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無防備すぎて
四
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「なんでって、朝弱ぇから?」
「え?」
「めんどいんだよ。あれやこれや朝からすんの。それに、あの職場にシャレてっても仕方ねえだろ」
「でも、ジャージにサンダルはやめたほうがいいですよ。もちろんサンダル履きも。変な誤解されるから」
「誤解? なんだよ、誤解って」
しまったと、僕はとっさに視線をそらした。
それが、なおさら不審感を抱かせたみたいで、低い声が返ってきた。
「なるほどな。だれかになにか言われたか」
「それは……」
変な心配や、不愉快な思いをさせたくなかったから、中畠先生に言われたことは黙っていようと思ったのに、言わなくてはならないような空気になってしまった。
でも、あえてなのか、逢坂先生は追求してこなかった。
「俺は非難に慣れてるし、なにを言われても気になんねえけど、それを渡辺に言うのは違うよなあ」
口をもぐもぐさせながら逢坂先生は言った。
ふと、間が空く。
僕は、あっと気づいた。きのうから、肝心なことを訊き損ねていた。
いや。……本当は、その言葉を受けてから、いつ確認しようか機会を伺っていた。
「あの、そういえば……。教師を辞めてもいいって話──」
「あ?」
「まさか本気じゃないですよね?」
よそへいっていた顔が向けられる。
がつんと射抜くような、この視線の投げ方はやめてほしい。心臓に悪いから。
さっきの会話で、逢坂先生のご機嫌メーターは下がりっぱだろうけど。
「えっと、キャバクラで言っていたことなんですけど」
「ていうか、お前。さっきから俺の心配してくれちゃって、そんなに辞められたら困るわけ?」
僕は、ストローから口を離して、ぱっと逢坂先生を見上げた。
「当たり前じゃないですか!」
「ほー。初耳だねぇ。てか、そんなふうに庇われるほど、俺はお前になにもしてねえし。どっちかっつうと迷惑してたクチだろ」
「正直、迷惑なときもありましたけど、生徒のためを思ったら、辞めてもいいなんて、簡単には言ってほしくなかったんです。逢坂先生が生徒たちから信頼されてるのは、理解してるつもりなので」
たとえ学校にふさわしくない物であっても、生徒の私物を取り上げるというのは、このご時世、難しいことでもある。場合によっては、いわれない尾ひれのついた苦情も上がる。
そんなだから、目をつむっている先生も少なくない。
それでも、半ば強引に取り上げてくる逢坂先生にクレームがいかないのは、先生が相手なら仕方ない、自分が悪いんだと、生徒たちが認めている証拠でもある。
まあ、怒らせたら厄介というのも多分に作用していると思う。
だけど彼らは、ああいう教師も自分たちには必要だと感じていて、きちんと親近感を持って接している。
逢坂先生は焼酎を飲み干した。
もしかしたら水なんじゃ……と思わせるような飲みっぷりだ。
こんなふうに朝っぱらから酒を呷る姿を見ても、そのまなざしを、彼らは変えることはないのだろうか。だとしたら不公平だと、少し思ってしまった。
「ところでさ──」
「はい?」
「渡辺は、なんで教師になろうと思った?」
グラスを置いた逢坂先生は、ものすごく真剣な表情で僕を見下ろした。
「……ええと、そうですね。小学校の高学年のときですかね。担任の先生が、とても熱くて一生懸命な方で……。その先生を見てから、教師という職業もいいなと思うようになって」
「へえ……小学生からか」
「逢坂先生は?」
「俺? 俺はただレールに乗っかっただけ」
「レール?」
「そう。暗黙のレール」
逢坂先生は鼻で笑うと、サラダのキュウリを口に入れ、歯噛みするようにかじった。
「両親が教師でさ。年の離れた兄貴も姉貴もいい大学行ってて。そういう道へ行けと、俺の前にはレールが敷かれてた。だから、そこへ乗らざるを得なかった」
「……」
「それが嫌で嫌で、中坊んときは反抗もしてた。でも、どんなに俺が足掻いても、親の敷いた道へ行くんだろうとわかって、高校んときもヘソ曲げてた。家出もしたし、くだらねえケンカもしてた。で、そのとき世話んなったのがあのキャバクラのママでさ。ま、最終的には、将来を決められてるのが気に入らないってだけで、教師になること自体はべつに嫌じゃないってのに気づいて、大学へ進んだわけなんだけど」
……そうか。いまわかった。
きのう食事の席で話していた言葉に重みがあったのは、逢坂先生自身がその「反抗期」を経験したからなんだ。
「でもさ、これでよかったのかっていまだに悩むんだよな。俺は教師になるべきじゃなかった、他に行くべき道があったんじゃねえかってよ。本当にこのままでいいのかって」
