死神と甘い一夜を永遠に

匠野ワカ

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6.約束された幸せな日々

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 次の日の朝。


 朝の澄んだ空気に抜けるような青い晴天。
 ひんやりとすがすがしい秋晴れの空を、江原は寝ぼけ眼で見上げていた。


 部屋のカーテンはいつの間にか大きく開けられており、ベッドの上で眠る江原の顔に、朝の日差しがさし込んでいた。

 短い睡眠時間だったはずなのに、それは不思議なほどすっきりとした目覚めだった。



「……死んで、いない……」

 江原は胸に手をあて、自身の鼓動を確認した。
 心臓はとくとくとくと一定のリズムを刻み、たしかに生きていると主張している。


 黒い鎌が命の糸を刈りとろうとしていたのは、あの肌のぬくもりは、苛烈なまでの快楽は……。こんなおじさんを好きだと言ってくれた死神のすべてが、夢だったのだろうか。


 江原はしばらくぼんやりとしてから、ふっと息を吐いた。

 考えても分からないのなら考えるだけ無駄なのだろうと、江原は布団の中で、ぐいっと伸びをしようとした。

 ばきぼきと音をたてて伸びていく感覚が好きで、江原のささやかな朝の日課なのだ。


 しかし今朝は、腕を上げただけでするどい痛みが走り、体の動きが止まってしまった。
 上げた手を下げる動作も慎重に、息を潜めるようにそっと動く。


 いつものぎっくり腰ではないようだ。しかし、どうもあちこちが痛い。
 そもそもこの歳になると腰痛や関節痛ですんなり起きあがれる日のほうが少ないのだが、それにしても、あらぬところが痛い。
 あらぬところとはつまり——。


「おじさん、おはよ。どう? どこか痛かったりする?」


 声とともに足音もなく忍びよってきたのは、真っ黒な毛並みの猫だった。

 黒猫はするりとベッドに飛び乗り、江原の顔にすり寄る。
 いつの間に。どこから入りこんできたのだろうか。
 江原は、もしかしたらこれも不思議な夢の続きなのかもしれないと混乱しながらも、夢なら冷めないで欲しいと、顔に感じる黒猫の毛並みにうっとりと目を閉じた。


「ネコちゃん……」
「おーい。大丈夫かー。薬とかいるならいってね。すぐ用意するから。昨夜はちょっとやり過ぎちゃったもんねぇ。今日はベッドでゆっくり寝てすごそっか?」


 はっきりと耳元で聞こえた声に、ぱちっと目を開ければ、江原を覗きこむ黒猫と目が合った。

 部屋の中にはやはり、江原以外には誰もいない。
 艶やかな黒い毛並みに金色の瞳の猫一匹を除いて。


 まさかと思いながらも猫をまじまじと観察すれば、大きな丸いガラス玉のような瞳の中央に、星空のような小さな光が瞬いていた。
 見覚えのある瞳。
 聞き覚えのある声。


「えぇ、ま、まさか、クロ、さん?」
「ぴんぽーん! 大正解だよぉ! おじさんの理解が早くて、俺、本当に助かるわぁ」

 黒猫の口がもにょもにょと動くたびに、その口から聞き覚えのある低い声が聞こえてくるのだ。

「え? な、なんで? あ、今から? 今から死ぬんですか?」
「まさかぁ! 俺さ、おじさんのこと気にいっちゃったでしょ? だから魂を狩るの、もう少し先でもいっかなって」
「いやしかし、死神の仕事だって納期やノルマがあるのでは?」
「まーね。でもいーのいーの。なんならこんな仕事、転職してもいいんだし。でもそうすると違う死神が派遣されちゃうかもしれないでしょ? だから、魂の浄化プログラムを最大限に利用しようと思って」


 黒猫はごろごろと喉を鳴らしながら、江原の顎に頭をこすりつけている。
 ついでに掛け布団を足でふみふみ踏みならしはじめた。

 非常にかわいい。


「魂の浄化プログラム……?」
「そう。おじさんの心残りをなくして魂を最高の状態にするのに手間取ってるってことにすれば、あと十年や二十年くらい誤魔化ごまかせるんじゃないかなって。魂の状態でもおじさんなら十分かわいいし、寝ている間に連れてっちゃおうかなとも思ったんだけど、やっぱセックスするなら体がなきゃね」


