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173.泡沫
しおりを挟むそれからほどなくして、俺は、眠るように息を引きとったらしい。
オーニョさんの強い希望で、亡骸が、大切に保管してあった婚姻の衣装で飾り立てられていく。
気付いたときには、俺はふよふよとただよいながらそれを眺めていた。
準備の整った俺の遺体が、獣姿になったオーニョさんの背中に乗せられていく。
それを見る俺に、誰も気付かない。
なるほど魂の状態とはこんなものなのかと、俺は吞気に思った。
最後に、俺がかつてプレゼントした赤いピーリャを使って、オーニョさんの背中に遺体が括りつけられた。
道中すべり落ちたら大変だもんな。
そう思いながらちらりと盗み見た自分の死に顔は、我ながらとても穏やかなものだった。
すすり泣く声が聞こえる。
それでようやく俺は、ずっと無音の中にいたのだと気付いた。
音が戻ってきたことで、周りに気付くことができた。
俺は悲しまなくてもいいんだよと声をかけたが、まったく誰にも届かなかった。
頼りない存在だなぁと自分の手を見ると、年老いた老人の手ではなく、若々しい手になっていた。
もしかしたら全身が若返っているのかなと思ったが、俺を映してくれる物は一つもなく、確認のしようがない。
それもそのはず、自分の体は、陽炎のように揺らめきながら向こうがわが透けて見えていたのだ。
「父さん、気をつけて、いってらっしゃい」
「ああ。いってくる」
俺が死んだらもっと気落ちするかと心配していたオーニョさんは、いつもと変わらない様子で返事をしていた。
年老いた獣は、遺体を背に乗せ、たしかな足取りで走りだす。
引退したとはいえ今なお健脚を誇るオーニョさんの様子に、最初は反対していた参列者も、これなら大丈夫だろうと胸をなで下ろしていた。
俺は置いていかれると慌てたが、どうやら遺体からそう遠くには離れられないようになっているらしい。
ぼんやり空中に浮いているだけで勝手に引っぱられ、オーニョさんのあとをついていけるのだった。
びゅんびゅん通りすぎる景色に、楽できてよかったと少し笑ってしまった。
たくさんの人に見守られ、惜しまれながら、俺の遺体は、赤い砂漠へと運ばれていく。
オーニョさんの背中に乗って、目指すは三度目の砂漠だ。
思えば、日本で生きてきた時間の何倍もの長さを、この異世界で生きてきたのだ。
もはやこの世界が、そしてオーニョさんの隣が、俺の故郷だといえるのかもしれない。
俺は不思議な力に引っぱられながら、この赤いレンガの街並みを忘れたくないと、一生懸命に記憶におさめた。
オーニョさんは俺と出会った砂漠に到着すると、ピーリャの結び目を器用に外し、俺の遺体をそっと降ろした。
遺体に寄りそうように寝そべり、愛おしそうに頬を舐めている。
俺は透けて散らばって保てなくなってきた手をなんとかかき集めて、オーニョさんの赤毛を撫でようとした。
しかし、記憶の中の柔らかな感触は、伝わってこない。
集めても集めても、魂だけになった俺の手は、愛しいオーニョさんの毛並みに触れる前に霧散してしまうのだ。
俺は泣いた。
ようやく、誰にも遠慮せず涙を流せた。
オーニョさんのそばに居たいと声の限りに泣き叫んでも、もうこの喉が音を発することはないのだ。
誰にも聞かれる心配がないのならと、思うままに泣きに泣いた。
オーニョさんはそのあいだもずっと、俺に気付くことなく、俺の遺体に寄りそい続けた。
オーニョさんの綺麗な金の目が、俺を見てくれることはもう二度とないのだ。その事実が俺を打ちのめす。
そんな入れ物じゃなくて、俺を見てほしいとすがりついて泣いた。
いくら暴れて泣き叫んでも、実体のない体はこの世界に届かなかった。
遠くで怪鳥の声が聞こえる。
高らかに鳴く怪鳥の恐ろしい鳴き声は、何度聞いても弔いの鳥というより、地獄からの使者にしか思えない。
俺はオーニョさんに話しかけた。
――オーニョさん、あの鳥が来たよ。そろそろ出発しないと。みんなが待ってるよ。帰らなきゃ。オーニョさん。
しかし、俺の声は届かない。
オーニョさんは穏やかな顔で俺の顔を舐めながら、赤い砂漠に横たわる俺の遺体のそばから、動こうとはしなかった。
――止めてよ! ばか! オーニョさんのばか! こんなの俺、求めてないよ! オーニョさんはこれからも何十年と健康に生きて、ベッドの上で、みんなに見守られながら息を引きとるんだから!
助けてよ! 誰か助けて! オーニョさんを助けて! アキュース神さま!
しかし、ここは赤い砂漠。
アキュース神さまの庇護の外。
魂になった俺の叫びは、誰にも届かない。
空で旋回していた怪鳥が、こちらに向かって滑空するのが見えた。
オーニョさんはそれをちらりと見やると、穏やかな声で俺の遺体に話しかけた。
「一人にしないと、約束したろう。ずっと、最後まで、そばに居るから」
砂漠に影を落とす怪鳥の影が、大きく濃くなってくる。
風圧で砂煙が上がり、オーニョさんと俺の遺体は、大きく開けた怪鳥の口の中に丸呑みにされたのだった。
赤い砂漠の色が、たくさんの遺体から流れた赤い血の色に思えた。
肉体を失った俺の魂が、いよいよ空へと引きよせられていくのが分かった。
――いやだ、いきたくない! オーニョさぁん!
――ユーキ……っ!
そのとき俺の耳に届いた声は、聞き間違えるはずのない大好きなオーニョさんのもので。
俺の視線の先では、怪鳥の体からふよふよと抜けだそうとするオーニョさんの魂が見えた。
オーニョさんは魂の状態になってようやく俺を見ることができるようになったらしい。
空に向かって飛び上がり、俺に向かって必死になって両手を伸ばした。
俺もまた地上に向かって足をばたつかせ体をひねって、死に物狂いで手を伸ばした。
それでも魂は空へと引きよせられ、地上が遠のいていく。
届きそうで届かない俺とオーニョさんの手が、オーニョさんの跳躍によって一瞬届いたかに見えた。
しかし実体のない二人の手は触れあうことなく、交わりかき消え離れていく。
オーニョさんの手の温もりを感じることはできなかった。
離れていく距離を止めることはできない。
俺の目から大粒の涙が雨のようにぼたぼたと落ちて、頬を離れたそばから煙のように消えていった。
体を保てなくなった俺の体は、どんどんと空に吸いこまれていく。
最初は足がなくなった。
続いて手、体、声を失い、耳がなくなり、最後に残った片目がオーニョさんの姿を捉えた。
――ユーキ! 待ってい**、*****!
オーニョさんが必死になって叫ぶ口元を見て、俺は笑った。
笑うことができた。
恐怖は消えうせ、笑顔でこの異世界から旅立つことができた。
――うん。俺、待ってるよ……っ!
オーニョさんとの約束を胸に、俺は泡沫のごとく、愛してやまない赤い異世界から消えうせた。
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