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本編
もう間違えない ※イライアス視点 (2)
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(俺は、俺は、……本当になんてことを……。ずっと抑えられていたのに……)
酒場のくたびれたベッドの上で気を失ったジェシカを見て、まっさきにイライアスの脳裏に浮かんだのは、かつて父の下で跪いていたSubの女だった。青白い顔に、力を失って震える手足。
イライアスは自己嫌悪に陥る。結局、あれほど嫌っていた父とまったく同じ轍を踏んでしまった。
眉間に深い皺を寄せてパートナーを見守るイライアスに、ハンナは厳しい顔を向ける。
「我慢強いSubは、サブドロップしやすい傾向にあるようです。また、Subにとって、Domの命令に背くことは大きなストレスになります。医師として、パートナー同士のプレイまで口を出すつもりはありません。でも、友人として忠告します。ジェシカは、すごく我慢強いんです。しかも、だれよりも優しい。無意識に自分を抑え込んで、他の人を優先させてしまう。だから、イライアス様が、ジェシカを大事にしてあげてください」
丁寧な口調の中に、静かな怒りを感じる。本来、平民であるハンナが高位貴族であるイライアスに意見するなど、ありえないことだ。賢いハンナはそれくらい弁えている。しかし、それでもハンナはあえてイライアスに苦言を呈した。
それほどまでに、ハンナはジェシカを大事に思っているのだ。
イライアスは、その言葉の重みを嚙みしめ、深く頷いた。
「返す言葉もない。これまで相手をしていたSubたちには、それなりに紳士的な態度をとってきた。なのに、ジェシカと一緒にいると、ダメなんだ」
Domになってから、イライアスはずっと国から認可された高級娼館から派遣されたSubと最低限のプレイで欲求を発散していた。ダイナミクスのパートナーになりたいと言い寄ってくるSubたちは数多くいたものの、継続的な関係を結ぶのは面倒だったし、特定のSubをパートナーにする気もさらさらなかった。
その場しのぎのような相手ばかり選んできたイライアスだったが、プレイ自体はいたって健全で、プレイメイトのSubをサブドロップ状態に追い込むことなどただの一度もない。むしろ、Subたちには「優しすぎてつまらない」と文句を言われるほどに、常に紳士的な態度を取り続けていたのだ。
しかし、ジェシカだけは違う。どうしていいのか、わからなくなってしまう。今までのように、どんなSubを相手にしても簡単に抑え込めていたはずの理性が働かない。
「ジェシカの前だと、まるでガキに戻ったみたいだ。余裕もなくなるし、一緒にいると馬鹿みたいに胸が苦しくなって、うまく喋れなくなる」
いつもの完璧な貴公子然としているイライアスから突然飛び出した本音に、ハンナは一瞬虚を突かれたような顔をする。
「……それは、大変そうですね」
「ああ。本当に、どうしたらいいのか分からない」
イライアスは、思わず深いため息を漏らす。
ジェシカのことを考えるだけで心臓が早鐘を打ち、時折襲ってくるジェシカを徹底的に支配したいという欲求は、イライアスを日々苛んだ。そんなときは決まって、ジェシカを腕の中に閉じ込めて自分だけのものにしたいという欲求で頭の中がいっぱいになり、なにも手がつかなくなるから困る。
懊悩するイライアスをじっと見ていたハンナは、ややあってくすりと笑みを漏らした。
「イライアス様の本心が聞けてよかったです。イライアス様がジェシカのことを、ただのダイナミクスによる欲求の解消の捌け口だと考えていらっしゃるようであれば、しかるべきところに通報しようと思っていましたが……」
ハンナはじっとイライアスを見つめた後、にっこり微笑んだ。
「その必要はなかったようですね」
「度が越えていると感じたら、君が俺からジェシカを引き離してくれ」
