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もりひろ

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遠慮は却って

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「あいてます。あいてますけど、なんの用ですか?」

 床に座り込んだままプリントをひらひらさせる。
 逢坂先生は口を開きかけ、なにも言わずに閉じた。僕からまたプリントを奪いとり、壁に当て、カバンからペンを出した。

「用はない」

 返ってきた紙に、そう大きく書かれてあった。
 やっぱり、虫の居所はよろしくないようだ。
 むきになって、僕もペンを走らせる。

「用があるから聞いたんでしょ」
「べつに」
「なんで怒ってるんですか」
「怒ってない」
「だって顔が恐い」
「すいませんね。元からこうなんで」
「ところで逢坂先生って字がおきれいですね」

 プリントの受け渡しを、逢坂先生が止めた。

「お前さ、なんなの」

 ようやく口で言う。

「そこで変化球は反則だろ」

 カバンにペンを突っ込んで、逢坂先生は苦笑する。
 さすがに呆れられたか、と思ったけれど、逢坂先生は、留まっていてくれている。
 僕は腰を上げた。

「ていうか先生。こんな紙にじゃなくて、直接訊いてくれたらよかったのに」
「ストレートに言ったら嫌がられると思って、ワンクッションおいてみたんだよ」
「べつに嫌じゃないですけど」
「だってお前、クラブの終わりにメシ行こうっつったら、おかしな断り方しただろ」

 口止め料のことだ。思った通り、逢坂先生も引っかかっていたんだ。

「それは本当にすみません。僕なんかを食事に誘ってくれるとは思ってもみなかったので」
「下心はねえよ」
「はい。あとで気づきました。僕をご飯で釣って、あのボランティアの口止めをしようとか、逢坂先生は全然考えてなかったんだって」

 うん、まあ、それはもういいよ。全てを水に流すように言うと、逢坂先生は短く息を吐いた。

「……で、結局はどうなんだよ。土曜の夜」
「あ、大丈夫です。出れます」
「じゃあ──」

 と、逢坂先生は携帯を取り出した。
 職員室へ行って僕も携帯を持ってくると赤外線通信の準備をした。もっとも、連絡網のプリントがあるから、それを確認すれば携番はわかる。
 新たに作られた電話帳の欄に逢坂先生のメルアドが映る。アットマークの前はシンプルに名前だった。
 というか僕、逢坂先生とメルアドの交換をした……。
 夏休み前までは考えられなかったことだ。

「それにしても、なんで僕なんか誘ってくれるんですか。僕と行っても、面白いことはなにもないですよ?」
「いや。なんでと訊かれても」
「えー」
「ただの親睦会だよ、親睦会」

 親睦会か──。と口の中で呟いたとき、このあいだ友だちからもらった映画のチケットがよぎった。

「あの、逢坂先生は夜からしかいけませんか」
「あ?」
「もう少し早い時間に出かけられません?」

 それから、ペアチケットの話をした。機会があれば観たいと思っていた話題の映画だ。

「僕が車を出しますんで」
「どういう映画? なんつうタイトルだよ」
「ほっきこう、です」
「え? ぼっき?」

 ぼ……!
 逢坂先生をきっと見上げた。
 まだ学校内なのに、なんてことを言うんだ。

「『ぼっき』じゃなくて『ほっき』です! 北に帰るに行くで『北帰行』。すごい感動ものでいま話題の映画なのに、ぼっきって──」

 逢坂先生の手が僕の口を塞ぐ。

「わかった。わかったから。声がでけえよ」

 手が外れても、目は据えておく。

「ちょい聞き間違えただけだろ。そんな睨むな」
「先生。僕だからいいものの、一歩間違えたらセクハラですよ」
「それより、映画館って、バイパス沿いのショッピングモールにあるやつだろ」
「……ああ、はい。そうですね」
「そんなら、メシ食う場所には困らねえな」

 逢坂先生はそのあと、自宅マンションのそばのコンビニで落ち合おうと言い置いて、職員玄関を出ていった。
 職員室へと歩き出しながら、僕は改めてプリントを見た。あっと思わず声が出る。足も止まる。
 プリントに、出欠を書いて提出する切り取り部分があった。
 くしゃくしゃなのはまだいいとして、裏を見れば、さっきの筆談が、切り取る部分にしっかりとかかっていた。
 どうしたものかと考えながら職員室へ入ろうとして、中から出てきただれかとぶつかりそうになった。
 てっきり自分しかいないと思っていた僕は、あまりにびっくりして、甲高い声を上げてしまった。
 現国の中畠先生だ。僕と目が合うと軽く頭を下げ、とくに驚いたふうもなく職員玄関のほうへ歩き始めた。

「なんでしょう?」
「あの、この初会合のお知らせなんですけど、余分とかありますか?」

 中畠先生は、ありますよと頷きながら職員室へ戻ってくれた。自分のデスクから新しい一枚を出す。

「ありがとうございます」

 と、受け取ったけれど、中畠先生がなぜかプリントを手放さなかった。
 ……なんの冗談だろう。
 そんなおふざけをする人だとは思いもよらず、どう返すのが正解なのか、しばし僕は考えあぐねた。

「あのぅ?」
「ずいぶん逢坂先生と仲よくなったんですね」
「……え?」
「しかし、教師として長く働きたいなら、ああいう人とはつるまないほうがいいですよ」

 中畠先生の目を見た。眼鏡の奥のそれは穏やかであるけど、まるで諭す声は低く、圧をかけてくるようだ。

「教職を冒涜するような人間に感化でもされたら、いろんな人に目をつけられてしまいますよ。くれぐれもお気をつけください」
「……」

 怖さというか、合点がいかないなにかを覚え、僕は引ったくるようにプリントを手にした。
 けど、反論せずにもいられなくて、後ずさってから思いきって口を開いた。

「逢坂先生はたしかにいろいろ無頓着で、大人らしからぬ行動もたまにとられます。だから、中畠先生の言いたいこともわかる気がします。けれど、教師としてということなら、きっちり生徒のために職務はこなされてるので、冒涜は暴論じゃないですかね」

 中畠先生はなにも返してこなかった。
 気に障ったのだろうと思って、僕は「生意気言ってすみません」と謝った。
 それでもなにも言ってこない。いよいよ不気味な感じも受けて、僕はカバンを取ると、半ば逃げるように職員室を出た。
 靴を履きながら気づく。僕が逢坂先生と別れたあと、中畠先生は職員室から出てきた。
 こんな時間のあそこはひっそりとした空間だ。僕たちの会話が聞こえていたとしてもおかしくない。……というか、聞いていたのかもしれない。
 ただ、それも気になったけど、僕の脳裏にはあのボランティアの一件もよぎった。
 しかし、ああいうキャバクラに出入りする人には見えないし、「冒涜」なんて口にするならば、もし見かけたなら校長先生か教頭先生に報告すると思う。
 それでも、ちょっとした胸騒ぎを覚え、僕は足早に職員玄関をあとにした。




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