逢坂先生は手を伸ばし、煙草の箱を取った。イライラした手つきで一本を出すと、忙しなく火を点け、煙を吐いた。
「だけど、先生も努力したから、いまの立場があるんじゃないですか。なのに、これでよかったのかって、自分を無下にするだけです。贅沢すぎます。教師はだれでもなれるものじゃない。選んでもらって、こうして職に就いたからには、前を向いて全うしなきゃバチが当たりますよ」
「……」
「それに、逢坂先生が教師になっていなかったら、こうして出会えることはなかったわけだから、僕はやっぱりよかったと思います」
逢坂先生は表情を変えず、じっと僕を見下ろしている。
なにか気に障ることを言ったかと、頭の中で反芻した。
でも、僕はたぶん、近年まれに見るいいことを言った。……と思う。
「な、なんですか」
「いや」
「えー。いま、絶対なんか言いたげでしたよ」
「なんもないって」
逢坂先生が苦笑いする。
苦みが見えても端々は緩んでいて、笑みの割合も多いからよしとしよう。
ちょっとほっとした。
「贅沢かねえ、俺は」
「贅沢ですよ。……顔もよくて背が高くて数学ができてなにをしても人望があって──」
僕は指折り数えながら言う。
「お、もう一声」
「お酒も強い」
「はっ。それいるか?」
「僕からしたら、羨ましい限りです」
「お前……」
ほんと面白ぇわ。
そうつけ加えて、逢坂先生は突然、僕の髪をくしゃくしゃに撫で回した。
「なんでいままで気づかなかったんだろうな」
「え?」
「渡辺先生のこと。うざいくらいがんばり屋なのはわかってたけど」
「う、うざいって……」
そこは反論できない。
たまに、一人で悩むこともあるから。
たとえば佐々木先生にくっついて、同じようにすることに必死な感じは、傍から見たら、じつはくどいんじゃないか……って。
「まあ、そのがんばり屋なとこが、お前の長所だとも、俺は思うけど」
「長所……になりますかね」
「なるなる。いろいろハイスペックなとこも」
「はいすぺっく?」
僕が首を傾げると、「そこは深く考えんな」と含み笑いで言って、逢坂先生はソファーを立った。キッチンで焼酎のおかわりをしている。
僕は目をしばたたいた。
それにしても、朝からどれだけ飲むんだろう、あの人。しかも、パンに焼酎って……。
やっぱり逢坂先生は変わっている。
そう改めて思えど、その印象は、前ほど不確かなものじゃなくなっている気がした。
「え?」
「めんどいんだよ。あれやこれや朝からすんの。それに、あの職場にシャレてっても仕方ねえだろ」
「でも、ジャージにサンダルはやめたほうがいいですよ。もちろんサンダル履きも。変な誤解されるから」
「誤解? なんだよ、誤解って」
しまったと、僕はとっさに視線をそらした。
それが、なおさら不審感を抱かせたみたいで、低い声が返ってきた。
「なるほどな。だれかになにか言われたか」
「それは……」
変な心配や、不愉快な思いをさせたくなかったから、中畠先生に言われたことは黙っていようと思ったのに、言わなくてはならないような空気になってしまった。
でも、あえてなのか、逢坂先生は追求してこなかった。
「俺は非難に慣れてるし、なにを言われても気になんねえけど、それを渡辺に言うのは違うよなあ」
口をもぐもぐさせながら逢坂先生は言った。
ふと、間が空く。
僕は、あっと気づいた。きのうから、肝心なことを訊き損ねていた。
いや。……本当は、その言葉を受けてから、いつ確認しようか機会を伺っていた。
「あの、そういえば……。教師を辞めてもいいって話──」
「あ?」
「まさか本気じゃないですよね?」
よそへいっていた顔が向けられる。
がつんと射抜くような、この視線の投げ方はやめてほしい。心臓に悪いから。
さっきの会話で、逢坂先生のご機嫌メーターは下がりっぱだろうけど。
「えっと、キャバクラで言っていたことなんですけど」
「ていうか、お前。さっきから俺の心配してくれちゃって、そんなに辞められたら困るわけ?」
僕は、ストローから口を離して、ぱっと逢坂先生を見上げた。
「当たり前じゃないですか!」
「ほー。初耳だねぇ。てか、そんなふうに庇われるほど、俺はお前になにもしてねえし。どっちかっつうと迷惑してたクチだろ」
「正直、迷惑なときもありましたけど、生徒のためを思ったら、辞めてもいいなんて、簡単には言ってほしくなかったんです。逢坂先生が生徒たちから信頼されてるのは、理解してるつもりなので」
たとえ学校にふさわしくない物であっても、生徒の私物を取り上げるというのは、このご時世、難しいことでもある。場合によっては、いわれない尾ひれのついた苦情も上がる。
