赤いスカート

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赤いスカート

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ミチスギ課長は、赤いスカートの女の人と一緒に歩いていた。わたしはそれを見ても、何も思わなかった。本当だ。
鼓動は速くなってしまったが、心の中に何か言葉が浮かびあがったか?と聞かれたらノーだ。
言葉は何も浮かばなかった。浮かびかけた何かは、空に飛んでいった。

ミチスギ課長は、昨年課長になったばかりでわたしの上司だ。彼はいつも穏やかで誰に対しても声を荒げることはなかったと思う。もちろんわたしに対しても。そんな人だ。

わたしは、ときどきいろいろな人に声を荒げられる。そんな人なんだと思う。
わたしは人に好かれたい。だから人が言ったことにはうなずくようにしている。あらゆることに対して。好きではないものも「とても良いものですね」と言ってしまう。それは嘘だ。でも、そう言えばみんなにこにこする。だから、わたしは嘘をつく。
でも嘘だから、嘘がバレたら嫌だから、だから、人とは深い話はしない。できない。
嘘がばれないか、たいていはびくびくしている。
「嫌い」の言い方も、「嫌だ」の言い方も、よくわからない。いままで言ってこなかったから。
だから仕事上、なにか断らなければならなくなってしまったら、わたしはとても苦しい。
断らなければならない。嫌なことを言わなければならない。早く決断しないといけない。わたしのこころが苦しい。
その苦しさが最高潮に達してしまうと、わたしは、
「嫌ですっ」
あるいは
「できませんっ」
と言ってしまう。
なんでわざわざちいさい"っ"を入れてしまうんだろう。それが入らなくても柔らかい印象にはならないかもしれない。でもあきらかに"っ"はいらない。そしてそれは、あきらかに相手の心に突き刺さってゆくらしい。当たり前だよね、わたしだって相手からそんなふうに言われたら傷つく。
だから、相手もわたしに対して声を荒げるのだ。
だから、わたしが誰かに声を荒げられるのは、わたしのせいだ。

ミチスギ課長は、言葉がなめらかなほうではないと思う。うーん、うーん、とよく言葉を選んでいる。それでも選ぶ言葉は優しい。うーん、さえも優しい響きだ。
わたしがうまく言葉を言うことができなくても、「それはこういうことですね?」とうまく言いかえてくれる。苛立った態度をあまり見せたことがない。
だから、彼がそんな態度を見せかけたらわたしは逃げる。見ないようにしてる。
ミチスギ課長は、おだやかであろうと努力している人なのだ。
だから、こういう人に嫌われたくないなあとわたしは思う。この人の前では、わたしは焦っても怖くても穏やかでいよう。優しくいよう。

わたしはいつしか、たとえばミチスギ課長と偶然街で会って、ちょっとだけでも一緒に歩きたいなあ、と思うようになった。
華やかなスカートで、そうだ、いまは桜が咲き始めていてやわらかなピンクの花びらが風に舞うようになっている、それにあうような軽やかなスカートを、わたしは履こう。
そのスカート履いて、一緒に歩けたら良いなあ。

桜が満開になったころ、ミチスギ課長と赤いスカートの女の人が街を歩いているのを見かけた。
ぼうっと彼らをみているわたしの髪に、近くの小学校の校庭に咲く桜の花びらが舞い降りた。
花びらは少しばかり体を休めているように思えた。そしていつのまにかいなくなった。

お昼ご飯を会社内で食べる人は、その部屋があいている場合は「会議室A」というところで食べることになっている。
その日はわたしはひとりでお弁当を食べていた。そこにミチスギ課長が「どうも」と言って入ってきた。にっこり笑って。
ミチスギ課長は、部下や同僚たちと外に食事に出ることが多いから、とても珍しいなと思った。そして、彼はわたしのことを「このひとはいつもひとりで食べているのかな」と奇妙に思うだろうかという気持ちを、わきに押し込めた。
「美味しそうだね」と、ミチスギ課長はわたしの弁当を見て言った。一応、わたしは自分で作ってくる。冷凍食品がほとんどなので、つくるというか、詰めるというか。
「美味しいです」とわたしはにっこり笑った。そう笑ったら、素直な女性だと思われるかなと思って。でもよく考えたら、どちらにしろわたしの弁当は美味しかった。嘘じゃないことを言ったのだ。そこにわたしは嬉しくなった。
ミチスギ課長の弁当は、コンビニエンスストアの弁当だった。ハンバーグと海老フライとあと、よくわからないカツが入っていた。
「美味しそうですね」とわたしは言った。
ミチスギ課長はうなずきながら海老フライをふたくちで食べ終えた。
「美味しいよ。海老フライとハンバーグ大好き。でも海老フライはいつも1本しか入ってないからね、もう1本入れてくれたっていいよなっていつも思う。でも海老フライ専用弁当って僕の行くところでは見かけないんだよな。いつもハンバーグの添え物扱いな感じがする」
わたしは何も言わずに笑った。
「僕にとってはハンバーグが添え物で良いのにね。まあそこまで言うなら自分で作れって感じだよな」とミチスギ課長は言った。

わたしは本当は会話をこう続けたかった。
「あの、赤いスカートの女性…」
そしたら、ミチスギ課長は驚いただろう。言葉も出ないかもしれない。
わたしはそこでさらにこう続けよう。
「とても綺麗で、優しそうな人でしたね」
そしたら、ミチスギ課長は微笑んでくれたかもしれない。「君こそ、優しい人だね」と思ってくれたかもしれない。
でもわたしは言わなかった。ほかに何も言うべき言葉は見つからなかった。
ただ、ふたりで黙って食べていた。
ミチスギ課長は食べる終わるのが早く、食べ終わるとほぼ同時に彼のスマートフォンが鳴った。
彼は「はい、ミチスギです」と電話に出て「はい、ああそうですね、わかりました。すぐに用意します」
電話を切ると、空の弁当を素早くコンビニエンスストアのビニル袋に入れて立ち上がり、「じゃあ、お先に」と部屋を出て行った。

さっきまで広がっていたハンバーグのデミグラスソースの匂いさえ、そこからぱっと消えてしまったようだった。なにも匂いも音もしない。
会議室Aは、会議室とAに分かれてしまって、わたしはひとりAのほうに取り残されたように感じた。窓はきっちり閉められ、空気は止まっている。
誰もいない。

赤いスカートのことなんて、ひとことも言わなくて本当によかったなあとわたしは思った。
弁当を食べ終わったので、蓋を閉め、ハンカチに包み、バッグに仕舞い込んだ。
そして自分の水筒からほうじ茶をカップにそそいで、ひとくちだけ飲んだ。

ほうじ茶は、ぬるいにだいぶ傾いた温かさだった。

あの赤いスカートは、少し生地が厚かったな。いまは朝晩ですらかなり暖かくなってきているし、わたしはもう少し薄い生地のふわっとしたスカートをはきたいなと思った。そう、ずっと軽やかなスカートをはきたいと思っていたじゃないか。色は何がいいかな。

太陽の光を浴びる若い草たちのような緑色を、わたしは思いうかべた。

きっともうすぐ、その緑をやさしくつつむ風がふくだろう。

窓を開けてみようかな。
わたしは思った。


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