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1章

86話

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 やがて本を読み終えた千尋は鈴を起こさないよう抱き上げると、書斎を後にした。ゆっくりと長い廊下を歩いていると、寒いのか鈴が千尋の胸に顔を寄せてくる。

「こういう時はどう我慢をしたら良いのでしょうか……」

 思わず手を出したくなる衝動に駈られながらもどうにか千尋は鈴の部屋に辿り着くと、そっと寝台に鈴を横たえた。

「おやすみなさい、鈴さん」

 千尋はそれだけ言って毛布と布団を鈴にかけて部屋を出ようとしたのだが、微かに鈴の囁く声が聞こえてきたので思わず鈴の寝台に戻ると、思いもよらないセリフが鈴から飛び出す。

「ち……ろ、さま……すき……」
「!?」

 その瞬間、ドクンと心臓が跳ねた。ゴクリと息を飲み込み鈴の顔を覗き込むと、鈴は笑顔を浮かべてさらにむにゃむにゃと話し出す。

「もも……です……か……わたし……柿が……」
「あ、そういう……」

 そこまで聞いて千尋の心臓はすぐに大人しくなった。どうやら鈴は夢の中で千尋に好きな果物を聞いていたようだ。そして次の瞬間あまりの恥ずかしさに思わず顔を手で覆ってしまった。

 こんな些細な一言で一喜一憂して勘違いをして恥をかいて……こんな千尋を龍人達が見たらどう思うのだろうか。

 千尋は一歩鈴に近寄ると、形の良いおでこにそっとキスをする。

「今はこれが精一杯だなんて……情けないですね、私も大概。おやすみなさい、鈴さん」

 そう言って千尋は今度こそ鈴の部屋を後にした。そしてこの事が後からとんでもない誤解を招く事になるなどとは、この時の千尋は予想もしていなかった。
 
 
♥ 
「……やってしまった……」

 鈴は寝台の上で頭を抱えて昨夜の自分のしでかした事を深く反省していた。

 昨日、鈴は確かに書斎で本を読んでいたはずだ。ところが途中から記憶はぱったりと無くなって、気づけば寝台に居たうえにサイドボードには鈴が読んでいた小説がきちんと置いてあった。パラパラとめくると、ご丁寧に読み終えた所に栞まで挟んでくれている。こんな事をしてくれるのは間違いなく千尋しか居ない。

 鈴は急いで寝台から下りるとそのまま朝食作りに向かった。朝食の時に千尋に謝ろう。そう思っていたのだが――。

「おい」
「?」
「こっちだ」

 どこからともなく聞こえて来る声に鈴が思わずキョロキョロしていると、階段の上から楽の声がした。

「楽さん! おはようございます。早いですね」

 鈴が何の気無しに挨拶をすると、楽はツカツカと階段を降りてきて階段の中頃で鈴を見下ろして睨んできた。

「お前、どういうつもりだ?」
「え?」
「千尋さまを誘惑して、子供でも作ってまさか龍の都について帰ろうとか思ってんじゃねぇだろうな?」
「ゆ、誘惑!?」

 一体何の話かさっぱり分からなくて鈴が目を白黒させていると、そんな鈴を無視して楽は続けた。

「千尋さまには初さまが居る。二人は誰もが憧れる番なんだ。お前なんかが割り込める隙なんかないんだよ!」
「あの! ちょっと待ってください! 一体何の話をしているのですか? 私は千尋さまをゆ、誘惑した事なんて一度も無いですよ!」

 そもそも鈴如きが誘惑した所で、千尋からしたら小鳥が耳元でピヨピヨ言うぐらいの破壊力しか無いと思うのだが……。

 鈴がそんな事を考えながら楽に言うと、楽は訝しげな顔をして言った。

「じゃあどうしてあんな深夜に千尋さまがお前の部屋から出てくるんだ? 人間はどこまでも浅ましくてその上意地汚いからな。どんなに善良な振りしてたって、千尋さまみたいな才色兼備な資産家が目の前に居たらいつ豹変するか分かんねぇよな。でも残念だな。龍と人間の恋なんてはるか昔に廃れた悪しき文化だ。お前は大人しくこの国を守る生贄になってればいいんだよ!」

