、ここと上七軒で撮ったら終わりやから、もう少しがんばってな。」
御津葉が拝み倒すので、モモコはしぶしぶと言った感じで頷きました。
「せやからモモちゃん好き~。」
ぎゅうっと抱きしめられると、なんだか悪い気持ちはしません。着物に焚きしめた香の香りもほんのり上がってきます。
和泉屋の奥座敷は、中庭に面していて、緑のコケも鮮やかに見えます。
春の日差しは、少し傾いてきたようで、一行は慌てて若王子を目指したのでした。若王子と言うのは、永観堂の北、若王子神社のある界隈のことで、哲学の道の起点になります。
白川通りの東側に約四百メートルほど入ったところです。哲学の道は、鹿ヶ谷と呼ばれる地域を通って、銀閣寺に向かう疎水べりに出来た道で、哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことから、この名がついたと言われています。「思索の小径」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったとされています。まあ、ハイデルベルクに習ったのかもしれませんが、昭和四十七年に「哲学の道」が正式な名称となったそうです。
「ここも桜の名所やもんなあ。」
「御菓子を売っているお店が少ないのよ。」
「というか、道が狭くてお店が出せないんですわ。」
前で三人は好きなことを言っていますね。モモコは、このしんとした道が大好きです。途中にあるノートルダム女学院なんて、通ってみたいと本気で思ったりもしました。
谷の御所霊鑑寺とか、安楽寺、法然院など本当にきれいで、うっとりしてしまいます。
「モモちゃんは、庭オタクやんなぁ。」と、御津葉に言われたことがありますが、そこまでひどくはないつもり。難しくて、いろいろ覚えるのはたいへんだし。
でも、きれいなお庭を見ていると、ほんとうに退屈しません。特に好きなのが、長楽寺のお庭です。お寺の広い座敷から眺める、苔むしたお庭は落ち着いた雰囲気と、明暗のコントラストがすてきです。
「なんだか、風に春のにおいが混じっているわね。」
桃子の声に、御津葉が振り向きました。
「さすがは桃子ちゃん。この匂いに気が付いてはる?」
「ええ、若草の匂いと言うか、若葉の匂いと言うか、きもちのいい匂いがまじっているわ。」
「そうやねぇ、東京ではなかなかこういう匂いが伝わってこぉへんもんねぇ。」
「そうねー。」
カメラマンは、二人の横顔がいかにも自然で、美しいと感じられて、思わずシャッターを切っていました。
ゆっくり歩いても、三十分もせずに銀閣寺に到着します。まあ、正確には銀閣。慈照寺観音殿が正しいですね。少し暗い雰囲気も、静かに見えて好きな場所です。
モモコは、改めて銀閣の質素な佇まいが美しいと思いました。
またまた、タクシーに乗り込んで、次は上七軒。
祇園と並ぶ花街ですが、狭くて短い通りに、お茶屋さんがひしめき合っています。祇園とはまた違った雰囲気で、良い感じ。この上七軒の舞妓ちゃんは、鞍馬や貴船の河床にも来てくれます。タクシー代と、お食事代は別で、お花が一人…言わぬが花ですね。
そんな訳で、またまた振り袖に着替えて写真を撮り、北野天満宮に向かいます。
『東風吹かば、にほひをこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ』 (無実の罪で太宰府なんかに左遷されちまったよコンチクショー!オレの植えた梅の木よ、オレが居なくても東から春の風が吹いたら、オレのことを思い出して花を咲かせてくれよ。そしたら、都の奴らもオレのこと思い出して恐ろしさに震えるさ!)
菅原道真を祀ったこの天神様は、全国の受験生には心のよりどころ。毎月二十五日には市が立ちます。もちろん、普通に露天商なんかも出ていますが、二十五日は特別。
外の道路まで、いっぱい商いの場所になっていて、庭木屋さんまで並んでいます。
本日は、入口の石碑のそばに二~三軒、しょうが砂糖の屋台が出ている程度で、お休みの日の割りにはすいています。
そこに現れた、舞妓戦隊。まわりの観光客は、いっせいにカメラを向けてきました。
そんな人たちをかき分けて、本殿前で撮影を行って、やっと一息。
今回の帯は、普通の着物なのでだらりではなく、変則飾り結びですので、これもまた華やかです。
天神さんの西にある、小さなお茶屋さんで、ホンマにお茶をいただいて、帰ろうとしたとき、モモコが御津葉に声をかけました。
「ねえ、御津葉ちゃん、このまま帰るのももったいないし、まだ時間も早いから鞍馬寺まで行っちゃだめ?」
「へ?モモちゃん体力あるなあ。鞍馬寺どすか~?そら、ここからならそんなに時間はかからへんけど、センセどうどす?鞍馬寺。」
「鞍馬?予定にないけど、撮りたいの?」
「へえまあ。」
「じゃあ、行って見ようか。まだ時間は早いし、今からならいい絵が撮れるかもですよ。」
「承知しました、ほなみんな、鞍馬に行きますえ。車に乗りまひょ。」
御津葉に促されて、みな席を立ちました。こう言うところは、御津葉の判断の速さと、決断の早さが際立ちます。
モモコは、御津葉の背中を頼もしそうに見つめていました。
「モモちゃんって、ほんとうに御津葉ちゃんのことが好きなのね。」
「へ?ああそう、そうですねー。御津葉ちゃんを見ていると、飽きませんよ~。」
「そうですね。私もああいう性格になれたらいいのにと思います。」
「う~ん、久美子ちゃんは久美子ちゃんのままでも、十分魅力的だと思いますよ。」
「そうかしら?」
「なんだか、良いお母さんになれそう。」
「おかあさん~?なんかそれ、いやだわ~。」
「そうかしら?」
「恋愛も結婚もなしで、いきなりお母さんはかわいそうですわ。」
「弥生ちゃん。」
「そうそう、このぱいんぽいんを、もっと楽しまなくちゃ。」
麗奈が、久美子の胸をつっつきました。
「うふふ~、今日は着物が厚いから、つつかれても平気~。」
「ま、ハヤカワほどひどいことはしないわよ。」
「ぐ」
久美子は、その傷みを思い出したのか、顔をしかめています。
一行は、お茶屋の表に停められた車に乗り込んで、北野天満宮から北大路へ抜けて鞍馬に向かいます。
どうも、モモコは源義経に興味があったようで、しきりに自分の読んだ本の内容を話してくれました。まあ、舞台としては面白いですね。
鞍馬には、おおきな天狗のお面があって、真っ赤です。
「どないしやはります?うえ(本殿)までケーブルカーがありますけど。」
御津葉は、モモコに聞いて来ました。
「今日は、ここまででいいわ。仁王門もステキね~。」
「ほな、このへんで写真撮って帰りまひょ。センセ、お願いします。」
「了解、仁王門前も良い感じだね。」
実は、このカメラマンの先生、毎年、御津葉の写真を撮るのが楽しみなんですって。まあ、気持ちはわかりますけど。
今日はとっても良いお天気で、着物で山歩きはちょっと遠慮したい雰囲気です。
「お写真撮れた?ほな今日はもどりまひょ、先生もお疲れさんどした。」
「いや~、明日の大原も楽しみだねえ。」
「へえ、そうどすなあ。ウチら、少し北山通りに用がおますにゃわ、ここで失礼させてもうてもよろしおす?」
「わかった、僕はスタジオにもどるわ。ほな、ここで。」
「へえ、また明日もよろしゅうお頼のもうします。」
御津葉はゆっくりと頭を下げて、軽くヒザを曲げながらお辞儀しました。優雅なしぐさに、モモコはどきっとしました。
「御津葉ちゃんのすごいところは、あれが地でできてるとことですわ。」
弥生は真顔で口を開きました。
「あれ?」
モモコが聞き返すと、御津葉に顔を向けて言います。
「あの仕草、舞のひとコマみたいでしょう?」
「そうね、一緒に習っているのに、私にはなかなかできないわ。」
「ええ、彼女は六歳から習っているからでしょうね。」
「そうね~、着物で歩く姿も姿勢がいいもの。」
久美子は、モモコと弥生の会話に引きつけられました。
「六歳から舞を習っているんですか?」
「ええ、京舞。御津葉ちゃんのお父さんは、ほら、あそこの呉服屋さんの次男坊なんですよ、それで毎週京都からお師匠さまが来てくださるの。」
「ふえ~、毎週!」
久美子の驚きは、さらにヒートアップしそうです。
「ええ、私たちも毎週舞の練習につきあうのよ。」
「うわ~、たいへんですねえ。」
感心している久美子に、弥生がぴしりと言いました。
「なにを言っていらっしゃるの?こんどからは、あなたも参加するのよ。」
「え?私も?」
久美子は、なんのことやら理解できていないようすです。
「わかりましたわ、じゃあ、今夜説明してあげますわ。あなたが、なぜ私たちの学校に転校してきたのか。」
「???」
久美子は、頭の周りに?マークをちりばめていました。モモコは、どう言って説明したものか、考え込んでしまいましたが、こういうことは弥生にまかせるに限ると考えたのでした。
「まあ、そうよ。そう言うことは、弥生ちゃんにまかせておけば、大丈夫よ。」
そう言うと、坂上麗奈もうなずいています。
鞍馬寺の石段を下りながら、五人はそれぞれに考え事をしていました。
車は二十分あまりで北山通りまで下ってきました。一番目立つ建物は府立植物園。
