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1巻

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   プロローグ


 たくさんの隣国に囲まれた小さな国、ミーマニ王国。
 大地は緑に溢れ、山々から流れる清らかな川が土を肥やす。その土で育まれた上質な作物が自慢の、穏やかな国だ。
 この日、そんなミーマニ王国に、祝福の鐘が鳴り響いていた。
 ローゼリア・ドラニクス侯爵令嬢と、ロベルト・フィベルト公爵家嫡男ちゃくなんの結婚を祝う鐘の音。
 積もりたての新雪を紡いで仕立てたかのような純白のウェディングドレスを身にまとう花嫁、ローゼリアは誰もが息を呑むほどに美しかった。
 すらりと伸びた背筋にしなやかな体。少し赤みを帯びた栗色の髪、秋の麦畑のような小麦色の瞳。
 そのあでやかな姿は、一本の薔薇ばらのよう。
 そして何よりも彼女の美しさを際立たせていたのは、来賓たちの心からの祝福と、隣に立つ新郎の存在だった。
 幸せに満ち足りた微笑みは、彼女の身につけるどんな装飾品よりも輝いていた。
 この笑顔と祝福に溢れた結婚式は、後々まで語られることとなる。
 鐘の音は日が落ちるまで鳴り響いていた。


 その日の夜。

「ローゼリアでございます。フィベルト家の皆様、不束者ふつつかものですが今日からロベルト様の妻として、改めましてよろしくお願い致します」

 フィベルト公爵家に、新たな家族が増えた。
 ローゼリア・フィベルト公爵夫人。
 先ほど、フィベルト公爵であるロベルトとの結婚式を終えてウェディングドレスを着替えたばかりの花嫁である。
 栗色の艶やかな髪は腰まで伸ばされて、彼女のすらりとした美しい立ち姿に花を添えている。
 部屋着のドレスをつまんでのカーテシーは、教科書に載せられそうなほど洗練されていて、見る者が思わずため息を漏らすほどだ。

「リア、改めてよろしく。君の部屋はすでに準備してあるから、今日はゆっくり休んでね。結婚式って花嫁が一番大変だから」

 夫となったロベルトは、今日から妻となったローゼリアをいつものように愛称の「リア」と呼んだ。
 この国では珍しい亜麻あま色の髪に、新緑を溶かしたような瞳。
 浮かべる笑顔はとろけるように甘く、穏やかな声は川のせせらぎのようにいつまでも聞いていたくなる魅力を持つ。
 それらを向けられた女性は、熟れ切った桃の甘すぎる果汁に喉を焼かれたような心地に襲われるという。
 互いが四歳の頃に婚約を決められたロベルトとローゼリアは、領地が隣同士なこともあり、顔を合わせない日のほうが少なかった。
 穏やかな性格のロベルトと、お転婆娘だったローゼリアは、時に姉弟のように、時にはよき相棒として、そして愛しい恋人として、結婚式を迎えるずっと前から唯一無二の人生のパートナーとなっていた。
 そんな二人がこれからは夫婦として、ともにフィベルト公爵家を盛り立てていくのである。

「ロベルト様ったら、私がこの程度で疲れてしまうとでも? そんなに貧弱ではございません。部屋で休む前に、屋敷を案内してくださいませ」
「今さら案内が必要かい?」
「もちろんですわ! どこに何があるかは把握しておりますが、妻として新鮮な気持ちで歩いてみたいのです」

 ふふん、と胸を張ってみせるローゼリアに軽口を返すロベルト。
 つい先ほど結婚式を終えたばかりの新婚夫婦とは思えない、息の合ったやり取りだ。

「まずはマーガレットに挨拶したいわ。これからは私の義妹いもうととなるのですもの」
「そう言うと思ったよ。部屋で着替えて待っているように言ってあるから、今から行こうか」

