25 / 83
相葉悠一 編
第26話「数カ月後」
しおりを挟む
オレが再び図書室に訪れたのは、肌に感じる空気が、かなり冷たくなってからだ。
偶然だった。
補習用に、どうしても入用な本があったのだ。残暑の中、新書と古書が入り混じって雑然としてた、あの頃の図書室の情景は、ここにはもうない。
図書室独特の整然さが、漂っている。
イヤでも、渡辺のことを思い出した。
まるで殺人を犯した犯人のような、追い詰められた気分になった。
早く、早くここから出なければ。
オレは目的の本棚まで早足で駆け寄ると、素早く目配せして、目的の本を探した。入用の本はすぐに見つかった。やったっ。そう思って、本に手を掛けたとき。
「相葉君」
心臓が止まるかと思った。
恐る恐る、声の方へ視線を向ける。そこには女の姿をした、とても恐ろしいものが立っていた。
***
「なんだかこうして話すの、久しぶりね」
久しぶりに聞いた渡辺の声は、恐ろしく透明で澄んでいた。こんな声だったっけ。
「同じクラスなのに」
「そ、そうだな」
「まあ、図書室の本整理期間以外には、話したこともなかったけど」
図書室は暖房が効いているのに、急に肌寒くなってきた。足元から冷気が漂ってくる。
「……渡辺、オレ」
「私ね、妊娠してるの」
「……」
「本当よ」
――これは夢だ。夢に違いない。
こんな平凡な、なんの取り柄もない、地味な日々を送る自分に、そんなことが起こるはずない。
「フッ、なんて顔してるのよ」
「そ、そんな、冗談だろ?」
「クックックックックックックックックックックッ、おめでたい人」
まさか、あのときの……
「たった一度で……相葉君、凄い打率ね」
「そんな、そんなこと言ってる場合じゃないだろっ」
「私、相葉君を告発しようと思って」
妊娠に、告発。オレの平穏な日常の中には、ありえなかった言葉だ。言い逃れようとすれば、なんとかなったかもしれない。でもそのときのオレは、とても正常な精神状態じゃなかった。
もうすべてが恐ろしく、自分の人生が真っ黒に染まっていく音が、聞こえていたんだ。この、この状況から逃れられるなら、なんでもする、そんな考えしか浮かんでこなかった。
「フフフ。顔、真っ青よ」
「おまえ、妊娠ってっ、お腹の子、どうするつもりだよっ」
「どうして欲しい?」
渡辺は可愛らしく小首を傾げる。オレはその仕草に息を呑んだ。生きた心地がしなかった。
「堕ろすにしても、もうあまり時間がないわよ」
なにも、なにも言えなかった。なにを言っていいか、分からなかった。オレには、本当になんの覚悟もなかったからだ。
図書室に再び透明な静寂が訪れる。渡辺がふわっと口を開いた。
「許して、あげてもいいわよ?」
「え?」
「告発しないで、あげてもいいわ」
「……」
「ただし、条件がある」
そう言って渡辺は、後ろ手に持っていた物を、おもむろに顔の横まで掲げて見せた。
オレはまばたきも、息の仕方も瞬間忘れていた。
あの日……
あの文芸部で見つけた、赤い、紅い、朱い本。
きっと死神が笑ったら、こんな感じに違いない。彼女は薄く、幸せそうに微笑んだ。
つづく
偶然だった。
補習用に、どうしても入用な本があったのだ。残暑の中、新書と古書が入り混じって雑然としてた、あの頃の図書室の情景は、ここにはもうない。
図書室独特の整然さが、漂っている。
イヤでも、渡辺のことを思い出した。
まるで殺人を犯した犯人のような、追い詰められた気分になった。
早く、早くここから出なければ。
オレは目的の本棚まで早足で駆け寄ると、素早く目配せして、目的の本を探した。入用の本はすぐに見つかった。やったっ。そう思って、本に手を掛けたとき。
「相葉君」
心臓が止まるかと思った。
恐る恐る、声の方へ視線を向ける。そこには女の姿をした、とても恐ろしいものが立っていた。
***
「なんだかこうして話すの、久しぶりね」
久しぶりに聞いた渡辺の声は、恐ろしく透明で澄んでいた。こんな声だったっけ。
「同じクラスなのに」
「そ、そうだな」
「まあ、図書室の本整理期間以外には、話したこともなかったけど」