その向かいに目指すお店があります。
もちろんお目当ては、マールブランシュ北山本店。
「うわ~、やっと来たわ~。今日こそは、ブルーベリーのクラフティを食べるんや~。」
「あ、じゃあモモコは、有機抹茶マカロンのプロフィットロール。紅茶はクイーンメリー。」
「そうですわね、私はマンゴーロールスペシャルで、ブレンドコーヒー。」
「うん、麗奈は丹波地卵のフルーツバトン、紅茶はアッサム。」
「え?え?ど、どうしよう…」
「そうどすなあ、初めての時はモンブランがお勧め。紅茶はダージリンかセイロンで。」
「じゃ、じゃあモンブランとセイロン。」
「へえ、わかりました。お姉さん、モンブランとセイロンをこの子に。」
久美子は、店のなかをきょろきょろと見回していました。わりとシンプルな作りで、壁も深みがかかったクリーム色で、床はオーク色の木製です。テーブルも壁の色に合わせてあり、椅子もシンプルなモケット張り。奥まった壁には暖炉がしつらえてあり、白い腰壁が優雅なフランス調を誇っています。
子供だけでこんなお店に入ったことがない久美子には、御津葉たちが大人に見えました。
「うにゃ~おいしいわあ。やっぱ、これだけは本店に来ぉへんと食べられへんもんねえ。」
「そうね、本店限定メニューですもの。」
久美子は、御津葉の手元をじっと見ていました。
「どうしたの?久美子ちゃん。」
モモコが心配して聞いてみると、久美子は実によく見ていました。
「御津葉ちゃん、コーヒーにお砂糖入れてないんじゃないの?」
「あら、そうなの?」
「へ?そらまあ、そうやよ。」
「クリームも?」
「へえ、まあ。」
「ぶ、ブラックじゃないですか!」
「へえ、ウチではみんなこうですもん。お砂糖やら入れると、舌が酸っぱくなるやん。」
「そんな~、苦くないの?」
「苦ごぉおすなあ。そやし、それがえんどす。ケーキとも合いますよって。」
御津葉はすまして笑います。久美子はお砂糖のみっつ入った紅茶を見下ろしていました。
「飲み物食べ物の好みは、人それぞれどす。エライもウスイもあらしまへんえ。」
「そうなんですか?」
「砂糖入れたら偉ろぅないって、だれが言いました?そうどすやろ、ブラックが偉いんでもありまへん。お互いに、自分がおいしいと思ったらそれでええねん。」
モモコが、御津葉をすごいと思うのは、こう言う意見をちゃんと持っているところです。
「私も、紅茶は甘いのが好きですわ。」
弥生は、やはりブラックコーヒーを持ち上げて言います。
「そうね、麗奈もアップルティーは、甘いのが好きよ。」
このグループは、自然とそう言う会話のできるグループなのだと、久美子は納得しました。
「あ、でも大福に紅茶は合わないわ~。」
「へ?」
モモコの意外な一言に、一同目がテン。
「あら?私変なこと言った?」
「うん…」
「だって、このまえお母さんが、お茶を煎れるのが面倒だと言って、ティーバッグの紅茶を煎れたのよ。そのあてが、大福で、そりゃもう複雑なお味になったわ。」
「そ、そらたいへんな味やなあ。」
「もう懲り懲り。でも、おかあさんは、これもイケルわね~だって。」
五人はいっせいに笑いましたので、お店の中に花が咲いたようです。
日本髪で着物の女の子が、五人もケーキを食べている様子は、そりゃあ華やかで、カメラマンの先生が居たら、きっとシャッター切りまくったことでしょうね。
「さてと、どないしょっかなあ、みんな少し歩かはります?ちょっと時間も遅かったし、夕ご飯までにおなかがすくように。」
「え~、ここから姉小路まで三キロくらいありますわよ。」
弥生が悲鳴を上げました。
「途中で辛くならはったら、車に乗ったらええやん。」
「そりゃあそうですけど…」
「まあまあ、歩いてみましょうよ、途中にいろいろあって面白そうよ。」
「モモちゃんはアクティブねー。」
「あら麗奈ちゃん、アクティブさでは、負けるわよ。」
「どうして?麗奈はふつうよ。」
金髪の日本髪を揺らして答える麗奈は、あまり普通っぽくありません。
「エアライフルのジュニアチャンピオンが、おっしゃいますこと。」
「あれはまあ、シュミですよ。」
「そうかしら?」
きゃいきゃい話ながら歩いていると、どんな道もほこほこ歩いてしまいそう。植物園から西に進むと北山大橋、加茂川に出ます。橋を渡って、南に向かって下がります。
地下鉄出町柳駅まではほんの二キロくらいです。(ほんの?)
加茂川に沿って景色を眺めながら進むのは、苦痛ではないのですが、草履の鼻緒が少しきつい。モモコは、足に当たる鼻緒が気になりました。
「久美子ちゃん、足痛くない?」
「ええ、大丈夫ですよ。」
「あたしダメ。鼻緒の当たるところが痛い。」
「み、御津葉ちゃん、ちょっといい?」
「へえ、なんどす?」
「桃子ちゃんが、足が痛いんだって。」
「あれまあ、鼻緒でズレはった?ちょっとそこに座ってみよし。」
御津葉はモモコをコンビニのベンチに座らせました。
御津葉がモモコの前にしゃがみこんで、足袋を脱がすと、右足の親指と人差し指の付け根が、赤く腫れていました。
「あらまあ、これは痛いです。」
それを見た久美子は、自分が痛いような気になりました。
「ちょっとコンビニで絆創膏買うてきますよって、ここで待っといやす。」
御津葉はあわててコンビニの中に消えました。
「御津葉ちゃんは、行動が早いですわね。」
弥生が横顔で追います。
「ま、それがあの子のいいところでしょ。モモコちゃん、あなたずいぶん我慢していましたね。」
麗奈は、ちょっときつい目をして、モモコを見ました。
「わかる?」
「わかりますよ。こんなに腫れて。放っておくと、痕になって残りますよ。」
「う~。」
「バンソコ買ってキタ~!」
御津葉は、店から飛び出してきました。
「わあんモモちゃん、ごめんなあ、かんにんなあ。痛かったやろ~。」
御津葉は、泣きそうになってモモコの足に絆創膏を貼り付けました。
「だいじょうぶよ、これで歩けるわ。」
「そやし、大事とってタクシーで帰ろ。明日は朝から三千院やけど、ええかいなあ?」
「平気よ、明日はもっと大きな絆創膏貼れば、歩けるわ。」
「お政に買ってきてもらう。」
「うん、じゃあ帰ろう。」
「うん、うん。」
そんな様子を横で見ていて、弥生はため息をつきました。
「これですもの、ねえ。」
「そうね、これが御津葉ちゃんだわ。」
麗奈もなにげなく口にしました。
「?」
久美子はふたりの会話に、疑問符がいっぱい。
「こういうところを見ると、いかに御津葉ちゃんが、友達を大事にしているかがわかりますわ。」
「ああ、そういうこと。」
久美子はにこりと笑って、手を合わせました。
「うん、こんなに大事にされて、桃子ちゃんは幸せね。」
「く、久美子ちゃん、おおげさだわ。」
「そんなことないわよ、お友達を大切にする御津葉ちゃんもステキだけど、大事にされている桃子ちゃんもとてもステキよ。」
「そ、そうかな?」
そこに、通りから小走りに御津葉がやってきました。
「タクシーつかまったよって、乗って。」
御津葉はかかえるようにモモコを立たせて、タクシーに押し込みます。
「じ、自分で歩けるわ。」
「ええやん、さあ、みんな乗って~。」
後ろに三人前に二人、しっかり詰め込んだタクシーは、姉小路を目指して進みます。
「そやし、あんまり我慢したらあかんよー。鼻緒の擦り傷から足がさけてしもたらどないするん?あぶないなあ。」
「そんなことあるの?」
久美子は不安そうに聞きました。
「あるわけないでしょう。御津葉ちゃんは大げさなんですよ。」
「麗奈ちゃんは現実的やんなあ、そやしキズが化膿したら、ものが当たる所やさかい、治りが遅いわなあ。」
「そうですね、むずかしい場所ですし、気をつけた方が良いと思いますわ。」
「ごめんねみんな、気をつけるね。」
ももこは小さくなって、恥ずかしそうに言いました。
「おおきい防水バンソコ買ってもらうわ。そしたらお風呂でも平気やろ?」
「そうね、じゃあお願いね。」
御津葉は満足そうに笑いました。
タクシーは一行を乗せて、また和泉屋の前に戻ってきました。
狭い路地の一角に不似合いな広い間口の和泉屋は、いかにも老舗然としてそこに建っているものですから、モモコはつい見上げてしまいます。
昔の京都は、間口で税金が決まっていたのですが、それにもかかわらず八間半という間口は、商売人の心意気を表していると、おじいさんに教わりました。
「ただいま~。」
「へえ、おかえりやす。みんなお風呂入らはったらー?」
「さくらさんお姉さん、お政さんに防水バンソコ買いに行ってもらって、モモちゃんが草履にずれてしもて。」
「あらまあ、ほなすぐに。」
「麗奈ちゃん、弥生ちゃん、着物脱いで久美子ちゃんをお風呂に入れてあげてくれる?」
「わかりましたわ、それじゃあお先に。」
弥生は、二人に先んじて、階段を上がっていきました。
古めかしい造りながら、階段の幅は四尺と言いますから一二〇センチ以上あります。町屋造りのくせにこの贅沢さはどうでしょう。
階段板も、ケヤキの一枚板をふんだんに使っているので、沈みもなくぎしりとも音はしません。
ほとんど足音もなく弥生は二階に上がりました。