そんなだから、目をつむっている先生も少なくない。
それでも、半ば強引に取り上げてくる逢坂先生にクレームがいかないのは、先生が相手なら仕方ない、自分が悪いんだと、生徒たちが認めている証拠でもある。
まあ、怒らせたら厄介というのも多分に作用していると思う。
だけど彼らは、ああいう教師も自分たちには必要だと感じていて、きちんと親近感を持って接している。
逢坂先生は焼酎を飲み干した。
もしかしたら水なんじゃ……と思わせるような飲みっぷりだ。
こんなふうに朝っぱらから酒を呷る姿を見ても、そのまなざしを、彼らは変えることはないのだろうか。だとしたら不公平だと、少し思ってしまった。
「ところでさ──」
「はい?」
「渡辺は、なんで教師になろうと思った?」
グラスを置いた逢坂先生は、ものすごく真剣な表情で僕を見下ろした。
「……ええと、そうですね。小学校の高学年のときですかね。担任の先生が、とても熱くて一生懸命な方で……。その先生を見てから、教師という職業もいいなと思うようになって」
「へえ……小学生からか」
「逢坂先生は?」
「俺? 俺はただレールに乗っかっただけ」
「レール?」
「そう。暗黙のレール」
逢坂先生は鼻で笑うと、サラダのキュウリを口に入れ、歯噛みするようにかじった。
「両親が教師でさ。年の離れた兄貴も姉貴もいい大学行ってて。そういう道へ行けと、俺の前にはレールが敷かれてた。だから、そこへ乗らざるを得なかった」
「……」
「それが嫌で嫌で、中坊んときは反抗もしてた。でも、どんなに俺が足掻いても、親の敷いた道へ行くんだろうとわかって、高校んときもヘソ曲げてた。家出もしたし、くだらねえケンカもしてた。で、そのとき世話んなったのがあのキャバクラのママでさ。ま、最終的には、将来を決められてるのが気に入らないってだけで、教師になること自体はべつに嫌じゃないってのに気づいて、大学へ進んだわけなんだけど」
……そうか。いまわかった。
きのう食事の席で話していた言葉に重みがあったのは、逢坂先生自身がその「反抗期」を経験したからなんだ。
「でもさ、これでよかったのかっていまだに悩むんだよな。俺は教師になるべきじゃなかった、他に行くべき道があったんじゃねえかってよ。本当にこのままでいいのかって」
逢坂先生は手を伸ばし、煙草の箱を取った。イライラした手つきで一本を出すと、忙しなく火を点け、煙を吐いた。
「だけど、先生も努力したから、いまの立場があるんじゃないですか。なのに、これでよかったのかって、自分を無下にするだけです。贅沢すぎます。教師はだれでもなれるものじゃない。選んでもらって、こうして職に就いたからには、前を向いて全うしなきゃバチが当たりますよ」
「……」
「それに、逢坂先生が教師になっていなかったら、こうして出会えることはなかったわけだから、僕はやっぱりよかったと思います」
逢坂先生は表情を変えず、じっと僕を見下ろしている。
なにか気に障ることを言ったかと、頭の中で反芻した。
でも、僕はたぶん、近年まれに見るいいことを言った。……と思う。
「な、なんですか」
「いや」
「えー。いま、絶対なんか言いたげでしたよ」
「なんもないって」
逢坂先生が苦笑いする。
苦みが見えても端々は緩んでいて、笑みの割合も多いからよしとしよう。
ちょっとほっとした。
「贅沢かねえ、俺は」
「贅沢ですよ。……顔もよくて背が高くて数学ができてなにをしても人望があって──」
僕は指折り数えながら言う。
「お、もう一声」
「お酒も強い」
「はっ。それいるか?」
「僕からしたら、羨ましい限りです」
「お前……」
ほんと面白ぇわ。
そうつけ加えて、逢坂先生は突然、僕の髪をくしゃくしゃに撫で回した。
「なんでいままで気づかなかったんだろうな」
「え?」
「渡辺先生のこと。うざいくらいがんばり屋なのはわかってたけど」
「う、うざいって……」
そこは反論できない。
たまに、一人で悩むこともあるから。
たとえば佐々木先生にくっついて、同じようにすることに必死な感じは、傍から見たら、じつはくどいんじゃないか……って。
「まあ、そのがんばり屋なとこが、お前の長所だとも、俺は思うけど」
「長所……になりますかね」
「なるなる。いろいろハイスペックなとこも」
「はいすぺっく?」
僕が首を傾げると、「そこは深く考えんな」と含み笑いで言って、逢坂先生はソファーを立った。キッチンで焼酎のおかわりをしている。
僕は目をしばたたいた。
それにしても、朝からどれだけ飲むんだろう、あの人。しかも、パンに焼酎って……。
やっぱり逢坂先生は変わっている。
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