 二人は手を取り合い、微笑みながら歩いていった。

「ロベルトお兄様、ローゼリア様。ご結婚おめでとうございます。お二人が結ばれる今日という日を私も楽しみにしておりました」

 愛らしくカーテシーを見せてくれたのはロベルトの実妹、マーガレット・フィベルト。
 兄のロベルトと同じ亜麻あま色の髪を結い上げた、可愛らしい少女だ。
 若葉のような黄緑色の瞳は、新しい義姉を温かく迎えている。
 絶やされることのない穏やかな笑みは兄のロベルトのそれによく似ているが、マーガレットの笑顔は春の陽だまりのように見る者の心を和らげる。

「まあ、マーガレット。今日から貴女は私の義妹いもうとなのよ? 昔みたいにおねえさまと呼んでほしいわ」

 フィベルト公爵家と昔から家ぐるみの付き合いがあったローゼリアにとって、マーガレットは実の妹も同然の存在だ。
 小さい頃は「ローゼリアおねぇさま」と自分の後をついてきたマーガレットが、成長するにつれて「ローゼリア様」と他人行儀な呼び方になってしまい、内心はとても悲しんでいた。

(でも、今日からは義妹いもうと! 義妹いもうとだからおねえさま呼びは当然なのよ!)

 期待でいっぱいの視線を向けられて、マーガレットは少しためらってから口を開いた。

「ロ、ローゼリア、お義姉ねえ様……」
「マーガレット!! おねえさまよ! 私が貴女のおねえさまよ!」

 女性にしては背が高いローゼリアの腕のなかに、マーガレットはすっぽりと収まってしまう。


 温かくて柔らかく、ほんの少し甘い香りは、ローゼリアの幼い記憶と変わらない。
 お互いに淑女教育などが忙しかったせいで、こんな気兼ねのないスキンシップは久しぶりだった。
 妻と妹のやり取りを見守っていたロベルトは、侍女に促され時計を確認してから二人に声をかける。

「こらこら、リア。これからはたくさん呼んでもらえるんだから、はしゃがないの。マーガレットも明日からは学校なんだから早く休みなさい?」
「はい、お兄様。ローゼリア……お義姉ねえ様、本日はお疲れ様でした。ゆっくりおくつろぎになられてくださいませ」

 ロベルトとローゼリアは、二人で寝室に向かった。

「マーガレットったら、私たちの結婚式のために学校を休んでくれたのね。授業は大丈夫なの?」
「必要な単位はもうすべて取ってしまっているんだ。本当ならもう何日か休んでも問題はないんだけど……学園からすぐに戻るように頼まれたらしくてね」

 ローゼリアは大きくため息をついた。

「相変わらず、あのお馬鹿様は好き放題してるのね。まったく……」

 マーガレットはまだ学生。王都の貴族子弟が通う学園に通っている。
 フィベルト公爵家から王都まで、馬車を使っても片道で三時間の距離があるため、普段は学園の寮で過ごしている。
 その学園には、ミーマニ王国の王太子、オズワルドも在籍していた。
 オズワルド・ミーマニ王太子殿下……ローゼリアがお馬鹿様と呼ぶ彼が、残念なことに、マーガレットの婚約者なのである。
 第二側妃の息子であり第四王子であったオズワルド。彼が王太子となったのは、ある複雑な事情によるものだった。その立場を強めるための後ろ盾として、歴史あるフィベルト公爵家の娘であるマーガレットが王命により婚約者に選ばれてしまったのだ。
 なぜ、ローゼリアはオズワルドをお馬鹿様と呼ぶのか?
 それは、彼がまさしくお馬鹿だからである。
 王族の証であるきらびやかな金髪、上質なサファイアを埋め込んだような青い瞳。強い日差しを知らない、ビスクドールのような白い肌。
 その姿はまるで絵本に描かれた王子様がそのまま飛び出してきたかのように、それはそれは美しい。
 しかし、肝心の性格は童話の王子様とは対極にある。
 わがままで心が狭く、癇癪かんしゃく持ちで自分勝手。それでいて何においても自分が一番でないと気が済まないという、大変困ったお人なのだ。
 たとえば「今日は上質な肉料理が食べたい」とわがままを言って作らせた料理を、いざ目の前に運ばれてくると「やはり気分ではないから魚料理に変えろ」とまたわがままを言って拒否する。
 戸惑う料理長に、「王太子である自分の言うことが聞けないのか」と熱々のステーキを投げつけた話は有名だ。
 学園では金を握らせた取り巻きをぞろぞろと引き連れて、授業にも出ず遊び呆けている。
 教師たちすら恐れて放置している彼らをいさめることができる、唯一の人物がマーガレットだった。
 王太子の婚約者であり、次期王妃として毎日厳しい教育を受け続けるマーガレットは、元々の真面目で努力家な性格もあり、貴族子弟の集まる学園でも、学業からマナー、ダンスに至るまで常にトップを誇っている。
 マーガレットはそれだけの成績を収めながら、自分のことだけでなくオズワルドの単位取得や素行にも気を遣い、彼が問題を起こせば早急に対処する日々を送っているという。
 ローゼリアからすれば、お馬鹿様の頭のなかは、それこそビスクドールのように空洞なのではないかと疑いたい気持ちでいっぱいだった。
 さらに言えば、可愛いマーガレットの手を焼かせる馬鹿の空洞の頭に藁でも詰めてやりたいとも思っている。