二階には、壁に沿って四尺廊下が延びていて、腰より低い窓から明かりが入るようになっています。
奥の部屋がいつものあてがいの部屋なので、弥生に続いて麗奈も部屋に入ります。
少しもたもたしていた久美子の手を引いて、麗奈は部屋の真ん中付近に立たせました。
「じっとしててね、ひもをはずす順番があるから。」
そう言いながら、久美子の帯をするすると解いていきます。日本舞踊やお茶お華などを習っている麗奈と弥生にとっては、着物の脱着は出来て当たり前のことですが、久美子にとってはお正月ぐらいしか縁のないものです。
だまって、麗奈のするにまかせることにしました。
「でも、さすがに武道をしているだけあって、久美子さんは姿勢がいいわね。」
「そうですか?」
「ええ、着物は背筋が通っていないと、なかなか着こなせないものなのよ。その点、久美子さんは、まっすぐ立てるから、線が歪まなくていいわ。」
「そういうものですか?」
「ま、それもおいおいわかるわ。あなたは、甚目寺のおばさまに選ばれた人ですもの。これから、私たちに混じっていろいろと勉強することになるのよ。」
「甚目寺のおばさま?」
「ええ、まずは楽な服に着替えましょう、そこのスエットでいいわ。」
「はい。」
久美子が着替えている間に、麗奈もするすると着物を脱ぎ、簡単なワンピースに着替えました。弥生はすでにブラウスとスカートを身につけて、薄手のカーディガンに手を通しています。
「弥生さん、そこのお茶をいれてくださる?」
「ええ、よろしくてよ。」
部屋にはいつも、湯沸かしポットとお茶のセットが常備されています。
弥生がお茶をいれるのを待って、麗奈は口を開きました。
「あなたのお父様が勤めているのは、甚目寺運輸の東京本社になったでしょう。」
「ええ。」
「甚目寺のおばさまは、その会社を持っているオーナーなのよ。そして、それはカタオカグループの一翼を担う、ものすごい企業体なの。もちろん、御津葉ちゃんはその片岡の娘であることは、理解できるわね。」
「は、はい…」
「私と弥生ちゃんは、カタオカグループの中で、かなり中心に近い企業のトップの娘です。まあ、言うなれば子会社の娘と言ってもいいわ。弥生ちゃんは薙刀の切り紙の腕前ですし、私はエアライフルのジュニアチャンピオンになりました。これが、どういうことかわかる?」
「あの、もしかして…」
「おおむね間違いではないわ。私も弥生ちゃんも、御津葉ちゃんのお館組です。彼女の安全を守ることが使命として、私たちは家から派遣されてきたのよ。あなたは、その柔道の腕を買われて、甚目寺のおばさまが送り込んだ、新しいお舘組の一員です。」
「じゃ、じゃあモモコちゃんも?」
「う~ん、彼女はよくわからないわ、けして腕力や武道が優れているわけではないもの。イマイチ、何ができるのか不明なの。グループの一翼とは思うけど、ねえ…」
話を振られた弥生も、困惑顔です。
「まあ、彼女は純粋に御津葉ちゃんのお友達なのですわ、つきあいがいいので舞やお茶お華などもしていますけど。」
「たぶん、彼女は小野寺のおばさまが送り込んだお舘組よ。そのうち能力もわかるわ。」
「オノデラのおばさまは、カタオカグループの中でも、情報関係では群を抜いていらっしゃるのですわ。」
「ほえ~。」
「御津葉ちゃんのお舘組は、これで四人になったので、少し安心ね。」
「ちょ、ちょっと待ってください、お舘組というのはもう決まったことなんですか?」
「あなたのお父様が、本社付きになったことで、決定事項と言うことでしょう?聞いていないの?」
「ぜんぜん。」
「あら、甚目寺のおばさまらしくないわね、最初にことわってあると思ったわ。」
話を振りながらも、麗奈は久美子の髪を崩して、軽く櫛を当てました。
「あ、ありがとう。」
「どういたしまして、明日はまた髪結いが入りますからね。今日はしっかり洗って、明日に備えましょう。」
隣の部屋では、ふすまの開く音がしました。
「どうどす?桃子ちゃん、痛ぉおへんか?」
「だいじょうぶよ、バンソコ貼ったから平気。」
しゅるしゅると、衣擦れの音が聞こえる中、二人の声がはねています。
「御津葉ちゃん、桃子ちゃんの足はよろしくて?」
「へえ、もうよろしおす。」
間に挟んだふすまを開けて、御津葉が顔を出しました。
「あらまあ、まだアタマ崩してないの?」
麗奈は、御津葉をつかまえて、割れ忍を崩しました。
「あいかわらず、麗奈ちゃんは手先が器用どすなあ。」
「まあ、それが取り柄ですもの。」
手先の器用さが、エアライフルの扱いに表れているのでしょうか?
弥生も、桃子の振袖を器用に脱がしています。
「ありがとう、弥生ちゃん。」
「いいえ、足はどうかしら?」
「ええ、平気よ。私は少し休んでいるから、弥生ちゃんたちは先にお風呂に行ってね。」
「そうですわね、いくら広いとはいえ五人で入るのは手狭ですもの。」
「じゃあ、行きましょう、久美子ちゃん。」
麗奈に手を引かれて、久美子も部屋を出ました。麗奈のド金髪が、目の前で揺れて、久美子はその鬢付け油の香りに触れました。
「不思議なにおいね。」
「え?」
「髪の毛。」
「ああ、鬢付け油ですか?そうですね、なかなかこういうものに触れる機会はありませんものね。変な国ですね、日本って。」
「変な国?」
「西洋文化に独占されて、こういう日本独自の文化を忘れてしまうのです。」
「まあ、そうでしょうか?」
「だって、東京で鬢付け油なんて、おすもうさんくらいでしか、お目にかかれませんよ。」
「ああ、なるほど。」
そうして、話しているうちに、三人はお風呂場に着きました。なんというか、総ヒノキのお風呂は、先日入れ替えたとかで、まあたらしいヒノキの香りがします。
花粉症だったら、死ぬほどつらいですね。
洗い場も広く、本当なら五人で入っても余裕に見えます。
「うわ~、いい香りがします~。」
単純に、久美子は喜んで見せました。
その顔を見て、麗奈と弥生は、いくぶんほっとしたような顔になりました。
「改めてみると、とんでもないおムネですわ。」
弥生は、久美子のブラを見て、驚いた顔になりました。どちらかというと、おかあさんっぽいベージュの、大きなブラジャー。なかなか巨乳向きの製品は少ないようですね。
「アンダー六〇で、Fカップくらいありますね。」
「いやもう、このカップにご飯つめたら、特盛ですわ。」
「あなた、お嬢様のくせに吉牛に行ったことがあるの?」
「ええ、お話のタネに。あなたこそヨシギューって…」
「まあ、情報として、知っておいて損はないかと…」
牛丼に比べられるブラジャーって、どんなんよ!と、久美子はツッコミたい気持ちをこらえていました。
二人は、さっさと着ているものを脱いで、中に入ります。久美子は置いてけぼりにならないよう、急いで服を脱ぎました。
「まあ、女の子どうしなんですから、タオルなんかで隠さなくてもよろしくてよ。」
「そ、そうでしょうか?」
「ええまあ。それより、先にアタマを洗ってしまいましょう。湯船に油が入るのは、いかにも不作法ですから。」
「そ、そうですね。」
全体的に丸い久美子は、二人に並ぶと妙に色っぽい。恥ずかしがるので、よけいに妙な動きになるんですね。
「ま、とにかくあなたには、直接接近してくる相手に、強烈なダメージを与えていただきたいですね。」
麗奈は、頭で泡立てながら久美子に言いました。
「はあ。」
「接近戦では、どうしても弥生ちゃん頼りになりますもの。」
「そうですわね、当の本人もかなりの使い手ですけど、事前に阻止できるならそうしたいですわ。」
「剣道三倍段って言うじゃないですか、薙刀でしたら、いいかげんな相手には負けないでしょ?」
「それはそうですわ、でもリーチが長いということは、フトコロに入られると弱いとも言えますわ。」
「そうなんですか?」
「いくら早く回しても、薙刀はワンテンポ、ほんの一瞬遅れることがありますの。」
「なるほど、それでしたら柔道の方が、接近戦には強いですね。」
「ええ、ですから、久美子ちゃんは大事な戦力ですわ。」
「う~ん、でも、柔道をそんなことに使うとは…」
「もともと、武器を持った人から身を守るために発達したのが柔術でしょう?人のために役に立つなら、それは良いことですよ。」
「そうですねえ。」
湯船に移っても、麗奈の説明は続きます。
「一年生の頃には、だいたい一年で二〇回の撃退をしました。誘拐未遂が七回あって、単純に襲われたのが十三回。」
「まあ…そんなに?」
「ええ、そのうち、私と弥生ちゃんで事前に防いだのが十二回。」
「すごいですね。」
「ただし、本丸まで到達したのが二回あったのは、痛恨でしたわ。」
弥生も、こぶしを握り締めて呟くように言いました。
「本丸…」
「もちろん、思い切り脛の骨を折ってさしあげましたけど。」
い、痛い…
「ですから、ぜひとも久美子ちゃんには、すぐそばで守ってほしいのよ。」
麗奈は、まっすぐに久美子を見ています。
「わ、わかりました。」
「本当なら、お館組が四十八人いてもおかしくない身分なのよ、御津葉ちゃんは。」
「身分…ですか?」
「ええまあ、血統とか地位とか以前に、あの子の存在自体が重要なの。私たちが成人したとき、日本を支えていく一員に、必ずなる人よ。だから、傷つけたりはできないわ。」
