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第一章:裏切りの婚約破棄

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静寂な朝の陽光がアグネスの銀色の髪を輝かせ、彼女は書斎の大きな窓辺に座って庭を眺めていた。鳥たちのさえずりと、風に揺れる花々の香りが心を穏やかにしてくれる。この日は特別な日ではなかったが、彼女にとっては平和な日常が何よりも大切だった。

「お嬢様、リシャール様がお見えになりました」

侍女のエリザが控えめに告げる。アグネスは微笑みながら立ち上がり、ドレスの裾を整えた。

「ありがとう、エリザ。すぐに参ります」

リシャールは幼い頃からの婚約者であり、騎士団長を父に持つ誇り高き青年だ。二人は共に育ち、未来を語り合った仲である。彼が訪れるのは珍しいことではなかったが、今日は何か様子が違うような気がした。

応接室に入ると、リシャールは窓際に立ち、外を見つめていた。彼の背中にはどこか重苦しい雰囲気が漂っている。

「お待たせしました、リシャール様」

アグネスの声に振り向いた彼の表情は硬く、いつもの穏やかさは感じられなかった。

「アグネス、話がある」

彼の低い声に、胸騒ぎが走る。何か良くないことが起きているのではないか。アグネスは静かに彼の言葉を待った。

「俺たちの婚約を解消したい」

一瞬、時間が止まったかのように感じた。彼の言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

「……どういうことですか?」

「正直に言う。俺は君に対して恋愛感情を持てなくなった。だから、この婚約を続けるのはお互いのためにならない」

信じられない思いで彼を見つめる。リシャールの目は真剣で、冗談や試すような態度ではなかった。

「何か私が至らないことをしましたか?」

「そうじゃない。君は何も悪くない。ただ、俺の心が変わってしまったんだ」

彼の言葉は冷たく、突き放すようだった。アグネスは動揺を隠し、冷静さを保とうと必死だった。

「突然すぎます。この理由だけでは納得できません」

「納得してもらう必要はない。これは俺の決断だ」

リシャールの強引な態度に、アグネスは怒りと悲しみを感じた。しかし、彼の本心を知るために問い続ける。

「他に好きな方ができたのですか?」

一瞬、彼の瞳が揺らいだ。それが答えだった。

「……そうだ。新興貴族の娘で、名はエレオノーラ。彼女と一緒になりたいと思っている」

エレオノーラ。その名は最近社交界で話題の美しい令嬢だと聞いている。アグネスは深く息を吸い込み、心を落ち着かせた。

「わかりました。あなたの意思は尊重します」

「理解してくれて助かる。父上にも話を通しておく」

リシャールは淡々と告げると、そのまま部屋を出て行った。残されたアグネスは、感情の嵐に飲み込まれそうになるのを必死で堪えた。

侍女のエリザが心配そうに近づく。

「お嬢様、大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ。ただ、少し一人にしてくれるかしら」

エリザは深々と頭を下げて部屋を出て行った。アグネスはその場に立ち尽くし、胸の内に溢れる思いを整理しようとした。

リシャールの裏切り――それは彼女の信頼を根底から揺るがすものだった。幼い頃から共に過ごし、未来を約束した相手が、あっさりとその絆を断ち切ったのだ。

「どうして……」

呟く声は震えていた。しかし、涙は流さなかった。泣いても何も変わらない。アグネスは自分に言い聞かせた。

その夜、彼女は父親である公爵に全てを報告した。父は怒りを露わにし、騎士団長に抗議すると言ったが、アグネスはそれを制した。

「お父様、もういいのです。無理に関係を修復しても意味がありません」

「しかし、娘よ。お前が傷つけられたのだぞ」

「私は大丈夫です。それよりも、これを機に新たな道を探したいと思います」

父は娘の強さに驚きつつも、その決意を尊重することにした。

翌日から、アグネスは自分自身を見つめ直す時間を持った。これまでリシャールとの未来ばかりを考えてきたが、これからは自分の人生を歩む必要がある。

「私は何を望んでいるのだろう」

自室で静かに瞑想するように考える。彼女は知識欲が旺盛で、多くの書物を読み漁ってきた。政治、経済、芸術、魔法――興味は尽きなかった。

「そうだ、もっと自分を高めよう」

彼女は新たな目標を見つけた。自分の才能と知識を活かし、貴族社会で自立した女性としての地位を築くことだ。

そのためにまず、信頼できる友人たちに相談することにした。彼女には同じ貴族令嬢でありながら、自立心の強い仲間が何人かいた。

「アグネス、あなたがそんな状況になっていたなんて」

友人のベアトリスは驚きと同情の眼差しを向けた。

「でも、私は大丈夫。これを機に新しい挑戦をしたいの」

「あなたならきっとできるわ。私も協力するから、一緒に頑張りましょう」

彼女たちの支えにより、アグネスは少しずつ前を向き始めた。

一方で、社交界ではリシャールがエレオノーラと親密になっているという噂が広がっていた。二人の関係は急速に深まり、多くの人々の注目を集めている。

しかし、アグネスはそのことに執着しなかった。自分の成長に集中することで、過去の傷を癒そうとしていた。

数週間が過ぎ、アグネスは社交界に再び姿を現した。その美しさと気品は以前にも増して輝きを放ち、多くの人々が彼女に注目した。

「アグネス様、お久しぶりです。そのお姿、まるで女神のようです」

「ありがとうございます」

彼女は微笑みながらも、内心では新たな戦いの場に立っていることを自覚していた。

リシャールとエレオノーラが会場に現れたとき、多くの視線が二人に集まった。アグネスは遠くからその様子を見つめたが、特に感情を動かされることはなかった。

「彼らは彼ら。私は私の道を行く」

心の中でそう誓い、彼女は新たな一歩を踏み出した。

この夜、アグネスは多くの貴族たちと交流を深め、自分の知識と才能をアピールすることに成功した。彼女の冷静さと聡明さは高く評価され、今後の活躍に期待が寄せられた。

帰宅後、彼女は窓から夜空を見上げた。星々が美しく輝き、未来への希望を感じさせる。

「私はきっと、もっと強くなれる」

そう自分に言い聞かせ、彼女は静かに目を閉じた。



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