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第1話「幽鬼《スペクター》」

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「もう、やめてくれ……!!」
 暗い路地。男は地に伏し後ずさる。装甲はボロ切れのように切り裂かれている。その状況を指し示すように、宙に浮いたモニター画面が赤く警告を伝えていた。
「あと一回だけだからさぁ~~~。」
 倒れた男を見下し、弄ぶような口ぶりで剣を突きつける巨漢。伏した男の口から小さく悲鳴が漏れる。
「十分ランクは上がっ――!」
 巨漢は倒れた男の頭を踏み躙って言葉を遮る。
「十分だぁ!? んなわけねぇだろうが!!」
「この俺が黄金《ゴールド》ランクだぞ!! 白金《プラチナ》になんのにどんだけ苦労したと思ってやがる!!」
 怒りが収まらず、何度も頭を蹴りつける。やがてモニターのゲージがゼロになると、勝者を告げるアナウンスが鳴り響いた。
「立てオラ。」
 倒れた男の頭部を鷲掴み、無理やり立たせる。
「白金《プラチナ》ランクになるまでテメーをブチ殺してやる……!!」
 再戦申請を終えようとした瞬間だった。
<<挑戦状が届きました>>
 冷たい機械音声と警告音が反響する。
「チッ、まぁいい。誰だろうと――。」
 巨漢は掴んだ男を放ると、背後に現れた挑戦者を目に入れる。
「私のランク上げ、付き合ってよ。」
 黒いシルエットは細く、しなやかな四肢が艶やかに動く。その度に左手の紅い太刀が妖しく、殺気を纏い輝く。
「幽鬼《スペクター》――ッ!!」
 先ほどまでの暴虐が嘘のように、巨漢は一歩二歩と後ずさる。
「テメェのせいで俺は……!!」
 しかし、それでも巨漢は剣を構えた。倒すためではない。倒されないために。
<<開戦《エンゲージ》!!>>
 鈍い金属音と共に火花が舞う。互いの刃が切り裂かんとぶつかり合う。だが対等ではない。一瞬で距離を詰めた幽鬼の刃をかろうじて受け止めた。ただそれだけに過ぎない。
「力押しで負けるかよォッ!!!!」
 攻守が入れ替わる。巨漢は持ち前の怪力で幽鬼の剣を押し返し、彼女を身体ごと撥ね退けた。だが、異様なほどに彼女は軽かった。
「ぬおぁアッ!!!!」
 幽鬼の身体が宙を舞い、巨漢の背中を切りつけた。彼女は巨漢の力を跳躍のエネルギーとして相殺したのだ。
「クソったれェッ!!!!」
 巨漢は上半身をひねり渾身の力で背後を切りつける。衝撃と風圧、だが手ごたえはない。
「消えッ――!?」
 幽鬼の姿を捉えられぬまま巨漢は切り上げらる。身動きの取れない空中。幽鬼の剣先が真っすぐと巨漢へと向けられる。そして、その切っ先が巨漢を貫く。
「鉄城障壁《メタルウォール》ッ!!」
 はずだった。突如二人の間に現れた鉄塊ともいえる壁が幽鬼の剣を阻んだ。
「俺の防術《ガードスキル》を破ったヤツはいねぇ!!」
 体勢を立て直した巨漢は剣を振りかぶり、壁ごと地面に叩きつけた。だが、やはりというべきか、そこに幽鬼はいない。
「どうしたどうしたぁ!? そんなにかくれんぼがしてぇのか!?」
「鈍いね、ここにいるよ。」
 巨漢が見上げた先、月明りが影を作り、彼女を黒く染める。剣は鞘に納められ、紅い瞳だけが闇に浮かんでいた。
「テメェ、勝負はまだッ――!!」
 剣を幽鬼に向けた瞬間だった。紅い閃光が巨漢の心臓を鎧ごと貫いた。
<<終戦《オーバー》>>
<<勝者《ウィナー》「幽鬼スペクター」>>
「あれが、噂の……!!」
 倒れていた男は壁を頼りに立ち上がった。彼は一言お礼をしようと見回したが、既に幽鬼の姿は無かった。