自分が思っていたよりも、はるかに大きなスケールに、久美子は湯船にいながら背中に冷や汗を感じました。
「じゃあ、麗奈ちゃんや弥生ちゃんも、そういう人になるの?」
「そうですね、少なくとも私は政略結婚の道具になるんでしょうね。もしかしたら、カタオカの若様のお相手は、私たちのどちらかかもしれません。」
麗奈は、無感動に言ってのけました。
「姉さん女房なんて、当たり前の世界ですものね。」
弥生も、当然のように言い切ります。
「でもでも、もし好きな人とかできたらどうするの?」
「まあ、わかりませんけど、たぶん少しはお付き合いできるかもしれませんが、そこまでです。私たちにそんな自由はありませんよ。」
麗奈は、半分自嘲的に笑いました。久美子には、あまりいい笑顔には、見えませんでしたが。
「お金持ちにはお金持ちの苦労もある…と、言うことですわ。」
久美子には到底ついていけない会話です。
「信頼や、利害がからんでいて、単なるボディガードでは、御津葉ちゃんは守れないと言うことですね。」
久美子は、麗奈に念を押すように聞きました。
「そうです。特に、彼女に嫌われるようでは困ります。私も、できる限りフォローしますが。」
いくら柔道が強くても、性格的に向かないのではないかと、久美子は考え込んでしまいました。
「まあ、あなたは少しお友達として付き合ってください。後のことは、私たちが考えますから。また、経済的な面も、私たちがフォローしますから、ご心配なく。」
まったく、これで一四歳なんですから、麗奈はどこまで大人なんでしょうね。
久美子は、暗い気持ちでお風呂を後にしました。ひょっとして、自分はのぞいてはいけないものを覗いてしまったのだろうか?鶴の恩返しのヨヒョウのように。
入れ違いに階段を下りてくる御津葉と桃子に出会いました。
「どうでした?お湯は。」
桃子は、くったくのない顔で、久美子に聞きました。
「ええ、いいお湯加減ですよ。二人は、私より髪が長いから、乾かすのがたいへんみたい。」
「ああ、そうどすなあ。そやし、久美子ちゃんはマジで、舞妓ちゃんにならはったら売れると思いますえ~。」
「そ、そうですか?」
「そうそう、深川でもよろしおすけど、名古屋、大阪にも少ないけど、舞妓ちゃんはいてるはずどす。」
「へ~、舞妓って京都だけじゃないんですね。」
「へえ、そうどす。」
「言葉を覚えるのがたいへんそうなんですもの。」
「あ、桃子ちゃんは、日本語だけで暮らすつもりやねんな~。」
「あら、御津葉ちゃんはちがうの?」
「少なくとも、英語と仏語と独語は必要どす。」
「あらまあ、それも私につきあえと?」
「もちろん、嫌とは言わへんやろ?」
「そりゃあまあ、おもしろそうですもの。」
「あはは、そやからモモちゃんは好きや~。」
二人は、漫才のように掛け合いながら、階段を下りていきました。
久美子が部屋に戻ると、若奥さんのさくらさんがいました。
「ああ、今夜は冷えるかもしれませんよって、ストーブ用意しましたんえ。寒い思ったら、使うてくださいね。」
「あ、ありがとうございます。」
久美子は赤くなりながらも、うなずいてお礼を言ったのでした。
さくらさんは、御津葉の父親の兄、大悟のお嫁さんです。結婚後なかなか子宝に恵まれませんでしたが、つい昨年さずかってかわいい男の子が生まれました。
御津葉の小さないとこです。
御津葉の母親は、一人娘なので、御津葉にとっては貴重ないとこと言えるでしょう。
「二人とも御髪(おぐし)が多すぎなんちゃいます?」
「へ?」
いきなり話を振られて、麗奈は間の抜けた声を出しました。
「いや、なかなか髪が乾かへん言わはるから。」
「丁寧にしてるだけです。京都の春は冷えるじゃないですか。」
「そらそうどすけど、久美子ちゃんはもうはい部屋に行ってますえ。」
「あの子は私たちほど長くないですよ。」
「そうやろか?三つ編みがおムネに乗ってはったけど。」
「ぐ…」
麗奈は、黒酢を五杯ほど飲んだような顔をしました。
「まあええわー、ほなウチらもはいろ。」
御津葉は、襦袢姿で降りてきて、さっさと帯を解くので、沈香の香りが脱衣所に漂いました。
「あらまあ、御津葉ちゃんは湯の字腰巻だけ?パンツさんは?」
「そんなん、着物の時にはいてますかいな。後ろから線が出ますやん。」
「そうなの?」
桃子は麗奈を振り返って聞きました。
「そうですね、出ますよ。」
「うわ~、私今日一日パンツさんはいてましたー。」
なるほど、桃子はフクスケの木綿ぱんつをはいています。へそまであるやつ。
弥生はそれを見て、かえってびっくりしました。
「も、桃子ちゃん、いつもそれなんですの?」
「これ?」
桃子は、フクスケを引っ張って見せました。
「ええ。」
「そうよ、ずっとこれ。」
「あう~。」
弥生の場合、おなか壊さないかと心配になるような、おとなパンツなんですけどね。
「修学旅行までに、改善が必要と思いません?」
「さすがにあれはないわ~。」
弥生と麗奈は、うなずきあったのでした。
さて、こちらはお風呂の中。
「御津葉ちゃん、今日はかなりツイートされてたみたいよ。」
「そう?」
「MTHが新しい子を連れて歩いているよって、書いてあるわ。」
「いいかげん、そのMTHっちゅうのもやめてほしいわ。」
「そうねえ、ネットオタクたちはヒマですものねえ。」
「まあ、しょうがないなあ。」
半ばあきらめムード。御津葉は、頭をあわだてながら、ため息をつきました。
「なんなら、所在もわかっているし、なんとかしましょうか?」
「まあ、むずかしいなったらたのむし。いっぺん、オフ会でもしたげたらどうやろ?」
「ああ、ダイレクトに会って、どこのだれか把握しておくのはいいことかも知れないわ。」
「そこまで厳密にせんでもええんやけど…」
「いいえ、あなたを守るためには、こういうおバカな人たちを野放しにはできないのよ。」
「そうどすか?」
「そうどす。私が把握しているだけでも、ネットファンシャーは四〇グループほどあるのよ。メンバーは一〇〇〇人以上。どうするの?そんなにいるのに。」
「いっそ、ファンクラブ作って、会則で縛ったらええんちゃうの?」
「まあね、それに便乗して過激派が浮かんでこなければね。」
「過激派どすか?」
「去年みたいに実力行使に出る人が、二〇グループも出たら、これはもう過激派よ。」
「ふむ。」
「だからね…」
桃子の声にかぶせるように、御津葉は言いました。
「ほなら、上位一〇組とドべから一〇組のリーダーに招待状出して。」
「招待状?」
「へえ、握手会しまひょ言うてな、場所はニュー池田ホテルの鳳凰の間。ドレスコードはタキシード、長髪、ひげ禁止。お料理は…そうやな、高台寺コースで。」
「…わかりました。麗奈ちゃん、弥生ちゃんと相談して出します。」
「そないして、モモちゃんがいてへんと、こういうことは回らへんわ。」
桃子は鼻からため息を吐きました。
「しょうがないですねー。そのかわし、黒服は二〇人入れますよ。」
「黒服~?」
「しょうがないでしょう?小野寺のおばさまに、くれぐれも言われているんですから。」
「はいはい、あんま目立ってはアカンよ。」
「わかってます。ホテルのボーイと入れ替えるわ。」
「うん、あくまで握手会するだけやし、乱暴なことにはならんと思うわ。」
「それならいいんですけど。」
桃子も湯船から上がりました。
「あ、やっぱモモちゃん生えてるやん。」
「うきゃあ!」
桃子はあわてて湯船にどぼんとつかりました。
全員がパジャマ代わりのスエットに着替えたところで、お政が夕食を告げに来ました。
すでに、頭は真っ白ですが、矍鑠(かくしゃく)として言葉によどみもありません。
「隠居でももらって、悠々暮らせばええのになあ。」と、御津葉の父親は言うのですが、お政は、生涯現役を目指しているので、一向に現役引退を表明しません。
「嬢ちゃん、ごはんの支度がでけましたえー。」
「はいはい、お政はん、今日はなに?」
「木の芽のええのがありましたよって、キスの天ぷらに木の芽のみそ言うところどすなあ。」
「うわ~、お政はんの天ぷらは、プロよりおいしいねんでー、久美子ちゃんストライクやったねえ。初めてでこれに当たるとは。」
「そうなんですか?」
「そらもう、なにより味わってみてからのお楽しみ。」
とんとんと軽い音を立てて階段を下りる御津葉に続いて、みな降りはじめました。
和泉屋の奥座敷には、子どもたちに合わせて座卓がしつらえてあり、しかもそれは二寸のケヤキ板を座卓にしたものでした。
もちろん、とんでもなく重くて、子どもが持ったくらいではびくともしません。和泉屋のお手伝いさん三人でやっと運べるというシロモノです。
暗い中庭が、明かりに照らされてぼんやり浮かぶ雪見障子。
春先のひんやりした空気に気遣って、部屋の隅に置かれた石油ストーブ。
掛け軸は山水に鶴。
八畳間の真ん中に、ごちそうの乗った座卓と、ぜいたくとはなにかを問いかけるような空間です。
子供たちには子供たちだけでご飯を食べさせようという、気遣いですが、これはこれで大人になったようでうれしい一行でした。
「うわ~、ほんとう!おいしいです!。」
