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閑話 悪魔のような
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「――ふざけないでよ!」
「分からない女だな!」
ライナ伯爵家、王都別邸。
他の伯爵家に比べても小規模な屋敷には今夜も怒声が飛び交っていた。ライナ伯爵と伯爵夫人が飽きることなくケンカをしているのだ。
また伯爵が庶民に手を出したか。
もしくは夫人の浪費がバレたか。
あるいは、その両方か。
小規模な屋敷であり、古いせいか立て付けも悪い。必然的に夫婦喧嘩の怒声は屋敷中に響き渡っていた。おそらくは外にまで聞こえていることだろう。
ベッドの中で布団に潜り込みながら、じっと息を潜めるアリス。
――こんなはずではなかった。
姉であるシャーロットが追放されれば、すべてが良くなるはずだった。父と母は昔のように仲良くなり、アリスと共に笑って日々を過ごせるようになるはずだった。
……冷静に考えれば。五年前からシャーロットは貴族学園で寮生活をしており、卒業後もすぐにルバートと婚約し、公爵邸に住んでいたのだから、今さら追放しようがしまいが伯爵夫妻の仲に影響があるはずがない。
だが、そんな冷静さを保てないほどアリスは精神的に追い詰められていた。
原因は、あの夫婦喧嘩。
アリスが直接怒鳴られているわけではない。
シャーロットのように義母から暴力を振るわれているわけではない。
父親からも溺愛されている。
もしもシャーロットが聞けば『ケンカの怒声くらいで何を』と呆れることだろう。
だが、昔からその恵まれた容姿のおかげで周囲から大切にされてきたアリスにとって、まるで愛を感じ取れない父と母の怒声は耐えがたいものがあった。
どこか、声がもっと響かない場所はないか。
布団を被ったまま部屋を出たアリスは屋敷を彷徨う。
「――だから、もうヤバいんだって」
曲がり角の向こうから聞こえてきたのは、アリス付きのメイドであるチェシャの声。話し相手は厨房専門のメイドだろうか?
「お嬢様がよりにもよって王太子殿下にケンカを売ったらしくてさぁ」
「あー、王宮に通い詰めて口説いているんだっけ?」
「違う違う。それもヤバいんだけどさぁ……。この前シャーロット様が始めた花屋に行ってきたのよ。お嬢様を連れて」
「ふへぇ。ほんとに店を始めたんだ? よくそんな金があったじゃない」
「公爵閣下から上手いこと金をせびったんでしょうね。やっぱりあの人はお嬢様と違って要領いいわ。あーあ、あんなワガママお嬢様じゃなくてシャーロット様のお付きだったらなぁ」
「それだとあなたまでも別邸に押し込まれるじゃない」
「でも、そのあとは二年間も公爵邸でメイドができるし、婚約破棄後は花屋で雇ってくれそうじゃない?」
「はいはい。妄想たくましいわね。で? その花屋でどうして王太子殿下にケンカを売ることになったのよ?」
「その花屋に王太子殿下がいたのよ! で、いつものように虐めているところを見られちゃったんだって!」
「それで王太子殿下が怒ったの? シャーロット様のために?」
「さすがにシャーロット様のために怒りはしないでしょう。『貴族らしくない』振る舞いに怒ったんじゃない?」
「あーなるほど。貴族が庶民街で騒ぐのはたしかに『貴族らしくない』わね」
「とにかく、王太子殿下を怒らせちゃったんだからマズいわよ! 下手をすれば伯爵家お取りつぶしかも! 今のうちから転職先を探さないと!」
「うわぁ、私も探そうかなぁ。伯爵たちもケンカばかりで嫌になるし」
「そうよね! いい転職先があったら私にも紹介して!」
「はいはい。そんな簡単に見つからないっての」
メイドたちの雑談から逃れるようにアリスは踵を返した。
――上手くいかない。
別に王太子殿下に興味があったわけではない。アルバート様に興味があったわけではない。結婚なんてどうでもいいし、まだまだ結婚相手なんて探さなくてもいいと思っている。
だから。アリスは、ただ――
――上手くいかない。
どうすれば上手くいくだろう?