「明日早くに学園へ戻るみたいだから、リア特製のクッキーを持たせてあげたらどうかな? 甘いものは元気が出るからね」
「そうですわね、ロベルト様。マーガレットの好きなクルミのクッキーをたくさん焼いてあげましょう」

 ロベルトも、妹のマーガレットのことを目に入れても痛くないほどに可愛がっている。
 だからこそあのお馬鹿様との婚約を解消できないかと幾度も国王陛下に願い出ているのだが、いまだに聞き入れてもらえていない。
 学園を卒業すれば、それと同時に婚姻が待っている。
 それまでになんとしても、可愛い妹があんな男に嫁ぐのを阻止しなければならない。

「私も全力でお手伝い致しますわ、ロベルト様。私にとっても可愛い可愛い義妹いもうとですもの」
「頼りにしているよ。でも、あまり無茶はしないでね? 君も、僕の世界で一人だけの大切な奥さんなんだから」
「まあ、嬉しいですわ」

 幸せな笑い声とともに、フィベルト家の夜は更けていった。


   ◇◆◇


 結婚式からあっという間に三ヶ月の時が経ち、ローゼリアはすっかりフィベルト公爵家の領地に馴染んでいた。

「奥様! 作物泥棒です!! 今年取れた麦を、馬車にたっぷり載せて逃げていきやがりました!!」
「なんですって!? 馬車の数と逃げた方向は?」
「北東の方角に、馬車は五台、幌つきです!!」

 農民たちと世間話に花を咲かせていたローゼリアは、ご馳走になっていた蒸かし芋を急いで頬張り、水を一気に喉に流し込むと裾の長いドレスをものともせず走り出した。
 手にへばりついた芋の皮をドレスの裾で拭ってから、高らかに指笛を鳴らす。
 いななきとともに現れたのは、ローゼリアの髪と同じ栗色の毛の美しい牡馬ひんばだった。

「シュナイダー、追うわよ!!」

 ローゼリアがドレスをひるがえしてすばやく飛び乗ると、シュナイダーと呼ばれた牡馬ひんばは心得たとばかりにひづめを鳴らす。
 この領地内で馬車が何台も走れるほど広い道は限られている。
 そして北東の方角で作物泥棒たちが身を隠せそうな場所、または盗品を売りさばきそうな場所となればさらに絞り込まれる。
 狭くはない領地の地図を頭のなかに広げ、不届き者に追いつくための最短ルートを組み上げた。
 彼らよりも自分のほうが数段有利であることを、ローゼリアは確信していた。
 馬車では入り組んだ森のなかを走ることも、障害物を飛び越えることもできないからだ。
 シュナイダーにまたが手綱たづなをさばけば、狭い木の間を擦り抜け、大きな岩も簡単に飛び越えられる。
 目標の馬車はすぐに発見できた。
 先回りして小高い丘から飛び降りると、先頭の御者が驚き、力任せに手綱たづなを引っ張る。馬車を引いていた馬が驚いて暴れ回った。
 それに釣られたように、後ろについていた泥棒馬車の馬たちも立ち止まって暴れ出し、荷台が一つ倒れる。突然の事態に、泥棒たちはみっともなく慌てていた。
 ローゼリアがいることを忘れ、落ちた荷物に群がってどうにか無事な荷馬車に積み込もうとしている。その隙に、ローゼリアは暴れる馬たちにためらいなく近づき、手早く馬たちを落ち着かせていった。鞍と手綱たづなを外すと、皆嬉しそうに走り回る。

