カエル・カワイイ・カエル

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カエル・カワイイ・カエル

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むっつ年下の妹は、金曜日の夜に実家であるうちに帰ってきて、母親から手料理を作ってもらった。そしていちばん風呂に入り、テレビを見たいだけ見たあとで、定期的に掃除してもらっている自分の部屋のピンク色のベッドで朝までゆっくり寝た。
彼女は、会社の近くで一人暮らしをしているが、週末にはときどきうちに帰ってくる。彼女の住むアパートは、うちからバス一本で行ける距離だ。

本当に好きなように生きている。

「ねえねえ、庭にカエルがいる」
彼女は、今日も朝からそんなことを言って笑ってる。
父も母も、「ほんとだカエルだ」と笑ってる。
カエルがなんだっていうんだ。
カエルなんて数百年前だっていたし、数十年前だっていたし、数日前だっていたよ。
なんで、みんなそんなくだらないことで笑っていられるんだ。

わたしなんて数日前も昨日も、会社の意地悪上司に嫌味を言われ、
「あなた歳に似合わないそのピンク色のスカート、恥ずかしいわね」
と服の趣味すら笑われた。

わたしはうちに帰ってもそのことについては黙っていた。
どうせ何を言っても、どうにもならないのだ。

わたしは生まれてこのかた、うちから出てひとり暮らしをしたことがない。
「あなたは甘えているけれど、妹さんは自立しているのね」
いつも両親を手伝っているのはわたしなのに。

今日は日曜日だけど、わたしは当番で出勤だ。
自分で作った弁当をカバンに詰め込む。

「弁当手作り?ばかでしよ、あなたの弁当なんて冷凍食品ばかり。手作りさえできない。ダメな人間。
わたしはね、冷凍食品なんてつかわないわ。なんでも一から手作り。てづくり。どんなに忙しくてもね。あなた、そんなこともできないのね」

上司の蔑んだ声が聞こえる。

あなたの言った通り、わたしはピンクのスカートやめました。わたしのような年寄りと不細工にはピンクが似合いません。今日はドブのような黒いズボンでいきます。
わたしにはそれがお似合いなんです。

わたしはいってきますも言わずに外に出ようとした。

「あ、おねえちゃん、ねえねえ」
と、後ろの方から能天気な声が聞こえた。
いいかげんにしてよ、どうせうすっぺらい声でいってらっしゃいとか言うんでしょう?
勘弁してよ。
幸せな人に、幸せじゃない人の気持ちなんて永遠にわからない。

みじめだ。

ひとりぼっちになりたい。
ほんとうのひとりぼっちに。

誰にも気づかれない世界とは、誰もいない世界のことだ。

「お姉ちゃん、いってらっしゃい」
と、後ろで声がした。ほんとうにうすっぺらい。何の価値もない。

「お姉ちゃんっ」
うすっぺらい女が、緊急サイレンみたいな高い声をあげた。
なんなのよ、いったい。
「カエル、カバンに」

えっ?と思い、右肩に背負った黒いかばんを見る。まさかこんなとこにカエルなんているわけが。

ぴょん、とわたしのカバンから緑とピンク色のなにかが飛び降りた。

「カエル」 
と、わたしはつぶやいた。

「あ、ダブルクリップだ」
と、妹は言った。
そして、玄関に落ちたそれをゆっくりと拾う。

ああ、わたしのだ。
そうだ、駅ビルをぶらぶらしていた時、カラフルなクリップを見つけてわたしは自分用に買っていたのだ。普通なら黒くなっている部分がほかの色になっていて、模様までついている。
いま落ちたものは、緑地にくすんだピンク色のドット模様が入っているものだ。
カバンの中に入れていた。
わたしの職場では、書類を多く扱う。
止めるダブルクリップが可愛いものだと少しは楽しい気分になるかな、と思っていたこともあって、文房具コーナーでみつけたときに衝動的に買っていた。
自分の机で、自分が使用する書類につけるだけなら誰にも叱られないだろうと思って会社に持っていった。
でも考え直したのだ。
上司に、
「あなた何考えてるの?この書類は遊びじゃなくて仕事で使うもの。そんな可愛らしいクリップは必要ない。自費で買ったの?会社で使うものは会社の費用で買うもの。そんなこともわからない頭の悪い人間なの?自分で買ったのなら自分の部屋でお使いになれば。それなら誰も止めないです。たとえあなたに全く相応しくないピンク色であったとしても」
と言われるかもしれないな。そう気づいたのだ。

なんでわたしはこんなもの買っちゃったんだろう。わたしのような馬鹿で年だけとってしまった人間は、可愛いものなんて持っていても笑われるだけなのに。
そんなことを後悔して、もう思い出さないようにして、しかし、カバンの中に入れっぱなしになっていたのだろう。
それが何かに引っかかったとかなんとかしてカバンの入り口までたどり着き、そしてぽろっと落ちたのだろう。

「へえ、かわいいねえ。お姉ちゃんかわいいの持ってるね」
と、妹は言った。
彼女の目はぱっちり開かれて、そこからシャワーのような何かが降りそそいでいるようにも見えた。
シャワーのような何かは、わたしの好きなピンク色だと思った。

「ほかの色もあるよ」
会社に遅刻しないように急ぐべきだと思うけど、わたしはカバンのポケットから、紫の中に白のドット模様のダブルクリップを出して彼女に見せた。
「かわいいねえ」
と、彼女は楽しそうに言った。

うすっぺらいよね。
「いま、こういうの結構あるよ。ワイヤー部分がハートの形しているのもある」 
しかしわたしは、何でこう妹に丁寧に説明してるんだろう。うすっぺらいのに。
彼女の目からは、いまだにピンク色のシャワーが降り注いでいる。
その顔を見たら、なんだか次の台詞を考えることが面倒になった。早くわたし自身を傷つける台詞を考えなければならないのに。
わたしは息を少し吐いてそして少し吸った。

雨が近づいているにおいがした。

「それあげる。書類まとめるときに便利だし、かわいい。未来に進んだ会社は、紙なんてもう取り扱わないかもしれないけど」
と言って緑のクリップのほかに、紫のものも彼女にわたした。
「本当?くれるの?ありがとう」
と妹は大きな声で、笑みを浮かべたまま言った。

うすっぺらいねえ。
と、上司の声がした。
うるせえよ。と、わたしはその声に膝蹴りを食らわした。
上司の柔らかい頬に、わたしの膝がめりこんだようだった。ドブのような闇の中で、それはぼんやりと浮かび上がる。
顔から上だけの上司だった。それがふらふらよろよろ浮いている。
それはすぐにふん、と鼻を鳴らした。そして、毛虫がちくちくとした毛をざわざわ動かしながら、這ってわたしに近づいてくるような、そんな声を出して。
「わたしにそんなこと言っていいの?ねえ、いいの?わかってる?この妹は、あなたを追いつめていくから。敵だから。そしてあなたは妹に負け続けてみじめになるだけだから」
「さよなら」  
と、わたしは上司の顔に向かって言った。上司の顔はにやにや笑いながら、暗闇に消えていった。

「今日の夜も泊まっていくの?」
と、わたしは妹に聞いた。
「あ、うん、どうしようかな」
「明日は月曜日か。じゃあうちから出勤すれば。お母さんも喜ぶでしょ」
と、わたしは言った。
「そうだね」
と妹はカエルのように跳ねる声で、言った。
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