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05.或る男
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凛空が智也のマンションから去ったあと、すっかり乏しくなった食卓が寂しくて、智也は仕事帰りの夕食は専ら外食をするようになっていた。凛空との思い出が詰まった、自分のクリニックがある商店街での食事では、さらに虚しさが募るため、居住するマンション近くの店を開拓した。
今夜の智也は小さな小料理屋ののれんを潜った。
艶やかな和服に割烹着を纏った女将が柔和な笑顔を浮かべるカウンターに向けて、今日のおすすめを聞く──小田原からワカシのいいのが入っているわ。ワカシっていうのは、ブリのちいさいのねと、一通り出世魚であるブリの名称についてのうんちくを聞きつつ、とん、とカウンターの上に出された食事は、蒸し焼きにしたワカシの上に醤油ベースの野菜餡が乗ったものだった。とろりとした野菜餡の奥にあるワカシの身を箸でほぐすと、真っ白い身が現れた。絡まれている野菜餡と共にワカシの身を口にすれば、ほろりと優しい味がした。
智也の目尻に涙が浮かぶ。
「大丈夫ですか?」
隣の席に座るサラリーマンらしき男から、すっとハンカチが差し出された。
「ふ……あ、大丈夫です」
ありがとうございます、でも、ハンカチをお借りするわけにはと遠慮をしたが、まあまあ、そんなことは言わず。失礼するよと、涙を拭きとられた。
「あ、洗ってお返しします」
そう? いいのにと、隣の男は言ったが、智也はハンカチを受け取った。
「ふふ。ハンカチを返してもらうというワンチャンをゲットしたってことだね」
微笑む顔が恐ろしくいい。ハーフなのだろうか。
智也の元から去って行った凛空もそうだったが、智也の好みは一貫していた。色素が薄い男が好きなのだ。凛空は小動物系の可愛さだったが、この男はどちらかといえば肉食獣のそれで。しかし、恐ろしさはない。まるで、雄ライオンが日の当たるサバンナでゆったりと尻尾を揺らして日向ぼっこをしているような、どっしりとした風格さえも感じられる佇まい。
隣に座るだけで、全面的に頼ることが出来そうになる。
知らず、愚痴をこぼしだす智也。
昔から智也は神経質な性質だった。ベッドの上に乗る前には一通りシャワーなり、風呂なりで身体の汚れを落とし、洗いあがった部屋着を着用しなければならない。リビングに並ぶリモコンは、きっちり等間隔に並び、全て上側がテレビの方向を向いていないとならない。大学の授業で公衆衛生について学んでからは余計にその性癖が顕著になり、始終、いたるところを消毒するようになった。凛空と暮らす上で、その性癖を極力抑えるようにしてはいたが、どうしても他の人よりは生活の基準が難しくなる。そして、凛空を追い詰めてしまった──あんなに愛していたのに。
隣の男は聞き上手で、女将の作る肴は美味しくて。ついつい酒がすすむ。
そろそろお開きにしてくれないかしらと、女将にやんわりと帰って欲しい旨の依頼をされる頃には、智也はすっかり出来上がっていた。
千鳥足で歩き出す智也。覚束ない足取りを心配した女将が、智也の隣に座っていた男に、「ハルくん、この方のお家がどこか聞き出して、送って行ってあげられる?」と言っている声が何処か遠くで響いている。よいしょと智也の腰を支える腕が見た目よりがっしりとしていて、心地がいい。
「ふあ。ありがとうごりゃいます」
「口、回っていないですよ? 家の場所を教えてもらっても?」
「ふぁい。すぐそこに見えるマンションです」
指し示したマンションの十五階にある智也の部屋に辿り着くと、智也は玄関先の廊下にダイブした。廊下の床の冷たさに、火照った頬を擦り付ける。
「こんなところで寝てはだめですよ」
智也はふわりと自分の身体が浮き上がるのを感じた。ゆらり、ゆらりと身体が揺れる。どこに筋肉がついているのか不思議だが、智也を横抱きにしても男の体幹はブレることなく、難なく智也を運ぶ。
「ここ、寝室ですか?」
寝室のドアノブに男が手をかけたところで、智也がむずかった。
「や、あっ。お風呂に入ってからじゃないと、ベッドに乗っちゃいけないんだよお」
「え? じゃあ、リビングの方にお連れしましょうか」
「やだ、もう寝るのお。お風呂はいりゅ」
「その状態でお風呂に入るのは厳しくないですか?」
「んー? そう? じゃあ、はりゅくん一緒にはいってくれりゅ?」
まだ男は智也に対して名乗ってはいなかったのだが、先ほど女将が呼んだ名前を覚えていたのか、智也は男のことをハルと呼んだ。もっとも呂律が回っていないため、「はりゅくん」呼ばわりだったが──。
