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現実と憧れ
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社会への不満だとか仕事のストレスだとか、今はそんなことどうだっていい。とにかくこの胃痛と吐き気をなんとかしたい。
日々仕事をこなす度、自分がどんどん無感情になっていく中で、こんなにも緊張というものが心と体を支配するものなのかと痛感した。
突然目隠しをされて聞いたこともないような言語が飛び交う国に放り出された気分だった。
私の手は震えていないだろうか。視線は揺らいでいないだろうか。自分の表情や言動全てを疑ってしまう。
このフロアを抜けたら控え室がある。扉を開けたら後戻りは出来ない。今なら…無理だ、まもなく菩提寺が枕経に来られる。何分経った?ここに立ってから、どれくらいの時間を使った?あと何分、現実逃避をする余裕がある?
故人と家族がいる施設内、そのバックヤードとフロアを仕切る扉の前で動けずにいた。
何が出来るか。何をしなければならないのか。
体温をなくし震えているように感じる自分の手で辛うじて抱える葬儀パンフレットを何度も落としそうになる。
はっと気づき腕時計に目をやると、ほどなく菩提寺の到着予定時間となるところだった。
咄嗟に扉を開きフロアに飛び出した。
あ…もう戻れないじゃん…私、バカなのかな?
勤続五年、無意識に身につけた自身の仕事モードを恨む。目の前に仕事が転がっていれば無意識に体が動くようになっていた。心を動かせば、愚痴が溜まる一方だから、満足なんてものは得られないと悟ったから。
日々を当たり障りなく過ごすために身につけたはずなのに、今はそれが憎い。
菩提寺を出迎える前に挨拶をしなければ。
諦めろ、誰も代わってくれない。そう自分に言い聞かせて控え室の扉をノックした。
「お待たせいたしました。ご葬儀の担当をさせて頂きます、私、藤宮と申します。ご葬儀に関するご希望はもちろんのこと、分からないことも何でもお申し付け下さい。
まもなく菩提寺のご住職様がお見えになりますので、ご到着次第ご案内致します。」
故人に手を合わせた後、同席していた家族に声をかけて控え室を出る。
バレてないだろうか。私が現場経験のないスタッフだと怪しまれなかっただろうか。
普段お店で受ける葬儀相談とは空気が全く違う。当たり前だ。実際に人が亡くなっているのだから。
限りなく恐怖に似た感情に支配されながら施設正面玄関で菩提寺を待つ。
菩提寺は地元のお寺だ。
生涯現役を体現しているような年老いたご住職は、ゆっくりとタクシーから降りてにこにこと優しい笑顔で遺族が待っていてる控え室へと向かった。
「大変でしたね、ご苦労様。少しお勤めをさせてもらいますからね。」
そう言って支度を整えると小さな鐘を鳴らす。
先ほどまでの柔らかく優しい表情が嘘だったかのように真っ直ぐな眼差しと低く通る声でお経を読み上げる。まさに『厳か』な空気を作っていた。
全身にぴりっとした空気が絡みついた。だけどそれは決して締め付けることはなく、寄り添うように、支えるように漂っている感覚だった。
お経が終わり、ご住職はまた柔らかな表情に戻り、ゆっくりと遺族に向き合った。
「こんなにお若くして…皆さんもさぞ驚かれたでしょうに。」
ご住職が優しく声をかけると、故人の母親が言葉を返した。
「そんなふうに仰っていただいて…申し訳ありません、ご住職もお忙しいのに。
あの、実は…この子、自死なんです…その、お恥ずかしいのだけど、この子がそんなにも悩んでいたなんて知らなくて…塞ぎ込むことが増えたと感じたこともあったんですけどね。
男の子ですし、仕事でも何かと立場とか、苦労しなければならない歳にもなってますので…本人が口にしないからにはこちらからも深く問いただすこともできなくて…
こんなことになってしまって、職場の方にも申し訳ないです…」