疲弊した心でアリスは悩む。悩み、現状を打開できる方法を探す。
そして。
「そうだわ! お姉様が伯爵家に戻ってくれば、すべてが解決するはずよ!」
無論、そんなはずはない。シャーロットが戻ってきたところで伯爵夫妻の喧嘩が収まるとは思えないし、シャーロットが喧嘩の八つ当たりを受けるだけだろう。
むしろ伯爵家での虐待が疑われている今、シャーロットが伯爵家に戻るようなことがあればクルードやアルバートたちも本格的に動くはずだ。
シャーロットが戻ってきても、何の解決にもならない。逆に状況が悪化するだけだろう。
しかしアリスには理解できない。平穏な心境ではない以上、冷静な判断を下せるはずもない。……たとえ冷静であっても彼女では無理かもしれないが。
「どうすればお姉様は帰ってきてくださるかしら? お姉様が謝ればお父様とお母様も許してくださるはず」
そんなはずはないと理解できないまま、名案を思いついたとばかりにアリスは両手を打ち鳴らした。
「そうだわ! あのお店がなくなればお姉様も帰ってきてくださるはずよ!」
天使のような笑顔で。
悪魔のような考えに至るアリスであった。
「分からない女だな!」
ライナ伯爵家、王都別邸。
他の伯爵家に比べても小規模な屋敷には今夜も怒声が飛び交っていた。ライナ伯爵と伯爵夫人が飽きることなくケンカをしているのだ。
また伯爵が庶民に手を出したか。
もしくは夫人の浪費がバレたか。
あるいは、その両方か。
小規模な屋敷であり、古いせいか立て付けも悪い。必然的に夫婦喧嘩の怒声は屋敷中に響き渡っていた。おそらくは外にまで聞こえていることだろう。
ベッドの中で布団に潜り込みながら、じっと息を潜めるアリス。
――こんなはずではなかった。
姉であるシャーロットが追放されれば、すべてが良くなるはずだった。父と母は昔のように仲良くなり、アリスと共に笑って日々を過ごせるようになるはずだった。
……冷静に考えれば。五年前からシャーロットは貴族学園で寮生活をしており、卒業後もすぐにルバートと婚約し、公爵邸に住んでいたのだから、今さら追放しようがしまいが伯爵夫妻の仲に影響があるはずがない。
だが、そんな冷静さを保てないほどアリスは精神的に追い詰められていた。
原因は、あの夫婦喧嘩。
アリスが直接怒鳴られているわけではない。
シャーロットのように義母から暴力を振るわれているわけではない。
父親からも溺愛されている。
もしもシャーロットが聞けば『ケンカの怒声くらいで何を』と呆れることだろう。
だが、昔からその恵まれた容姿のおかげで周囲から大切にされてきたアリスにとって、まるで愛を感じ取れない父と母の怒声は耐えがたいものがあった。
どこか、声がもっと響かない場所はないか。
布団を被ったまま部屋を出たアリスは屋敷を彷徨う。
「――だから、もうヤバいんだって」
曲がり角の向こうから聞こえてきたのは、アリス付きのメイドであるチェシャの声。話し相手は厨房専門のメイドだろうか?
「お嬢様がよりにもよって王太子殿下にケンカを売ったらしくてさぁ」
「あー、王宮に通い詰めて口説いているんだっけ?」
「違う違う。それもヤバいんだけどさぁ……。この前シャーロット様が始めた花屋に行ってきたのよ。お嬢様を連れて」
「ふへぇ。ほんとに店を始めたんだ? よくそんな金があったじゃない」
「公爵閣下から上手いこと金をせびったんでしょうね。やっぱりあの人はお嬢様と違って要領いいわ。あーあ、あんなワガママお嬢様じゃなくてシャーロット様のお付きだったらなぁ」
「それだとあなたまでも別邸に押し込まれるじゃない」
「でも、そのあとは二年間も公爵邸でメイドができるし、婚約破棄後は花屋で雇ってくれそうじゃない?」
「はいはい。妄想たくましいわね。で? その花屋でどうして王太子殿下にケンカを売ることになったのよ?」
「その花屋に王太子殿下がいたのよ! で、いつものように虐めているところを見られちゃったんだって!」
「それで王太子殿下が怒ったの? シャーロット様のために?」
「さすがにシャーロット様のために怒りはしないでしょう。『貴族らしくない』振る舞いに怒ったんじゃない?」
「あーなるほど。貴族が庶民街で騒ぐのはたしかに『貴族らしくない』わね」
「とにかく、王太子殿下を怒らせちゃったんだからマズいわよ! 下手をすれば伯爵家お取りつぶしかも! 今のうちから転職先を探さないと!」
「うわぁ、私も探そうかなぁ。伯爵たちもケンカばかりで嫌になるし」
「そうよね! いい転職先があったら私にも紹介して!」
「はいはい。そんな簡単に見つからないっての」
メイドたちの雑談から逃れるようにアリスは踵を返した。
――上手くいかない。
別に王太子殿下に興味があったわけではない。アルバート様に興味があったわけではない。結婚なんてどうでもいいし、まだまだ結婚相手なんて探さなくてもいいと思っている。
だから。アリスは、ただ――
――上手くいかない。
どうすれば上手くいくだろう?
疲弊した心でアリスは悩む。悩み、現状を打開できる方法を探す。
そして。
「そうだわ! お姉様が伯爵家に戻ってくれば、すべてが解決するはずよ!」
無論、そんなはずはない。シャーロットが戻ってきたところで伯爵夫妻の喧嘩が収まるとは思えないし、シャーロットが喧嘩の八つ当たりを受けるだけだろう。
むしろ伯爵家での虐待が疑われている今、シャーロットが伯爵家に戻るようなことがあればクルードやアルバートたちも本格的に動くはずだ。
シャーロットが戻ってきても、何の解決にもならない。逆に状況が悪化するだけだろう。
しかしアリスには理解できない。平穏な心境ではない以上、冷静な判断を下せるはずもない。……たとえ冷静であっても彼女では無理かもしれないが。
「どうすればお姉様は帰ってきてくださるかしら? お姉様が謝ればお父様とお母様も許してくださるはず」
そんなはずはないと理解できないまま、名案を思いついたとばかりにアリスは両手を打ち鳴らした。
「そうだわ! あのお店がなくなればお姉様も帰ってきてくださるはずよ!」
天使のような笑顔で。
悪魔のような考えに至るアリスであった。
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※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義なのでリアルな世界の常識と混同されないようお願いします。
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