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26.兄の心弟知らず
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夢の劇団に入団できたものの、まずクリスが命じられた仕事はお使いや掃除などの雑用全般だった。
くいっと一息に酒を空けたフィルは、テーブルに荒々しくグラスを叩きつけた。
「当然です。あいつは舞台経験など一切無い、ど新人の下っ端なのですから」
けれど、クリスには他の新人とはひとつだけ違う点があったという。
お代わりを注ぐカイに目顔で礼を言って、フィルは深々としたため息をつく。
「記憶力と再現力――……。昔から優秀ではありましたが、こと歌劇の事となると、あいつは常軌を逸した力量を発揮するらしい」
そもそもシベリウスの団長であるダレルが、素人のクリスを受け入れた理由もそこにあったのだという。
年に一度の地方巡業のたび、クリスは足繁く劇場に通い詰めた。シベリウスが毎年披露する違う演目を、歌も台詞も踊りも完璧に覚えてしまった。
そうして、劇団員の前で得々と再現したというのだ。一同、度肝を抜かれたらしい。
「と、いうわけで。王都に出たクリスは、シベリウスの雑用係兼練習係となったそうです。誰かしら練習に参加できない時の代役、台詞合わせに付き合って欲しい時の相手役……。老若男女関わらず見事に演じてのけて、結構重宝されたみたいです」
一流の先輩を相手に練習を重ねるうち、クリスはめきめきと実力を上げていった。歌唱力に演技力、そして優美で軽快なダンス――……。
これならいつ舞台に出しても大丈夫だと、劇団長のダレルも慎重にクリスのデビューの時期を図っていたという。
その矢先の事だった。
「シベリウスの看板女優であったフローラが、体調不良を理由に電撃的に退団したそうなのです。しかも、その時シベリウスは王立劇場で公演する直前でした」
数日後に初日を迎えるという時に、あろうことか主役を演じる歌姫が消えてしまった。
当然、シベリウスに激震が走ったという。そうして追い詰められたダレルは、とうとう苦渋の決断を下した。
――すなわち、歌も台詞も役柄も完璧に己のものとしているクリスに、フローラの代役を命じる事を。
重苦しく吐息をついたフィルは、茫然と話に聞き入るロッティとカイを見比べる。
「僕もこの辺りは聞きかじりですから。他に方法は無かったのか、どうして舞台経験の無いクリスに賭けることに決めたのか――。わからないことだらけですが、ともあれクリスはその公演で『クリスティアナ』として、観客に鮮烈な印象を残したのです」
歌姫クリスティアナの誕生である。
その日からクリスは、劇団シベリウスの新たな看板女優となったのだ。
***
そこまで話して、フィルはやっと強ばっていた表情をゆるめた。完走した走者のように息を弾ませ、一気に杯をあおる。
硬直していたカイも身じろぎし、ぎこちなく笑顔を作った。
「一応、経緯は理解できたけどよ。……それとロッティの魔石とが、一体どう繋がるってくるってんだ?」
カイの疑問に、全く同じ事を考えていたロッティも身を乗り出す。
食い入るようにフィルを見つめると、フィルは困ったように眉を下げた。
「僕は正直、今のクリスについては何の心配していないんです。もし役者として失敗したとしても――……あいつはまだ半人前の子供に過ぎませんから。早いうちに挫折を味わうのは良い経験になりますし、将来への糧ともなるでしょう」
「確かに。お前が言うと、ものすげぇ説得力あるわ」
カイが速攻でうんうんと頷くと、フィルは思いっきり眉を跳ね上げた。またも無言で睨み合いを始める二人に、ロッティは大慌てで割り込む。
「じ、じゃあっ! フィルさんは、クリスさんの一体何が心配なんですか?」
ぱたぱたと手を振ってアピールする彼女に、フィルは虚を突かれたように目をしばたたかせた。しばしためらい――やっと、意を決したように口を開く。
「クリスは、男なんです。どんなに着飾ったところで、濃い化粧で己を偽ったところで、その事実だけは変えられません。……ですから――」
言いよどむフィルの言葉を、カイが淡々と引き取った。
