クリームパン吉とクリームパン子

naokokngt

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クリームパン吉とクリームパン子

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ミカから電話が来たのは、夜の9時過ぎで、そろそろお風呂を入れようかと考えていたときだった。
夏の真っ只中、とても暑い日で、わたしの体は乾いた汗と乾かない汗にとりつかれて重くて重くてどうしようもなかった。

彼女は硬い声でいきなりの電話を詫びて、まあ電話というものは大抵の場合いきなりなものだけれど、ちょっと長い話になるの、とミカは言った。別にかまわないよ、とわたしは答えると、ミカの声の硬さは少しばかりほどけたようだった。
彼女は、最近恋人と別れた、と言った。そうなんだ、とわたしは言った。それは大変だったねと。まあねと彼女は言った。なかなか感情が整理できないと。それはそうだろう。だから、とミカは言う。あの男の話をあなたにも話したい。でももしかしたら気分が悪くなるかもしれないからそれが申し訳ないと。
気にしないで欲しいとわたしは言った。

「ほんとに気分悪くなったら、そこで電話切るよ」
とわたしは言った。ミカは
「ぜひそうして、でも遠慮しない。わたしはここで好きなように話せなかったら、もうダメになると思うから。彼の名前は、クリームパン吉ってことにしといて」
「なに?」
「クリームパン吉。そして彼の奥さんの名前はクリームパン子」
「パン粉?」
「パン子、子供のコ」
わたしは言葉をしばらくの間探した。
「ねえ、ミカ。あなたがつきあっていた人って、奥さんが」
「いたわよ」
「そうか」 
「わたしを責める?」
「責めないよ」
とわたしはすぐに否定した。責めるわけない。
ミカは10秒ほど沈黙してから、「じゃあ、話すね」と言った。

*****

"今日、君の家に行かなかったことを申し訳なく思うよ。こうやって君を喫茶店に呼び出すのは、君が人混みに出ることを極端に嫌っているのをわかってやっていることだから、ずいぶん腹を立てただろう"

わたしは彼に呼び出され、駅前のそこそこ客が入っている喫茶店の窓際の席にふたり、向かい合わせに座った。
彼はホットコーヒー、わたしはアイスティーを注文した。それらが運ばれてきて、わたしがアイスティーに口をつけたことを確認し、クリームパン吉は話しはじめた。

別れを告げられることは、予想はついていた。そろそろ終わるんだなあという予感はしていたよ。
彼は
"僕は妻のもとに戻るよ。僕は間違ってた"
という、本当につまらない言い方をした。
"つまり、わたしといることが間違ってたってこと?"
と、わたしは自分の感情を声に乗せないように気をつけながら聞いた。
"残念だけど、そうだね"
彼はホットコーヒーをひとくち飲んだ。
"あなたはどうしてそんなふうに思うようになったのかしら"
とわたしは尋ねた。
クリームパン吉は、しばらく考えてから言った。
"クリームパンだったんだ"
"クリームパン?"
わたしの声は多少大きくなったように思う。
"僕がある夜に帰宅した際、妻が言ったんだ。あなた、わたしのクリームパン食べたでしょうって。びっくりしたさ。そんなことした覚えがない。そもそも妻がクリームパンを買ったことすら知らなかった。でも彼女は顔をものすごく歪めながら僕を責めた"
わたしは思ったことを言ってやったわ。
"奥さんは、思い違いか、わざと言ったのよ。あなたを責めたいがために"
彼の目を見て、わたしはしまった、と思ったわ。クリームパン吉は、わたしがそう言うのを待ってた。そうねえ、言うべきじゃなかったね。クリームパン吉は、わたしが奥さんが悪いというようなことを言うのを待っていたみたいに感じた。
"僕も君と同じことを思った。そして妻を無視して自分の部屋に入ったんだ。ソファに横になって、ー前にも話したけど、仕事で夜中も起きてパソコンをいじることもあったから僕用の部屋が一個あったし、そこに仮眠用のソファも置いてあったー目を閉じて、しばらくして昔のことを思い出した。何年も前、君が現れる前だけど、妻は僕にクリームパンを分けてくれたことがあったなって"   
そして彼はわたしを見た。わたしはアイスティーをひとくち飲んだ。シロップを入れなくて本当によかったと思ったわ。甘いものは絶対に喉を通したくない気持ちだった。
"それはどんな話?"とわたしは尋ねた。
クリームパン吉は窓の外を歩く赤のリボンつきサンダルを目で追ったあと、続きを話した。
"昔、妻がふたつクリームパンを買ってきてふたりで食べることになったんだ。美味しかったよ。卵がたっぷりの濃厚なカスタードクリーム、しっとりしてふわふわしたパン。僕はあっという間に食べたんだけど、妻は僕をじっと見ていただけで自分のクリームパンには手をつけない。君は食べないの?と僕は聞いた。そしたら妻は言うんだ。あなたが美味しそうに食べる姿を見るのが幸せなのって。そしてまだ食べてない自分のパンをふたつに割って、半分を僕にくれた。それは本当に幸せな時間だった。こってりとしたクリームが僕らの中に入り、僕らがこってりとしたクリームの中に入る時間"
わたしはアイスティーをもうひとくち飲んだ。 
"ああ、あのとき妻は僕に幸せを分け与え、僕が幸せを感じ、それによってさらに妻は幸せになったんだ。ふたりだけで完成させた時間だった。それを思い出したときにね、その満ち足りた時間に帰りたいと思った。そう、あのときは足りないものは何ひとつない、完全な世界だった"
そうして、彼は言葉をきる。わたしを見る。わたしに、なにか言ってほしいのだ。
"完全な世界だった、いまと違って、ってこと?"
と、わたしは彼の望み通りのことを聞いた。
"君は、ただ隙間に滑り込んできた存在なんだ。あのときのような完全な世界を作ることはできない"
と、クリームパン吉は言った。
クリームパン吉は言ったんだよ。
わたしの喉から頭へ向かって、どんどん熱さが飛び上がってゆくのがわかった。
"それであなたは、奥さんと一緒にその完全な世界をもう一度つくろう、そして歯の隙間に滑り込んだ垢みたいな存在はクリーニングしてしまおう、と言いたいの?"
わたしはできるだけ辛辣に言おうとした。しかし彼はとくに傷ついたり、腹を立てたり、呆れているようにも見えなかった。
彼はただ、わたしの言葉を受け止め、体に染み込ませているように見えた。そして、
"もう一度あの世界を作ることは、いまの僕と妻にはできない。そんな都合の良いことが起こるわけない。でも、僕の幸せを作ったのは、妻だったということがわかったんだよ。だから、僕は彼女の眠るベッドの下で彼女を守らねばならないんだ。君とはもう会わない" 
と言った。
彼の言葉を、わたしはかなりの遠くから、たとえば山ふたつくらい向こうから、ずるずるずるずるとやっとの思いで自分の足元に引きずってきた。
そして、乱れた息をなんとか整えようと努力したんだ。
でも口から出たのはこんな言葉だった。
"わたしは、これからもあなたは同じことを何度もやると思うよ"
さらに、
"相手はわたしじゃないほかの誰かだけれど。そして奥さんはせっせとクリームパンとかあんパンとかハンバーガーとか、買ってきてはそれらをぽいっと捨てた挙句あなたのせいにするんじゃないかな。そして、あなたはまた奥さんのもとに戻る。もっともらしい薄さ3ミリの話をして。誰かを深く傷つけて。何がクリームパンよ。なんでそんなドリーミングな話してるの?馬鹿じゃないの?"
クリームパン吉はわたしを真正面からじっと見つめて、
"そうかもしれないね"
と言った。
わたしは、ああわたしは完璧に言うことを間違ってしまったとそのときものすごく後悔したわ。そんなこと言うべきじゃなかった。ただ、"わかったわ"と言って席を立つべきだった。
こんな世界からは一刻も早く足を洗う必要があったのよね。
これはわたしに対する最後の試験だった。ここさえクリアしておけば、わたしはいま、いくらかマシな世界にいた。
とは言ってもどうなのかな。わたし自身が泥の中にいる世界か、泥の入ったパンをわたしが食べる世界にいるか程度の違いしかないのかもしれない。わからない。

