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相葉悠一 編

第26話「数カ月後」

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 オレが再び図書室に訪れたのは、肌に感じる空気が、かなり冷たくなってからだ。

 偶然だった。

 補習用に、どうしても入用な本があったのだ。残暑の中、新書と古書が入り混じって雑然としてた、あの頃の図書室の情景は、ここにはもうない。

 図書室独特の整然さが、漂っている。
 イヤでも、渡辺のことを思い出した。

 まるで殺人を犯した犯人のような、追い詰められた気分になった。

 早く、早くここから出なければ。
  
 オレは目的の本棚まで早足で駆け寄ると、素早く目配せして、目的の本を探した。入用の本はすぐに見つかった。やったっ。そう思って、本に手を掛けたとき。

  
「相葉君」
  
 心臓が止まるかと思った。

 恐る恐る、声の方へ視線を向ける。そこには女の姿をした、とても恐ろしいものが立っていた。
  
***
  
「なんだかこうして話すの、久しぶりね」
 
 久しぶりに聞いた渡辺の声は、恐ろしく透明で澄んでいた。こんな声だったっけ。
 
「同じクラスなのに」
「そ、そうだな」
「まあ、図書室の本整理期間以外には、話したこともなかったけど」

 図書室は暖房が効いているのに、急に肌寒くなってきた。足元から冷気が漂ってくる。

「……渡辺、オレ」
「私ね、妊娠してるの」
「……」
「本当よ」

  
 ――これは夢だ。夢に違いない。

 こんな平凡な、なんの取り柄もない、地味な日々を送る自分に、そんなことが起こるはずない。
  
「フッ、なんて顔してるのよ」
「そ、そんな、冗談だろ?」
「クックックックックックックックックックックッ、おめでたい人」
  
 まさか、あのときの……
  
「たった一度で……相葉君、凄い打率ね」
「そんな、そんなこと言ってる場合じゃないだろっ」
「私、相葉君を告発しようと思って」
  
 妊娠に、告発。オレの平穏な日常の中には、ありえなかった言葉だ。言い逃れようとすれば、なんとかなったかもしれない。でもそのときのオレは、とても正常な精神状態じゃなかった。

 もうすべてが恐ろしく、自分の人生が真っ黒に染まっていく音が、聞こえていたんだ。この、この状況から逃れられるなら、なんでもする、そんな考えしか浮かんでこなかった。
  
「フフフ。顔、真っ青よ」
「おまえ、妊娠ってっ、お腹の子、どうするつもりだよっ」
「どうして欲しい?」

 渡辺は可愛らしく小首を傾げる。オレはその仕草に息を呑んだ。生きた心地がしなかった。
 
「堕ろすにしても、もうあまり時間がないわよ」

  
 なにも、なにも言えなかった。なにを言っていいか、分からなかった。オレには、本当になんの覚悟もなかったからだ。

 図書室に再び透明な静寂が訪れる。渡辺がふわっと口を開いた。
  
「許して、あげてもいいわよ?」
「え?」
「告発しないで、あげてもいいわ」
「……」
「ただし、条件がある」
  
 そう言って渡辺は、後ろ手に持っていた物を、おもむろに顔の横まで掲げて見せた。

 オレはまばたきも、息の仕方も瞬間忘れていた。


 あの日……

 あの文芸部で見つけた、赤い、紅い、朱い本。

 きっと死神が笑ったら、こんな感じに違いない。彼女は薄く、幸せそうに微笑んだ。


つづく
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