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1章

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「鈴、俺はお前の両親が亡くなった時、お前の事を本当の娘のように育てようと思っていた。それが……あんな事になってしまって本当にすまなかった。長い間お前を苦しめ、辛い思いをさせてしまった。こんな情けなくて不甲斐ない叔父だが、もしもお前がここを嫌になったその時は、必ず俺達の所に戻ってこい。我慢なんてもうしなくていいから。俺も菫も女房も、お前のことは家族だと思っている。今も昔もこれからも。お前には帰る場所も逃げる場所もある。それを……覚えておいてくれ」

 そう言って勇がようやく鈴の顔を見てくれた。その目は涙で潤んでいるが、強い意志が宿っている。そんな勇を見上げて鈴はゆっくりと頷いた。

「私が長い間忘れていたばかりに、叔父さまと菫ちゃんにとても辛い思いをさせてしまいました。私は今日、神森家に嫁ぎますが、これから先もずっと叔父さまと菫ちゃんとまだ見ぬ叔母さまは私の家族です。もちろんmumの他のご兄妹もご両親もです。両親はもう亡くなってしまいましたが、私は一人ぼっちではありませんでした。それは見えない所で叔父さまや菫ちゃん、そして叔母さまが支えていてくれたからです。こんな私をずっと思っていてくれて本当にありがとうございました。そして、どうかこれからもよろしくお願いします」

 深々と勇に向かって頭を下げると、一粒だけ涙がこぼれた。また雅に叱られてしまうかもしれないが、泣くなと言う方が無理だ。鈴は一人ぼっちじゃなかった。ずっと、鈴を思って支えてくれている人がこんなにも近くに居たのだから。

 いくら佐伯家を嫌いになろうと思っても嫌いになれなかったのは、あんな境遇でも恩返しをしたいと思えたのは、間違いなくこの人たちのおかげだ。

 鈴の言葉に勇は鼻をすすりながら袖で涙を拭って眉を吊り上げた。

「当たり前だ。お前と菫は俺達の娘だ」
「はい!」

 その言葉に鈴が微笑むと、ようやく勇も少しだけ笑ってくれた。

「そろそろ行こう。猫殿に叱られてしまうな」
「そうですね! 泣いてしまった事がバレたらまた叱られてしまいます」
「泣いたのか?」
「はい、少しだけ寂しくて。菫ちゃんがさっき来てくれたんです」
「そうか。菫も寂しがっていた。昨日もこの結婚をどうにか取りやめられないか? って物凄い剣幕で詰め寄ってきたぐらいだ。あいつは少し妹離れをした方がいいな」
「叔父さま、それは無理です。私も菫ちゃん離れなんて一生出来ません」
「そうか。そうだな。お前たちは一生姉妹だ。これからも仲良くな」
「もちろんです! 私の姉は世界一自慢の姉です!」
「ははは。料理も裁縫もからっきしだけどな」
「叔父さま、菫ちゃんに叱られますよ?」
「それは怖い。それじゃあ行こうか、鈴。旦那様が首を長くしてお待ちだ」
「はい!」

 鈴は差し出された勇の腕にそっと手を置くと、出来るだけゆっくりと歩いた。少しでも長く、こうしていたかった。



 鈴がなかなかやって来ない。千尋は部屋の柱時計を見て苦笑いを浮かべた。ようやく勇と菫と和解した鈴だ。きっと別れを惜しんでいるに違いない。

 この婚姻が済めば、鈴は的場家の者ではなくなる。何度も家を失くした鈴にとって、また新しい家の人間になるというのはどういう気持なのだろうか。

「随分遅いね」
「挨拶の儀の真っ最中なのですよ。少しぐらい遅くなっても構いません」

 千尋は横に用意されていた水を一口飲んで言うと、雅は腕を組んでフンと息をついた。

「意外だね。あんたはまだかまだかってうるさく言うと思っていたよ」
「失礼な。人の心が分からない私にだって、人生の一区切りの挨拶がとても大切だと言う事ぐらい分かりますよ」
「そうだね。悪いね、あんた達。もうちょっとだけ待ってやってくれるかい?」

