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21.あの日のことを
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夜空を見上げていたら、どこからともなく美しい歌声が響いてきた。誰かが鎮魂歌を歌っているらしい。
死者の祭りは夜通し続くだけであって、道には煌々と明かりが灯り、人々は楽しげに笑いさざめいていた。通り沿いの酒場からも喧騒が絶えない。
「セシリア、そろそろ宿に向かおうか。その、まだ0時までは時間があるけれど、眠ってしまう前に今日のことを書き残しておきたいんだ」
アッシュ様が恥ずかしそうに申し出た。
そろそろ足が疲れてきた私も頷いて、手を繋いで大通りにある宿へと移動した。どうやら領主様の定宿らしく、すんなりと最上階の豪奢な部屋へと案内される。
「――わあ。見てください、アッシュ様!」
私は歓声を上げて大きな窓に駆け寄った。
地上の広場に灯された無数のろうそく。暗闇の中ぼうっと浮かんだ優しい光は、まるでこの世のものじゃないみたいに美しい。
じっと眺めていたら、どうしてだか涙がにじみそうになってくる。
「綺麗だろう? ここから眺める景色は毎年変わらない。……だからセシリア、来年も俺と共に……この夜景を」
いつの間にか隣に並んだアッシュ様が、ためらいがちに言葉を濁す。
私は無言でアッシュ様の手に指を絡ませ、ぎゅっと力を込めて握った。約束ですよ、という気持ちを込めて。
アッシュ様も言葉を発さないまま何度も深く頷いた。私は彼の肩にそっと寄り添う。
「……虎の巻、書きますか? 0時まで残り一時間を切っていますよ」
本当はいつまでだってこうしていたいが、残念ながら私達には時間制限がある。
アッシュ様も名残惜しげに私の手を放すと、書き物机に向かった。虎の巻を開くのを横から見守っていたら、アッシュ様が慌てたみたいに体をひねって隠してしまう。
「は、恥ずかしいから見ては駄目だ。セシリアはあちらで休んでいてくれ!」
「ええ~、私も手伝いたいのに」
ぶうぶう文句を言いながら、追い立てられるままソファに腰を下ろす。
じいっと恨めしげな視線を送り続けていたら、アッシュ様はすぐに根負けした。カバンからもう一冊ノートを取り出すと、こちらを見ずに突きつける。
「……セシリア。今日の日記は見せられないが、過去のものなら構わない。も、ものすごく恥ずかしいが……」
かあっと頬を染めて顔を隠す。え、え? 過去の日記?
「ぜひ見たいですっ!!」
食い気味に返事をして、アッシュ様の腕ごと抱き締めるようにして受け取った。悲鳴を上げたアッシュ様が書き物机へと逃げていく。
「わあ。わあ。実は私、ずっと虎の巻を読んでみたいと思ってたんです……!」
「そ、それは一冊目だ。お前と結婚してからどんどん書く量が増えて、今ではもう二冊目に突入してしまった」
うつむいたままボソボソと呟いて、アッシュ様は一心不乱に虎の巻を書き始める。
私は深呼吸して心を落ち着けて、どきどきしながら一ページ目を開いた。
◇
――今日、生まれて初めて恋に落ちた。
日記はそんな言葉から始まっていた。
フォード伯爵家を蝕む呪いについては、もちろんアッシュ様も理解していた。幼い頃から父や祖父に、嫌というほど言い聞かされて育ってきたから。
だから恋心を自覚したその瞬間、アッシュ様はひどく絶望したという。
0時を過ぎたその瞬間に、自分は初恋の相手を跡形もなく忘れてしまう――……
『彼女を知らない未来の自分に向けて、これを書き記すこととする』
その日アッシュ様は、所用があって領地から王都に出ていた。
用事を済ませた後、彼はふと思い立って母校に立ち寄ることにした。手紙のやり取りだけになっていた恩師に、数年ぶりに挨拶したいと考えたのだ。
『急に訪ねてきたにも関わらず、先生は俺の肩を抱かんばかりに歓迎してくれた。戸惑う俺に、実は、と先生が声をひそめた』
――儂の教え子が今日、この学園を退学してしまう
――家の借金がかさみ、学費の支払いができなくなったそうだ
『先生は彼女の行く末を憂えていたらしい。折よく訪ねてきた俺に、彼女を雇うか、さもなくばどこか就職先を紹介してやれないかと頼んできた』
(あっ……!)