「そやろー?さあさあ、遠慮せんと食べてやー。」
「って、それはおじい様のセリフでしょう?」
麗奈はするどいツッコミ、御津葉は一五〇のダメージ。
「はう、それを言われると弱いわあ。まあ、それは置いといて、久美子ちゃんどうどす?ウチらのグループは。こんな調子どすけど。」
「おいとくんかい!」
麗奈は、げんなりして、お茶碗を持ち上げました。もう、ご飯を食べてしまうつもりです。
「はい、びっくりしました。転校してきて最初のお休みに、急に京都までくるなんて、ふつう考えませんよ。」
「まあ、そうどすなあ、今回は、桜が散る前にっちゅうおじいちゃんのご注文どっさかい、かんにんどすえ。」
「それに、お衣裳もりっぱで、お店もりっぱで、とまどうことばかりです。」
「あ~、そうかー。」
「御津葉ちゃんは、考えなしに突っ走りすぎなんですわ。私たちは慣れていますけど、初めての子にはたいへんですわ。」
「弥生ちゃんの言うとおりね。久美子ちゃん、疲れたでしょう?」
桃子は、久美子の顔を見ながら言いました。
「体力的には問題ないです。一日に十キロくらいは走りますから。」
「じゅ、じゅっきろ?」
「そ、それはすごいですわ。」
「つか、中学生に十キロって、きびしすぎない?」
「でも、予選の時なんか、一日五試合とかふつうですから、体力ないとやってられませんよ。」
「そういうもんどすか~、それでいうとハヤカワは、よう走りますなあ。」
「あれは別物ですわ。」
「そうそう。無駄な逃げ足です。」
「あはは、むだなにげあしだって~。」
「お味噌汁、変わってますね。」
「そう?あたしたち慣れちゃったから、わからないわ。」
桃子は普通に言うので、かえって久美子が驚きました。
「そんな慣れるほど、京都に来ているの?」
「ううん、御津葉ちゃんちはおうちがみんなこんな感じなのよ。お味も、だいたい京都風。だから、ご飯いただくことがおおいから、慣れちゃったの。」
「ふうん…」
「さっき説明しましたわ、日舞や琴や三味線などのお稽古は、みんなでしますのよ。」
「ああ、そうでしたね。」
「ですから、習い事の時は先生をかこんで、お食事というのが多いんですよ。」
「た、たいへんですねー。」
「他人事じゃないんですけどね。」
「お館組である以上、あなたも一緒にお稽古していただきますわ。」
「へ?」
「まあ、柔道の練習もあるし、なかなか難しいかもしれませんけど、それはおいおいやっていきましょうよ。私も、弥生ちゃんも訓練は欠かしていませんよ。」
久美子は深刻な顔をして、座卓に目を落としました。
「まあまあ、久美子ちゃんはお館組に入ると決まったわけでもなし、最初から飛ばしてもアカンやろ。」
「最初から全開で飛ばしているあなたに言われても、説得力がありませんよ。」
「あ、あははは」
「そうですね、しばらくは様子見にしましょう。さ、明日も体力使いますから、食べますよ。」
「あ、弥生ちゃんと麗奈ちゃんには、あとで相談があるの。」
「あら、桃子ちゃんから相談とはめずらしいですわね。」
「あら、私だって相談くらいあるわよ。」
「ふふふ、まあそう言うことなら、あとでお付き合いしますわ。」
「おかわりー!」
御津葉は大声で言うものだから、全員がコケました。
「はいはい、こっちにちょうだい。」
桃子は、おひつを引き寄せて、御津葉のお茶碗にごはんをよそったのでした。
おじいさんに呼ばれて、御津葉が仏間に引くと、四人は二階に上がりました。
部屋にあったポットでお茶をいれたのですが、お湯のみ茶碗を置いて桃子は二人に顔を向けました。
「さっきお風呂で相談したんですけど、これこれこういうことで、招待状を出したいんですよ。」
「招待状ですか…」
「それは危険ですわ。」
「御津葉ちゃんは、そうは思っていないみたい。意地悪な見方をすれば、呼ばれなかった人たちはどう思うかしら?」
「そりゃあ、嫉妬でたいへんですわ…あ!」
「意地悪でしょう?内部崩壊をさせるつもりじゃないですか?」
「それで、上位十組と後ろから十組…」
「御津葉ちゃんにしたら、ほんのお遊びかもしれませんけどね。」
桃子は、二人に笑って見せました。
「そうは行きませんよ。警備にも問題がありますから。」
麗奈は渋い顔になりました。
「ウエイターを黒服に交換することには承知してもらいました。あと、出入り口にも女性の黒服は配置します。別に、お館組チームBの十人も来ていただきます。」
桃子は、すまして言いました。
「ち、チームBって…」
「もちろん、久美子ちゃんのように補充する時期が来たら、私たちの仲間になる人たちですよ。私が小野寺の叔母様に言われて、選抜しました。」
「も、桃子ちゃんが?」
麗奈の驚愕は、桃子のスピードにありました。これが、桃子の選ばれたスキルだったんですね。二人が直接警護すると同時に、桃子が情報でフォローしていたのです。
「ええ、久美子ちゃんはイレギュラーです。甚目寺のおばさまは、知らずにしたことですから。」
「そう…それが桃子ちゃんの能力なのね。」
「ええまあ、情報処理と連絡調整は、私の仕事です。」
「一年も黙っているなんてずるいですわ。」
「まあ、これもお役目と思ってください。」
「さすがに、伊達に毛が生えているわけじゃないのね…」
「そ、それとこれとは関係ないでしょ!」
「で?あなたの得意技は?」
麗奈は、冷静に聞きました。
「真空飛び膝蹴りですね~。」
「ムエタイですか!」
「私は、小野寺の叔母様の徹底した管理で育てられた、お館組のマネージャーです。」
「本当は、ピンクじゃなくて総司令だったのね。」
「ピンクゆうな!グリーン!」
「あはは、じゃあ、連絡調整はいいとして、向こうのドレスコードに合わせて、こちらはどうするの?」
麗奈は、金髪をゆすりながら笑いました。
「そうですね、御津葉ちゃんの出し物をなににするかで、ちがいますね。」
桃子は思案顔です。
「そうね、日舞なら振袖、ダンスならワンピース。」
「そんなところですね。今回、久美子ちゃんには出し物はなしで、御津葉ちゃんの直臣でいてもらいましょうか。」
桃子が言うので、麗奈が首を回して、久美子を見ました。
「それがいいわ。動きやすいように超ミニのフレアースカートで…」
「それじゃあ、技を使ったら全部丸見えじゃないですか!」
久美子は悲鳴を上げて、抗議します。
「あら、わかっちゃった?」
桃子は、おかしそうに笑顔を久美子に向けました。
「桃子ちゃん、見かけによらず意地悪ですね。」
「じゃあ、アンスコは承認ってことで。」
桃子は、こんどは仕方なさそうなフリで答えます。
「超ミニは、決定事項なんですか!」
久美子の抗議はスルーされています。
「そうですねえ、直衛にはチームBのリーダーの梅田彩佳さんにも、入っていただきましょう。三年生ですけど、大丈夫ですよ。」
すらすらと言う桃子に、麗奈も感心していました。
「へ~、あの子もお館組だったの。」
「そうです、二年生は加藤玲奈、小嶋陽菜、島崎遥香、竹内美宥、藤江れいな、峯岸みなみ、山内鈴蘭、渡辺美優ですね。三年生は石田安奈、石田晴香、一年生に市川美織、岩佐美咲と言ったところです。」
「うわ~、みんな知ってますわ。でも、武道の噂は聞こえませんけど…」
「知れ渡ったら困るでしょう?外部で活動している人たちを選びました。スカウトは、私がしましたから。」
「さすが、ピンク指令。」
「…まったく。お二人には、部屋のしつらえをお願いしたいんですけど。舞台装置とか、テーブルの配置とか。」
「具体的には?」
「まあ、ディナーショーだと思ってください。」
「なるほど、それはそうですわね。」
「ちょ、超ミニ…」
まだこだわっている久美子でした。
「ああもう、いやならキュロットになさいな。華やかであれば文句は言いません。東京に戻ったら、お衣裳は一緒にえらびましょうね。」
桃子は、久美子に向かって優しく言いました。
久美子は、やっと我に返って、顔をあげました。
「ほんとう?」
「ええ、あなたの力が必要なの。」
「はい!」
もう、久美子は涙目になっています。麗奈は、あきれた視線を桃子に向けました。最初からこれを狙っていたとしか思えません。
桃子は、いたずらっぽく笑って見せました。
「しかし、コジハルとガチャピンが…」
「どうかしたの?弥生ちゃん。」
「いいえ、あの子たちは、校外の社交ダンスクラブのお友達ですの。」
「そうですね、社交ダンスは言うに及ばず、小嶋さんは合気道を使いますし、峯岸さんは少林寺拳法を習っていますよ。」
「だからお館組候補なんですのね。」
「候補といいますか、お館組ですよ。チームBは、お二人に故障が起こった場合、すぐに補充するための存在です。」
冷たいですね、桃子ちゃん。
「あくまでお友達と、護衛は別物と考えていますよ。」
「そ、そうですの。」
「じゃあ、詳しいことは東京に戻ってからにしましょうね。あ、都合の悪い日は、先に教えてね。」
「わかったわ。」
「わかりましたわ。」
「はい。」
久美子は、観念したように、頷きました。
「さてと…」
桃子は、自分のデイパックからなにやら持ち出しました。
「ノート?」
「ええ、数学の宿題、今のうちにやっちゃおうと思って。」