「あらあら、みんなずいぶん走り足りなかったのね。かわいそうに」

 贅肉のつき方や筋肉の衰え具合から、馬たちが馬車を引くための道具としてしか扱われていなかったことはすぐにわかった。
 体を千切らんばかりに喜び走り回る姿を見ると、ストレスもたっぷり溜め込んでいたようだ。

「シュナイダー、あの子たちをお父様のところに案内してあげなさい」

 ローゼリアの言葉を聞いてシュナイダーは心得たとばかりに駆け出し、解放された馬たちは喜び勇んでシュナイダーについていった。
 ローゼリアの父、アルゴス・ドラニクス侯爵は馬をこよなく愛する人で、ローゼリアは幼い頃から「いいかローゼリア、馬が人間を乗せてくれていると覚えなさい。彼らに感謝と敬意を忘れてはいけない。人間が彼らよりも優れているところなど、一つとしてないのだからな」と聞かされて育ったほどだ。
 そんな父の言葉を思い出していると、ようやく異変に気づいた男たちが何か喚き始めた。

「よくもうちの馬を盗みやがったな!! 料金払え!!」
「ダメになった荷台と荷物代もよこしな!!」

 普通の令嬢なら竦み上がるだろう汚らわしい罵声に、ローゼリアはにっこりと微笑む。

「ごめんなさいね? 私、泥棒語はたしなんでおりませんの。人間の言葉でお話ししていただきたいわ」

 その言葉に男たちは顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら何事か喚き散らしながら、腰に巻いていた短剣を振り回し始めた。
 全員が武器を抜いたことをしっかりと確認してから、ローゼリアはふわりと飛び上がる。そして太い木の幹を蹴ってくるりと回転し、その勢いで泥棒の背中に思い切り蹴りを入れた。

「ぎゃあっ……ぐっ……」

 蹴られた大男は泡を吹き、ろくに悲鳴も上げられないまま地に倒れ伏す。

「皆様ご存じ? 背中から肺に直接強い衝撃を与えると、一時的に呼吸が止まるんですって。もちろん、一時的ではなく永久に止める方法もございますのよ。よろしければご覧に入れましょうか?」

 にっこりと微笑むと、それを見た者たちは額を土に擦りつけて降伏した。
 蹴り飛ばされた泥棒はヒューヒューと細い息を漏らし、顔は青白く冷や汗をびっしりとかいている。
 自分よりも大きな男をたった一蹴りで沈め、息一つ乱さず微笑む美しい女性は、ゴロツキたちには未知の化け物にしか見えなかったのだ。
 泥棒たちは村に連行される間、何度もローゼリアに謝罪と命乞いをしていたが「貴方たちが謝罪するべきは、丹精込めて育てた麦を未熟な状態で刈り取られてしまった農家の皆様よ。まあ、貴方たちがいくらお粗末な謝罪を並べようと、その汚らわしい首を捧げようとも、麦は戻らないわ。そのことをきちんとその軽そうな頭に入れて謝罪の言葉を考えるのね」と冷たく言われると、真っ青になって黙りこくってしまった。
 彼らは農民たちに何度も頭を下げた後、馬舎での監視付きの労働という罰が決まった。
 畑一面分の麦が潰されてしまったため、被害にあった畑の持ち主は、税のために貯蓄をだいぶ削らなければならなくなった。その分を賠償させることにしたのだ。
 泥棒たちは今後、これまで道具として扱ってきた馬の世話をしながら朝から晩まで働き、最低限の衣食住を保障される代わりに給与はすべて賠償金に充てられる。
 馬舎番は、かつて騎士として腕を鳴らした者や、戦場を走り回った経験のある男たちばかりだ。彼らの監視を逃れることは難しい。
 だが、冷たい牢に何年も放り込まれるよりはマシだろう。