「おめでとう! Ms.ミス幽鬼《スペクター》!」
 豪華絢爛なシャンデリア、ビリヤードの音、喧騒。ここはカジノ。仮面をした手品師のような男がテーブル越しに拍手を送った。
「賞金の振り込みをお願いします。」
 幽鬼は拍手に会釈で答えると、淡々と話を進めた。
「つれないじゃないか、幽鬼。君の白金《プラチナ》昇級祝いだというのに。」
 彼はカードを二枚渡す。口は見えないが尖らせているように見えた。
「すぐに金剛《ダイヤ》ランクになるから。」
 幽鬼はもう一枚のカードを受け取ると勝負に出た。
「わかったよ、振り込んでおくよ。」
「もっとも、君にも振り込んでもらうけどね。」
 仮面の男はカードをめくっていく。徐々に合計は増していき、二十一まではわずかとなる。
「ブラックジャック、僕の勝ちだ。」
 幽鬼は疑いの目を彼に向けるが、その真意は読み取ることはできない。
「……帰る。」
 時間の無駄と判断した幽鬼はその場で消えた。



「賞金賞金……!」
 幽鬼は現実世界へと戻った。そこは狭いアパートの一室で、ベッドと勉強机が部屋の大半を占拠していた。
 彼女は空間モニターを巧みに操作すると銀行口座を開いた。
「……び、微妙。」
 増えてはいるが、これだけでは足りない。バイトの継続が確定してしまった。希望を失い、ベッドに倒れ込む、幽鬼に追い打ちをかける音が鳴った。
「先生……。」
 スマホから鳴り続ける着信音。出たくはないが、出なければ彼女は自宅まで来るかもしれない。
「もしもし、剣崎です。」
 幽鬼は仕方なく電話に出た。
「あっ、優希《ゆうき》ちゃん! おはよう~!」
 優希は伝わらないだろうが、スマホを片手に会釈する。
「今日は学校行きます。」
 長々と話しても仕方がない。先生が知りたいのは、学校に来るかどうかなのだから。
「そっかそっか! じゃあ学校で待ってるからね~。」
 そういって電話は終わった。悪い人ではない。気にかけてくれていることは嬉しい。ただその優しさが優希には重苦しくもあった。
「……学校辞めたい。」
「遊んで暮らしたい。」
「そのためにもプロゲーマーにならなくちゃ……。」
 徹夜で疲れた身体に鞭を打ち、渋々学校へ向かった。



「うわ……。」
 久々に席についた優希は机の中に溜まったプリントの束にげんなりした。そのほとんどは課題で、出席日数が足りていない彼女には無視できないものだった。
 授業前の教室は騒がしい。たとえイヤホンで耳を塞いでも、それを通り抜けて声が届けられる。
「あの子って学校休んでなにしてんだろうね。」
 バイトだよ。
「なんかおっさんと遊んでるらしいよ。」
 してない。
「マジ!? 俺も遊びてぇ~。」
 嘘だって。
「おっぱい揉ませてくれねぇかな~。」
 最低だなアイツ。
「案外ああいう子ってビッチだったりするよね。」
 コイツも最低だな。
 積もっていく不快感とは逆にプリントの束はどんどんと薄くなる。最後の問題を解き終えると、優希は机に突っ伏した。徹夜から来る強烈な睡魔が眠りの底へと引きずり込んだ。

「……崎さん、剣崎さん。」
「えぁ、はい……?」
 頭をつつく指先が睡魔を追い払う。その人は同級生のようだが、記憶の中に名前はなかった。
「次の時間体育なので着替えた方がいいですよ。」
「あぁ、ありがとうございます。」
 どうやら一限目が終わっていたらしい。おそらく彼女は教室の鍵を閉めなければならないのだろう。だから親しくもない優希を起こしたのだ。
 優希は鞄から体操着を取り出そうとするが、寸前のところでそれを止めた。
「ごめんなさい、体調悪いから休むって言っておいてくれませんか?」
 同級生は少し訝しんだが、すぐにそれを了承して教室を後にした。
 誰もいない教室は普段よりもずっと居心地が良い。だが、ここが自分の居場所だとは思えない。
「ヴレイン・ヴレイド、起動。」
「アクセスコード、「幽鬼《スペクター》」。」
 優希は再び、机に突っ伏した。



