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 どのくらい、ベッドの下で身を隠していただろうか。随分と長い間じっとしていたようにも思えるが、そんなに経っていないかもしれない。
 ぐるぐるとさまよっていた足が遠のくのが見える。

 よかった、出ていく。

 そう思った時だった。

 ――びしゃ! ごとり。
 
 はじけるような音がして、物体が落ちるような音がした。

「――ひ」

 リーデルが理解するよりも早く、キキョウのほうが状況を飲み込んだのか、ひきつったような、小さい悲鳴を上げた。
 上半身が、人の上半身が床に落ちている。
 少し遅れて、バランスを崩したのだろう下半身もまた、床に倒れた。足元が、先ほどまで歩き回っていたものと同じだ。
 ようやく、頭が追い付いてきた。

 得体のしれないものを、殺した何かがいる。
 先ほどまで、部屋を徘徊していた『なにか』の足音しかしなかったのに、今はコツコツと、ヒール音が聞こえる。その足音は先ほどうろうろとしていた『なにか』とは違い、迷わずこちらに向かってきている。

 気が付くな、こちらに来るな。

 そんなリーデルの願いもむなしく、足はぴたりとベッドの前で止まる。
 そして、ぱっと一瞬にして視界が開けた。

 見上げると、そこには片手でベッドを軽々と持ち上げる、女性が立っていた。銀の髪と深紅の瞳が目立つ女性。豊満なスタイルと派手な赤いドレス。町ですれ違ったら、思わず振り返って見とれてしまうような、圧倒的な美貌。
 けれど、細腕でベッドを持ち上げる様子は、恐ろしいという感情しか抱けない。ましてや、先ほどまで徘徊していた何かをあっさりと殺したであろう人物だ。自分たちも同じ目に会うのか、と思えば怖いと言うほかない。

 女性は、にっこり、と笑う。その口元には、鋭い牙が光っている。

「よかった、生き残りがいたのね!」

 跳ねるような声音だったが、目の前の異常な光景に、リーデルの脳内には警鐘が鳴っていた。
 言葉だけ聞けば、生存者の無事を喜ぶものに思えたかもしれない。けれど、彼女の瞳には、どこか捕食対象を見つけた喜びのようなものが混じっていた。
 詠唱は間に合わない。リーデルはとっさに起き上がり、キキョウの前に出た。武器は持っていないが、キキョウが逃げる時間くらいは稼げるかもしれない。
 しかし、リーデルが逃げろ、と叫ぶ前に女性が動く。
 ひょい、とまるで小石を投げるかのように軽々しく、ベッドを入り口付近に投げたのだ。ぐちゃ、と倒れこんだ死体の上にベッドが落ち、出入り口をふさぐ。

 本格的に逃げ場はなくなった。

「安心して、殺しに来たわけじゃないの!」

 楽しそうな女は、震えるリーデルの首筋を撫でた。にんまりと笑う彼女の口には、ギラリと太い牙があらわになっていた。

「守って、囲って、大切にするわ! ――アタシの、大事な、最後の食料だもの」

 食料。その言葉に、ぞくりと、恐怖が背筋を走った。女の、その鋭い牙に噛まれ、喰われてしまうのだろうか。
 現状、どうあがいても勝てないだろう相手に、リーデルはキキョウだけでも逃がしてやりたかった。

「食料なのは、俺だけか?」

「リーデル!」

 リーデルの言いたいことを理解したのか、キキョウがやめろと言わんばかりに叫ぶ。それでも、ここまで生き延びられたのは紛れもなくキキョウのおかげであり、冒険者生活の中でも幾度となく助けられた。
 キキョウを助けられるのなら、助けたい。
 女は、キキョウを一瞥すると、少しだけ笑みを崩した。

「そっちの子はエルフ?」

 つまらなそうな表情である。肯定した方がいいのか、それとも誤魔化した方がいいのか。どちらを取れば事態が好転するのかわからなかったが、とりあえず素直に肯定する方に賭ける。

「ああ、エルフだ。人間なのは、俺だけだ」

「君が人間なのは分かるよ。うーん、人間がまだ残っているなら、そっちのほうがいいな。エルフの血は青臭くて嫌いなの」

「血……?」

「エルフの血が好きな子もいたけどね。アタシは人間の血のほうが好きなの。吸血鬼に血を吸われるなんて、滅多に経験できるもんじゃないよ~?」

「は――」

 リーデルは言葉を失った。

 吸血鬼。

 おとぎ話にしか出てこないような、実在しているのかも怪しまれる種族だ。吸血鬼は、滅多に人前に姿を表さない。歴史の中の要人関係者に何人かいるのでは、と歴史書に記されているものもあるが、その実態はよく分かっていない。
 血を食す最強の生物。そんなことくらいしか世に知られていない。

「きゅう、けつき……? 本物、なのか?」

 にんまりと、笑顔で返す彼女の口には、凶暴そうな牙が付いている。そんな牙を持つ人間も、亜人種も、リーデルは見聞きしたことがない。
 けれど、物語に出てくるような吸血鬼と、目の前の女はまるで違う。リーデルが読んだことのる書物では、もっと凶暴で、いかにもな悪者として書かれていた。目の前の女性は、明るく朗らか、と称した方がぴったりだ。確かに若干、乱暴そうな様子はあるが、とても凶悪とは言えない。

「あー、もしかして、お話の吸血鬼と違うって思ってるでしょ。あんなの、吸血鬼狩りが吸血鬼の印象を悪くするために書いた嘘っぱちばっかなんだから!」

 不機嫌そうに言う女が本物か疑わしいが、彼女がリーデルの血を欲しているのは紛れもない事実だ。

「り、リーデルじゃなくてもいいじゃない!」

 キキョウが、リーデルの前に出ようとしながら叫ぶ。
 まだ安全とは言い切れない状況で彼女を前に出したくないリーデルに阻まれ、それは叶わなかったが、彼女の語調は弱まらない。

「人間なんて、一杯いるでしょ!? わざわざ、こんな、リーデルじゃなくったって……っ」

「いないよ」

 キキョウの声にかぶせ、食い入るように吸血鬼の女は言った。

「君たち、外を見てないの?」

「見てないって……どういうことなんだ? 確かに、俺たちはついさっき、ここの牢獄から出たばかりで今の上のことは分からないが、それでも、入る前にはいつも通りで……」

 投獄されるのはいつも通り、とは言えないが、それでも街並みや人々は、いつものようにそこにあったはずだ。

「人間がいなくなったのは、ここ数日のことだよ。アタシも驚いた。こんな短期間でで世界が滅ぶなんて、どんな魔物にも、どんな『魔法の使い手』にもできなかったのに」

 腕を組み、怒ったように彼女は言う。

「もう、誰も生き残ってないの。君が、人類最後の一人だよ」

 嘘のようで、信じられない言葉を。
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