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1章

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「楽は都の私の家をずっと一人で守ってくれていたのですよ。こう見えてとても頼りになるので連れてきたのです。彼も一緒でも構いませんか?」

 慌てふためく鈴は可愛いしもっと見ていたいが、時間があまり無い。

 千尋が少しだけ早口で言うと、ようやく菫は納得したように頷いた。その瞬間、鈴があからさまにホッとした顔をして小さく千尋に頭を下げてくる。

 案内された部屋の前まで来ると、菫が珍しく緊張した面持ちで言った。

「お父様、神森家の皆様をお連れしました」
「ああ。入ってもらってくれ」

 中から聞こえてきた声に鈴がビクリと肩を震わせた。その目には既にうっすらと涙が浮かんでいる。千尋はそんな鈴の頭をそっと撫でると、続いて背中をさすってやった。

「ありがとうございます、千尋さま」
「いいえ。さあ行きましょう」

 そう言って千尋は菫に案内されて、ようやく佐伯家の当主と初めて顔を合わせたのだった。
 
 

 勇の声を聞いた途端、鈴は思わず零れそうになった涙を堪えた。

 勇が今までずっと鈴に「こちらを見るな」と言っていたのは、鈴を嫌っていた訳ではなかったのだと知ってから、ずっと会いたかった。

 けれどいざ会えるとなると心臓がパンクしそうなほどドキドキする。

 思わず襖の前で硬直してしまった鈴の頭と背中を、千尋はそっと撫でてくれた。ひんやりとした千尋の手は驚くほど鈴の心を落ち着かせる。

 部屋へ入ると、勇と真っ先に目が合った。

「……」

 何か言わなくては。そう思うのに何も言葉が出てこない。

 勇はしばらく驚いたような顔で鈴と千尋を見ていたが、いつものようにそっと鈴から目を逸らして口を開く。

「元気……だったか」
「! はい、とても」
「……そうか。随分と娘らしくなって……驚いた」
「は……はい!」

 相変わらずこちらは見てくれないけれど、勇の口から出てきたのはいつもの言葉などではなかった。それがどれほど鈴の心を救っただろう。

 思わず涙を零した鈴を見て、菫がツカツカと勇に近づいた。

「お父様、他にも何か言う事があるでしょう?」

 菫の声に勇は体をビクつかせると、それを援護するかのように雅が言う。

「そうだよ。あんた、あんだけ泣いて謝りながら手紙書いてたんだ。さっさと言っちまいなよ」

 それを聞いて勇の顔色が赤くなり、青くなったかと思うと続いて白くなる。

「ね、猫殿! そ、それは秘密だとあれほど!」
「ああ、そうだったっけ? もういいじゃないか、別に。隠してても仕方ないだろ? 娘にも大号泣してるとこ見られたんだしさ」
「そうね。お父様、時間が経てば経つほど言い出しにくくなるわよ?」
「……そ、そうだな。鈴」
 勇はそう言って何かを決意したかのようにようやく鈴を見ると、深呼吸をして鈴の名を呼ぶ。
「はい」
「俺は……その、別にお前を嫌っていた訳でも、憎んでいた訳でもない。手紙にも書いたがお前は本当に菊子によく似ていて……まるでそこに居るみたいで……俺……俺は……」

 そこまで言って勇はとうとう堪えられなくなったのか、口元を抑えて言葉を切った。そんな勇を見て鈴も鼻をすすりながら言う。

「叔父さま、私もっと沢山両親の話を聞きたいです。今まで聞けなかった分、今度ゆっくり聞かせてくれますか?」

 鈴の言葉に勇はハッとして顔を上げる。

「もちろんだ。俺もお前に聞きたい事が沢山ある。沢山……あるんだ」
「では沢山お話をしましょう。8年分なので、きっと長くなりますね」

 そう言って鈴が微笑むと勇は涙を零して頷くと小さく笑う。

「やはりお前は菊子にそっくりだ。そういう所が本当に……そっくりだ」
「嬉しいです……とても」

 鈴の思い出の中の両親を知っている人がここにも居る。その事実が何故かとても嬉しく思えた。

 鈴が涙を拭おうとすると、隣からそっと真っ白なハンカチが差し出された。千尋だ。

「どうぞ」

 静かで穏やかな千尋の声は鈴の心をそっと包み込む不思議な声だ。

「ありがとうございます」

 ハンカチを受け取った鈴は、勇に頭を下げた。

「叔父さま、鈴は神森家に嫁ぎます。両親の分までしっかりと生きます。必ず幸せになります。今まで、本当にお世話になりました」
 
 本来ならこの挨拶は今すべきでは無いのだろうが、どうしても感謝の言葉を伝えたかった。
 
 そんな鈴の言葉を聞いて勇はさらに涙をこぼす。

「鈴、お前……今それを言うな。お前はまだ……俺の娘だ」
「……はい」
 
 娘だと言われた事に驚いた鈴だが、何故か鈴以外は勇の言葉に頷いている。

「鈴さん、事情があってこのお二人はあなたに辛く当たらなくてはならなかっただけで、今まであなたのお薬を手配していたのはご当主で、届けていたのはあなたも知っている通り菫さんです。あなたは本当に愛されていたのですよ、この家でこの二人に」

 千尋の言葉は鈴の体の中にスッと染み込んだ。その瞬間、涙が溢れ我慢出来ずに勇と菫にはしたなく抱きつく。

「ちょ、鈴! あんた結納の席でみっともない事しないの!」
「す、鈴、は、離れなさい!」
「嫌です! 私、私……ずっと知らなくて、何も知らなくて……たまに無性にこの家から逃げ出してしまいたいだなんて考えたりして……本当にごめんなさい! 本当に……ごめんなさい……」

 とうとう泣き崩れた鈴に困ったような菫のため息が聞こえてきた。

「そう仕向けたのは私達なんだから、あんたは別に謝らなくていいのよ」
「そうだぞ、鈴。だが問題は何も解決してはいない。鈴、離れなさい。このままではいつまで経っても結納が進まないだろう?」
 
 いつまでも離れない鈴に勇が言うと、鈴はようやくしゅんと項垂れて勇から離れて千尋の隣にきちんと座った。

 それを確認した千尋は思わず見とれそうなほどの優雅さで座り直して勇に話しかける。

「この度は鈴さんと、私、神森家当主、神森千尋との縁談をご承諾くださいましてありがとうございます。本日はお日柄もよろしいのでこれにて両家の婚約式を行いたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします」
 
 千尋が挨拶を終えると、その場に居た全員が頭を下げた。今回は仲人も居ないのでかなり形式は簡略化する手はずになっている。

「神森よりの結納の品でございます。幾久しくお納めください」

 千尋が言うと、雅と楽がすぐさま動き出した。千尋が用意したのは鈴の為の支度金だけだ。

「本来であればこちらに結納の品々をお持ちするのが習わしですが、鈴さんとの結婚式は神森家で行うため、結納金だけをお持ちしました」
「ありがとうございます。幾久しくお受けいたします」
 
 鈴はもうここへは戻らない。そう思ったのか、勇は下唇を噛み締めて千尋からの支度金を受け取っている。

「こちら、佐伯家からの受書でございます。幾久しくめでたくお納めください」

 勇が受書を出そうとしたその時、ふと千尋がそれを拒否した。

「いえ、佐伯家からではなく、あなたの旧姓からの受書にしていただけますか?」
「え?」

 突然の千尋からの申し出に勇は思わずポカンと口を開ける。
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