「ようこそ、ヴレイン・ヴレイドへ!」
 黒衣を纏った幽鬼の前に仮面の男が現れ、丁重に頭を下げた。
「道化師《ジョーカー》、何か新しい情報はある?」
 幽鬼は剣を軽く素振りして身体を慣らす。
「悪い知らせと不味い知らせがございます。どちらをお望みで?」
 仮面に張り付いた笑みがさらに嗤う。
「両方!」
 幽鬼は目の前の仮想敵を両断する。
「まず悪い知らせですが、円卓の騎士の順位はまたも不動で終わりました。」
 円卓の騎士。ヴレイン・ヴレイドにおける上位ランカー十二人の総称だ。ランクは最上位の「伝説《レジェンド》」。その強さは常軌を逸脱しており、ステータスカンストや即死技能スキルなどのチートを以てしても勝つことは叶わなかった。円卓の騎士に勝てるのは円卓の騎士だけともいわれている。
 しかし、あまりの強さにランキングが変化せず、プレイヤー離れの原因となってしまっている。賞金稼ぎをしたい幽鬼にとっては死活問題だ。
「不味い知らせは?」
「幻影呪刺《ファントムペイン》の仕組みが解析されたようです。」
 どうやら昨日の戦闘が拡散されているらしい。幻影呪刺《ファントムペイン》は、以前に巨漢を倒した剣術《ソードスキル》だ。物理防御を貫通し、数秒の遅れとともに闇属性ダメージを与える。闇属性は魔法防御を侵食するため、非常に防御が困難だが、欠点もある。
 それは相手の防御に剣を当てないと発動できないという点だ。もし相手が防御しなければただの刺突攻撃となり、威力も半減してしまう。
 つまり、この攻撃は防御をしなければ防ぐことができる。これを知れば対処はたやすい。
「バレなくても円卓には通用しないよ。」
 周囲を取り囲んだ仮想敵を切り伏せると幽鬼は剣を納めた。
<<挑戦状が届きました>>
 警告音と共にアカウント名が表示される。
「「海帝《エイゼ》」、か。」
 海帝《エイゼ》。白金《プラチナ》ランクでも名の知れたプレイヤーだ。海の支配者とも呼ばれ、海のあるフィールドでは金剛《ダイヤ》ランクの上位プレイヤーですら打ち破っている。
 確かな実力を持っているのだが、不利なフィールドを選ばれることが多く、白金《プラチナ》に甘んじている。
「挑戦を承認します。」
<<挑戦を受理。フィールドを選択してください。>>
 戦場《フィールド》は挑戦状を受け取った側が選択することができる。ゆえに挑戦者は不利な戦いを強いられる。
「フィールドは「忘却の幽霊船」」
<<了承。カウントダウン。3、2、1、>>
<<開戦《エンゲージ》!>>


 霧の深い船上。軋む甲板は腐食し、至る所に穴が開いていた。
 風は無く穏やかな海。漂う白霧が突如切り裂かれた。
「――ッ!!」
 槍のように長く伸びた刀身が幽鬼をかすめる。それは船の壁を容易く貫くと、再び霧の中へ消えてしまう。間髪入れず、薙ぎ払い。
 幽鬼は姿勢を低くし回避すると、霧の中へ突進する。不明瞭な視界の中に僅かな人影を見つける。
 地面ギリギリを切っ先が通り抜け、鋭い切り上げが人影を捉える。鈍い鐘のような音が反響した。
 その剣は細く長い。燻した銀色の刀身がわずかに光沢を放つ。
「んふっ、近接は苦手だと思ったかしら?」
 口紅《ルージュ》が艶やかに笑みを浮かべる。鍔迫り合いをする海帝《エイゼ》の剣先がぬるりと曲がり、幽鬼を貫かんと伸びる。幽鬼が立っていた甲板に穴が一つ増えた。
「わざわざ私が得意なフィールドを選んでくれてありがと。」
「ご褒美上げなくちゃね。」
 甲板を貫いた剣先が縫うように再び姿を現す。だが貫くことはない。回避行動をとった幽鬼の右足に絡みつき自由を奪った。
「海の恐ろしさ、教えてあげるッ!!」
 幽鬼は剣を甲板に突き立てるが、抵抗は意味をなさない。宙に浮き、弧を描いて海面へと叩きつけられた。

