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第二章:魔王との出会い

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アメリアは王宮を出て、侯爵家に戻ることもなく、ただ無意識に歩き続けていた。目に映る景色も、耳に届く音も、まるで遠く感じられる。自分が今どこにいるのか、どこへ向かっているのかすら、彼女にはわからなかった。ただ、心の中に渦巻く怒りと悲しみを抱えながら、一歩一歩足を前に出すことしかできなかった。

いつの間にか、アメリアは森の中に入っていた。日はすでに沈みかけ、薄暗い木々が彼女の周りを覆い隠している。だが、アメリアはそのことすら気に留めることができなかった。自分のすべてを捨て去ったような虚無感に包まれ、ただ茫然と進むだけだった。

しかし、その静寂は突如として破られることになる。

「ガァァアアアッ!」

獰猛な咆哮が、森の中に響き渡った。アメリアは驚きに身を震わせ、足を止めた。その音の方角を見ると、森の奥から何か巨大な影がゆっくりと現れてきた。それは一匹の凶暴な魔物――まるで狼と熊を掛け合わせたような姿をした獣だった。鋭い牙をむき出しにし、血走った目でアメリアを睨みつけている。

恐怖が彼女の体を襲った。だが、逃げることもできない。足がすくんで、どうすることもできないまま、その場に立ち尽くすしかなかった。獣は唸り声を上げながら、ゆっくりとアメリアに向かって近づいてくる。

(私はここで死ぬのか――)

その考えが脳裏をよぎる。エドワードに裏切られ、王太子妃としての未来を奪われ、今度はこの森で魔物に食い殺されるのだろうか――。そんな絶望的な思いに囚われていたその時、突然、冷たい風が森全体に吹き渡った。

次の瞬間、アメリアの目の前に現れたのは――圧倒的な力を感じさせる存在だった。彼女が目を向けた先には、漆黒のローブをまとった高貴な姿の男性が立っていた。長い銀髪が夜風に揺れ、その瞳には何か神秘的な光が宿っている。

「下がっていろ、少女」

その男は低い声でアメリアに告げた。そして、彼はゆっくりと魔物の方へと歩み寄っていく。魔物はその男の気配に恐怖を感じ取ったのか、先ほどの威嚇的な態度とは打って変わって、後退し始めた。

男が手をかざすと、黒い霧のようなものがその手のひらから放たれ、魔物を包み込む。魔物は一瞬のうちにその霧に飲み込まれ、やがて悲鳴を上げることなく、その場に倒れ込んだ。そして、次の瞬間には完全に動かなくなっていた。

アメリアは目の前で起こったことに、言葉を失った。男が放ったのは、間違いなく強大な魔力だった。彼は何の躊躇もなく、あの凶暴な魔物を一撃で仕留めたのだ。

「無事か?」

男はアメリアの方に顔を向け、静かに尋ねた。その声は冷たくも感じられるが、不思議と安心感を与えるものでもあった。

「……はい。助けていただいて、ありがとうございます」

アメリアは震える声で礼を述べた。彼がいなければ、自分はあの魔物に殺されていただろう。そのことを思い出すと、体が再び震えた。

「ここは人間が来るべき場所ではない。この森は危険だ。君はどうしてこんなところにいる?」

男の問いに、アメリアは何も答えられなかった。どうしてここにいるのか――自分自身でもわからない。ただ、気づけばこの森にいたのだ。エドワードに裏切られたあの瞬間から、自分は何も考えられなくなっていた。

「何か、訳がありそうだな。だが、その顔を見るに、君はすべてを失ったのだろう?」

男の瞳は、まるで全てを見透かすかのようにアメリアを見つめた。その言葉にアメリアは驚いた。どうして彼がそこまで知っているのかはわからないが、まさにその通りだった。自分はすべてを失った。未来、希望、そして誇りさえも。

「そうです……私はすべてを失いました」

アメリアは素直に告げた。彼に隠すことなど何もない。この状況で自分が何かを偽る理由もない。すると、男はふっと微笑んだ。

「では、君には新しい未来が必要だな」

その言葉にアメリアは驚き、彼の顔を見上げた。新しい未来――そんなものが自分に与えられるというのか?

「お前は誰なのですか?」

アメリアは男に問いかけた。その圧倒的な存在感、そして異常なほどの魔力――彼がただの人間ではないことは明らかだった。

「私はアストール。この世界の魔王だ」

魔王――その言葉を聞いた瞬間、アメリアは再び驚愕した。魔王とは、伝説の存在ではなかったのか? それが今、目の前に立っているこの男であるというのか?

「君には何か特別なものを感じる。私の側妃となり、共に魔界を治めてみないか?」

アメリアは呆然としたまま、彼の言葉を聞いていた。側妃――それは王妃のようなものか? 彼の隣で生き、彼の国を共に支えるということだろうか。しかし、それが自分にできるのだろうか?

「私が……側妃に……?」

アメリアは戸惑いを隠せなかった。だが、アストールの瞳は真剣であり、その提案が冗談ではないことは明らかだった。彼はアメリアに対して何らかの期待を抱いている。それが何なのかはわからないが、少なくとも自分を必要としているのだ。

「失ったものは大きいだろう。だが、君には新しい力が眠っている。その力を私の隣で発揮することを考えてみるのも悪くない」

アメリアは彼の言葉に、次第に心を動かされ始めた。失った未来を嘆き続けるより、新たな未来を築くための道がここにあるのかもしれない。彼の言葉には、これまでの絶望から救い出してくれる何かがあった。

「……私にできるでしょうか?」

アメリアは恐る恐る尋ねた。自信を失っていた彼女にとって、この選択はあまりにも大きなものだった。

「できるさ。君はまだ自分の本当の力に気づいていないだけだ」

アストールはそう告げ、手を差し出した。その手を取ることは、アメリアにとって新たな未来への第一歩となる。それは彼女自身が決断することだった。

アメリアはしばしの沈黙の後、決意を込めて彼の手を取った。その瞬間、彼女の心の中に新たな希望が芽生え始めた。

「では、行こう。君には新しい未来が待っている」

アストールはアメリアを魔界へと導くため、再び歩き出した。彼女はその後を追いながら、自分の人生がこれから大きく変わることを感じ取っていた。

こうして、婚約破棄で絶望の淵に立たされた侯爵家の令嬢アメリアは、強大な魔王アストールとの出会いをきっかけに、再び自らの人生を切り開くことを決意した。アストールの手を握りしめる感触が、まるで今までの自分を打ち破るための新たな道を示しているかのように感じられた。

アメリアの心の中には、まだ多くの疑問や不安が渦巻いていた。自分が本当に魔王の側妃として生きていけるのか、そして、失ったものを取り戻せるのか。しかし、それでも彼女は後ろを振り返ることなく、アストールの後に続いて歩みを進めた。

二人は暗い森の奥へと消えていく。そこには未知の世界、魔界が待ち受けている。そしてアメリアは、これから訪れる新たな試練と運命に向き合っていくのだった。


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