 黒猫はベッドの上でごろんとあお向けになって、うねうねと背中をこすりつけている。
 非常にかわいい猫の腹に目を奪われていた江原は、突然のクロの発言に盛大にむせた。

「大丈夫? おじさん」
「ごほっ、げほげほ! わ、私は、猫と、ふしだらなことは、しませんからねっ!」
「あはは! 誰も猫の姿でするなんていってないじゃん! おじさんって結構、変態だよね?」
「んな! へへへんたい」
「難しく考えずにやってみたら、猫とも楽しいかもよ?」
「ししししませんってば!」
「ふふ。まぁおじさんがどうしても嫌なら、夜は人間の姿になるから安心してね」


 黒猫はそういいながらも、江原に見せつけるようにざりざりと足を舐めて毛づくろいを始めた。

「ず、ずるいじゃないですか!」
「へ? なにが?」
「そんなかわいい姿で! 私を懐柔しようとして!」
「なになに、懐柔されそうなくらいかわいい? ね、俺、かわいい? おじさんの夢をかなえるために変身してるから、喜んでくれたなら嬉しいな!」
「私の?」
「そっ! 猫を飼うのが夢だったんでしょ? 俺ならおじさんの仕事が遅くなっても大丈夫だからね。万事解決! 俺ってば賢い! ね?」


 うにゃうにゃと鳴きながら首をかしげる黒猫の仕草に、江原はときめき過ぎる胸を押さえた。

「くっ。中身が死神さんだと分かっていても、あまりにもかわいい……っ! もう、お願いですから、人間の姿に戻ってください! 黒猫さんがかわいすぎて、話がちっとも頭に入ってこないんです……っ!」


 江原の懇願に、黒猫はちぇっと舌打ちをして、音もなくくるんと一回転をしてみせた。
 軽やかにベッドに着地するまでの一瞬で、黒猫は煙のように人間の姿に変化する。

 ぎしっとベッドが軋み、金色の髪が江原の顔にかかった。


 クロの整った顔が至近距離で江原を見下ろしている。


「そういえば朝ご飯用意してあげようと冷蔵庫を開けたら、アルコールと栄養ドリンクしか入ってなかったんだけど、どういうこと? そんな生活だから夜中にぽっくり逝きそうになったんだからね? 分かってるの? これからは俺がおじさんの健康管理をするから、いっぱい長生きするんだよ。目指せ平均寿命! それで、いっぱいセックスしよ!」


 クロが人間の姿になっても、江原の胸の高まりは収まりそうもない。
 それどころか早くなる一方だった。

 ときめきが止まらない江原は胸を押さえたまま、だらだらと汗をかき赤面した。


(いっぱい……えっち……してくれるんだ。嬉しい。……嬉しいってなんだ。どういうことだ。これじゃまるで、……死神さんのことが、す、す、すき、みたいじゃないか……)

「あっは! うれし! 俺も善生さんのこと、大好き! これから末永くよろしくね!」


 江原は真っ赤な顔のまま、首振り人形のように何度も首を縦に振る。
 クロは江原の首に腕を回し、ぎゅうぎゅうと抱きついた。

 筋肉の塊に抱きつかれ、江原の口からはぐえっと死にかけのカエルのような声が出た。


「おじさんの初めては、未来永劫ぜぇーんぶ俺がもらっちゃうもんね。よろしくね! 善生さん!」


 早まったかもしれないと江原はおびえ涙を浮かべたが、すでに後の祭りだった。

 ちなみに、この日江原は、生まれて初めて無断欠勤をするはめになったのだった。




 それからの死神クロとの生活は、江原に大きな変化をもたらした。

 猫の世話というのを口実に帰宅時間が早くなり、食生活や睡眠の質が改善されたことで、仕事効率が格段に上がったのだ。

 相対的に仕事の評価も上がったが、なによりもクロとの生活で表情が豊かになったことにより、江原の穏やかな内面に目を向けてもらえることが増えたのだった。
 一日の大半を過ごす職場での人間関係が円滑になったことで、江原の表情はますます柔らかくなっていった。

 人生の晩秋になって、光栄なことに人から好意を寄せられることが増えた江原は、それでも生涯を独身で過ごした。


 かわいい猫がヤキモチを焼くから、というのがいつもの江原の断り文句だった。

 恋人がいるとかいないとか噂の絶えない江原の私生活は、生涯謎に包まれたまま、九十歳で幕を下ろした。




 江原の最期が幸せに満ちたものであることは、見るまでもなく明らかなことである。

 しわしわになった江原に、それでもかわいいかわいいといっては甘いキスを送った死神は、最愛の人の魂を守りきったのだ。


 ——それは生まれ変わっても、永遠に。




(おしまい)

 

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