 一面に青が広がる海中。澄んだ海面にわずかに光が反射する。
 装備の軽い幽鬼でさえ、水中では大幅に行動が取りずらくなる。陸での戦いとは別物の世界だ。
 体勢を立て直す暇は無い。幽鬼の頭上から鋭い攻撃が放たれる。
「うふふ、動きづらそうねぇ。」
 幽鬼は剣で軌道をずらし、その勢いで距離を取った。
 ふわふわと浮く風船のように動く幽鬼に対し、海帝は陸と変わらない、いや陸よりも機敏に動いて見せた。
「海中遊泳《ウンディーネ》も付けてないのねぇ。」
 海中遊泳《ウンディーネ》。戦術《タクティクス》の一つで、水中での移動弱化を無効化し、逆に強化に反転することができる。そのため、水中戦では必須スキルとされている。
「海中遊泳《ウンディーネ》は弱いから使わない。」
 だが、幽鬼は使わない。それには理由があった。
「付け忘れただけじゃないのかしらッ!!」
 侮辱されたと感じたのか、海帝の振るった剣には怒りが込められている。複雑にうねった刀身は水中で避ける術を潰す。
「幽骸《リビングデッド》。」
 海帝の剣が幽鬼を切り裂く。だが、その刃は彼女の身体を通り抜け、ただ海水をかき混ぜる。
「避けたところで手詰まりでしょ?」
 幽骸《リビングデッド》は24F《フレーム》の間、任意の接触判定を無視することができる戦術《タクティクス》。時間は短いものの、あらゆる攻撃を無力化できる強力な防御戦術だ。そして、これにはもう一つ、強力な使い道がある。
 幽鬼はうねる海帝の剣に自らの剣を引っ掛け、それを頼りに距離を詰める。
 本来ならば水の抵抗があるため不可能。だが、地形判定さえも無視してしまえば可能になる。
「ッ――!?」
 予想外の動きに驚く海帝だが、すぐさま剣を縮めて防御態勢を整える。幽鬼は水中地形によって大幅に減速してしまうが、すでに間合いに入っていた。
(あれは幻影呪刺《ファントムペイン》の構えッ!!)
 海帝は防術《ガードスキル》を使おうとして止める。自殺行為だと知っているからだ。そして、その弱点さえも気づいていた。
「必殺術《ファイナルスキル》――!!」
 その言葉とともに海帝の左腕に海水が引き寄せられ、大きな渦を形成する。その海流が幽鬼の自由を奪い、脱出することを許さない。
「言っておくけど、その中じゃ防術《ガードスキル》は使えないわよ!!」
 やがて渦が完全に幽鬼を包み込むと、海帝の剣は先端が見えなくなるほどに海底へと伸びる。
「海龍螺締《メイルシュトローム》――ッッッ!!!!!!」
 瞬間的に引き寄せられた刀身が龍のように海中を舞い、渦を幾度となく切りつける。あらゆる方向に死角はなく、渦は跡形もなく切り裂かれた。
「流石に舐めすぎよ。お嬢さん。」
 再び剣が戻る。自らに有利な水中戦、しかも必殺術《ファイナルスキル》が直撃。海帝は勝利を確信した。
 だが、終戦《オーバー》のアナウンスは鳴らない。
「なッ――!!」
 消え去った渦の中、確かに存在した。
「防いだというの!? どうやって!?」
「……単純な話。」
 幽鬼はそこにいた。だが、至る所に切り傷があり、海に赤が滲《にじ》む。
「全部、剣で弾く……つもりだった、んだけどね……。」
「まだ、円卓には……遠い……!」
 幽鬼は左手の剣を構えるものの、右手で支えなければならないほど負傷していた。
「今度こそ終わらせてあげるッ!!」
 海帝は長距離の突きを放つ。だが、幽鬼の姿は無い。
「防術《ガードスキル》――、」
「黒影潜転《シャドウダイバー》ッ!」
 海帝は何をしたのか気づき、自らの足元に剣先を向ける。幽鬼は海帝の影に入り込んだのだ。本来は緊急回避として使うものなのだが……。
(距離を詰められた……!!)
「必殺術《ファイナルスキル》――!」
(この子、防術《ガードスキル》さえも攻撃に利用して――!!)
 幽鬼は上半身をひねり、剣を振りかぶる体勢を取る。それと同時に上半身だけの甲冑が四体、大剣を構え、海帝を取り囲む。
「惨劇開幕《グラン・ギニョル》ッ!!」
 幽鬼は海帝が伸ばした剣先を掻い潜り、赤黒いオーラを纏った刃を振りかざす。
(か、軽い……!?)
 だが、そのダメージは想像しているほど大きくない。しかし、すぐに異変に気付く。
「防……で……な……!!」
 海帝は防術《ガードスキル》を使おうとするが、身体の自由が利かない。
(麻痺《スタン》攻撃ッ……!!)
 無防備な海帝に甲冑の大剣が振りかざされる。一発、二発、三発……。先ほどとは違う。重い衝撃が浴びせられる。
 合計九発。そして、四体の甲冑が同時に大剣を振り上げる。
(これは大収穫だわ……!)
 麻痺とダメージで無防備の海帝に大剣が叩きつけられた。
<<終戦《オーバー》>>
<<勝者《ウィナー》「幽鬼スペクター」>>
「……これは、良くないね。」
 勝利とは裏腹に幽鬼の表情は険しかった。