「まあ、サブドロップというのは、どんなに気を付けていても、Subの精神状態によっては陥ってしまう可能性がある症状です。そうやって頼んでくるうちは、大丈夫だと判断しておきますよ」
抜かりなく「今はね」と付け足したハンナは、ティーポットから自分のカップにお茶を注いだ。その横顔は、どこか楽しげだ。
「お話を聞いていると、冷徹騎士様の恋煩いは、かなり重傷ですね。処方できる薬はありませんが、恋愛相談ならいくらでも受けますよ」
ハンナからに揶揄われたイライアスは、苦い顔をしたあと小さく息を吐いて頷いた。聡いハンナの前では、どんなに取り繕っても無駄だ。
「ああ、そうだよ。自分でも呆れるくらい、ジェシカが好きだ。執着している。何度も諦めようとしたが、無理だった」
Domだと診断されたとき、Normalであるジェシカへの恋心は封印しようと思った。しかし、それはできなかった。
それならばいっそ遠くからジェシカの幸せを願おうと思ったのに、気付けばジェシカのあとを追うように第一騎士団に入団し、無防備なジェシカに寄ってくる男どもを密かに排除しながら、毎日遠くからジェシカを見ていた。
夕陽と同じ色の髪も、感情のままにクルクルと変わる表情も、よく通る声も、全てがイライアスにとって特別だった。成長とともに、記憶より女性らしくなる身体を遠目に見て、何度胸をときめかしたかわからない。
ハンナはふっと微笑んだ。
「良い感じに迷走してますねえ。まあ、ジェシカが相手ならしょうがないですよね。この子は、本当にいい子だから」
ハンナはそう言って、ジェシカの頭を撫で、小さなあくびをもらした。窓の外は夜も更け、星々が輝いている。
「じゃあ、私は寝ますね。ジェシカをお願いします」
「夜遅くにすまなかった」
「……ジェシカを、大事にしてください」
そう言って、ハンナは立ち上がり、診療所内の奥にある自室に戻っていく。
その背中を見送ったあと、イライアスはベッドに寝かせたジェシカの枕元に腰をかけた。ジェシカの寝顔を見つめ、さらさらとした赤髪に触れる。
「ああ、大切にする……。もう二度と、間違わない」
残されたイライアスは、眠るジェシカの手をぎゅっと握りしめた。
酒場のくたびれたベッドの上で気を失ったジェシカを見て、まっさきにイライアスの脳裏に浮かんだのは、かつて父の下で跪いていたSubの女だった。青白い顔に、力を失って震える手足。
イライアスは自己嫌悪に陥る。結局、あれほど嫌っていた父とまったく同じ轍を踏んでしまった。
眉間に深い皺を寄せてパートナーを見守るイライアスに、ハンナは厳しい顔を向ける。
「我慢強いSubは、サブドロップしやすい傾向にあるようです。また、Subにとって、Domの命令に背くことは大きなストレスになります。医師として、パートナー同士のプレイまで口を出すつもりはありません。でも、友人として忠告します。ジェシカは、すごく我慢強いんです。しかも、だれよりも優しい。無意識に自分を抑え込んで、他の人を優先させてしまう。だから、イライアス様が、ジェシカを大事にしてあげてください」
丁寧な口調の中に、静かな怒りを感じる。本来、平民であるハンナが高位貴族であるイライアスに意見するなど、ありえないことだ。賢いハンナはそれくらい弁えている。しかし、それでもハンナはあえてイライアスに苦言を呈した。
それほどまでに、ハンナはジェシカを大事に思っているのだ。
イライアスは、その言葉の重みを嚙みしめ、深く頷いた。
「返す言葉もない。これまで相手をしていたSubたちには、それなりに紳士的な態度をとってきた。なのに、ジェシカと一緒にいると、ダメなんだ」
Domになってから、イライアスはずっと国から認可された高級娼館から派遣されたSubと最低限のプレイで欲求を発散していた。ダイナミクスのパートナーになりたいと言い寄ってくるSubたちは数多くいたものの、継続的な関係を結ぶのは面倒だったし、特定のSubをパートナーにする気もさらさらなかった。