「うわ!忘れてましたわ。桃子ちゃん、教科書どこですの?」
「はい、どうぞ。付箋貼ってますから。」
「助かりますわ、どれどれ…あう!眠くなりそう。」
さっそくダメージを受ける弥生。
「え~、ここですかあ?できるかな…」
暗記系が得意な久美子は、若干引け気味に言いました。
「恐るべし、ピンク指令。」
「ピンクゆうな!」
やがて上がってきた御津葉をまきこんで、遅くまで宿題との格闘になりました。
「できた~。」
御津葉も、どちらかと言うと文系頭ですので、数学は苦手。でもまあ、みんなで力を合わせればなんとかなるものです。
「私、習ってないところですけど、桃子ちゃんの教え方がじょうずなんですね。理解できちゃいました。」
「そう?よかったわ。」
「あ~、カラオケ行きそびれたわ~。」
「御津葉ちゃん、それはまた今度にしましょう。」
「はいはい、また今度目~。」
「もう寝ますわよ、その日のうちに寝ないと、お肌が荒れますわよ。」
「中学生にそれはないと思うわ~。」
「油断大敵。」
そう言って、弥生はさっさとふとんに入ってしまいました。
「ありゃ~、ほな、ウチも寝よ~。」
翌日も快晴。
柄を替えて、振袖を着込んだ一行は、大原三千院を目指しました。
歌に歌われるほど有名なこのお寺は、延暦年間(七八二年~八〇六年)に、最澄大師が比叡山東堂に一院を開いたのが始まりと言われています。最澄のあと、慈覚大師円仁が引き継ぎ、平安後期ころから皇子や皇族が住む門跡寺院となって、比叡山から近江坂本(明智光秀の所領で有名ですね。)京都市内と移りました。お寺の名前も、円融房、梨下房、円徳院、梨下門跡、梶井門跡と変わり、明治になって現在の場所に移って三千院となりました。都合一二〇〇年の歴史を刻んでいます。
「うわ~、すごいわ!まだここでは桜の花が満開よ。」
桃子は嬉しそうに桜を見上げました。
「ホンマやなあ。おじいさんが早う呼んだ訳がわかったわー。」
「ほんとうにきれいですね。」
「久美子ちゃん、ここ立っとうみやす。」
御津葉に手を引かれて、桜の下に立つ久美子。
「ああ、やっぱりよう似合いますなあ。どうどす?センセ。」
「うん、これはいいね。そのまま、動かないでね。」
カメラマンは、機械を据えるのももどかしそうに、さっそくシャッターを切っています。
「や、わたしひとりなんですか?」
「そやし、この景色に生える色目が、久美子ちゃんの振袖だけやもん。」
緑に縁どられた桜色の中に、黄色い振袖の久美子が立つと、何とも言われない風情が現れます。
「そうだね、ここは久美子ちゃん一人で、あとで内部に入ってから、みんなで撮ろう。」
やけに構図にこだわって、久美子を撮りまくるカメラマンに、弥生は若干不機嫌になってきました。
「そんなに久美子ちゃんばかり撮って、どうなさるおつもり?」
「え?」
「そろそろ次にまいりましょう。」
自分の芸術性ばかりに気が行って、モデルを忘れてしまったのは残念でしたね。
三千院は、どこを切り取っても絵になるのがうれしいのですが、実のところどれを使ったらいいのか悩んでしまいます。
「ああ、ここには弥生ちゃんの青が映えますね~。よし、レンズとって、これじゃだめだ。」
アシスタントも心得たもので、すぐに交換のレンズが用意されます。
「いい呼吸ね。」
「本当に。」
障子の桟の濃い茶色と、障子紙の白に、弥生の青が映えて妖精のようです。
「う~、本当はパラソル持たせたいけど、ここではなあ…」
「スタジオで撮って、合わせますか?」
「いや、いい。これは、着物のカレンダーだからね。僕の写真集じゃないし。」
「いずれ、世に出たら必要になると思いますけど。」
この時の久美子の写真は、その後とある有名な写真コンクールで金賞を取りますが、それは別のお話です。
「さすがに弥生ちゃんやなあ、背中に薄い羽根が見えるみたいや。」
「ほんとうに、あの雰囲気はちょっと出せませんね~。」
「次は、どこかしら?」
「えっと、鹿苑寺ですね。」
「ろくおん?」
久美子はきっと録音と聞こえたんでしょうね。
「金閣寺ですよ。正式名称を鹿苑寺といって、相国寺の塔頭寺院の一つです。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれていますけど。元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘だったんです。室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受けて、山荘北山殿を造ったのが始まりとされていますよ。」
「北山文化の中心ですね。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。」
桃子の説明を引き継いで、麗奈が説明しました。
「お二人ともすご~い、よくお勉強してますねえ。」
「まあ、外国からのお客様もいらっしゃいますから。」麗奈は、祖父の要請で、そういう案内もしなければならないのですね。
「私は、金閣のお庭が好きなのよ。」
御津葉に庭オタクなどと、ありがたくもない呼ばれ方をしていますが、和風庭園の魅力に魅せられた桃子は、せっせと情報を集めているようですね。
「お庭と言えば、権太路の金閣寺店の坪庭もきれいやね。」
「なにそこ?」
「おそばやさん。」
「へ~、知らなかったわ。」
「金閣」絵葉書によくある構図ですね。
「へ~、モモちゃんでも知らへんことがあるんや~。」
「そりゃああるわよ。」
移動した金閣は、あいかわらずひどい人出ですが、五人が入っていくと、知らず人垣が割れていくようです。
今度は、振袖に袴の麗奈が、池を挟んで金閣を背景に立っています。
「凛々しいなあ、金髪なのんがもったいないわ~。」
「そうね、黒髪で割れ忍だったら、最高のシチュエーションなんですけど。」
「勝手なこと言わないの。金髪は、私のアイデンティティ(自分が自分である証)よ。」
「なんだかな~、もったいないなあ。」
「いいのよ。さ、みんな集まって撮りましょうよ。」
『レナさあ~ん、すきじゃ~!』
どっかのバカが、駆け寄ってきました。
「レイナよ!好きなら、名前を間違えないで!ペガサス流星拳!」
『うぎゃ~!』
空のかなたに消えていきました。
「エアライフルだけじゃないのねえ。」
「ふっ…」
「こんなSF技まで使うとは…」
「さてさて、ほならやー、お昼はお隣に行ってみまひょ~。」
ここが噂の権太路ですね。木辻通り沿いに立っている古いお店で、金閣小学校の入り口に近いところにあります。百メートルほど東には《わら天神》があります。
本当に、坪庭がきれいなんですよ。
「うわ~、御津葉ちゃんの言ったとおりね。」
「どうどす?」
「まあ、坪庭と言うよりも大きいけど、これはこれできれいだわ。」
「あれ、金閣寺垣やろか?」
「そうね、シンプルなのに存在感があるわ。」
「あ、あの明かりがいいですね。」
「久美子ちゃんもお目が高い。あれひとつでお庭の色彩が、がらっと変わるんやよ。」
「ああ、そうなんですね。花がなくても、色彩が出るんですねえ。」
「そのとおり。お庭の顔はひとつやないんやよ。」
「ふうん。」
おそばを待つ間、雪見障子から見えるお庭を眺めながら、そば茶をいただくのはとってもぜいたくなお時間です。
カメラマンの先生は、そんな五人をしっかりカメラに収めているみたいですが。
「さて、センセ、この調子で写真撮ってはると、今度のカレンダーはどんなんにならはるんやろなあ。」
「さあねえ、僕はいい写真を撮るだけだよ。写真を選ぶのは、旦那さんの仕事だしね。どうなるんだろうね?」
「あれまあ、そら無責任やわ~。」
「いい写真は、みんなが気に入るものだよ。」
「そらそうどすけど。」
「雪の京都に、清水の舞台と御津葉ちゃんなら、新年は決まりだね。」
「あれまあ!」
合成写真でごまかすのか、本当に撮るのかはわかりませんが、とりあえずこの時の写真撮影は終了しました。
まあ、御津葉ちゃんがなかなかおじいさんのところに遊びに来てくれないので、おじいさんが立てた作戦なんじゃないかと、桃子は思ったのでした。
篠突く雨が校舎を包み、若干の蒸し暑さも手伝って、教科書やノートをひじに張り付かせながら、授業を終えた桃子たちに、担任の寺田先生が近づいてきました。
桃子たちは、さっそく集まって宿題を開いているところでした。
御津葉は、母親に呼ばれて、すでに出かけています。
久美子も、道場での練習があるので、授業終了と同時に駆け出していました。
「あら、寺田先生、どうなさったんですか?」
桃子がノンキそうに聞くと、寺田先生は苦そうに口を開きました。
「う~ん、実は柔道部の顧問の島田先生から、後藤にどうしても柔道部にきてほしいと頼まれているんだ。」
寺田は、行儀悪く窓枠にお尻を乗せました。すらりと長い脚が、桃子の前にあります。一部では、けっこう人気の高い先生なので、こういうスタイルも様になっています。
「ダルマさん先生?」
桃子は、顧問の顔を思い出しながら聞きました。
「うん、君たちから聞いてもらえないかと思ってね。」
ダルマは、肯定するのかよ!
