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むし喰い
二
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どんな場面においても、そこに並々ならぬ背景があったとしても、黒澤は策士で、単に面白がっているとしか、俺には思えないから。
「変態で腹黒。救いようがねえ、馬鹿」
くすくすと笑いながらマキさんは言った。
もう満面の笑みだ。
「中野、いまならなに叫んでもいいよ。罵りでも悪口でも、なんなら愛の告白でも」
「え、」
文句はいくらでもあるけど、罵りも悪口も怖くて言えない。
あ、愛の告白はナシの方向で。
俺は顔を引きつらせ、手を振った。
「遠慮? なんでよ。いましかないよ、こんなチャンス」
「……マキ、うるさい」
「あ、起きた」
黒澤は寝ころんだまま、足と手を動かして伸びをした。低い声で唸る。
まだ眠そうな目をして、マキさんを見上げた。
「愛の告白? 俺にか?」
「なんでそこだけ聞こえてんのかね」
「真紀」
「やめろ」
「やめる? なにを。ていうかお前──」
と言ったあと、黒澤はいきなりマキさんの手首を掴んだ。
マキさんもびっくりしている。
というか、もしかしたら黒澤は、俺の存在に気づいてないのかもしれない。
状況はよくわからないけど、なにか面白いことが起こりそうな気がして、俺はあえて小さくなっていた。
「馬鹿、目を覚ませ。いますぐ手を放せ」
「断る。油断して捕まるお前が悪い」
黒澤はにやっとして、上半身を少し起こすと、マキさんの手を引こうとした。
とっさにマキさんは踏ん張り、目の前の髪をむんずと掴む。
「真紀、いてえって」
「いいから黙れ。そして、は、な、せ」
「ほんとは嬉しいくせに。いい加減、素直になれって」
「まじで黙れよ。変態」
「変態? お前、それはひどいだろ」
マキさんは目を三角にして、俺のほうを指さす。
その拍子に、ばさばさと紙が落ちた。
「おま、中野を呼んだんだろうが。いま、いんだよ」
マキさんを放し、がばっと、黒澤は起き上がった。俺を確認してからソファーへ座り直し、膝に肘をついて、首を下げた。
その頭を、マキさんが拳でぐりぐりする。
「中野。こいつねぼすけだから、いまのは馬鹿の世迷いごとだと思って、聞き流しといて」
マキさんは言いながら、床に散らばった紙を拾い、テーブルの上で整えた。
聞き流せと言われたって、どこのなにを聞き流せばいいのだろう。
それよりも、試合に負けたボクサーみたいにしてしょぼくれている黒澤が面白い。天下の副会長さまも、会長さまには頭が上がらないんだ。
でも、ミツさんのときはあんなじゃなかった気がする。
といっても、俺が会ったときには、ミツさんはすでに会長の椅子を降ろされていたけど。
「クロすけ!」
「ん? ああ」
マキさんに促され、黒澤は立ち上がった。
執務机にあるボロボロの本を取る。
それを、すっと俺に差し出した。
「……なに?」
「劇の台本だ」
「え?」
思わず二度見してしまった。
さっきちらっと確認したとき、なんかの古文書かと思っていた。
台本だったんだ、あれ。たしかに、「下剋上物語 台本 アリア(ヒロイン)用」と、表に書かれてある。……手書きで。
俺は本をめくってみて、頭を抱えた。しばし言葉を失う。
「ところで卓。松永の具合はどうだ」
「え? あ、うん。あしたから授業に出れるって」
「じゃあ──」
と、黒澤はもう一冊を渡す。
それには、「ハーラ(下役)」となっていた。
「松永に渡しておいてくれないか」
「なに、ハーラって。じゃあ、藤堂さんがやる敵役は、カザーミとかでもいうのかよ」
俺は冗談のつもりで言ったのに、至って真面目な顔で、黒澤は頷いた。
「……あのさ。この劇って、あくまでもシリアスなんだよね?」
「喜劇ではないはずだ」
「てか、この台本が、まず喜劇なことになってんだけど」
古さはあるものの、表紙はまだきちんとしているからいい。
問題は中身だ。
いろんな人の汗と涙の結晶……かはわからないけど、稽古が厳しかったのか、無骨に扱ったからか、字が薄れていて読めないところがあるわ、ページの半分がなくなっているわで、てんやわんやしていた。
本がこんなふうだと、下手したら違うストーリーなものになるかもしれない。
「途中切れてたり、破けてたりで、台詞が行方不明じゃん。ト書もそういうとこあるし」
「伝統の一冊だ。それも見どころだと思え」
「見どころもなにも、台詞がわかんなきゃ、劇になんないでしょってハナシだろ。いや、ちょっと待てよ……」