はっとして、虎の巻から顔を上げる。それは間違いなく私の話だ。
机のアッシュ様もこちらを見つめていて、私はちょっと赤くなってしまった。逃げるようにうつむいて、ぎゅっと手を握り締める。
「は、初めて会った日のことですね。あの日のことなら、私もちゃんと覚えています。教室で荷物をまとめて、気まずそうなクラスメート達に一方的に別れを告げて、それから――それから……」
だんだんと声が小さくなっていく。
そうだ。
それから私は、一人きりで学長室を訪ねたのだ。
退学の挨拶をしようと思った……というのは建前で、本音は別のところにあった。貴族であり顔も広い学長になんとか頼み込み、就職先を斡旋してもらえないかと考えたのだ。
「学長は、真摯に私の話に耳を傾けてくれました。最後まで聞いてから『わかった。わたしに任せておきなさい』って力強く私の手を取ってくれて。私、感激のあまり泣き出しそうになって……」
「男のクズだな、あの学長は」
アッシュ様が憤懣やる方ないといった様子で吐き捨てる。
自分の代わりに怒ってくれる彼に、私はようやく救われた気持ちになった。顔を上げ、しおしおと情けなく笑う。
「まさか『わたしの愛人になりなさい。手当は充分に払おうじゃないか』なんて言われるだなんて、全然想像してなかったんです。相手は教師だし、しかも私とは思いっきり年が離れてるし」
「くそっ、俺がその場にいたら力の限りぶん殴ってやったのに……!」
アッシュ様が地を這うように低い声を出した。ぐるる、という猛犬の唸り声の幻聴まで聞こえてきそうだ。
私も嘆息して相槌を打つ。
「そうですね……。今考えると、私も平手打ちぐらいにしておけばよかったんですが……」
でも、両手が握られていてそれは叶わなかったから。
考える間もなく私は足を直角に蹴り上げ、悲鳴を上げ崩れ落ちた学長にさらに蹴りを追加し、トドメとばかりにカバンを学長の脳天に叩きつけた。
悲鳴を聞き駆けつけた学園の職員達に、「愛人契約はお断りとお伝えください」と冷たく告げて学長室から出た。
悔しさに涙がにじみそうになったが、背筋をまっすぐに伸ばして歩き続けた。家に帰り着くまで意地でも泣くもんか、と己に言い聞かせて。
けれど残念ながら、私は筋金入りのおっちょこちょいなもので。
「階段を降りようとして、見事に足を踏み外しちゃったんですよね~……。しかも残り数段とかならともかく、てっぺんからですよ」
ぎゃああっ!と叫んで真っ逆さま。
一瞬の出来事だった。
衝撃は感じたものの痛みはなく、むしろやわらかく包み込まれていて。とっさに閉じていた目を、私はゆるゆる開いた。
――おい。大丈夫か
「……びっくりしました。見たこともないぐらい綺麗な男の人が、怒ったみたいに私を覗き込んでいるんだもの」
私ははっと息を呑み、茫然として彼の美しい顔に、吸い込まれそうな青の瞳に見入った。
声もなく見つめ合う私達の間に、慌てた様子で誰かが割り込んできた。学園で親しくしてくださった先生で、腕を引っぱって私を助け起こしてくれた。
――セ、セシリア君っ!? 一体何が……いやそれより、怪我はないかね!?
