死神と甘い一夜を永遠に

匠野ワカ

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2. チャラい死神さん

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「て、天使さ、ま……?」


 早朝に近い暗闇の時間帯。

 ベッドの中でするどい胸の痛みに目を覚ました江原は、立ったまま自分を見下ろす若者と目が合った。


 常夜灯の薄明かりを背に立つ体格のいい若者。
 その金色に光る髪が天使の輪に見えたのは、ありえない状況に脳が混乱していたからだろうか。



 よく見ると、若者は黒い靴のままベッドの上に立っていた。
 手には武器だろうか。不吉なまでに黒く大きな鎌を手にしている。

 日頃は常に眼鏡をかけている江原だが、老眼だから別に眼鏡がなくてもちゃんと見えるのだ。むしろ見間違いであって欲しかったと江原は思った。

 服はどこにでも売っていそうなオーバーサイズのパーカーに細身のパンツで、上下ともに真っ黒だ。
 暗闇に溶け込むような服装と、今にも光りだしそうなさらさらの金髪。

 江原の頭には強盗殺人という言葉がよぎったが、表情は眉一つ動かない。
 ただ江原の指が震えながらきゅっと布団を握り、深く刻まれた額のシワに冷や汗が流れた。
 


 そんな江原を静かに観察していた若者は、にっと白い歯を見せてきれいに笑ったのだった。

「うるさく騒がないなんていい子だねぇ、おじさん。俺は、死神のクロ。強盗殺人犯でも天使でもないよぉ。おじさんをお迎えに上がりました!」
「し、しにがみ……?」
「そう、死神でっす!」

 クロと名乗る若者が手にしている鎌は、なるほど死神の鎌といわれればそうかもしれない。
 江原は唖然あぜんとして言葉を失いながらも、クロから目が離せなかった。

 クロの持つ黒い影のような大鎌は、よく見ればうっすらと揺らめく光の糸を刈りとろうとしているのだ。
 光の糸の先には、頼りなく発光する小さな球体が浮いている。

 視線で糸をたどれば、自分の胸あたりから生えているのに気付いた。


(もしかして、これがわたしの、たましい……?)


 江原は混乱しながらも光の糸に手を伸ばしたが、触れられずに通りすぎた。
 そのままぺたりと自分の胸に到着した手を見れば、光の糸は手の甲をすり抜けふよふよと漂っている。

 筋肉の落ちた体。シワの増えた手。
 江原は自分が歳を取ったことくらい知ってはいたが、それでも今日死ぬのだとは想像もしていなかった。

 胸に置いた手のひらからは、鼓動が伝わってくる。まだ、たしかに生きているのだと分かった。


(なぜ私は何の確証もないのに、まだまだ生きられる前提でぼんやりと生きてきたのだろう。そうか、死ぬのか。ただの一度も誰とも愛しあわずに、人の肌のぬくもりも知らずに、私は今から死ぬのか……)


 心もち眉を下げ、胸に手をあてたまま黙り込んでしまった江原を見て、クロは何が楽しいのか上機嫌に笑う。


「んふふ。おじさん、いいね! 見た目はぱっとしないのに、めちゃくちゃピュアじゃん。その歳までどうやってその純粋な魂を維持してたの? きれいだねぇ」

(き、きれい……?)


 言われたことのない言葉の羅列に目をしばたく江原を見て、クロは光の球をよりいっそう優しく撫でた。


「そう、きれいでしょ。余計な色が混じってない魂の光」
「ふわっ、んッ!」


 江原は自分の口から出た声に驚き、口を押さえた。

 クロの白く細い指が光に触れることで生じたぞわぞわとした感覚が、下半身を直撃したのだ。
 江原は無表情のままうろたえた。

 ストレスからもともと薄かった性欲がさらに衰え、もう何年も自家発電さえしていなかったのだ。
 クロは光の球を撫でながら話し続ける。


「悪人の魂なんて、悪臭はひどいしドブ色してるんだよ。そういうヤツにかぎって人の話なんてまったく聞かずに、ぎゃんぎゃん騒ぐしさぁ。気分はもう汚物処理。はぁ。転職しよっかな」
「ふっ、やめ……っ、やめてくだっ、んっ!」


