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第二章

第26話 二番。リリアーナ、歌います!

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 会場に再び沈黙が満ちる。

 観衆はそわそわと顔を見合わせるものの、誰ひとりとして名乗り出る様子はない。みんな周囲の出方を窺っているようだ。

(……ま、それはそうよね)

 こんな衆人環視の中、一発本番で歌う度胸のある人などそうそういないだろう。まして、罰則まであると知れば尚更だ。

 完全に野次馬に徹して苦笑していると、隣に立つイアンが勢いよく手を挙げた。……えええっ!?

「イアン、あなた歌えるのっ?」

 驚愕する私に、イアンはにやりと口角を上げる。
 腰を屈めて私の耳元に囁きかけた。

「んなわきゃねぇだろ。歌うのはオレじゃなくて、ア・ン・タ」

 ……はあ?

 絶句する私を面白そうに眺め、思いっきり背中を押してくる。

「国民にガイウスの婚約者を紹介するいい機会だぜ。姫さんはまだコインを手に入れてねぇから、失うものだって何もねぇ。失敗は恐れんな、大船に乗ったつもりで歌ってこい!」

「ちょっ、待っ……!」

 ぐいぐい力任せに押されるがまま、なし崩しでイアンと共に舞台に上がってしまった。
 サイラスを放り投げた体格のいい男の人が、私を見て微かに眉をひそめる。苦み走った美形に、状況も忘れて思わず見とれた。

 なんとなく見つめ合っているうちに、イアンが観客に向かって握りこぶしを振り上げる。

「お前ら収穫祭を楽しんでるかぁっ!? 次の挑戦者はこっちの彼女だ! この清楚な別嬪さんは、何を隠そうイスレア王国のお姫様! 我らがガイウス・グランドール陛下の婚約者だ!!」


 ――ぅおおおおおおおっ!!


 観衆が大興奮してどよめいた。

 熱っぽく隣の人と囁き合いながら、食い入るように私を見つめてくる。その瞳は好奇心いっぱいに輝いていて、迫力に圧倒された私は半歩後ろに下がってしまう。

「いいか、お前ら! 耳の穴かっぽじって姫さんの歌をよーく聞けよ! こそとも音を立てるんじゃねーぞ!」

 イアンの盛大な前振りに、彼らはしーっと人差し指を唇に当てて頷き合った。会場は水を打ったように静まり返る。

 イアンが満足気に手を打った。

「よっしゃ。いつでもいいぞ、姫さん」

 こっちは全然よくないわよ!?

 急転直下な状況に全く付いていけない。
 怒りと戸惑いで震えていると、控えめに背中をつつかれた。振り返った先には、しかめっ面のメイベルが立っている。

「殿下。こうなってはもう腹をくくるしかありませんわ。……ご覧なさいまし、あの期待に満ち満ちた国民の皆様を」

 ぐっ。

 メイベルの言う通り、今や会場全員の目が私に注がれていた。しかも一瞬で噂が出回ったのか、どんどん人数が増えてくる。

 硬直する私に、メイベルが早口で囁きかけた。

「イスレア王国の歌なら歌えるでしょう? ピアノの伴奏はわたくしがします。曲は、そうね……」

「あっ、暁の恋人っ。それだったら多分歌えると思うわ!」

 メイベルの言葉を大急ぎで遮った。自分で自分の言葉に納得して大きく頷く。

 ――そうよ、『暁の恋人』ならきっと大丈夫。

 私に歌の心得なんてないけれど、その曲ならば何度も聞いたことがある。……いや、強制的に聞かされた、と言うべきか。

 メイベルも安堵したように頬をゆるめた。

「よかった、それなら目をつぶっても弾けますわ。……何せ、飽きるほど弾かされたものだから」

 ちょっぴり舌を出して告げると、メイベルはすぐさまピアノの方へ駆けていった。準備が整い、緊張の面持ちで私に合図を送る。

 気付けばイアンも下に降りていて、舞台上に立つのは正真正銘私ひとりきり。
 緊張に足が震え出し、瞳にはうっすらと涙が浮かんできた。地面がぐらぐらと揺れている心持ちまでする。

「――リッごふ!」

「オイ騒ぐんじゃねぇよ兄ちゃん! 大人しく美人のお姫様の歌を聞いてな!」

 なぜか会場の一部がざわついたものの、すぐに静寂を取り戻した。その瞬間、メイベルのピアノがしとやかなメロディを奏で始める。

 早鐘を打つ心臓を押さえ、浅い呼吸を何度も繰り返した。

(落ち着いて……。大丈夫、大丈夫よ。ゆっくりした曲だもの)

 実際に歌ったことがなくたって、歌詞だって完璧に覚えてる。
 覚悟を決めて、すうっと息を吸い込んだ。



***


 頭がくらくらする。
 怖くて怖くて、観衆の顔が見られない。

 それでも歌うのはやめなかった。
 震える手を虚空に伸ばし、か細い声を必死で響かせる。


 ――暗い夜に終わりを告げる、あなたはわたしの光そのもの


 『暁の恋人』はイスレア王国でかつて流行した恋歌だ。

 何気ない日常もあなたと一緒なら輝き出す、あなたさえいれば他に何もいらないの、という砂糖てんこ盛りな一曲で、私からしてみたら突っ込みどころ満載……いえ何でもありません。

 反論しては義姉にしばかれた、つらい日々を思い出す。
 瞳を閉じると、涙が一筋つうっと頬を流れて落ちた。


 ――太陽のようなあなたの笑顔
 ――いつだってわたしに勇気を与えてくれる


 考えずとも歌詞はするすると口をついて出る。
 決して好みの歌ではないけれど、伊達に義姉が歌うのを何度も聞いていない。

 イスレア王国の王妃で、私の義姉でもあるドーラ様はこの曲が大層お気に入りだった。
 夜会で披露するのだと息巻いて、連日連夜たゆまぬ努力を重ねていたものだ。こうやって目をつぶっていると、在りし日の彼女の姿がありありと浮かんでくる。

 高熱に苦しむ夜、「うふふふふ~、子守歌ですわぁ~」と枕元で歌ってくださった心優しいドーラ様。控えめに言って拷問だったけれど、まさかそれが今になって役に立つなんて。

 義姉への感謝を込めて微笑むと、それまで息をひそめていた会場が一瞬だけどよめいた。


 ――どうぞ、いつまでもこの日々が続きますように


 よかった。
 曲はもはや終盤で、あと残りはほんの僅か。一時はどうなることかと思ったが、なんとか無事に乗り切れそうだ。

 安堵に胸を撫で下ろした瞬間――衝撃の事実に気が付いた。

 声が一瞬裏返る。
 顔から一気に血の気が引いていく。

(どっ、どどど、どうしよう……!?)

 まさか、今頃になって思い出すだなんて。

 このままでは大変なことになってしまう。
 せっかくここまで漕ぎつけたのに、私はこの曲を歌いきれない。――ああ、他の曲を選べばよかった!

 再び心臓がバクバクと暴れ出す。
 頭は痺れたように働かないのに、メイベルのピアノは止まらない。私の歌も止まらない。

 唇は勝手に声を紡ぎ出し、曲は終わりへと向かってゆく。

(まずい、まずいわ……)

 私はこの『暁の恋人』の。

(――最後の歌詞を、知らなかったわ!)
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