私はまだ衝撃が残っていて、ただ頷くだけで精一杯だった。おろおろする先生から視線を逸らし、立ち上がって汚れを払う救い主を見上げた。
彼は騒ぐでもなく、ただ厳しい眼差しを私に注いでいた。
それが、私とアッシュ様の出会いであった。
死者の祭りは夜通し続くだけであって、道には煌々と明かりが灯り、人々は楽しげに笑いさざめいていた。通り沿いの酒場からも喧騒が絶えない。
「セシリア、そろそろ宿に向かおうか。その、まだ0時までは時間があるけれど、眠ってしまう前に今日のことを書き残しておきたいんだ」
アッシュ様が恥ずかしそうに申し出た。
そろそろ足が疲れてきた私も頷いて、手を繋いで大通りにある宿へと移動した。どうやら領主様の定宿らしく、すんなりと最上階の豪奢な部屋へと案内される。
「――わあ。見てください、アッシュ様!」
私は歓声を上げて大きな窓に駆け寄った。
地上の広場に灯された無数のろうそく。暗闇の中ぼうっと浮かんだ優しい光は、まるでこの世のものじゃないみたいに美しい。
じっと眺めていたら、どうしてだか涙がにじみそうになってくる。
「綺麗だろう? ここから眺める景色は毎年変わらない。……だからセシリア、来年も俺と共に……この夜景を」
いつの間にか隣に並んだアッシュ様が、ためらいがちに言葉を濁す。
私は無言でアッシュ様の手に指を絡ませ、ぎゅっと力を込めて握った。約束ですよ、という気持ちを込めて。
アッシュ様も言葉を発さないまま何度も深く頷いた。私は彼の肩にそっと寄り添う。
「……虎の巻、書きますか? 0時まで残り一時間を切っていますよ」
本当はいつまでだってこうしていたいが、残念ながら私達には時間制限がある。
アッシュ様も名残惜しげに私の手を放すと、書き物机に向かった。虎の巻を開くのを横から見守っていたら、アッシュ様が慌てたみたいに体をひねって隠してしまう。
「は、恥ずかしいから見ては駄目だ。セシリアはあちらで休んでいてくれ!」
「ええ~、私も手伝いたいのに」
ぶうぶう文句を言いながら、追い立てられるままソファに腰を下ろす。
じいっと恨めしげな視線を送り続けていたら、アッシュ様はすぐに根負けした。カバンからもう一冊ノートを取り出すと、こちらを見ずに突きつける。
「……セシリア。今日の日記は見せられないが、過去のものなら構わない。も、ものすごく恥ずかしいが……」
かあっと頬を染めて顔を隠す。え、え? 過去の日記?
「ぜひ見たいですっ!!」
食い気味に返事をして、アッシュ様の腕ごと抱き締めるようにして受け取った。悲鳴を上げたアッシュ様が書き物机へと逃げていく。
「わあ。わあ。実は私、ずっと虎の巻を読んでみたいと思ってたんです……!」
「そ、それは一冊目だ。お前と結婚してからどんどん書く量が増えて、今ではもう二冊目に突入してしまった」
うつむいたままボソボソと呟いて、アッシュ様は一心不乱に虎の巻を書き始める。
私は深呼吸して心を落ち着けて、どきどきしながら一ページ目を開いた。
◇
――今日、生まれて初めて恋に落ちた。
日記はそんな言葉から始まっていた。
フォード伯爵家を蝕む呪いについては、もちろんアッシュ様も理解していた。幼い頃から父や祖父に、嫌というほど言い聞かされて育ってきたから。
だから恋心を自覚したその瞬間、アッシュ様はひどく絶望したという。
0時を過ぎたその瞬間に、自分は初恋の相手を跡形もなく忘れてしまう――……
『彼女を知らない未来の自分に向けて、これを書き記すこととする』
その日アッシュ様は、所用があって領地から王都に出ていた。
用事を済ませた後、彼はふと思い立って母校に立ち寄ることにした。手紙のやり取りだけになっていた恩師に、数年ぶりに挨拶したいと考えたのだ。
『急に訪ねてきたにも関わらず、先生は俺の肩を抱かんばかりに歓迎してくれた。戸惑う俺に、実は、と先生が声をひそめた』
――儂の教え子が今日、この学園を退学してしまう
――家の借金がかさみ、学費の支払いができなくなったそうだ
『先生は彼女の行く末を憂えていたらしい。折よく訪ねてきた俺に、彼女を雇うか、さもなくばどこか就職先を紹介してやれないかと頼んできた』
(あっ……!)