「男である以上、変声期は確実にやって来る。クリスは今、十三だっけか?――もういつ声変わりが始まってもおかしくねぇな」
避けられない未来に、ロッティは束の間言葉を失ってしまう。
フィルもがっくりと項垂れた。
「……そう。その時が来て――クリスが男だとばれてしまった瞬間を考えると……。僕は、恐ろしくて堪らない」
なぜならば。
「クリスティアナには熱狂的なファンが大勢いるんです。しかも、大多数は男だ」
給料をつぎ込んで足繁く通い詰め、懸命に応援し続けた劇団の花が実は男でした!……なんて、真実を知ってしまったその時。
彼らが一体どう思うかなど、改めて想像してみるまでもない。
カイがうわぁ、というようにお手上げポーズを取った。
「刃傷沙汰になってもおかしくねぇな」
「カイさんっ!!」
ロッティは慌ててカイを諌めたが、フィルは得たりとばかりに頷いた。疲れ切った様子で肩を落とす。
「僕もそう考えた。……勿論、僕は兄としてクリスを守ってみせる。守ってみせるが――」
だからといって、フィルにだって仕事がある。
四六時中クリスに張り付いているわけにはいかないし、あの意地っ張りなクリスが素直に兄を頼るとも思えない。
「だから、肌見離さず護符を身に付けて欲しいと考えたのです。ロッティ様の護符には破邪の効果がありますからね。おまけに属性の加護まで付いてくる」
「な、なるほど……!」
はたと手を打ったロッティは、そこで不思議そうに首をひねる。上目遣いにフィルを窺った。
「……じゃあ、火の魔石以外ならどれでもいいって言ったのは?」
瞬きしたフィルは、「ああ、それは」と微笑する。
「地の魔石は頑健なる体、火の魔石は情熱の心。風の魔石は疾き脚、そして水の魔石は癒しの光の加護を与えるのだ、と聞いたからです」
もしもクリスが男だと知られ――物騒な事態となってしまった場合、魔石はクリスの助けとなってくれるに違いない。
「速い足があれば逃げられるし、頑健なる体で身を守ってくれれば安心です。万が一怪我をした場合も、癒しの加護があれば助かるかもしれない」
「と、いうことは。つまり、火の魔石は……」
ごくり、と唾を飲み込むロッティとカイに、フィルは至極爽やかな笑みを浮かべた。
「情熱などむしろ、クリスは減らして欲しいほどに持っていますからね!」
くいっと一息に酒を空けたフィルは、テーブルに荒々しくグラスを叩きつけた。
「当然です。あいつは舞台経験など一切無い、ど新人の下っ端なのですから」
けれど、クリスには他の新人とはひとつだけ違う点があったという。
お代わりを注ぐカイに目顔で礼を言って、フィルは深々としたため息をつく。
「記憶力と再現力――……。昔から優秀ではありましたが、こと歌劇の事となると、あいつは常軌を逸した力量を発揮するらしい」
そもそもシベリウスの団長であるダレルが、素人のクリスを受け入れた理由もそこにあったのだという。
年に一度の地方巡業のたび、クリスは足繁く劇場に通い詰めた。シベリウスが毎年披露する違う演目を、歌も台詞も踊りも完璧に覚えてしまった。
そうして、劇団員の前で得々と再現したというのだ。一同、度肝を抜かれたらしい。
「と、いうわけで。王都に出たクリスは、シベリウスの雑用係兼練習係となったそうです。誰かしら練習に参加できない時の代役、台詞合わせに付き合って欲しい時の相手役……。老若男女関わらず見事に演じてのけて、結構重宝されたみたいです」
一流の先輩を相手に練習を重ねるうち、クリスはめきめきと実力を上げていった。歌唱力に演技力、そして優美で軽快なダンス――……。
これならいつ舞台に出しても大丈夫だと、劇団長のダレルも慎重にクリスのデビューの時期を図っていたという。
その矢先の事だった。
「シベリウスの看板女優であったフローラが、体調不良を理由に電撃的に退団したそうなのです。しかも、その時シベリウスは王立劇場で公演する直前でした」
数日後に初日を迎えるという時に、あろうことか主役を演じる歌姫が消えてしまった。
当然、シベリウスに激震が走ったという。そうして追い詰められたダレルは、とうとう苦渋の決断を下した。
――すなわち、歌も台詞も役柄も完璧に己のものとしているクリスに、フローラの代役を命じる事を。