「まあ、久美子ちゃんに、直接お聞きになってもよろしいんじゃなくて?」
弥生は、めんどくさそうに横目で寺田を見ました。
「うん、なかなか微妙なところがあってなあ。」
「そうですねえ、久美子ちゃんはあまり試合とか好きじゃありませんし。」
「そうだろう?僕もそう思うんだ。」
「いっそ、柔道部の部員に負けてみせるというのは、どうですか?」
「…勝っちゃったんだよ。」
「まあ!」
「あらまあ。」
「それは残念。」
「おまえら、楽しんでいるだろう。」
「いいええ、それは大変ですね。」
麗奈は、両手を胸の前で振って見せました。
「そうなんだ、後藤も最初は負けてしまうつもりだったらしいんだが、急にスイッチがはいってしまったと言っていたよ。」
「はあ、強い人が…ああ、大島さんですね。三年生の。」
「そうらしい、しかも、エースの前田にすら一本で勝ってしまったらしい。」
「三年の?」
「二年には前田はいないよ。」
「たしかに。」
「うわ~、困ったなあ。」
桃子は頭を抱えました。エースの前田はまだ、冷静な性格(柔道部にしてはですが。)なのですが、大島は戦闘的な性格で、一度や二度負けたくらいでは引き下がらないねばりがあります。
「うわ~、その大島さんまで、なげちゃったんですか~。」
「もう、大島がしつこくてなあ、島田先生を焚き付けているらしいんだ。」
「じゃあ、久美子ちゃんは新体操部に入れてしまいましょう。」
桃子は、両手を打って寺田に言いました。
「新体操部?」
寺田の問いに、桃子はすまして答えます。
「ええ、私たちの所属している部活です。まあ、有名無実とも言いますが。」
「活動しているのか?」
「ええまあ、柔軟やフィットネスはやってますよ。お稽古ごとの合間にですが。」
「それは、サボっているって言うんじゃないのか?」
寺田先生は、あきれて聞き返しました。
「えへへ、真剣にやるには時間がないんですよ。お茶にお花に、日本舞踊もやってますから。」
「なんだそりゃ?」
「え?お茶と言うのは、千利休の完成させた『わび茶』を起源とする流派です。私たちは裏千家ですが。」
桃子は、真面目くさって答えます。
「お花と言うのは、池坊と申します。日本最古の流派で、祖は天台宗の頂法寺の僧、池坊専慶と言われています。専慶は連歌師としても名をなした人ですが、何よりも花を立てることを好み、新しい手法の花をいけたて花の名手と言われました。彼の革新的な手法が後の立花の基礎となるのです。ちなみに池坊とは、当時頂法寺内にあった一僧房の名称で、その名は室町時代よりたて花の家として市中になりひびいていました。その為今日でも、池坊の家元は代々、頂法寺に僧籍を置くものとされています。池坊の花は立花に始まり、その後生花、投げ入れ、盛花と発展してきました。」
弥生も、寺田に説明を始めました。
「いや、だからね、そう言うことを聞いているんじゃないんだよ。」
「ですから、私たちはそういう習い事がたくさんありますのよ。もちろん、後藤さんもその仲間なのですわ。」
最終的に、弥生が切って捨てるように、寺田の目を見て言いました。
「そーなの?」
寺田は、だんだん目が丸くなってきました。
「ええ、もちろん後藤さんの柔道の稽古もありますが、集中して稽古するために片岡の家の道場を使っているのですわ。」
「…道場。」
「もちろん、英会話、フランス語会話、ドイツ語会話もレッスンしていますし、ピアノもバイオリンもあります。」
「遊ぶ時間がないじゃないか。」
「ありませんよ。宿題もあまりできる時間がないので、こうしてみんなで放課後に済ませているんです。」
麗奈は、邪魔をするなと言うように、寺田先生を見ました。
「ああ、そうなのか。後藤は?」
「桃子ちゃん、今日久美子ちゃんは?」
「えっと、先に道場に師範がいらっしゃるのよ。師範の都合で、時間が早くなったの。御津葉ちゃんは、お母様の御用で新宿に向かったわ。」
「…だそうですわよ。このあと、合流して、日舞の稽古ですわ。」
弥生も、冷たく言い放ちます。寺田先生、タジタジですな。
「マリカさんお師匠さんが来るのが、七時ですから、私たちはここで宿題を済ませたら、すぐに道場に行って着替えなくては、ですから先生、もう宿題の邪魔はしないでください。」
「あ、ああ、すまん。」
素直な寺田先生は、桃子の言葉に従ったのでした。
「まあ、島田先生には、私が言っておきますからご心配なく。あの先生には、勝つことが命のようなところがありますからね。少し、戒めも必要だと思います。」
「…お手柔らかに。」
寺田先生はあきらめて、桃子の肩をかるくたたいて、教室を出ました。
「こまったものですね、島田ダルマは。」
「まったくよ、寺田先生の人がいいのにつけこんで。」
「そういうところが、嫌われているのね。わかってないんだから。」
「麗奈ちゃん、ここどうするの?」
「ああ、これはね…」
桃子は、島田先生が無茶なことをしないよう、釘をささなければいけないと、真剣に思いました。なにしろ、桃子たちには時間があってないようなものですから。できるなら、よけいなことに煩わされたくないのです。
グループのマネジメントも、桃子の重要な仕事ですし、スケジュールの調整もたいへんなんです。
弥生は、ピンクのシャープペンを持ち上げて聞きました。
「それで、あのパーティはどうしますの?」
「え?ああ、あれですか?もちろん実行しますよ。チームBは、やる気になっていますし、もちろん御津葉ちゃんもその気になっていますから。」
「あ~、その気ねえ。」
麗奈は額を押さえました。
「その話は、移動の時にしましょう。今は、これを片づけなくては。」
公立の中学と言うものも、けっこう宿題の多いところで、やっつけるのはホネなんです。
「こんなレベルで、あまり苦労しているのは感心しませんわ。」
「ですねえ。問題書き写す時間がもったいないですよ。」
「それでも、手抜きはできませんからね。」
ちまちまと問題を書き写し、頭脳をくるくる回す桃子。
「できた。」
桃子は、ノートを持ち上げました。
「あら早いわね。私もおしまい。」
「あ、あ、もう少しですわ!ちょちょっと…」
少し遅れて弥生も終わったようです。
「じゃあ、移動しましょう。六時前には道場に入れますよ。」
「そうね、あ~まだ降っているわ。」
「もう梅雨なんでしょうか?はくものに気を付けないといけませんわ。」
「あら、レインシューズ、このまえいいのを買ったじゃないですか。」
「ええまあ、それを履いてきて、その日が体育だと気が付いたのですわ。」
「ああ…」
「まあ、たまたま部室に靴を置いていたので、たすかりましたけど。」
確実に伝説になるな、しかも黒伝説…
「よかったわねえ。レインシューズで体育なんて…」
桃子は同情的な視線で、弥生の足元を見ました。
「そのくらいなら休みますわよ!」
「せめて見学にしてちょうだい、弥生ちゃん。」
麗奈は、眉毛を下げて言いました。
「そうしますわ。」
桃子は、この前買ってもらったピンクの花柄の傘が、いたくお気に入りで、しばらくは雨降りでも楽しめると考えていたので、あまり突っ込むのはやめにしました。
細かい雨は、軽くふいてきた風でも、傘の中に吹き込んでくるので、膝から下はけっこう濡れてしまうものです。
三人が、御津葉の家に着くころには、すっかり濡れてしまいました。
「あらまあ、これはひどいですね。」
エントランスで傘を傘立てにさしたところで、桃子はうなりました。
「たしかに、意外と濡れてしまいましたわ。」
「ほんとう。」
奥からメイドの椿とつぼみがやってきました。
「お嬢様、タオルをどうぞ。」
「ああ、ありがとう。助かったわ。」
麗奈は、素直に受け取って膝を押さえています。桃子も弥生も、それに倣いました。
「御津葉ちゃんはお帰り?」
弥生の声に、椿ははきはきと答えます。
「はい、まだ新宿でございます。」
「あらまあ、お師匠さまは?」
麗奈も心配になって聞きました。
「東京駅にお着きになったと、先ほど連絡がございましたので、迎えに出ております。」
「そうですか、久美子ちゃんのお稽古は終わりました?」
桃子が聞くと、椿はにっこりとうなずきました。
「はい、先ほど先生はお帰りになって、後藤さまはお風呂です。」
「あら、すれ違いですわね。では、私たちは着替えてしまいましょう。」
「そうですね。」
「ではこちらへどうぞ、準備はできておりますよ。」
椿に先導されて、道場に近い部屋に案内されました。稽古着は弥生ちゃんのブルー、麗奈ちゃんのグリーン、桃子のピンクと色分けされています。
久美子はひとり、大きな岩風呂の中で先ほどの稽古を反芻していました。
今日は、最後に先生を腰に乗せて、一気に背負いを決めました。もちろん、スキを作ってくださったことは言うまでもありませんが、今までと違って達成感が一段高いことに気が付きました。
「なんか、少しつかめたみたい。大島さんと前田さんとやったのが良かったかなあ。」
大島は豪快な背負いが得意で、執拗な崩しと引き手の強さが際立ちました。
前田は、一見地味な足技が多く、しかし内股を繰り出す速さは常人の三倍くらいの速さがあります。
それをすかして、内股を返したときの感触が、今回の背負いにも現れたのでした。
「よし!やっぱり私は内股だ。」
湯船でガッツポーズ。久美子は、ゆっくりと湯から出たのでした。
とりあえず、稽古で流した汗を落とし、火照った体を冷ました久美子は、白い襦袢をまとい、足袋に足を入れました。
「うひゃ~、雨に濡れてもうーたやん!」
風呂場に飛び込んできたのは御津葉でした。
「あ、久美子ちゃん。」
久美子は、口を丸くして御津葉を見つめました。
「どないしたん?埴輪みたいな顔しはって。」
「あ、あきれているんです!びっくりするじゃないですか。」
「あ、あはは…かんにんな。」
久美子は、跳ね上がった鼓動を押さえて、黄色い着物を肩にかけました。半幅帯で締めると、ぽよんと自己主張のはげしいおムネが顔を出します。
御津葉は、何とも言えない顔でそれを見て、すぐに制服を脱いでお風呂に消えました。
「そりゃまあ、女湯って書いてあるんだから、男の人は入ってこないでしょうけど、それでも心臓に悪いわ。」
道場に向かう廊下を歩きながら、久美子は気持ちを切り替えたのでした。