 江原は恥を忍んで制止の声を上げたが、クロはさらに熱心に光の球を撫でまわす。

「ああ、これ、気持ちいい? ……んふふ。特別サービスだよぉ。ほれほれ」
「あっ、だ、だめ」
「かっわいい声だねぇ」


 こんなさえない中年男の喘ぎ声がかわいいものかと、江原は必死に唇を噛んで耐えようとした。

 しかし、生まれて初めて他人の手によって与えられた性感に、耐えられるはずもない。
 さすがの無表情も上気し、射精感を堪えるために足を擦りあわせて悶える。

 クロはそんな江原の様子を、心底楽しそうに眺めながらにっこりと笑ってこういったのだ。


「俺、いいこと思いついちゃった!」


 顔を見ただけで分かる。絶対にいいことではない。
 江原はずりずりとベッドの隅に逃げた。


「もともと俺たち死神の仕事って、死んだあとの魂が現世で悪霊になるのを防ぐための仕事なのにさぁ。何に感化されたのか、効率化とかいって仕事の成果を数値化することになっちゃって。世知辛いよねぇ。成績が悪いと性格の悪い上司にいびられるし、肝心の魂は汚物だし、雑務ばっかり増えるしでさぁ。
 まぁ上司が理不尽でクソなのは置いといて、つまりこの仕事って、納品する魂が高品質なほうが高ポイントなの。魂の浄化が上手くいけばいくほど仕事の評価が上がるってわけ。分かる?」


 江原が逃げださないようにしっかりと魂を捕まえたまま、クロは仕事の愚痴をこぼす。
 死神の仕事事情なぞ知らないが、長年仕事一筋で生きてきた江原にも仕事の愚痴の一つや二つや三つや四つ、ある。


 江原があれやこれやを思い出しながらうんうんと頷けば、いい子いい子と魂を撫でられて、すっかり体から力が抜けてしまった。

 ふにゃふにゃになったところで巧みに魂を引っ張られ、気付けばクロの足もとまで引きよせられていた。
 もはや江原は、釣りあげられる寸前の魚だった。


「いつもは汚物に手間暇かけるなんて面倒くさくてやらないけどね。おじさんは心残りなく成仏できて、俺は高品質な魂を納品して成績アップ。上手くいけば昇級して汚物処理から解放されるかもだし。うんうん。ここは一つ俺がおじさんの心残りをなくして、最っ高の魂にしてあげる! ね? おじさんも嬉しいでしょ!」


 急に同意を求められても困る。
 江原は冷や汗をかいた。
 それでも相手は、武器を手にした大柄な男性なのだ。

 同意するしか道のない江原は、壊れたおもちゃのように縦に首を振りながら考えた。


 自分が死んでも悲しんでくれる家族や友人はいない。仕事は途中だが、一人くらい急にいなくなってもなんとかなると経験上知っている。
 今となっては残していく猫がいなくてよかった——。
 心残りがなにも思い浮かばない江原は、空っぽの自分の人生をかえりみて年甲斐もなく泣きだしたいような寂しい気持ちになった。……顔は無表情だが。


「ほらほら、なにしんみりしちゃってんの。あるじゃん心残り! あれだよ、あれあれ! 死ぬ前に一回くらいセックスしたかったっていってたあれ!」

 クロのとんでもない発言に、江原の口はぽかんと開いた。何を言っているのか意味が分からない。


「……は?」
「分かるよ分かる! 人間の三大欲求だもんね! 気持ちいいことしたいよねぇ!」
「ちょ、ちょっと待ってください。私はそんなこと一言も」
「ああ。俺ね、相手に触れることで心の中が見えるのよ。どこでもいいんだけど、今だったらこうやって魂を握ってるから、おじさんの心が筒抜けってわけ。なんかごめんね。でもさ、童貞処女のまま死ぬのが心残りって、おじさん自分で言えるタイプじゃないじゃん? だからさ、優しい死神が相手で、おじさん本当にラッキーだよねぇ!」

(ほ、本当に心の中が? 死神の力?)

「そうそう! 死神パワー! いやー、おじさんの理解が早くて、俺、本当に助かるわぁ。じゃ、ぱぱっとやっちゃいましょう! セックス!」



 こうして江原の長い秋の夜が始まったのであった。




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