 顔を歪ませながらそんな事を言う楽から、ただ鈴を深く傷つけたいのだという意図が読み取れる。

 どうしてここまで嫌われているのか謎だったが、どうやら楽は鈴が千尋に取り入ろうとしていると思っているようだ。

「私は元より楽さんに言われるまでもなくこの国を守るための花嫁としてここへ嫁いで来たのです。その時点で私はこの先子供が持てない事も、残りの寿命が少ない事もちゃんと覚悟しています」
「……え?」

 鈴が言うと、楽の顔から嫌味が抜けた。だからさらに鈴は言う。

「楽さんは知らないのですか? 今までの花嫁は龍の力に耐えきれず、皆とても短命だったという事を」
「し、知らない」
「そうですか。ついでに言うと、龍の花嫁は子供の卵を全て他の方に渡すのだそうです。龍神の力を蓄えた卵が他の母親に宿り、そうして神通力を宿した子が生まれる。つまり、私には一生千尋さまとの子供は持てないのです」
「で、でも、そうしたらお前……何の為に……?」
「ここに嫁いだのか、ですか? それは簡単です。こんな私をここの方たちが受け入れてくれたからです。それに名も無いちっぽけな私でも、国を守るという大役を受ける事が出来るのです。これほど誇らしい事はありません」

 これで楽も満足するだろう。そう思ったのに、何故か楽は顔面蒼白だ。

「そんな! そしたら千尋さまはどうなるんだよ! あんなにお前の事……お前の事……」

 そこまで言って楽はヨロヨロと歩き出した。そんな楽の背中に鈴は声を張り上げる。

「楽さん!」

 鈴の呼び声に楽が顔だけで振り返る。そんな楽の目を真っ直ぐ見つめて言った。

「私は何も後悔していません。これからもしません。あなたに何を言われようとも、私の考えは変わりません。それだけは覚えておいてください。それから……生贄と呼ぶのは止めてください。それは、千尋さまの名誉を汚す言葉です」
「……」

 鈴はそれだけ言ってクルリと踵を返した。最初は楽にきちんと説明をしていつか仲良くなれたら良いと思っていたが、楽が鈴を傷つけたくて仕方ないのだとしたら、鈴のしようとしている事は無駄だ。

 鈴は廊下の曲がり角を曲がって走り出した。千尋には龍の都に番の初がいる。千尋は初と番を解消すると言っていたが、楽の雰囲気を見ていると初の方はそんな事は微塵も考えてなど居ないのではないだろうか。

 どのみち鈴がどれほど千尋を思っても、龍の千尋と添い遂げる事など不可能なのだ。

 それは分かっているのに楽の言葉にどうしてこんなにも胸が痛むのだろう。どうしてこんなにも息苦しくなるのだろう。どうしてこんなにも傷ついたのだろう……。

 鈴はその後、結局なかなか炊事場に向かえなくて裏口の石畳の上に膝を抱えて座り込み、項垂れていた。

「ここに居たのですか、鈴さん。随分探しましたよ」
「! 千尋さま!? どうして……」
「喜兵衛がね、いつまで経っても鈴さんが来ないと私の所に言いに来たのですよ。ほら、あの時の事があるから皆あなたがどこかで倒れてやしないかと心配なのです」
「あ……すみません。私、皆に心配をかけてしまいました……」

 迷惑を極力かけたくないと言いながら、喜兵衛と千尋に心配をかけてしまった。鈴が俯いてポツリと言うと、千尋は鈴の隣に腰掛けて静かにアメイジング・グレイスを歌いだす。
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