図書室は暖房が効いているのに、急に肌寒くなってきた。足元から冷気が漂ってくる。
「……渡辺、オレ」
「私ね、妊娠してるの」
「……」
「本当よ」
――これは夢だ。夢に違いない。
こんな平凡な、なんの取り柄もない、地味な日々を送る自分に、そんなことが起こるはずない。
「フッ、なんて顔してるのよ」
「そ、そんな、冗談だろ?」
「クックックックックックックックックックックッ、おめでたい人」
まさか、あのときの……
「たった一度で……相葉君、凄い打率ね」
「そんな、そんなこと言ってる場合じゃないだろっ」
「私、相葉君を告発しようと思って」
妊娠に、告発。オレの平穏な日常の中には、ありえなかった言葉だ。言い逃れようとすれば、なんとかなったかもしれない。でもそのときのオレは、とても正常な精神状態じゃなかった。
もうすべてが恐ろしく、自分の人生が真っ黒に染まっていく音が、聞こえていたんだ。この、この状況から逃れられるなら、なんでもする、そんな考えしか浮かんでこなかった。
「フフフ。顔、真っ青よ」
「おまえ、妊娠ってっ、お腹の子、どうするつもりだよっ」
「どうして欲しい?」
渡辺は可愛らしく小首を傾げる。オレはその仕草に息を呑んだ。生きた心地がしなかった。
「堕ろすにしても、もうあまり時間がないわよ」
なにも、なにも言えなかった。なにを言っていいか、分からなかった。オレには、本当になんの覚悟もなかったからだ。
図書室に再び透明な静寂が訪れる。渡辺がふわっと口を開いた。
「許して、あげてもいいわよ?」
「え?」
「告発しないで、あげてもいいわ」
「……」
「ただし、条件がある」
そう言って渡辺は、後ろ手に持っていた物を、おもむろに顔の横まで掲げて見せた。
オレはまばたきも、息の仕方も瞬間忘れていた。
あの日……
あの文芸部で見つけた、赤い、紅い、朱い本。
きっと死神が笑ったら、こんな感じに違いない。彼女は薄く、幸せそうに微笑んだ。
つづく
10
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
真夏の温泉物語
矢木羽研
青春
山奥の温泉にのんびり浸かっていた俺の前に現れた謎の少女は何者……?ちょっとエッチ(R15)で切ない、真夏の白昼夢。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
[1分読書]彼女を寝取られたので仕返しします・・・
無責任
青春
僕は武田信長。高校2年生だ。
僕には、中学1年生の時から付き合っている彼女が・・・。
隣の小学校だった上杉愛美だ。
部活中、軽い熱中症で倒れてしまった。
その時、助けてくれたのが愛美だった。
その後、夏休みに愛美から告白されて、彼氏彼女の関係に・・・。
それから、5年。
僕と愛美は、愛し合っていると思っていた。
今日、この状況を見るまでは・・・。
その愛美が、他の男と、大人の街に・・・。
そして、一時休憩の派手なホテルに入って行った。
僕はどうすれば・・・。
この作品の一部に、法令違反の部分がありますが、法令違反を推奨するものではありません。
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
[完結済み]男女比1対99の貞操観念が逆転した世界での日常が狂いまくっている件
森 拓也
キャラ文芸
俺、緒方 悟(おがた さとる)は意識を取り戻したら男女比1対99の貞操観念が逆転した世界にいた。そこでは男が稀少であり、何よりも尊重されていて、俺も例外ではなかった。
学校の中も、男子生徒が数人しかいないからまるで雰囲気が違う。廊下を歩いてても、女子たちの声だけが聞こえてくる。まるで別の世界みたいに。
そんな中でも俺の周りには優しいな女子たちがたくさんいる。特に、幼馴染の美羽はずっと俺のことを気にかけてくれているみたいで……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる