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5.F・終焉

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 Fは、〝えふ〟という響きがこの生き物の口からこぼれ落ちる瞬間が、とても好きだった。

 ボートの上で、海面に浮かびながら、ときには水中でごぼごぼと、この生き物は幾度となく〝えふ〟と呼んでくれた。この〝えふ〟が、自分を呼び示す言葉であると、Fはよく理解をしていた。



 最初にサンゴの浅瀬でこの生き物に出会ったのは、まったくの偶然だった。

 成熟した成体として、繁殖相手を探しにたまたまふらりと立ち寄っただけだった。
 その日は巣穴に戻ってからも、浅瀬で出会った生き物のことを思い出した。思い出すと触手が落ち着かず、なぜだか一晩中そわそわと過ごした。

 次の日にも、また会えたらいいなと浅瀬に向かった。
 昨日会った生き物はボートから身を乗り出すようにきょろきょろと海を覗きこんでいて、自分を見つけると嬉しそうに海に飛び込んだ。

 自分と同じ気持ちであると、Fは嬉しく思った。



 Fという触手生物は、繁殖相手の性別や種族を問わない希少な生き物だった。
 雌雄同体でオスの生殖器官とメスの生殖器官を一個体に持っているFは、相手がただの筒であっても、その気になりさえすれば繁殖することが可能なのだ。
 ただし、心の伴わない産卵には弱い卵しか宿らない。
 Fはそれを知っているからこそより強い卵を産めるようにと、この広い海をただ一匹のつがいを探し漂っていたのだ。

 寿命は長く、この大きな体では外敵に怯える心配もない。
 こうして長い時間をかけて行われたFのつがい探しは、始終のんびりとしたものだった。

 Fは、深海では見かけないこの二本足の生き物に、最初から好意に似た感情を持っていた。
 もじゃもじゃとイソギンチャクを甲羅に乗せるカニのように、あれやこれやとたくさんの物を背負う窮屈そうなこの生き物から、なぜだか目を離せなかった。

 生き物はボートの上で、きらきらと水をはじいている。

 頭に生えた体毛はしっとりと柔らかそうで、Fはずっと触りたいと願っていた。
 それなのにこの生き物は、海に入るときだけはぴっちりと体中を隠してしまうのだ。
 Fは憮然とした。
 そしていつかつがいになったら、心ゆくまで触らせてもらおうと考えた。


 ささやかなコミュニケーションをはかるなかで、この生き物を生涯のつがいにしようと決意するのにさほど時間はかからなかった。

 生き物の海の色に似た瞳が、ふっくらと細くなる笑顔をもっと見たい。もっと、ずっとそばに居て、笑顔を守りたい。
 あの日あの浅瀬に向かったのは、この生き物に出会うためだったのだとFは悟った。
 そう悟った次の満月の繁殖日に、Fはいそいそと浅瀬に向かった。
 そして月が海に沈むまで待ったが、この生き物はついに海に現れなかった。

 まわりには、何も考えずに精を放つたくさんのクラゲがいる。
 Fはくさくさした気持ちで巣穴に戻った。


 次の日、この生き物はいつもと変わらない様子で海を訪れた。
 どういうことだろうとFはいぶかしんだが、この生き物は必ず日が暮れると陸に戻っていくのだ。
 あまり水が得意ではない種類の生き物なのだなと思い至った。

 つがいとなって繋がればすべてが触手で融合され、エサさえ要らない体となれるのに。
 それでもそれを伝える方法がないまま、Fがこの生き物をつがいにすると決意してから、五度目の満月を迎えていた。


 だからあの晩は、なかば諦めの境地で触手を引きずるように向かっていたのだ。
 だからこそ、あのときこの生き物を見つけたときの喜びといったら、うっかり興奮しすぎて年甲斐もなくはしゃいでしまったくらいだった。

 巣穴に運び込むまでに気を失ってしまった生き物を見て、Fは自分の浮かれっぷりを反省した。

 死にかけている生き物に気付き、慌てて触手を繋ぐ。
 穴から肺に、血管の中に、脳に、体の隅々にまで触手を繋いで、一体となる。

 生き物が身につけていた邪魔なあれこれは、四苦八苦しながら剥ぎ取った。
 移動しながらの作業は大変だったが、少しずつあらわになる生き物の素肌に、Fは興奮を覚えた。

 いそいそと巣穴に運び込み、焦らしに焦らされ、待ちに待った繁殖に勤しむ。
 生殖器を埋め込んだ生き物の中は暖かく、優しくFを締め付け、しきりに悦びに震えていた。


 Fは幸せの絶頂だった。





 卵がまた一つ生まれ落ちた。
 生まれ落ちるたびに触手に生かされる体を置いて、生き物の、Fの大切なつがいの心が死んでいく。

 なぜだろうと、Fは不思議に思った。

 しかし心が伴わない産卵は、貧弱な命しか宿らない。
 このままでは大切な卵がダメになってしまうと、やむを得ず脳に差し込んだ細い触手をさらに深くまで進め、生き物の心をいじった。

 途端にこの生き物は、幸せそうな表情になった。
 自分を〝えふ〟と呼ぶ声が聞こえた気がした。

 これで元気な卵を産めるはず。
 これで正解のはず。


 そうやって、これで正解のはずなのだと何度自分自身に言い聞かせても、弱っていく生き物を抱きしめる触手が虚しかった。

 なぜ私の触手はこの生き物に拒絶されてしまったのだろう。愛しあっていたのに。
 受け入れてもらえない事実が、Fの触手を萎縮させていく。

 この生き物の体が欲しかった。心が欲しかった。卵を産んで欲しかった。
 だから、触手で融合してすべてを手に入れた。

 そのはずなのに……。
 本当にこれが私の望みだったのだろうか。Fには分からない。


 生き物は焦点の合わない目を幸せそうに閉じて、触手にすり寄っている。

 分からない。分からない。
 しかし、もうこの生き物が戻らないことは、あの楽しかった日々が戻らないことは、Fにも分かってしまった。

 溌剌と駈ける四肢は戻らない。ころころと表情を変える喜怒哀楽は戻らない。〝えふ〟と呼ぶ声は戻らないのだ。

 だからFはこの生き物を触手で包み込み、みずからもまた一切の生命活動を停止させた。
 つがいが逝くのなら私もともに、せめて卵の苗床になろう。

 私とこの生き物の子供たちが、一卵でも多く孵りますように。
 子供たちの未来が幸せでありますように。


 Fは生き物の頭に生えた柔らかな体毛を触手で撫でながら、そっと目を閉じた。


――太陽の下できらきらと水をはじく生き物を思い出しながら。




(おしまい)

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