重苦しく吐息をついたフィルは、茫然と話に聞き入るロッティとカイを見比べる。
「僕もこの辺りは聞きかじりですから。他に方法は無かったのか、どうして舞台経験の無いクリスに賭けることに決めたのか――。わからないことだらけですが、ともあれクリスはその公演で『クリスティアナ』として、観客に鮮烈な印象を残したのです」
歌姫クリスティアナの誕生である。
その日からクリスは、劇団シベリウスの新たな看板女優となったのだ。
***
そこまで話して、フィルはやっと強ばっていた表情をゆるめた。完走した走者のように息を弾ませ、一気に杯をあおる。
硬直していたカイも身じろぎし、ぎこちなく笑顔を作った。
「一応、経緯は理解できたけどよ。……それとロッティの魔石とが、一体どう繋がるってくるってんだ?」
カイの疑問に、全く同じ事を考えていたロッティも身を乗り出す。
食い入るようにフィルを見つめると、フィルは困ったように眉を下げた。
「僕は正直、今のクリスについては何の心配していないんです。もし役者として失敗したとしても――……あいつはまだ半人前の子供に過ぎませんから。早いうちに挫折を味わうのは良い経験になりますし、将来への糧ともなるでしょう」
「確かに。お前が言うと、ものすげぇ説得力あるわ」
カイが速攻でうんうんと頷くと、フィルは思いっきり眉を跳ね上げた。またも無言で睨み合いを始める二人に、ロッティは大慌てで割り込む。
「じ、じゃあっ! フィルさんは、クリスさんの一体何が心配なんですか?」
ぱたぱたと手を振ってアピールする彼女に、フィルは虚を突かれたように目をしばたたかせた。しばしためらい――やっと、意を決したように口を開く。
「クリスは、男なんです。どんなに着飾ったところで、濃い化粧で己を偽ったところで、その事実だけは変えられません。……ですから――」
言いよどむフィルの言葉を、カイが淡々と引き取った。
「男である以上、変声期は確実にやって来る。クリスは今、十三だっけか?――もういつ声変わりが始まってもおかしくねぇな」
避けられない未来に、ロッティは束の間言葉を失ってしまう。
フィルもがっくりと項垂れた。
「……そう。その時が来て――クリスが男だとばれてしまった瞬間を考えると……。僕は、恐ろしくて堪らない」
なぜならば。
「クリスティアナには熱狂的なファンが大勢いるんです。しかも、大多数は男だ」
給料をつぎ込んで足繁く通い詰め、懸命に応援し続けた劇団の花が実は男でした!……なんて、真実を知ってしまったその時。
彼らが一体どう思うかなど、改めて想像してみるまでもない。
カイがうわぁ、というようにお手上げポーズを取った。
「刃傷沙汰になってもおかしくねぇな」
「カイさんっ!!」
ロッティは慌ててカイを諌めたが、フィルは得たりとばかりに頷いた。疲れ切った様子で肩を落とす。
「僕もそう考えた。……勿論、僕は兄としてクリスを守ってみせる。守ってみせるが――」
だからといって、フィルにだって仕事がある。
四六時中クリスに張り付いているわけにはいかないし、あの意地っ張りなクリスが素直に兄を頼るとも思えない。
「だから、肌見離さず護符を身に付けて欲しいと考えたのです。ロッティ様の護符には破邪の効果がありますからね。おまけに属性の加護まで付いてくる」
「な、なるほど……!」
はたと手を打ったロッティは、そこで不思議そうに首をひねる。上目遣いにフィルを窺った。
「……じゃあ、火の魔石以外ならどれでもいいって言ったのは?」
瞬きしたフィルは、「ああ、それは」と微笑する。
「地の魔石は頑健なる体、火の魔石は情熱の心。風の魔石は疾き脚、そして水の魔石は癒しの光の加護を与えるのだ、と聞いたからです」
もしもクリスが男だと知られ――物騒な事態となってしまった場合、魔石はクリスの助けとなってくれるに違いない。
「速い足があれば逃げられるし、頑健なる体で身を守ってくれれば安心です。万が一怪我をした場合も、癒しの加護があれば助かるかもしれない」
「と、いうことは。つまり、火の魔石は……」
ごくり、と唾を飲み込むロッティとカイに、フィルは至極爽やかな笑みを浮かべた。
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