はっとなって、維新のほうの台本を開いた。予想通り、俺の台本にはない台詞が維新のにはある。逆に、維新のにはないト書が、俺の台本では残っている。
「変態で腹黒。救いようがねえ、馬鹿」
くすくすと笑いながらマキさんは言った。
もう満面の笑みだ。
「中野、いまならなに叫んでもいいよ。罵りでも悪口でも、なんなら愛の告白でも」
「え、」
文句はいくらでもあるけど、罵りも悪口も怖くて言えない。
あ、愛の告白はナシの方向で。
俺は顔を引きつらせ、手を振った。
「遠慮? なんでよ。いましかないよ、こんなチャンス」
「……マキ、うるさい」
「あ、起きた」
黒澤は寝ころんだまま、足と手を動かして伸びをした。低い声で唸る。
まだ眠そうな目をして、マキさんを見上げた。
「愛の告白? 俺にか?」
「なんでそこだけ聞こえてんのかね」
「真紀」
「やめろ」
「やめる? なにを。ていうかお前──」
と言ったあと、黒澤はいきなりマキさんの手首を掴んだ。
マキさんもびっくりしている。
というか、もしかしたら黒澤は、俺の存在に気づいてないのかもしれない。
状況はよくわからないけど、なにか面白いことが起こりそうな気がして、俺はあえて小さくなっていた。
「馬鹿、目を覚ませ。いますぐ手を放せ」
「断る。油断して捕まるお前が悪い」
黒澤はにやっとして、上半身を少し起こすと、マキさんの手を引こうとした。
とっさにマキさんは踏ん張り、目の前の髪をむんずと掴む。
「真紀、いてえって」
「いいから黙れ。そして、は、な、せ」
「ほんとは嬉しいくせに。いい加減、素直になれって」
「まじで黙れよ。変態」
「変態? お前、それはひどいだろ」
マキさんは目を三角にして、俺のほうを指さす。
その拍子に、ばさばさと紙が落ちた。
「おま、中野を呼んだんだろうが。いま、いんだよ」
マキさんを放し、がばっと、黒澤は起き上がった。俺を確認してからソファーへ座り直し、膝に肘をついて、首を下げた。
その頭を、マキさんが拳でぐりぐりする。
「中野。こいつねぼすけだから、いまのは馬鹿の世迷いごとだと思って、聞き流しといて」
マキさんは言いながら、床に散らばった紙を拾い、テーブルの上で整えた。
聞き流せと言われたって、どこのなにを聞き流せばいいのだろう。
それよりも、試合に負けたボクサーみたいにしてしょぼくれている黒澤が面白い。天下の副会長さまも、会長さまには頭が上がらないんだ。
でも、ミツさんのときはあんなじゃなかった気がする。
といっても、俺が会ったときには、ミツさんはすでに会長の椅子を降ろされていたけど。
「クロすけ!」
「ん? ああ」
マキさんに促され、黒澤は立ち上がった。
執務机にあるボロボロの本を取る。
それを、すっと俺に差し出した。
「……なに?」
「劇の台本だ」
「え?」
思わず二度見してしまった。
さっきちらっと確認したとき、なんかの古文書かと思っていた。
台本だったんだ、あれ。たしかに、「下剋上物語 台本 アリア(ヒロイン)用」と、表に書かれてある。……手書きで。
俺は本をめくってみて、頭を抱えた。しばし言葉を失う。
「ところで卓。松永の具合はどうだ」
「え? あ、うん。あしたから授業に出れるって」
「じゃあ──」
と、黒澤はもう一冊を渡す。
それには、「ハーラ(下役)」となっていた。
「松永に渡しておいてくれないか」
「なに、ハーラって。じゃあ、藤堂さんがやる敵役は、カザーミとかでもいうのかよ」
俺は冗談のつもりで言ったのに、至って真面目な顔で、黒澤は頷いた。
「……あのさ。この劇って、あくまでもシリアスなんだよね?」
「喜劇ではないはずだ」
「てか、この台本が、まず喜劇なことになってんだけど」
古さはあるものの、表紙はまだきちんとしているからいい。
問題は中身だ。
いろんな人の汗と涙の結晶……かはわからないけど、稽古が厳しかったのか、無骨に扱ったからか、字が薄れていて読めないところがあるわ、ページの半分がなくなっているわで、てんやわんやしていた。
本がこんなふうだと、下手したら違うストーリーなものになるかもしれない。
「途中切れてたり、破けてたりで、台詞が行方不明じゃん。ト書もそういうとこあるし」
「伝統の一冊だ。それも見どころだと思え」
「見どころもなにも、台詞がわかんなきゃ、劇になんないでしょってハナシだろ。いや、ちょっと待てよ……」
はっとなって、維新のほうの台本を開いた。予想通り、俺の台本にはない台詞が維新のにはある。逆に、維新のにはないト書が、俺の台本では残っている。
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