引きこもり魔女と花の騎士

和島逆

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19.天上の調べ

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(すごい、すごい……!)

 生まれて初めて目にする歌劇に、ロッティの心は完全に奪われていた。

 宝石が散りばめられた華やかな衣装、軽快な台詞回し、そして優雅ながら目まぐるしいダンス……。

 けれど、何より素晴らしいのは歌だった。

(歌姫、クリスティアナ……!)

 舞台上に何人いようと、いつだって吸い寄せられるように彼女の姿を追ってしまう。ひとたび彼女が口を開けば、固唾を呑んで歌に聞き入ってしまう。

 類まれなる歌声、人間離れした美しい容姿。

 ロッティの目はもう舞台に釘付けで、興奮のため胸は高鳴りっぱなしだった。
 隣のフィルはというと、劇が始まってからずっと身じろぎひとつしていない。どうやら彼も凄まじい集中力を発揮しているらしい。

 一瞬だけ彼に思考が飛びかけたものの、クリスティアナが天上の調べを紡ぎ出した途端、ロッティは再びきらびやかな物語へと没入する。潤んだ目を細め、うっとりと歌に聞き惚れた。


 ――この物語の主人公もまた、歌姫だった。

 歌うことを何よりも愛しているのに、彼女に与えられるのはいつも端役ばかり。歌どころか台詞ひとつなく、舞台の後方で踊るだけの日々を過ごしていた。

 そんなある日、彼女は代役として歌を披露する機会に恵まれる。素晴らしい歌声で観衆を魅了した彼女は、一夜にして表舞台に躍り出た。

 自信に満ちあふれてどんどん美しく変わっていく彼女に、主役の座を奪われた前の歌姫、そして二番手、三番手の歌い手達の醜い嫉妬が襲いかかる。

 激しさを増していく嫌がらせに、彼女は次第に身の危険を感じるようになる。

 不穏な雰囲気を残したまま、第一幕が終わった。



 ***


 割れんばかりの拍手がホールに木霊する。
 ロッティも夢中になって手を叩き、大興奮のままフィルを見上げた。

「歌姫さん、すごく素敵でしたっ。酷い嫌がらせにはらはらして、腹が立って、でも歌姫さんは強くて全然負けてなくて! 格好いいです、憧れます!」

 主役を演じるクリスティアナは、おそらく二十そこそこといったところだろう。
 黄金の長い髪が美しい、目鼻立ちのはっきりした美人だった。

「――でも、何よりあの瞳ですっ。紫水晶みたいな綺麗な色もそうですけど、凛とした意志の強さが宿ってて……! きっと、彼女は絶対に諦めないひとだと思うんですっ」

「ははは……。そう、ですね。おそらく、大正解だと思いますよ……?」

「……フィルさん?」

 周りの観客達はもう立ち上がっているのに、フィルは座り込んだままだった。力なく背もたれに体を預け、虚ろな笑い声を響かせている。

「凄い、のか……? いや、凄いだけに最悪だ……。あああああ」

「フィルさーーーんっ!?」

 とうとう頭を抱えこんでしまった彼を、ロッティは必死になって揺さぶった。

(一体、どうしちゃったの……!?)

 あれほどの舞台を目にした直後だというのに、フィルのこの打ちひしがれよう。歌劇は好みではなかったのだろうか。

「あの、フィルさん……? もしも、気分がすぐれないのなら……」

「大丈夫です、問題ありません! 途中退席など死んでもできませんからっ!」

 おずおずと声を掛けた途端、彼は弾かれたように顔を上げた。血相を変えたその様子に、ロッティはぱちくりと瞬きする。

「いえ、あの……。外の空気を吸いに行きませんか?って言うつもりで……」

「あ……っ」

 フィルは赤面すると、やっと座席から立ち上がった。気取ったようにロッティに腕を差し伸べる。

「では、バルコニーに出ましょうか。きっと夜景も美しいことでしょう」

「……はい」

 大真面目に頷いて、フィルの腕に手を掛けた。けれど内心、ロッティは懸命に笑いをこらえていた。
 あれだけ挙動不審だったのに、女性をエスコートするとなると、まるで条件反射のように張り切りだす。

