F〜海の中の危険な触手〜

匠野ワカ

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3.ファニート・月夜

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 権威ある世界触手類学会が発行する学術雑誌に、未記載種の海で生きる巨大触手生物Fについての学術論文が、掲載される目処がついたある晩。


 ファニートはひさびさにゆったりとした気持ちで、自宅での時間を過ごしていた。

 何事もなく本が発行されれば、Fについての問い合わせが殺到するに違いない。これからは人懐こいFが心ない人間に傷付けられないように、よりいっそうFを見守っていかなければ。
 ファニートはこれからのFのことをあれやこれやと考えながら、ベッドに横たわった。

 窓から入る気持ちのいい風が、カーテンをひるがえす。
 なんとなくその様子を見ていたファニートは、日没を迎え黒く切り取られた窓に、白く浮かぶ満月を見つけた。

 ふと、順当にいけばクラゲの一斉放精、放卵が見られる時期であるなとファニートは思い出した。
 クラゲの産卵時期を満月で気付くなど、Fに出会う前までは考えもしなかったことだ。ファニートはあれほど追いかけていたクラゲに、まったく興味がなくなっていた。
 しかし、Fが自分に似た姿のクラゲの繁殖を見て、どんな反応を示すのかが気になった。

 このときすでにFという生き物が海に生きる触手生物であると結論づけていたファニートは、クラゲよりイルカなどの知能の高い生物に生活環が似ているとFを分類していた。
 イルカであれば、交尾の練習をするという。
 ならばFが、クラゲ相手に繁殖行動を練習する可能性があるかもしれない。

 貴重な繁殖データに思い至ったファニートは、衝動に突き動かされて、ナイトダイビング用のライトと研究機材を掴んで海に走っていた。



 遠くで灯台の光が回転している。

 真っ黒な海面に、優しい月の光がゆらゆらとひかめいている。
 ファニートは、海面に浮かぶ月をボートの先端部分で激しく切り裂くように、いつものポイントへと急いでいた。

 静かに見える海の中では、夜行性の生き物たちが昼間とはまた違った騒がしさで闊歩している。もしくは、見慣れた海洋生物が、浅い眠りについているのだ。

 つつましい夜光虫の光がきらびやかに感じられる程には、満月の夜でも海は暗い。


 ファニートはいつものポイントで錨を降ろすと、念のために帰りの基準点となるレンジライトを設置してから、夜の海の中にエントリーをした。

 海の中ではふよふよと、大量のクラゲが波に揺られている。揺られながら、海水を霞ませるような放精放卵をくり返していた。

 水面近くでの大産卵を、ファニートは海の底に沈みながら横切っていく。

 ときおり止まって、クラゲの大群を海の底から見上げたが、Fはどこにもいなかった。
 透明度の高い水と半透明のクラゲが、帰り道を指し示すレジンライトの光をゆらゆらと透過している。


 大量のクラゲに混じっていても、あの大きく美しいFを見間違えるはずがない。Fはどこだろう。この騒がしい満月の夜に、大人しく深海に戻って眠っているのだろうか。
 ファニートは空気の泡が水面にのぼっていくのをしばらく見てから、さらに深く潜っていった。
 ファニートはケミカルライトを腕に巻いて、上下左右が分からなくなるような暗い海を、慎重に泳いだ。

 Fはどこにもいない。いつも出迎えてくれるFを、この広い海の中でこちらから探すとなると、至難の業だった。
 ファニートは、腕のダイブコンピューターとエアーの残圧チェックを鑑みて、ボートに戻る判断をした。

 冷たい海水ですっかり頭の冷えたファニートは、反省をした。
 そもそもクラゲの産卵ポイントにFがいない段階で、Fの繁殖とは無関係なのだと気が付くべきだった。いくら慣れた海であっても、ソロのナイトダイビングは危険だ。きっと自分で思っていたより浮かれていたに違いない。

 これからはもっと気を引き締めていかなければと思ったところで、何かがファニートの足を引っ張った。


 ファニートの目には、ただ暗い水が横たわっているようにしか見えない。

 海藻に足を取られたのかと思ったが、それは明らかに意志を持って、ファニートの足を、体を、腕を、素早く絡めとっていった。

 ファニートは、必死に抵抗をした。
 暴れた拍子に片足のフィンが脱げ落ちたが、すぐに闇に紛れて見えなくなった。
 想像以上に夜の海は暗く、視界が悪かったのだ。

 恐怖がファニートの心を支配する。

 体はどこも痛くない。ただ柔らかいものが優しく絡みついているだけなのに、動けない。圧倒的な力の差だった。
 浮上したいのに、逃げ出したいのに、何かに引きずられて深く深く沈んでいく。
 腕に巻いていたケミカルライトも外れて、海の底に沈んでいった。

 その一瞬、何かの一部を闇の中に浮かび上がらせた。


 大きな丸い球状の傘。
 見間違えるはずのない美しい触手。赤から紫への見事なまでのグラデーションが、光の届かない水の底で闇に溶け込んでいる。

 ファニートは呆然とした。

 どれほど友好的な関係を築こうが、相手は野生生物だったのだ。

 死がファニートに忍びよる。
 怖い。マスクの中に涙が溜まる。視界が水で塞がれて、さらにパニックが加速した。耳が痛い。水深が深くなるにつれ、呼吸は浅く、苦しくなっていく。


 水圧に手足が痺れ、ついにファニートは意識を失った。


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