先ほどは簡単な挨拶だけで済ませてしまい、預かっていた死亡診断書も目を通していなかったので驚いた。ご住職も心なしか垂れ下がった瞼を目一杯上げて驚いたという表情だった。
「現実を、受け止めるしかないのだけれど…なんだか実感がなくて…それに、やっぱり職場やご友人の方に申し訳なくて顔向け出来ないわ…ご住職、どうか家族だけでひっそりと送ってやりたいのですけれど、本当にすみません…葬儀屋さんにも申し訳ないわ。利益にもならないような小さな小さな葬儀を希望するなんて。恥ずかしいけれど…金銭的にも、こんな私たちがお客だなんて…本当にごめんなさい。」
力のない声で故人の母親はご住職と私に頭を下げていた。近年よく耳にする家族葬を希望していたのだ。
家族葬は参列者も最低限とし、場合によっては参列を希望する親族以外の一般弔問客を全て断り可能な限り規模を小さくして行う。
その分、家族にとっては出費を大きく抑えることも可能で、世界中で感染症が流行したことをきっかけに、不特定多数との接触を避ける目的で故人を見送る人が数名だけの、質素な葬儀が定着していた。
その時、私はふと電話対応の際に感じた違和感の正体に気づいた。
電話をしてきたのは、この母親だ。この母親は、電話の時も今も、終始謝罪ばかりを口にしている。誰よりも気が動転していて、理由もなく怒りが込み上げ、周りに当たり散らしたっておかしくない精神状態のはずなのに、しきりに私とご住職に「仕事があるのに」「忙しいのに」と謝っている。
こちらからしたら仕事だからここにいるのに。
「お母さん、私に謝るより先に倅さんを労ってやりなさい。彼は自分で自分の人生を終わらせる選択をしたその瞬間まで、その選択しかない自身の人生を精一杯生きたのだから。
生きたいのに生きることが出来ない人も多い。生まれてくることさえ叶わない命もある。そんな人達から見たら、彼の人生はきっと羨ましかっただろう。どんなに辛いことがあろうと、それを感じることのできる『生きる』というこの世に身を置くことができているのだからね。
だけどね、生まれてきたことを、生きたことを悔やむようなことはしちゃいけない。倅さんは生きるという闘いに負けたのではないんだよ。それをこれからお母さん、あなたが彼との思い出を抱きながら、背負いながら生きて行くことで証明してやれんかね?
彼は彼の人生を精一杯生きた。自分で人生の終わりを迎えるだけの意思を持った人間だったのだと。
そのための供養は私が請け負うさ。なに、気張らんでいい。この時代、この場所で間違いなく彼が生きたという事実を見つめればいいだけのことだよ。」
それまで私は自死を「いけないこと」と認識していた。ごく一般的な考えだと思う。
けれど住職は「どんな形であれ、どれだけの時間だったとしても、それは本人にとって『全うした人生』だった」と言うのだ。
瞬間、自分の中で意識が、認識が変わった。何か、カチッとスイッチが入るような音がするような感覚があった。
目の前の現実だけ、見えているものだけを見て仕事と割り切り「遺族には会う機会もないから感情移入はしない」と逃げ回っていた。
真剣に相談に来ていたお客様に対して自分はこれまでどのような気持ちでお客様の目の前に立って言葉を紡いでいたのか思い出せないことへの後悔と羞恥心が溢れた。
そうだ、いつだって私は大切な人を亡くすことへの、言葉に出来ない気持ちを抱えた人と話していたのに…
全て間違っていた。今まで私がしてきたことは胸を張って仕事をしていると言えるようなことではなかった。
私は死別と向き合う人たちと、きちんと向き合う覚悟でここにいたはずなのに。
向き合うことから逃げて現場スタッフに任せきりで、私は素知らぬ顔をしていた。
私は目の前にいる住職のように、きちんと、丁寧に寄り添うことのできる葬儀社スタッフでありたいと思っていたのに。
入社当時よりも明確に理想を、求めるものを自覚した。
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