「はあ、もう。勘弁してくれ。どうしてそんなに無防備なんだ。どうなっても恨むなよ」
男──名高晴彦は、智也の頬に口づけを落とすと、脱衣室のドアを開けた。
今夜の智也は小さな小料理屋ののれんを潜った。
艶やかな和服に割烹着を纏った女将が柔和な笑顔を浮かべるカウンターに向けて、今日のおすすめを聞く──小田原からワカシのいいのが入っているわ。ワカシっていうのは、ブリのちいさいのねと、一通り出世魚であるブリの名称についてのうんちくを聞きつつ、とん、とカウンターの上に出された食事は、蒸し焼きにしたワカシの上に醤油ベースの野菜餡が乗ったものだった。とろりとした野菜餡の奥にあるワカシの身を箸でほぐすと、真っ白い身が現れた。絡まれている野菜餡と共にワカシの身を口にすれば、ほろりと優しい味がした。
智也の目尻に涙が浮かぶ。
「大丈夫ですか?」
隣の席に座るサラリーマンらしき男から、すっとハンカチが差し出された。
「ふ……あ、大丈夫です」
ありがとうございます、でも、ハンカチをお借りするわけにはと遠慮をしたが、まあまあ、そんなことは言わず。失礼するよと、涙を拭きとられた。
「あ、洗ってお返しします」
そう? いいのにと、隣の男は言ったが、智也はハンカチを受け取った。
「ふふ。ハンカチを返してもらうというワンチャンをゲットしたってことだね」
微笑む顔が恐ろしくいい。ハーフなのだろうか。
智也の元から去って行った凛空もそうだったが、智也の好みは一貫していた。色素が薄い男が好きなのだ。凛空は小動物系の可愛さだったが、この男はどちらかといえば肉食獣のそれで。しかし、恐ろしさはない。まるで、雄ライオンが日の当たるサバンナでゆったりと尻尾を揺らして日向ぼっこをしているような、どっしりとした風格さえも感じられる佇まい。
隣に座るだけで、全面的に頼ることが出来そうになる。
知らず、愚痴をこぼしだす智也。
昔から智也は神経質な性質だった。ベッドの上に乗る前には一通りシャワーなり、風呂なりで身体の汚れを落とし、洗いあがった部屋着を着用しなければならない。リビングに並ぶリモコンは、きっちり等間隔に並び、全て上側がテレビの方向を向いていないとならない。大学の授業で公衆衛生について学んでからは余計にその性癖が顕著になり、始終、いたるところを消毒するようになった。凛空と暮らす上で、その性癖を極力抑えるようにしてはいたが、どうしても他の人よりは生活の基準が難しくなる。そして、凛空を追い詰めてしまった──あんなに愛していたのに。
隣の男は聞き上手で、女将の作る肴は美味しくて。ついつい酒がすすむ。
そろそろお開きにしてくれないかしらと、女将にやんわりと帰って欲しい旨の依頼をされる頃には、智也はすっかり出来上がっていた。
千鳥足で歩き出す智也。覚束ない足取りを心配した女将が、智也の隣に座っていた男に、「ハルくん、この方のお家がどこか聞き出して、送って行ってあげられる?」と言っている声が何処か遠くで響いている。よいしょと智也の腰を支える腕が見た目よりがっしりとしていて、心地がいい。
「ふあ。ありがとうごりゃいます」
「口、回っていないですよ? 家の場所を教えてもらっても?」
「ふぁい。すぐそこに見えるマンションです」
指し示したマンションの十五階にある智也の部屋に辿り着くと、智也は玄関先の廊下にダイブした。廊下の床の冷たさに、火照った頬を擦り付ける。
「こんなところで寝てはだめですよ」
智也はふわりと自分の身体が浮き上がるのを感じた。ゆらり、ゆらりと身体が揺れる。どこに筋肉がついているのか不思議だが、智也を横抱きにしても男の体幹はブレることなく、難なく智也を運ぶ。
「ここ、寝室ですか?」
寝室のドアノブに男が手をかけたところで、智也がむずかった。
「や、あっ。お風呂に入ってからじゃないと、ベッドに乗っちゃいけないんだよお」
「え? じゃあ、リビングの方にお連れしましょうか」
「やだ、もう寝るのお。お風呂はいりゅ」
「その状態でお風呂に入るのは厳しくないですか?」
「んー? そう? じゃあ、はりゅくん一緒にはいってくれりゅ?」
まだ男は智也に対して名乗ってはいなかったのだが、先ほど女将が呼んだ名前を覚えていたのか、智也は男のことをハルと呼んだ。もっとも呂律が回っていないため、「はりゅくん」呼ばわりだったが──。
「はあ、もう。勘弁してくれ。どうしてそんなに無防備なんだ。どうなっても恨むなよ」
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