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第一章:婚約破棄

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侯爵家の令嬢ルーチェ・ディ・ローザは、静かに息をつき、広間の窓から差し込む夕陽を見つめていた。まるでこの瞬間を予感していたかのように、その暖かな光は彼女の心に淡い悲しみを浮かび上がらせていた。

その日、王太子レオナルド・フォン・エリオットは、突然彼女に「話がある」と告げ、侯爵家を訪れた。彼はかつての無邪気で明るい少年の面影を残しつつも、どこか冷たい表情をしていた。彼が目を伏せ、落ち着かない様子で立っているのを見て、ルーチェは胸の奥に嫌な予感を感じた。

「ルーチェ、私は……君との婚約を破棄することを決めた」

その一言で、彼女の世界は音を立てて崩れ落ちた。何度も何度も夢に見た光景が、今、現実となって目の前に広がっていた。自分の耳が間違いであることを祈りたかったが、レオナルドの冷たく硬い声がその祈りを断ち切った。

「なぜ……?」彼女はようやく口を開くことができた。だが、その声は自分でも驚くほどに弱々しく響いていた。彼に婚約を破棄する理由など何もないはずだった。彼女は幼い頃から婚約者として彼に尽くし、彼の期待に応えるために努力を重ねてきた。学問や礼儀作法、王室の慣習――すべて彼のためだった。

レオナルドは答えることなく、ルーチェの視線を避けた。彼の沈黙は、彼女が聞きたくない答えを示しているように思えた。それが一層、彼女の胸に重い石を積み上げていく。

「新しい婚約者を迎えることにしたんだ」と彼は続けた。彼の言葉は刃物のように冷たく、鋭く彼女の心に突き刺さる。「カサンドラという貴族の令嬢だ。彼女は……君とは違って、もっと王妃にふさわしい。」

「私が……ふさわしくないと?」

ルーチェは静かに問いかけた。彼女の胸には怒りや憤りではなく、深い悲しみが広がっていた。自分が彼にとって不十分だったのか。彼のために尽くし、彼の期待に応えてきたつもりだったが、それでも足りなかったのだろうか。

レオナルドはさらに視線を逸らし、しばらくの間何も言わなかった。その沈黙が答えであり、彼女にとってはそれ以上何も必要なかった。

「……分かりました」ルーチェは穏やかに応じた。その声は自分の耳にも驚くほど落ち着いて聞こえた。彼女は心の中で、すでにこの瞬間が訪れることをどこかで予感していたのかもしれないと感じていた。

彼女は王太子と婚約しているという立場に甘んじることなく、常に努力し続けてきた。それは愛情というよりも、彼のためにふさわしい自分でありたいという強い意志だった。しかし、その努力が彼にとって無意味だと分かった今、彼女の中で何かが音を立てて崩れた。だが、その崩れた先に、もう一つの道が見え始めていた。

レオナルドは何かを言おうと口を開きかけたが、言葉が出なかった。彼は何も言えず、ただ立ち去ることしかできなかった。

ルーチェは彼が去っていくのを見つめながら、静かに深呼吸をした。窓の外には夕陽がゆっくりと沈んでいく。彼女の心に悲しみがないわけではなかったが、同時に妙な解放感も感じていた。ずっと肩に背負っていた重荷が、ふっと消えたような気がしたのだ。

「これで……良かったのかもしれない」

彼女は自分自身に言い聞かせるように呟いた。今までの自分は、王太子の婚約者として生きることがすべてだった。だが、その重圧から解放された今、彼女は初めて自分自身の未来を考えられる自由を得たのだ。

それでも、ルーチェはまだ何をすべきかが分からなかった。これまでの人生は、すべて彼のための準備であり、彼に尽くすことが自分の存在意義だと思っていたからだ。しかし、それが崩れ去った今、自分には何が残っているのだろう?

ふと、彼女の胸にわずかな不安がよぎった。侯爵家の令嬢としての立場は変わらないものの、王太子の婚約者という大きな肩書きを失ったことで、周囲がどのように彼女を見てくるのか――そのことが彼女を悩ませた。

それでも、ルーチェはもう一度自分に言い聞かせた。

「私は、私の道を歩むべきよ」

自分の価値は他人に決められるものではない。王太子の婚約者でなくとも、自分にはまだまだできることがあるはずだ。彼女は新しい目標を見つける決意を胸に秘め、立ち上がった。これからは自分のために、そして自分の力で未来を切り開いていくのだ。

その夜、ルーチェは静かに自室に戻り、鏡の前に立った。薄い青のドレスが、彼女の透明感のある白い肌を際立たせている。彼女は鏡に映る自分をじっと見つめ、これまでの自分に別れを告げるように微笑んだ。

「明日からは、新しいルーチェが始まるわ」

彼女はそう自分に誓い、窓の外に目を向けた。外の世界は暗闇に包まれていたが、心の中には一筋の光が差し込んでいた。

その光は、これから自分が歩むべき道を示しているように感じた。婚約破棄という試練を乗り越えた彼女は、これから本当の自分を見つけ、さらに強く成長していくのだ。

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