(フィルさんって……。面白いひと)

 もはや、フィルに対する苦手意識は完璧に消えていた。
 はにかみながら彼を見上げると、彼は幕の下りた舞台に視線を向けていた。
 息苦しそうな、祈るようなその顔にロッティははっとする。同じような表情を、いつかどこかで見た覚えがあった。

 フィルに案内されながら、ロッティはじっくり己の考えを咀嚼する。

「あ……っ。そっか!」

「ロッティ様?」

 怪訝そうに首を傾げた彼に、笑顔でかぶりを振った。
 ここに来てから、彼の態度がおかしくなった理由。その答えを見つけた気がしたのだ。



 ***


「わぁ……! 綺麗です……!」

 バルコニーに出た途端、ロッティは歓声を上げてフィルから離れる。手すりにかじりつき、家々から漏れるやわらかな明かりに一心に見入った。

 道の端、等間隔に並んだガス灯もぼんやりとした光を放っている。下から見上げることはあれど、ガス灯を遠くから見下ろすのは初めてだった。

 ゆっくりと歩み寄ってきたフィルも、微笑みを浮かべてロッティの隣に立つ。
 夜景に負けず劣らず美しい彼の横顔を見つめながら、ロッティはじんわりと感慨に浸った。

(不思議、だなぁ……)

 したこともないお洒落をして、見たこともない景色を心の底から楽しんで。

 自分にはこんな経験、全く縁がないと思っていた。
 それなのに今、自分とは正反対の生活を送る人と、同じ時間を共有している。少し前までの自分に教えてあげたら、「嘘だぁ!」と全力で否定したに違いない。

 思わず頬をゆるめると、フィルが不思議そうにロッティの顔を覗き込んだ。目顔で促され、ロッティは唇を湿らせてから口を開く。

「……フィルさんの、ご家族はどんなかた達なんですか?」

 ロッティの突然の質問に、フィルは虚を衝かれたように瞳をしばたたかせた。けれど、ロッティにも意図があって聞いたことだ。
 フィルはしばし沈黙して、夜景へと視線を戻す。

「……父はカイ殿と同じような、敏腕な商売人、かな。母は明るく優しいひとですよ。――血の繋がりは、ありませんが」

「え……」

 目を丸くするロッティに、フィルは笑って頷いた。

「実の母は、僕が物心つく前に亡くなりました。十歳の頃、父が再婚して……義母は僕に、実の子供にするように惜しみなく愛情を注いでくれた」

「そう、だったんですね……」

 ――羨ましい。

 反射的に飛び出しかけた言葉を慌てて飲み込み、ロッティも夜景に見入る振りをする。ガス灯の明かりが少しだけ滲んだ。

「再婚後に、弟と妹が生まれました。かなり年が離れているし――僕は十五で騎士を志し、故郷の街から王都へ出ましたから。決して仲が悪いわけではないですけど、さして親しいわけでもありません」

「……へ?」

 あれ?

 密かに首をひねるロッティには気付かず、フィルは「ロッティ様のご家族は?」と朗らかに問い掛ける。
 ロッティは一瞬言葉に詰まったものの、素直に話すことにした。

「……私の父も、ずっと昔に亡くなりました」

 途端に表情を曇らせたフィルに、急いで「でも!」と続ける。

「母は、私なんかと違って綺麗で、明るくて友達もいっぱいいて、すごく素敵なひとでした! 私のこと、何より大切にして愛してくれて」

 胸が苦しくて言葉が出なくなる。
 それでも、何度も深呼吸を繰り返し、小さな声で付け足した。

「私も母が、世界で一番大好きでした……」

 消え入るような呟きに、フィルも何かを察したのだろう。ふわりと笑んで、壊れ物を扱うようにロッティの手を取った。

「あなたを見ていると、どんなに素敵なかただったか目に浮かびます。――さあ、そろそろ戻りましょう。第二幕が始まります」

「……はいっ」

 目尻を拭い、歩き出す。

 フィルは、気付かない振りをしてくれた。
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