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第1章:屈辱の夜

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月が高く輝く晩餐会の夜、貴族たちの笑い声が広がる豪華な大広間の中央に、レティシア・オルディアは立っていた。彼女は美しいエメラルドグリーンのドレスをまとい、華やかな装いに身を包んだ他の貴婦人たちにも劣らぬ美貌を持っていた。しかし、その優雅な微笑みの裏で、彼女の心はざわついていた。何かが不自然だ。婚約者である王太子エドワードの冷たい視線が、今夜に限って彼女に向けられている気がしてならなかった。

「レティシア、少し話がある。」

突然、エドワードが冷たい声でそう言い、彼女を招き寄せた。彼の顔には普段の優雅さがなく、鋭い瞳が彼女を見据えている。その瞬間、レティシアの胸に不安が走った。何かが間違っている、これまでの彼の態度とは明らかに違う。だが、彼女は堂々とその場に歩み寄り、周囲の貴族たちの視線が集中する中、エドワードと向き合った。

「エドワード様、一体どうされたのですか?」

レティシアは冷静さを保とうと努めたが、声にはわずかな震えが混じっていた。彼女は王太子の婚約者として、常に気品と冷静さを求められてきた。しかし今、この異様な雰囲気の中で、それを保つのは容易ではなかった。

エドワードは一呼吸置いてから、信じられない言葉を口にした。

「レティシア、今この場で婚約を破棄する。」

その言葉が広間に響いた瞬間、まるで時間が止まったかのようだった。レティシアは驚きに目を見開き、言葉を失った。周囲の貴族たちもざわめき始め、視線が一斉に彼女に集中する。信じられない、これは夢ではないかと何度も頭の中で問いかけたが、現実は非情だった。

「婚約を…破棄する…ですって?」

レティシアの声はかすれ、かつての威厳は完全に消えていた。彼女の胸の中で何かが崩れ落ちる音がした。だが、それを隠すために、彼女は必死に立ち直ろうとする。しかし、エドワードの次の言葉は、彼女にさらなる衝撃を与えた。

「私には、他に愛する人ができた。彼女はアリシアという名の平民の娘だ。彼女こそが、私の運命の相手だと確信している。」

周囲からため息や呆れた声が聞こえた。貴族社会では、婚約は単なる愛情の契約ではなく、政治的な結びつきや家同士の力関係が絡む重要な取り決めだ。それを公衆の面前で破棄することは、オルディア家に対する重大な侮辱に他ならない。

「平民…ですか?」

レティシアの声は微かだった。彼女の美しい顔立ちは、今や冷静さを保とうとする苦しみで歪んでいた。エドワードは無表情でうなずくと、さらに冷酷な言葉を続けた。

「君とはもう終わりだ。これ以上の関係は不要だし、君は私の側にふさわしくない。」

その言葉が胸に突き刺さる。彼女は長い間、王太子の婚約者として品位を保ち、彼にふさわしい存在であろうと努力してきた。その全てが今、無残にも崩れ去ろうとしている。しかし、この屈辱的な状況の中でも、レティシアは立ち止まらなかった。涙がこみ上げるのをこらえながら、毅然とした態度で彼に問い返した。

「それが…エドワード様の決断なのですね?」

彼女の声には、もはや愛情の色はない。冷静さと覚悟が宿っていた。彼が何を言おうと、彼女はもう振り返らないつもりだった。しかし、エドワードはその変化に気づくことなく、あくまで冷淡に彼女を見つめ続けた。

「そうだ。君にはもう興味がない。」

それが彼の最後の言葉だった。レティシアは深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。そして、無言でエドワードに一礼すると、優雅にその場を去った。彼女の背後では、貴族たちの囁きが次第に大きくなっていく。

広間を出た瞬間、レティシアは一人きりになった。廊下の冷たい空気が彼女の頬を撫で、初めて涙がこぼれ落ちた。彼女は拳を握りしめ、心の中で誓った。

「もう二度と…誰にも侮辱されない。私は私の力で、必ずこの屈辱を晴らしてみせる。」

その夜、レティシアはかつての婚約者や貴族社会に対する復讐心を胸に秘め、静かに館へと戻った。彼女はまだ知らなかった――自分の内に眠る力と、これから待ち受ける運命の波乱を。しかし、一つだけ確かなことがあった。彼女はもう、ただの婚約者として生きるのではなく、自分自身の人生を取り戻すために、戦うことを決意していた。

それが、彼女の新しい運命の始まりだった。

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