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2.ファニート・触手
しおりを挟むパソコンの画面いっぱいに引き延ばした画像データを見るかぎり、それはクラゲによく似た生き物だった。しかしどの文献にも載っていない色と形をした生物だ。
丸い球状の傘からは内臓のような触手と、器用に動く細い触手が伸びている。
その半透明の体は触手の先にむかって赤から紫への美しいグラデーションになっていて、太陽の光をどう反射しているのか、かすかに発光しているようにも見えた。
3メートルをゆうに超える巨体が、繊細にゆうゆうと海にたゆたう。
そのさまはあまりにも神々しかった。
ファニートはこの日を境に自分の研究を投げ出し、見たことのない巨大生物に夢中になっていったのだった。
ファニートはこの巨大触手生物の仮の名前として、みずからの名前の頭文字からFエフと名付け、観察を始めた。
天候が許すかぎりボートに乗り、透明な海を覗きこんで影を探す。
そしてFの姿を見かけるやいなや、カメラを片手に海に飛び込んだ。
観察を続けるうちに、Fが深い海を好み、主に深海に生息していることが判明した。たしかに赤や紫の色というのは、水深五〇メートルより深くなると光が吸収され、真っ暗に見える。深海魚の保護カラーとして有名だ。
Fが深海でひっそりと生きてきたのなら、今まで発見されなかったのも納得できた。
しかし、ならばなぜ今になって、浅瀬に出てきたのだろう。ファニートの疑問は尽きなかった。
それからしばらくすると、義務付けられている定期研究発表に参加しなかったことを指摘する連絡が、所属している研究グループから届き始めた。このままでは来期の研究費用が下りないだろうという通告だった。
すでに島のラボで雇っていたわずかなスタッフさえ解雇していたファニートは、自分一人がFの観察を続けるくらいなんとかなるだろうと放置をしていた。
Fの存在を新種の生物として発表できれば、スポンサーには困らないのだからと。
そのためには、Fと既存の生物データをしらみつぶしに突き合わせ、Fがたしかに未記載種であるという証明と、その学術論文を用意しなくてはいけなかった。
Fを誰にも取られたくないと固執したファニートは、次第に頑なに人を遠ざけ、一人で研究に没頭していったのだった。
未記載種の学術論文には、Fの種の特徴と、近似種との区別点の記載が義務付けられている。
ファニートがFを観察すればするほど、当初想定していた大型クラゲの近似種ではないということが明らかになっていった。
Fの知能は非常に高く、非言語のコミュニケーションによる意思の疎通も可能で、タコやイルカのように道具を使うこともできたのだ。
時間をかけて慎重に観察を重ねようとしていたファニートを、知能の高いFは敵ではないと早々に認識してくれたらしい。
ファニートが戸惑うくらいまっすぐに懐いてくれるFは、純粋にかわいかった。
ボートを錨泊させると、どこからともなくFが近寄ってくる。
ダイビングの準備をするファニートに、Fは待ちきれないとばかりに触手を伸ばすのが日常となっていた。
泡で遊ぶのが好きなFは、口から出した空気の塊をドーナツ状にするバブルリングが一番お気に入りだった。一緒に海底を泳ぐのが好きなFが、ファニート一人を海底に潜らせるときは、バブル遊びの催促だ。
Fは海底から浮上してくる泡やバブルリングに何度も触手を伸ばしては、無邪気に喜んでいた。
太陽を背にFが泡と遊ぶ姿を海底から見ていると、ファニートはその美しさにシャッターを切らずにはいられなかった。
ファニートのパソコンは、Fの画像でいっぱいだ。それでも写真に残さずにはいられない。
Fはそんなファニートの水中カメラにも興味津々だったのだが、高価な機材を壊されてはたまらない。
ファニートはあの手この手で伸びてくるFの触手から、カメラ機材を必死に守っていた。
そんなある日、ファニートは海の底へと続く急斜面から、うっかりカメラを落としてしまった。
光が届かない断崖に吸い込まれていくカメラを見て、買い直すしかないと諦めていたファニートに、数日後、Fはカメラを持って現れた。
おそるおそる確認をしたら、どこも壊れていない。
それどころか、真っ暗な画像、画面いっぱいの触手の接写画像、水中からボートを見上げた画像など、撮った覚えのない水中写真が何枚も記録されていたのだ。
それからファニートは、Fがカメラをねだるときは快く貸している。そうするとFから見た海の中を、ファニートにも垣間見ることができるのだった。
ファニートが陸に戻るときは、いつもFが名残惜しそうに浅瀬近くまで見送ってくれた。
岩場で柔らかなFの体が傷付かないように、他の人に見つからないように、海に戻るように説得するのは大変だった。
こうしてファニートは、ますます海の中で過ごすことが増えていった。
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