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1.ファニート・出会い
しおりを挟む初めて出会ったとき、それはクラゲの傘のような半透明な体を広げては収縮させて、海の中を漂っていた。
†
海洋生物学の中でもクラゲの生態について研究をしていたファニートは、北大西洋の南部に浮かぶ人口一万人ほどの静かな小島を拠点に、連日のように海に潜っていた。
その日のファニートは、いつもよりもう少し深くまで潜ろうかと、小型ボートを操縦して沖合にまで足を伸ばしていた。
この島周辺は暖流の北大西洋海流が流れているため海も豊かで、入り組んだサンゴ群生地が広がっているのだ。
ファニートは目的のポイントに到着すると、腰から下だけ身につけて適当に放置していた残りのウェットスーツを引っぱりあげ、なんとか体を押し込んだ。
アンカーを投錨しボートを海上に錨泊させると、さっそくダイビングの準備に取りかかる。
クラゲの毒に影響されないように、厚手のウェットスーツは手首から足首までしっかりと全身を覆っていた。ファニートはさらに肌の露出を減らすため、フルフットフィンという足ひれを履き、作業用手袋をはめてく。
人間の生きていけない海の中に長時間潜るためには、たくさんの道具が必要だった。
うんざりしながらも流れ作業でウエイトを腰に巻き付けるファニートの動きは、もはや熟練ダイバーだった。
BCジャケットなどのスクーバ機材一式をチェックし、サイドマウントスタイルで体の両脇に一本ずつ、計二本の酸素タンクを装着した。最後に一番大事な研究機材を何度も確認してから、フルフェイスマスクをつける。
残念なことにファニートのクラゲの研究はとても地味で、もともと少なかった研究費でさえ年々削られているという厳しい現状だった。
ラボでの分析作業をサポートしてくれる数名のスタッフはいたが、過酷なフィールドワークに連れていくスタッフを新たに雇い入れる余裕はない。
だからファニートには、海の中でトラブルがあっても助けあえるバディはいない。そのぶん明確な自己責任であることが気に入っているファニートは、この日もソロで行うサイエンス・ダイビングに勤しんでいた。
ファニートは、ボートの後部デッキからなるべく静かに海にエントリーし、水の中でウォッチ型のダイブコンピューターに目をやった。
潜水時の平均深度を十五メートルとすると、およそ六十分が潜水可能時間だ。今日はもう少し深いポイントを調査したい。そうなるとさらに潜水時間は短くなっていく。
限られた時間で必要としているデータを得るために、ファニートは目的のポイントまでまっすぐに潜っていった。
ボートの下は比較的浅くて綺麗な海域が広がっている。
水面近くまで、色とりどりのサンゴが樹枝状と塊状の群体を造っていた。ファニートはサンゴを傷付けないよう慎重に、サンゴの谷間を潜っていく。
そうして水温が下がるごとに、明るくきらめいていた海が濃く暗い青一色になっていくのだ。
ファニートは目的の水深に到達すると、BCジャケットに少量の空気を入れることで浮力を調節した。
目の前の岩に広がるミリ単位のクラゲ幼生に目をこらすため、あとは微妙な呼吸のコントロールで一定の水深に留まり続ける。
海水温の変化とともにポリプから変態したストロビラが遊離し、エフィラ幼生と呼ばれるクラゲの赤ちゃんが誕生する季節が、もうすぐそこまで来ている。
ファニートは少しも見逃すまいと、作業に没頭した。
実のところクラゲは不思議な生き物だった。
広い海をゆらゆらと漂う大型のクラゲを見ていると想像もつかないが、海の生態系ピラミッドの下層を支えるプランクトンの一員として、その大半が魚類などのエサになる宿命の生き物なのだ。
だからこそ一匹でも多くの子が生きのびるように、有性生殖で繁殖するメスクラゲの抱卵数は数億個にものぼり、さらに幼生期には無性生殖で無限に増殖するのだった。
あまりにも不器用な生き方に思えるのだが、それでもこの方法で五億年以上昔から連綿と続いてきたクラゲの世界が、ファニートを引きつけてやまなかった。
ファニートは左腕のダイブコンピューターに目をやった。
もうそろそろ潮時かと、ファニートは耐水記録用紙や採取容器、水中顕微鏡をしっかりとしまい、BCジャケットの空気を抜いた。
目の前を上がっていく一センチに満たない小さな泡の速度に合わせて、ゆっくりと浮上していく。
浮上速度が速すぎると減圧症などで命を落とす危険があるため、帰りは行きよりも時間をかけてゆっくりと浮上しなくてはいけない。
ファニートは肺から息を吐きながら、浮力がかかりすぎないように慎重に水面を目指した。
水深が浅くなるにつれ、鮮やかな色彩が戻ってくる。
ファニートの目の前を、ダスキーダムセルフィッシュの稚魚が、オレンジ色の背びれを震わせながら横切っていった。
慌てて岩陰に隠れる様子を、微笑ましく見ていたファニートの周りに、影が落ちる。
水面を見上げると、太陽をさえぎる大きな生き物が、逆光で真っ黒なシルエットになっていた。
潜水していたファニートは、その生き物の大きさと重力を感じさせない優雅な動きに目が離せない。波の静かな海の中で、レギュレーターのマウスピースからはき出された空気が、しゅーごぼごぼと音を立てている。
空気は泡となって、光を反射しながら水面に向かってのぼっていった。
その大きな影はまるで泡と遊んでいるかのように、僅かに発光する長く伸びた触手を動かしていた。
サンゴにぶつかって我に返ったファニートは、震える手で水中カメラのシャッターを切ったのだった。
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