「というわけで、これがその報告書ですわ、ロベルト様」
「うん、妥当な対応じゃないかな。ありがとう、リア」

 畑を荒らされたからといって、簡単に税を軽くすることはできない。そう虚言して税から逃れようとする民もいるためだ。
 被害にあった畑の持ち主の青年は、損失が戻ってくるのに時間がかかる分、損をする結果になってしまったが、その後、彼を筆頭に畑の見回りを強化しようと新たな働きを見せているらしい。
 また、いざという時のためにきっちりと貯蓄をしていたことから、近所の奥様方から堅実な殿方と評判になり、次々と縁談が舞い込んでいるということだった。
 わざわいを転じて福と為す、という結末を祈るばかりである。


   ◇◆◇


 公爵夫人としての楽しくも忙しい毎日は、あっという間に過ぎていった。
 もうすぐ学園が長期休暇に入り、マーガレットが帰ってくる。
 フィベルト家の使用人たちはそわそわと浮かれ出し、いつも隅々まで磨き上げられている部屋の床や窓はもちろん、メイドたちはマーガレットが気に入っている花柄のティーセットや小鳥の刻印が入ったシルバーをしっかり磨いて帰りを待ちわびる。
 庭師たちはいつにも増して気合をいれて芝を美しく整え、長期休暇に合わせて植えたらしい球根が順調に蕾をつけるのを満足げに眺めていた。
 領民たちも、ローゼリアが視察に訪れるたび「マーガレット様はいつ頃お帰りになられますか?」と毎日聞いてくる。
 特に楽しみにしているのが孤児院の子どもたちで、少年たちは森に入り「マーガレット様のために宝を探しに行くぞ!」と探検隊を結成しては孤児院を管理するシスターに止められている。
 ちなみに彼らの言う宝とは、綺麗な花やコケモモだそうだ。
 花は押し花に、コケモモはジャムにしてマーガレットにプレゼントするんだと息巻く彼らは、今日も懲りずに探検を画策する。
 見ている分には微笑ましく愛くるしいが、毎日駆けずりまわるシスターを見ると、子どもとは残酷な生き物だとローゼリアは思う。シスターを手助けするより、可愛らしい子どもたちを眺めることを大人に選択させてしまうのだから。
 領地全体がマーガレットの帰りを心待ちにしていた。
 マーガレットから「来週帰る」としたためられた手紙も届き、領民たちはさらに浮かれていた。
 しかし、そんな夜にマーガレットは思わぬ姿で帰ってきたのだ。
 雨が叩きつけるように降り注ぐ、不気味な夜だった。



   第一章 可愛い義妹いもうとが婚約破棄されました


 ロベルトとローゼリアは、ワインと今年熟成が終わったチーズを楽しんでいた。
 そんななか、正門のほうがやたらと騒がしくなり、不審に思っていると、メイド長のアンナが珍しく慌てた様子で部屋に入ってきた。

「ろ、ロベルト様! 緊急事態でございます!!」
「どうしたんだい? そんなに慌てて、君らしくもない」
「まあ、こんな時間にどうしたの?」
「先ほど、学園の紋が描かれた馬車が公爵領内に立ち入り許可を求めてまいりました……!」

 アンナの言葉に、ロベルトは怪訝な顔をする。
 マーガレットが帰るという手紙や伝言は届いていない。
 学園の長期休暇は来週からの予定だ。
 何より、こんな夜中に学園の馬車を使って帰ってくるとは、何かあったとしか思えない。

「馬車には、マーガレット様が乗っておられました。……報告によると怪我をなさり、気を失っているとのことです」
「なんですって!?」
「……詳しく説明を頼む」

 ロベルトの口調は穏やかだが、声色は氷のように冷たい。

「マーガレット様は現在、私兵用の救護舎で手当てを受けてお休みになられているそうです。幸い、痕や後遺症が残るような大怪我ではないとのことです。馬車の御者は事情聴取のため、見張らせております。……報告は以上になります」