 現実に戻った優希は退屈な授業の中で戦略を練る。
(さっきは手の内を見せすぎたな……。)
 白金《プラチナ》ランクに上がるまでに優希が使ったスキルは幻影呪刺《ファントムペイン》と黒影潜転《シャドウダイバー》のみ。だが、先日の解析に加えて、必殺術《ファイナルスキル》も見せてしまった。対策が進めばランクを上げるのは苦労するだろう。
「おい、剣崎。」
(スキルを変えるのも手だけど、付け焼刃は逆に危険か。)
「剣崎!」
 怒声が優希を現実に引きずり出す。視線を向けた先には中年の男性教師が眉間にシワを寄せてこちらを睨んでいた。
「お前、授業聞いてないだろ。」
「……すみません。」
 優希は立ち上がって頭を下げ、自分の非を認めた。
「ったく、久々に学校に来たかと思えばこれか。来ても意味ねぇな。」
 教師は黒板に向き直ると、チョークをカツカツと打ち付けた。。
「これ解いてみろ。間違えたら今日の放課後、補修室に来い。」
 教師は下卑た笑みを浮かべる。どうやら恥をかかせようという魂胆のようだ。
 黒板の前に立つ優希に視線が集まる。生徒たちは単なる好奇心だろうが、教師は少し違った。優希の足先から頭のてっぺんまでを舐めるように眺める。とりわけ、胸元に熱い視線を向けていた。
 極力黒板に集中し、順調に進んでいた優希の手が止まる。
「分からないなら素直に言えよ。時間の無駄だ。」
 息がかかるほど近くで教師が呟く。口臭と加齢臭が不愉快極まりない。
「……解けません。」
 その言葉を聞いた瞬間、教師の口角が引き絞った弓のようにつり上がる。
「そぉかそぉか解けないか!!」
 飛んだ唾が優希の頬に付着する。彼女は制服の袖で拭きとろうかとも思ったが、怒りを買いかねないため堪えた。
「……補修、楽しみにしておけ。」
 教師はねちゃりという唾液の音がする声で耳打ちした。
「いえ、この問題は解けないんです。」
 教師の下品な笑みが不機嫌な表情へ変わる。肩を掴む手が怒りで強張っている。
「だから、分かんねぇんだろ?」
 手間取らせるな、黙って従え
、そういう目だった。
 大嫌いな、大人の目だ。
「この条件を満たす三角形は存在しません。だから解けない。」
 鋭い剣のような視線が教師を貫いた。予想していなかったのだろう。この瞳を。仕掛けた罠を見抜かれることを。
 たじろいだ教師は教壇を踏み外し、倒れた勢いで頭部を扉にぶつけた。少しの静寂の後、教室のあちらこちらから堪えた笑い声が上がる。どうやら、この教師を嫌っているのは優希だけではないらしい。
「大丈夫ですか、先生。」
 それでも優希は教師に手を差し伸べた。事の発端は自分にあるため、あまり恥をかかせるのは良くないと感じたためだ。だが、教師はそれを無視して立ち上がると、黙って教壇へと戻っていった。



「以上で帰りのHR《ホームルーム》を終わります。」
 優希は同級生たちと共に立ち上がり、担任の教師へ別れを告げる。他愛もない話をする者、部活の準備をする者、一つの教室に集まった人々がバラバラに散っていく。優希も手早く荷物をまとめると教室を後にした。
 終業直後の校門はまだ人がまばらだった。狭い教室と群衆から解き放たれ、開放感に胸をなでおろす。優希は軽い足取りで門をくぐる。その直後だった。
「あっ、見つけた!」
 優希を一目見て駆け寄ってくる女性。背が高く、まとめられた髪からイアリングが光沢を放つ。パンツルックのファンション、肩にかけたジャケット、美人と形容すべき大人の女性だった。
「あなた、剣崎優希ちゃん……でいいかしら?」
 優希の記憶にその女性の顔はない。正体が分からない以上、対応は決まっている。
「ちょちょちょ!! 無視しないでちょうだい!!」
 優希は遠ざかる方向へと歩みを進めるが、その女性はヒールをカツカツと鳴らしながら前に立ちふさがる。
「私、雑誌で記者をやってるの。」
 彼女は鞄から名刺を差し出す。「OREオレ通」編集部、相沢愛美《あいざわまなみ》。これが彼女の正体らしい。
 ORE通といえば有名なゲーム雑誌で、ヴレイドの最新情報やプロプレイヤーの取材記事など、有益な情報源として優希も購読している。そして、そんな雑誌の記者が来る、ということは……。
「剣崎優希ちゃん、あなたが――、」
「幽鬼《スペクター》、でしょ?」
 
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