はっとして、虎の巻から顔を上げる。それは間違いなく私の話だ。
机のアッシュ様もこちらを見つめていて、私はちょっと赤くなってしまった。逃げるようにうつむいて、ぎゅっと手を握り締める。
「は、初めて会った日のことですね。あの日のことなら、私もちゃんと覚えています。教室で荷物をまとめて、気まずそうなクラスメート達に一方的に別れを告げて、それから――それから……」
だんだんと声が小さくなっていく。
そうだ。
それから私は、一人きりで学長室を訪ねたのだ。
退学の挨拶をしようと思った……というのは建前で、本音は別のところにあった。貴族であり顔も広い学長になんとか頼み込み、就職先を斡旋してもらえないかと考えたのだ。
「学長は、真摯に私の話に耳を傾けてくれました。最後まで聞いてから『わかった。わたしに任せておきなさい』って力強く私の手を取ってくれて。私、感激のあまり泣き出しそうになって……」
「男のクズだな、あの学長は」
アッシュ様が憤懣やる方ないといった様子で吐き捨てる。
自分の代わりに怒ってくれる彼に、私はようやく救われた気持ちになった。顔を上げ、しおしおと情けなく笑う。
「まさか『わたしの愛人になりなさい。手当は充分に払おうじゃないか』なんて言われるだなんて、全然想像してなかったんです。相手は教師だし、しかも私とは思いっきり年が離れてるし」
「くそっ、俺がその場にいたら力の限りぶん殴ってやったのに……!」
アッシュ様が地を這うように低い声を出した。ぐるる、という猛犬の唸り声の幻聴まで聞こえてきそうだ。
私も嘆息して相槌を打つ。
「そうですね……。今考えると、私も平手打ちぐらいにしておけばよかったんですが……」
でも、両手が握られていてそれは叶わなかったから。
考える間もなく私は足を直角に蹴り上げ、悲鳴を上げ崩れ落ちた学長にさらに蹴りを追加し、トドメとばかりにカバンを学長の脳天に叩きつけた。
悲鳴を聞き駆けつけた学園の職員達に、「愛人契約はお断りとお伝えください」と冷たく告げて学長室から出た。
悔しさに涙がにじみそうになったが、背筋をまっすぐに伸ばして歩き続けた。家に帰り着くまで意地でも泣くもんか、と己に言い聞かせて。
けれど残念ながら、私は筋金入りのおっちょこちょいなもので。
「階段を降りようとして、見事に足を踏み外しちゃったんですよね~……。しかも残り数段とかならともかく、てっぺんからですよ」
ぎゃああっ!と叫んで真っ逆さま。
一瞬の出来事だった。
衝撃は感じたものの痛みはなく、むしろやわらかく包み込まれていて。とっさに閉じていた目を、私はゆるゆる開いた。
――おい。大丈夫か
「……びっくりしました。見たこともないぐらい綺麗な男の人が、怒ったみたいに私を覗き込んでいるんだもの」
私ははっと息を呑み、茫然として彼の美しい顔に、吸い込まれそうな青の瞳に見入った。
声もなく見つめ合う私達の間に、慌てた様子で誰かが割り込んできた。学園で親しくしてくださった先生で、腕を引っぱって私を助け起こしてくれた。
――セ、セシリア君っ!? 一体何が……いやそれより、怪我はないかね!?
私はまだ衝撃が残っていて、ただ頷くだけで精一杯だった。おろおろする先生から視線を逸らし、立ち上がって汚れを払う救い主を見上げた。
彼は騒ぐでもなく、ただ厳しい眼差しを私に注いでいた。
それが、私とアッシュ様の出会いであった。
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