 アンナの言葉も淡々としているが、瞳は怒りに燃えている。
 彼女はマーガレットが赤子の頃から仕えている。
 今すぐにでも飛んでいきたい気持ちを必死にこらえているのだ。

「馬を用意してくれ。僕とリアが行くから、君たちはマーガレットのベッドの用意を頼むよ」
「かしこまりました。消化によいお食事と、お風呂もご用意致します」

 アンナは手早くロベルトとローゼリアの馬を用意させた。


「ロベルト・フィベルト公爵だ! すぐに妹のもとへ案内してほしい!」

 馬を降りて救護舎の前で声を張ると、なかから飛び出してきた看護師が引っ張るように二人を連れ込んだ。
 マーガレットは清潔なベッドに寝かされ、荒い息でうなされながら眠っていた。
 体は布団がかかって見えないが、頬にガーゼが貼られているのを見て、二人は血の気が引く思いだった。

「おそらく素手で打たれたものかと……腫れておりました」
「なんだって!? ほかの傷の記録も見せなさい!」

 滅多に声を上げることはないロベルトだが、さすがに耐えられなかったようだ。
 ローゼリアは眠るマーガレットを今すぐに抱きしめてあげたかった。
 しかし、青ざめて苦しげに喘ぐマーガレットは、ヒビの入ったガラス細工のように、触れた途端に崩れてしまいそうだった。
 公爵家の娘であり、王太子の婚約者のマーガレットに対して暴力を振るう人間などいないはずなのに。
 その時、わずかに稲光が走った。
 近くで飼われている家畜たちが怯えていななき、それを慰めるように番犬たちの遠吠えが響く。

「た、大変だ!! 馬車が!!」
「止めろ止めろ!!」
「近づくな! 蹴られるぞ!!」

 外が何やら、騒がしい。

「貴方たち! 何を騒いでいるの!?」

 堪らなくなりローゼリアが外に飛び出すと、私兵たちが駆けてきた。

「も、申し訳ございません!! 学園の馬車を引いてきた馬が、突然暴れて飛び出していったんです! とても手がつけられなくて……」

 鞍を外して休ませていた馬が、家畜の声に驚き、暴れて逃げ出してしまったらしい。
 王都育ちの馬は、自分以外の動物を人間しか知らないことが多い。手綱たづなも外してしまい、手がつけられないそうだ。
 学園の馬は国王から寄付されたもので、怪我をさせれば調度品を壊すのと同じ処分が下る。

「まったく……そんなことで騒いでいたの?」

 ローゼリアはため息をついてから、指笛を吹く。栗色の愛馬シュナイダーは風のように馳せ参じた。

「ちょっと行ってくるから、ロベルト様に大丈夫だと言っておいてちょうだい」

 すばやくシュナイダーにまたがると、ローゼリアは駆けた。
 例の暴れ馬はすぐに見つかった。兵が注視しているが、何もできずに硬直している。

「フィベルト公爵当主が妻、ローゼリア・フィベルトが通る!! そこの者、全員邪魔よ!! 早く去りなさい!!」

 つむじ風のように駆けるローゼリアの声が届くと、兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
 邪魔者がいなくなり、ローゼリアはすばやくシュナイダーを暴れ馬に並走させる。そして鞍に足を乗せると、勢いをつけて暴れ馬の背に飛び乗った。

「どう、どう、どう」

 鞍も手綱たづなもない裸馬の首にしがみつき、足で腹部をとんとんと蹴る。
 リズミカルに蹴りを繰り返すと、馬はだんだん落ち着いていった。
 やがて、ぽくぽくと穏やかな足取りになっていく。

「よし、よし……いい子……この子の鞍と手綱たづなを! すぐに持ってきなさい!」

 遠くからぽかんと眺めていた兵たちは、弾かれるように馬舎へ走っていったのだった。


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