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第一章:婚約破棄の夜

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アヴァンシア・グラシア公爵令嬢が王太子アーサー・ドレイヴンと婚約してからすでに十年が過ぎていた。幼少の頃から将来を共にする運命とされ、二人は自然とお互いに親しみと信頼を育んできた。王太子の隣に立つべき存在として、アヴァンシアは知性と気品を磨き、王妃に相応しい淑女として育てられた。彼女もまた、その役割を自らの使命とし、アーサーと共に王国を導くことを目指していた。

しかし、その夜、すべてが一瞬で崩れ去った。

豪華なシャンデリアが煌めく大広間。貴族たちが社交の場を楽しむ中、アーサーは無表情でアヴァンシアに歩み寄り、冷ややかな声で言い放った。

「アヴァンシア、今夜をもって君との婚約を解消する。僕はもう、他に愛する人がいるんだ」

その言葉はまるで刃のように彼女の胸を突き刺した。会場が凍りつき、貴族たちのざわめきが広がっていく。誰もが驚愕と好奇心の入り交じった視線をアヴァンシアに向けていたが、彼女は動じず、じっとアーサーを見つめ返した。

「……そうですか。ですが、なぜ今、このような公の場で? せめて、私たちの間だけで話すべきではありませんか?」

アヴァンシアの声は静かで冷静だったが、その内側では激しい感情が渦巻いていた。長年かけて築き上げた愛と信頼が、一瞬で壊されるような感覚に、怒りと悲しみがこみ上げてきた。それでも彼女は、表情一つ崩さず、周囲に動揺を見せないよう努めた。

「僕は、隠し事ができない性分なんだ。君には悪いが、ここで言うことで僕の気持ちを証明したかった。これ以上、君を欺きたくないんだよ」

アーサーの言葉にはどこか偽善的な響きがあり、アヴァンシアは内心、唇を噛んだ。彼の傍にいるために多くのものを犠牲にしてきた。それでも彼のためだと信じ、支え続けてきたのだ。それを一方的に終わらせようとしている彼に対し、失望と憤りが湧き上がった。

「……それが、王太子としての責任の取り方だというのなら、私は理解しがたいものを感じます」

彼女の声には、微かに苦々しい響きが混じっていたが、それを周囲に悟られることはなかった。彼女の冷静な振る舞いはむしろ人々の関心を引き、会場の貴族たちは息を飲んで二人のやりとりを見守っていた。

「それでは、アーサー殿下。今までの婚約を解消すること、了承いたしました」

アヴァンシアは深く一礼し、毅然とした態度でその場を立ち去ろうとした。彼女の背中はまっすぐで、誰にも動揺を悟らせない姿勢を保っていた。しかし、内心では涙が溢れ出しそうで、息が詰まるような感覚に襲われていた。

『どうして? どうして私がこんな仕打ちを受けなければならないの……?』

心の中で自問しながらも、彼女は涙を見せない。貴族令嬢として、ましてや公爵家の一人娘として、彼女には人前で弱さを見せることは許されなかった。誇り高い家柄と教養の中で、感情を隠し、冷静さを保つことが求められてきたのだ。

会場を後にし、自分の部屋へと戻ったアヴァンシアは、ようやく一人きりになると、静かに涙を流した。これまで一度も心の底から流したことのない涙が、止めどなくこぼれ落ちる。

「……どうして、私がこんな目に遭うの?」

彼女はベッドの端に座り、何度も繰り返して自問した。アーサーへの愛情は本物だった。彼の隣で、彼を支えるために尽くしてきたのに、どうしてこんな仕打ちを受けるのか。彼女の心には傷だけが残され、虚無感が広がっていた。

その夜、アヴァンシアは眠ることができなかった。涙が乾いた後も、彼女はただぼんやりと夜明けを待つしかなかった。しかし、次第にある決意が芽生え始める。

『……もう、誰かに選ばれる人生なんて御免だわ。これからは私が、私のために生きる。』

彼女は心の中でそっと誓った。それは、婚約破棄によって押し寄せた絶望を受け止め、新しい自分を見つけようとする、最初の一歩だった。

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