その場しのぎのような相手ばかり選んできたイライアスだったが、プレイ自体はいたって健全で、プレイメイトのSubをサブドロップ状態に追い込むことなどただの一度もない。むしろ、Subたちには「優しすぎてつまらない」と文句を言われるほどに、常に紳士的な態度を取り続けていたのだ。
しかし、ジェシカだけは違う。どうしていいのか、わからなくなってしまう。今までのように、どんなSubを相手にしても簡単に抑え込めていたはずの理性が働かない。
「ジェシカの前だと、まるでガキに戻ったみたいだ。余裕もなくなるし、一緒にいると馬鹿みたいに胸が苦しくなって、うまく喋れなくなる」
いつもの完璧な貴公子然としているイライアスから突然飛び出した本音に、ハンナは一瞬虚を突かれたような顔をする。
「……それは、大変そうですね」
「ああ。本当に、どうしたらいいのか分からない」
イライアスは、思わず深いため息を漏らす。
ジェシカのことを考えるだけで心臓が早鐘を打ち、時折襲ってくるジェシカを徹底的に支配したいという欲求は、イライアスを日々苛んだ。そんなときは決まって、ジェシカを腕の中に閉じ込めて自分だけのものにしたいという欲求で頭の中がいっぱいになり、なにも手がつかなくなるから困る。
懊悩するイライアスをじっと見ていたハンナは、ややあってくすりと笑みを漏らした。
「イライアス様の本心が聞けてよかったです。イライアス様がジェシカのことを、ただのダイナミクスによる欲求の解消の捌け口だと考えていらっしゃるようであれば、しかるべきところに通報しようと思っていましたが……」
ハンナはじっとイライアスを見つめた後、にっこり微笑んだ。
「その必要はなかったようですね」
「度が越えていると感じたら、君が俺からジェシカを引き離してくれ」
「まあ、サブドロップというのは、どんなに気を付けていても、Subの精神状態によっては陥ってしまう可能性がある症状です。そうやって頼んでくるうちは、大丈夫だと判断しておきますよ」
抜かりなく「今はね」と付け足したハンナは、ティーポットから自分のカップにお茶を注いだ。その横顔は、どこか楽しげだ。
「お話を聞いていると、冷徹騎士様の恋煩いは、かなり重傷ですね。処方できる薬はありませんが、恋愛相談ならいくらでも受けますよ」
ハンナからに揶揄われたイライアスは、苦い顔をしたあと小さく息を吐いて頷いた。聡いハンナの前では、どんなに取り繕っても無駄だ。
「ああ、そうだよ。自分でも呆れるくらい、ジェシカが好きだ。執着している。何度も諦めようとしたが、無理だった」
Domだと診断されたとき、Normalであるジェシカへの恋心は封印しようと思った。しかし、それはできなかった。
それならばいっそ遠くからジェシカの幸せを願おうと思ったのに、気付けばジェシカのあとを追うように第一騎士団に入団し、無防備なジェシカに寄ってくる男どもを密かに排除しながら、毎日遠くからジェシカを見ていた。
夕陽と同じ色の髪も、感情のままにクルクルと変わる表情も、よく通る声も、全てがイライアスにとって特別だった。成長とともに、記憶より女性らしくなる身体を遠目に見て、何度胸をときめかしたかわからない。
ハンナはふっと微笑んだ。
「良い感じに迷走してますねえ。まあ、ジェシカが相手ならしょうがないですよね。この子は、本当にいい子だから」
ハンナはそう言って、ジェシカの頭を撫で、小さなあくびをもらした。窓の外は夜も更け、星々が輝いている。
「じゃあ、私は寝ますね。ジェシカをお願いします」
「夜遅くにすまなかった」
「……ジェシカを、大事にしてください」
そう言って、ハンナは立ち上がり、診療所内の奥にある自室に戻っていく。
その背中を見送ったあと、イライアスはベッドに寝かせたジェシカの枕元に腰をかけた。ジェシカの寝顔を見つめ、さらさらとした赤髪に触れる。
「ああ、大切にする……。もう二度と、間違わない」
残されたイライアスは、眠るジェシカの手をぎゅっと握りしめた。
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