わたしは結局、別れを受け入れて喫茶店の外に出た。
アイスティーのお金は向こうが出した。
わたしが出すわ馬鹿にしないで、とか言わないだけわたしも頑張ったものだわ。

*****

「大丈夫?」
とわたしはミカに聞いた。そして、
「クリームパン吉は、本当にひどい奴だね」
と言った。
「心配かけてごめん」
と、ミカは言った。そして続けた。
「わたしが一番ひどいと思うのは、奥さんのクリームパン子だと思う」
「そうだね」
わたしはうなずいた。「嫌な女だね」
「ごめんね」と、ミカはもう一度言い、そして黙った。
わたしがいま間違ったことを言ったのは、自分でもわかっている。ミカもわかっている。
沈黙はしばらく続き、わたしは息が苦しくなり、言葉をかき集めた。
「ミカ、美味しいスイーツの店見つけたんだ。今度そこで紅茶ゼリー買って届けにいくよ。アールグレイとオレンジの香りがすごく良くて、夏にふさわしくサッパリするよ。クリームパンよりずっと美味しいよ」
電話の向こうでため息のような音がかすかに聞こえて、それから
「ありがとう」
と彼女は言った。

ミカの電話を切った後、さきほどよりも何倍も重く臭くなった汗に覆われているとわたしは感じたが、その場からなかなか動くことができなかった。
汗と、さらに濃厚カスタードクリームの重さも加わったんだと思った。
かなりドリーミングな重さだ。

ふと、会社近くの小さなパン屋を思い出した。あそこもクリームパンが美味しい店だった。
若い夫婦とアルバイトふたりくらいでやっているお店だった。
中に入ると、一面空色の壁で、天井にはハンググライダーでとぶ男女の絵が描いてあった。
パン屋としては珍しい絵なのではないかと思って、暇そうな時間帯に奥さんに聞いたことがある。
「ああ、わたしたち夫婦でハンググライダーやるんです。わたしたちパンもハンググライダーも空も大好きなんです。大好きなものに囲まれて仕事するのって本当に幸せ」
彼女は満面の笑みを浮かべながら言った。

彼女たち夫婦は、せっせと作ったパンを背負い、ハンググライダーでにこにこしながら世界中に届けるのだろう。
青空はどこまでも続き、季節はいつまでも風がさわやかな5月だ。
暑さが体にまとわりつく夏など、永遠に来ない。

そんな店だ。

クリームパンが、とてもよく似合う。
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