叶う願いは一つのはず

橘 咲帆

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02.甘い時間

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 桑野凛空は専門学校を卒業後、パティシエとして働いていた。
 調理関係の専門学校はいくつかのコースに分かれてはいたが、凛空は卒業後の就職先として間口の広そうな栄養士のコースを取った。しかし、卒業後は運よくパティスリーへの就職が叶い、夢であったパティシエの道に進んだ。

 パティシエと聞くと、甘い甘い香りに包まれて、ふんわり幸せな仕事というイメージかもしれない。しかし、その実、仕事内容といえば肉体労働であった。二十五キロもある小麦の袋を持ったり、ふぬぬぬと生クリームを泡立てたり。修行の身とはいえ、自分で考えた菓子を店頭に並べたいという野望もあったりしたので、夜遅くまで新作スイーツを考えたりと。決して甘いものではないのである。

 その日も頑張って考えた新作を、シェフであり、オーナーであるパティシエにダメ出しされてがっくりと肩を落とし。自分が勤めるパティスリーと同じ商店街にあるバーでクダを巻いていた。

「ちっくしょー! またダメだったー!」
「むぐむぐ……美味しいけどね?」
「悔しいよぉ、マスター!」

 凛空が考えた新作スイーツは、ラズベリーを使ったドーム型のムースだった。ダメ出しされた試作品を、もったいないからとか、勉強するためにとか言い訳をして、いくつか店外に持ち出したうちの一つを行きつけのバーのマスターに差し出して反省会中なのである。新作スイーツは、さくさくとした食感のパイ生地に、艶のある甘酸っぱいラズベリーのムースが乗り、見た目にも女子が喜びそうな品だった。それを、オーナーパティシエは「何か足らないのだよな」の一言で一蹴した。

「うぇぇぇ。もっと、こう、わかりやすい説明をして欲しいよぉぉぉ」
「うーん。奴に説明しろと言うのも難しい相談だよな」

 オーナーパティシエとは同級生で幼馴染だったという、バーのマスターは、訳知り顔で頷いた。凛空もよくわかっているのだ。職人気質で、身内には口数が少なくなるオーナーパティシエにわかりやすい説明を求めるということは、鳴かないように調教された犬に吠えろというようなものであると。しかし、悔しいのだ。そして、わからないのだ。

「なんだろう? もうちょっとザクザク感があるといいのかな」

 凛空の横でもぐもぐと咀嚼しながら感想を述べるのは、凛空と同じくバーの常連である、歯科医の男、川野智也だった。そして、思いついた案を続ける。

「ムースの下側一面に、砕いたピスタチオを張り付けるとか?」
「!!!! それ、いいかも!」
「ムースも二層になるといいかも知れない。ラズベリーと、ピスタチオのムース」
「わわわ。メモメモ。ネタ帳! 明日作ってみよう。智也さん、ありがとう!」
「いえいえ、どういたしまして。凛空の役に立つなら本望だよ」

 親し気に名前で呼び合う凛空と智也はこのバーで知り合い、付き合いだした恋人同士だった。凛空の苗字である「桑野」と、智也の苗字である「川野」が似ているという話で盛り上がり、パティシエという職業柄、虫歯が怖いという凛空に、虫歯というものは感染症で、慢性疾患だから、適切な予防をすれば怖くないと説いたのは智也だ。
 凛空の仕事が終わった後だと、智也のクリニックは既に閉ってはいるが、歯の掃除くらいしてあげるよと閉院後のクリニックに凛空を呼び、一通りの掃除を終えた後に、もうちょっと口の中をみせてねと、ねっとりと指で咥内の性感帯を刺激された凛空は、その夜、智也が住むマンションで、尻で得る快感を知った。智也に抱かれるまで、自慰さえも数えるほどしかしたことがなかった凛空は、すっかり智也に心が奪われてしまった。

 テレビのドラマに出ていたとしても違和感がないほど整った容姿をしている智也。しかも、職業は歯科医だ。頭が良くて格好がいい。智也の経歴に対して何一つ凛空は寄与してきた過去はないが、横に並んでいると、ある種のトロフィーを得たようで誇らしい。恋人に依存して、執着しているのは凛空の方だった。

「ねえ、凛空。考えてくれた?」

 付き合いだして二回目のデートのとき、海沿いの高級ホテルのラウンジで、ゆらめくランプの光をその黒い瞳に映した智也が、凛空にプロポーズをした──今の日本では、正式な同性婚ではないが、パートナーシップ制度というものがある。そして、自分としては、パートナーには家を守ってもらいたい。それだけの稼ぎはあるし、凛空専用に個人年金も組むので、老後の不安もない。一生困らないようにするので、結婚をしてください。

 熱意をもって語る智也に対して、諾と言いそうになった凛空ではあったが、パティシエの仕事も面白い。その場での返答は保留にして、今に至っている──しかし。やはり。智也と離れるなどとはもう考えられない凛空だった。

「う……ん。新作スイーツが一つでも採用されたら、達成感が得られるかも。そうしたら……け、結婚……」
「ありがとう! 凛空!」

 凛空が結婚するという言葉を言うのに被せ、智也が抱き着いた。バーカウンターの向こうでは、マスターがグラスを磨きつつにっこりと微笑んだ。
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