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第五部

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「あ、危ないよ……」

 わたしはイナリの手を引っ張った。精霊と人が戦って、勝てるわけがない。どんな魔法使いでも、精霊に勝てたという話はない。
 そもそも、精霊と人が戦うこと自体、間違っているのだ。地震や津波、嵐に雷と、自然現象に人間が勝てないのと同じである。

 挑むだけ、無駄なのだ。

 ましてや、メルフは体調によって体温が左右される。しろまるみたいに、いつでも触れるわけじゃない。今のメルフなら、ほんの数秒触れ続けただけで、その場所が使い物にならなくなってしまうかもしれないのだ。
 わたしがさっき触れてしまった場所も、赤くただれている。

 イナリの両手が使えなくなるかもしれない、ということを考えるだけでゾッとする。
 そんな精霊相手に、どう戦うというのか。

「逃げた方がいいよ……」

「――シャシカ、『持ってる』よね」

 わたしの言葉を聞かず、イナリはシャシカさんに話しかけた。シャシカさんはそれだけで察したらしい。足元に、短剣がすべり、飛んできた。見覚えのある短剣。わたしを殺そうとしたときに持っていた、サバイバルナイフのようなごつい短剣だ。

 こんなときでも、シャシカさんは武器を隠し持っていたらしい。
 イナリはそれを拾う。彼は、鞘から剣を抜く。――本当に、戦うつもりらしい。

「……イナリ」

「僕のときは諦めるの」

 わたしの声をかき消すように、イナリがハッキリ言った。悲しそうな声でも、咎めるような声でもない。ただ、確認するような声音。

「ちが……そ、そんなつもりじゃ」

 諦めないことと、無意味にに挑むのとでは違う。違うのだ。――今、ここで逃げないのは、ただ、ただ無謀なだけ……。

 ――……本当は、逃げ切る自信もない。見つかっていない状況ならまだやりようもあったかもしれない。でも、もう、遅い。こんなことになるなら、メルフに声をかけるべきじゃなかったのだ。

 今更言っても、遅いが。――師匠がわたしを探しているなんて、思ってもみなかったのだ。だって、わたしは、来る者拒まず去る者追わず、な性格の師匠の、たくさんいる弟子の一人だから。
 連絡をしないまま、来なくなった兄弟姉妹弟子なんていっぱいいる。わたしも、その一人になってしまったのだと、思っていたのに。

 頭の中で言い訳を並べ、後悔にわたしはうつむく。

「帰りたくないんでしょ」

 イナリはメルフに向き直る。

「妻にしたい女性の、そんな願いも叶えられないで、何が求婚だ。――今、ここで逃げたら、本当に僕は、何もない男のままになる」
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