舞扇を前に、深く頭を下げて、師匠であるマリカから舞を教わります。
『白川の~雪の柳を…』(作者適当に書いてます。)
レコーダーから流れてくる謡に合わせて、五人が一斉に振りを流します。これで、全部見えているからマリカさんお師匠さんは侮れません。
「ん~ん~、久美子さん、左手にちゃんと舞させなあきまへん。こう上に上げるときに、ぶれて上がるんどす。力はいれてはあきまへんけど、そこはしっかりしよし。弥生さん、おいどの位置が少し高こおす。もう少し膝を使って。桃子さん、つま先がずれてます、手はよろしい。御津葉ちゃん、首、もう少し内側へ。麗奈さん、ん~よろしい。」
うわ、麗奈ちゃん、よしがでたわ。
みな、一斉に麗奈を見たものだから、すこし緊張した顔でうなずきました。
「ほな、少し休憩。」
「いや~、なかなかうまいこと行きまへんなあ。」
「御津葉ちゃんなんか、首だけでいいわよ、私なんかいっぱいダメが出たわよ。」
「そら、久美子ちゃんは初心者やもん、しかたないわー。まあ、これも柔道の型や思うたらえんちゃいます?」
「えんちゃいます?って言われても、なかなか簡単に切り替えはできませんよ。」
「まあしゃあないです。ほんで、大島さんはどねぇにゆうてはったんどす?」
「全国優勝しましょうって…」
「あれまあ、そら魅力的なお誘いどすなあ。」
「魅力的じゃないでしょ!人前で試合なんかしたくないです!」
「あらまあ、これから全国デビューしはる人が、それでは示しがつきまへんなあ。」
「ひく!ぜ、ぜんこくでびゅーってなんですかー?」
「こんどのパーティは、ほぼ全国組織どす。まあ、簡単に言えばMTH連合とでも言えると思います。久美子ちゃんは直衛でウチのそばに居てもらいますけど、目立ちますよって、歌のひとつも歌えと言われるかもせえしまへんな。」
「う、うたあ?」
「まあ、場つなぎどす。」
御津葉は、すまして付け加えました。久美子は額に冷や汗が浮かんでくるのを感じて、さらに暗い縦線を刻んでしまいました。
「冗談はさておき、みなさんダンスはどないしやはる?」
「曲は何になさるの?」
「そうどすなあ、さらば愛しきとか?」
「その?が気になりますけど、やると言うのなら受けて立ちますわ。」
「さすが弥生ちゃん、ええ度胸どすなあ。」
「どうせイモが並んでいるだけですもの、緊張する道理がございませんわ。」
「あはは、イモやて、そらみなさん泣きますえ~。」
「でも、イモとでも思っていないと、対処できませんよ。」
「そうね、桃子ちゃんの言うように、暴走させないように気を付けて、イモを洗いましょう。」
「麗奈ちゃん、具体的には?」
「ディナーショー形式なんでしょう?少し舞台と引き離しますね。ライブ会場っぽく飾って、客席は暗く。」
「そうね、持ち物検査でカメラは取り上げますね。携帯も不可で。」
桃子も、かなり警戒しているようです。
「そうは言っても、かくして持ち込む人もいるでしょうから、電波妨害でもなさったら?」
「それも考えましたけど、緊急連絡が使えないのは困りますし、多少の流出はガス抜きですよ。」
「まあ、桃子ちゃんがそう言うなら、しかたありませんわ。」
「では、これは後で、計画書を作って配りますね。」
「ええ、よろしくてよ。」
「お願いするわ。」
桃子は楽しそうな表情を浮かべて、二人に言いました。
「ねえ、レモンイエローのエプロンドレスで、ふわっふわなのってどう?」
「あら、前にデザイン落ちしたあれ?」
「ああそうね、それでもいいんだけど、どうしようかな…新しいデザインで一枚起こしてもいいんだけどな。」
「まだ時間がありますから、麗子さんに相談なさったら?」
「れ、麗子さんですか…あ、でもマリーとトルテの洋裁店で作りますね。」
「そうですわ、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのブティックになりましたわね。」
「ま、マリーって?」
久美子はおずおずと聞いてみました。
「パリのモンパルナスでお店を開いているブティックですよ、プレタポルテが中心ですけど、もちろんオートクチュールもオーケーのマルチな洋裁店です。」
「そそ、そこでなにを注文するですって?」
「ええ、クリームイエローのエプロンドレスを。そうそう、イメージはアリスにしましょう。」
「こんなころころしたアリスはいません!」
「あらあら、イエローってば、黄色いお衣裳はぜんぶ自分用だと思っているのね。」
「イエロー言うな!」
「でも、やっぱり久美子ちゃんのお衣裳なんですね~。あなたの働きが悪いと、お衣裳の請求書が行きますからね~ひひひ。」
モモコは、黒い笑いを含んで久美子に流し目をくれました。
「ひっ!」
「シェリーはいいデザイナーになりましたわね。」
「そうですね、でもギャラリーのレイコの事務所は、いま麗子さんが帰国されて主がいないようですよ。」
「もともとデータ取りの、アンテナショップのようなものでしたからねえ。」
「でも、生え抜きの加賀さんや結城さんはまだいらっしゃるんでしょう?」
「もう重鎮ですもの、レイコの事務所としては、新人を開発しなくちゃ。」
「あら、桃子ちゃんは将来レイコの事務所に入るんじゃないんですか?」
「決定事項なの?」
「だって、情報処理のための事務所ですもの、桃子ちゃん以外にいないじゃありませんの。よしこのおばさまだって、そのつもりで育てていらっしゃるんでしょう?」
これこれ、そんなに急いで大人にならなくてもいいんですよ。
「御津葉ちゃんのためにも、私たちは早く大人にならなくちゃいけないんですよ。」
「私たちは、片岡の中にしっかりとミツハグループを維持するんですわ。」
「そのために、私たちはあえて希望の学校を曲げて、ここにいるんです。」
そこへ、トイレから戻ったマリカさんお師匠さんの声がしました。
「はいはい、ほなはじめまひょ。みなさん、位置について。」
「あっ、トウシューズに画びょうが…」(かなりの棒読み。)
横座りにくずれた久美子は、クリームイエローのミニスカートから、健康そうな太ももが見られます。
「ほほほほ、私の前に立ちふさがる路傍の石は、取り除いてさしあげてよ。」
「そ、そんな。」
「トップスタアは一人で十分なのですわ。おほほほほほ」
高笑いする弥生の足元で、よよと泣き崩れる久美子。
幕間の寸劇ですが、弥生の堂に入った女王様ぶりに比べて、久美子の大根なことは他の追随を許しません。なにしろ、セリフがすべて棒読みなので、どこで突っ込んでいいやら…
御津葉の希望に沿って、桃子はオタクな面々を集めてくれました。
暑苦しい肉のかたまりばかりだろうと思っていたら、ドレスコードに合わせてみると意外と普通の人も交じっているようです。 もっとも、暑苦しい人も多いんですけどね。
御津葉は、黒地に赤いレースをあしらったミニのドレスを着て、フロアに現れました。
手には、ジュースのグラスを持って、居並ぶブーデーと乾杯を繰り返しています。
「やっよいちゃ~ん!」
お得意のダミ声が響く中、寸劇は続きます。
「くっみっこちゃ~ん!」
新人久美子の声もあるようで、オタクたちの情報の速さは、ADSLを凌いでいるかもしれません。
御津葉は、そんな人たちの中を平気な顔して歩いています。
黒いタキシードを指定したにもかかわらず、頭にバンダナを巻いたままの妙なおデブが、ミツハに近づいてきました。
「み、御津葉さん、序列第一位の倉本です。」
「おや、お久しぶり、倉本のお兄さん。元気にしてはった?」
「ええもう、来年のカレンダー撮りは、無事に済んだようですね。」
「へえ、二日でちゃちゃっと撮ってきましてんよ。あんまりようないかもせえしまへんけど。」
「そんなことはないですよ。あのカメラマンは業界でも一二を争う美少女推しですから。」
「そうどす?いや、ちーとも知りしまへんどした。」
「彼の写真集は、我々のバイブルですよ。」
「へえ、そういうもんどすか?」
「ええ、ああ申し遅れました、ご招待いただきありがとうございます。まさか、お嬢からお招きをいただけるとは思ってもみませんでしたから、驚きました。」
「へえ、ウチも一度くらいはみなさんとお話ししてみたかったんよ。」
「ありがたいことです。みんな喜んでいますよ。」
「そう?それはよろしおしたなあ。」
御津葉は、すっと右手を差し出しました。
倉本はぎょっとしたように立ちすくみ、恐る恐るその手を取りました。
「みんな仲ようできるとええですね。」
倉本は感涙にむせんでいました。
「ほな、膝ついて。」
倉本は、御津葉の手を取ったまま片膝をつきました。
「お嬢、菊水丸です。」
横合いから桃子が錦の袋を差し出しました。
御津葉は、それを受け取ると、袋のまま倉本の右肩に軽く添えます。
「汝、倉本弼、我を助け、敬い、守ることを誓うか。」
「は、ははっ。」
「敵あるときは盾となり、我を守ると誓うか。」
「謹んで姫の盾とならんことを誓います。」
「なれば汝を我の騎士と任ずる。」
もう片方の肩も、刀で軽くたたきました。
周りからは、ざわりと空気が変わるのがわかりました。
「モモコ、あれを。」
「はい。」
黒髪をゆらして、桃子が進み出ました。その手には、先ほどの袋に似た錦の袋がありました。
「この守り刀を授けます。いついかなるときも、私の騎士であることを念頭に行動されることを願います。」
倉本は感涙にむせびながら、美津葉を見上げました。
守り刀を受け取ると、高く掲げて自分の郎党に見せました。
「「「うおおおおお!会長!」」」
倉本派の面々は、自分の頭目がミツハに認められたことに、興奮した声をあげました。
「次、序列二番、朝比奈雄二。」
桃子の声に、やせぎすの髪の長い男が前に出ました。
「お覚悟はございますか?」
桃子の声に、朝比奈は紅潮した顔で答えました。
「覚悟完了!」
御津葉から騎士の叙任を受けると、朝比奈は自分のグループに向けて、大声をあげました。
「タイガー・ファイヤー!」
「「「サイバー・ファイバー・ダイバー・バイバー・ジャージャー」」」
おなじみの雄叫びを上げながら追従する仲間たちに囲まれて、朝比奈は紅潮した顔に涙を浮かべていました。
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