 そう言って雅は菫と、菫の隣でカチンコチンに固まって座っている女性に声をかけた。

「ええ、私達は構わないわよ。ね? 母さま?」
「へ? え、ええ。そ、そうね!」
「ちょっと大丈夫? 凄い汗だけど」
「だ、大丈夫! す、少し緊張してしまって!」

 上ずった声でそんな事を言う女性は菫の本当の母親だ。名前はマチと言うらしい。顔立ちは確かに菫とよく似ているが、人柄はどうやら菫とは全く違うようだ。それは血の流れにもよく出ている。マチの血はとても穏やかだ。

「雅、彼女にお水を」
「はいよ」

 あまりにも緊張している様子のマチを見かねて千尋が言うと、マチはハッとして顔を挙げた。

「も、申し訳ありません! 私、どうにも緊張すると汗が止まらなくなってしまって」
「大丈夫ですよ。そんな事は誰も気にしていません。それに私達は緊張するような相手でもありません。そんなに固くならないでください」
「いや、そりゃ無理よ。あなた達は十分に緊張する相手だもの」

 菫が言うと、それを聞いて楽が白い目を菫に向けた。

「お前はそんな風には全然見えないけどな?」
「私は慣れただけ。こう見えても最初は緊張してたわよ」
「どーだか」
「何よ。やけに突っかかってくるじゃない。それよりもあんた執事なんでしょ? どうして身内席に居るのよ?」
「お、俺は千尋さまの身内みたいなもんだからだよ! ねぇ、千尋さま!」
「そうですね。菫さん、楽は私の執事でもありますが、家族なのですよ。これからも仲良くしてやってくださいね」

 何だか似た者同士の喧嘩は見ていて面白い。口が達者な菫に言い負かされそうになっている楽は、年相応のそこらへんの少年と何も変わりない。

 本当は楽にはこのまま自由に生きて欲しい。都に居たら楽には常に千尋の屋敷の執事という肩書がついてまわるが、その肩書は本来の楽にはあまりにも似合わない。

「いつの間にか私も随分と人間贔屓になりましたねぇ」

 そんな事を言いながらお神酒の瓶に手をかけた千尋を見て、弥七と喜兵衛がギョッとしたような顔をする。

「ち、千尋さまそれを飲むのは最後です」
「暇つぶし代わりに酒飲もうとするのは止めてもらっていいですか? これ、一応あなたの結婚式なんで」
「ああ、すみません、つい。形ばかりの式なので少々構わないかと思って」
「少々大丈夫だよ、二人共。コイツはウワバミもびっくりの酒飲みだからね」
「そうです。龍にとっては酒など水のようなものです」
「ねぇ、あんた達なんでそんな呑気なの? やっぱり人との感性が違いすぎない?」
「こら菫! どうしてそんな口の利き方をするの!」
「だって、もう身内でしょ? 親戚だもの。別にいいでしょ?」

 青ざめるマチと全く緊張していない菫を見て千尋が笑いながらお神酒を飲んでいると、ようやくそこへ勇がやってきたのが気配で分かった。

 千尋がそれに気付いて居住まいを正すと、じっと扉を見つめる。そんな千尋に気付いたのか、雅と楽、そして喜兵衛と弥七はすぐさま座り直す。

「遅くなりました」

 そう言って勇はゆっくりと扉を開くと、一歩部屋の中に入ってくる。その後ろから、千尋が選んだ白無垢を身にまとった鈴が、ゆっくりと入室してきた。

「……」

 鈴は足元を気にしながら俯いた状態で部屋に入ってきたが、伏せられた視線すらハッとするほど美しくて千尋は思わず息を呑む。
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