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4. 婚約者クラインの後悔

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クライン侯爵は、その日も宮殿で行われた盛大な宴に参加していた。だが、いつものように高貴な貴族たちと談笑することもなく、彼はひとり静かに壁際で杯を傾けていた。周囲の華やかな笑い声や音楽も、今の彼にはまるで別世界の出来事のように遠く感じられた。

「彼女が……あんなにも美しい歌声を持っていたなんて……」

クラインは心の中で、何度もその言葉を繰り返していた。彼の脳裏に浮かぶのは、異世界の歌姫として絶大な人気を誇るリシテアの姿だった。かつては自分の婚約者だった彼女が、今では国中の人々に愛され、敬われる存在になっている。彼女の歌声を聴いた瞬間、クラインはその才能に心を奪われてしまった。

それは、まるで天使が降臨したかのような瞬間だった。リシテアが歌い始めた瞬間、会場中のすべてが彼女の歌声に包まれ、誰もが息を呑んで聴き入っていた。クラインもその一人だった。彼女の歌声は、彼の心の奥底に深く染み渡り、長い間閉ざされていた感情を解き放つかのようだった。彼はその場でただ立ち尽くし、リシテアが最後の一音を歌い終えるまで、目を離すことができなかった。

「もし……婚約破棄していなければ……」

クラインは、突然自分が何を失ったのかに気づき、後悔の念が胸に押し寄せた。あの時、自分はリシテアをただの無価値な存在と見なし、婚約を一方的に破棄した。彼女が病気がちで社交的でないことに苛立ち、冷たく突き放してしまったのだ。だが、今となってはその決断がどれだけ愚かだったかを痛感している。

「あの歌声を独占できたはずだったのに……」

クラインは、リシテアを手放したことに対して強烈な後悔を抱いた。もし婚約を続けていれば、今や国中の人々が憧れ、熱烈に支持する「歌姫リシテア」を自分のものとして、彼女のそばでその美しい歌声をいつでも聴くことができたのだ。その考えが、彼の心を締め付けた。

リシテアが歌い始めた瞬間、彼女の才能がどれほどのものかに気づいた。それは、彼がこれまで見てきたどんな芸術家や歌手とも比べものにならない圧倒的な才能だった。彼女の歌声には、前世での苦しみや希望が込められており、それが聴く者の心を動かす力を持っていた。クラインは、その力に圧倒され、自分のかつての婚約者がこんなにも偉大な存在に成長したことに衝撃を受けた。

「いや……まだ遅くはない。私は侯爵だ。大貴族のひとりとして、再び彼女と婚約を結ぶこともできるはずだ。」

クラインは、内心で自分を鼓舞するようにそう思った。彼は侯爵家の跡取りであり、財産も地位も持っている。今からでも、リシテアと関係を修復し、再び彼女を自分のものにできるのではないかという考えが頭をよぎった。あの美しい歌姫を、ただの「他人」として見ているのは我慢ならない。彼女はかつて自分の婚約者だったのだから、再び彼女を取り戻すことは十分可能だと考えた。

「リシテアは私に未練があるはずだ……。彼女が私を忘れることなんて、あり得ない。」

クラインはそう確信し、次の機会を狙って彼女に接触することを決意した。彼女が現在、国中でどれほどの人気を誇っていても、侯爵である自分なら、彼女に近づく手段はいくらでもある。彼は自分の地位と権力を過信し、リシテアが過去の婚約者であれば、簡単によりを戻すことができると信じ込んでいた。

「リシテア……君が私を拒む理由はないはずだ。あの時のことは謝る。だが、今となっては君の価値もわかっている。君のそばで、君の歌声を独占できるのは、この私だけだ。」

そう思い込むクラインは、再びリシテアとの関係を修復する計画を立て始めた。彼女が今や宮廷での公式な歌姫となり、貴族たちからも崇められていることは知っていたが、彼女を取り戻すためにあらゆる手段を使う覚悟だった。

しかし、彼がその計画を実行しようとしたとき、クラインはすぐに現実の厳しさに直面することになる。リシテアはすでに彼の存在を過去のものと見なしていたのだ。彼女は今や自分の音楽の道を歩み、多くの人々に愛される存在となっていた。彼女にとって、クラインはただの「かつての婚約者」でしかなく、彼女の新たな人生において重要な存在ではなくなっていた。

ある日、クラインはリシテアの出演する公演に足を運び、彼女に直接会おうとした。だが、そこには彼女の厳しいマネージャーが立ちはだかった。

「リシテア様にお会いしたい? 失礼ですが、彼女は今や多忙を極めております。個人的な面会の予約は受け付けておりません。」

クラインは侯爵としての威厳を保ちながらも、マネージャーの冷たい対応に言葉を失った。彼は何度もリシテアとの面会を求めたが、その度に門前払いをされ続けた。リシテアのマネージャーは、彼がかつての婚約者だということを知っていたが、まるで相手にする価値がないかのように扱ったのだ。

「くそっ……どうして、こんなことに……」

クラインは苛立ちと屈辱を感じたが、それでも諦めることはできなかった。彼はまだ自分の地位や権力を過信し、いつかリシテアが自分のもとに戻ってくると信じていた。だが、その思いは次第に薄れていくことになる。彼女の成功が日に日に大きくなる中で、クラインの存在はリシテアの新たな人生において、完全に「モブキャラ」に過ぎなくなっていたのだ。

彼女の歌声は今や世界中の人々に愛され、リシテアは一切振り返ることなく、その道を進み続けた。クラインにとって、リシテアとの関係を修復する夢は、ただの幻想に過ぎないと気付くのに、それほど時間はかからなかった。彼は侯爵としてのプライドを保ちながらも、心の奥底で深い後悔と孤独感に苛まれ続けることになった。

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