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二学期・後半

第72話 文化祭 (6)

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 ――文化祭 二日目 音楽研究部のライブ

 ついに幸子の出番がやって来る。
 しかし、幸子と対峙したのは、観客ではなく、観客席に広がる闇の海だった。

 闇の海がゆっくりと持ち上がっていく。
 いや、観客たちに何ら動きがあったわけではなく、そもそもそんな風に動けるわけがないのだが、幸子にはそう見えたのだ。

 そして、山のように盛り上がった闇の海は、幸子を指差し、嘲り笑っていた。

 <ちょっと勘違いし過ぎじゃないの?>
 <アンタ、何にもできないよね>

 幸子の頭に<声>が響く。

 しかし、幸子は落ち着いていた。
 闇の海と向き合い、<声>を聞きながら、幸子は考える。

 小学生の頃、自分をイジメていた林を思い出した。
 しかし――

(指を差して「私」を嘲り笑っているのは、林くんじゃない……)

 中学生の頃、自分を裏切った亜利沙を思い出した。
 しかし――

(指を差して「私」を嘲り笑っているのは、亜利沙ちゃんでもない……)

 そして、幸子はひとつの結論に至る。

(指を差して「私」を嘲り笑っているのは……)

 その結論から目を背けたい幸子。
 それでも、結論を出さなければいけなかった。

(「私」を嘲り笑っているのは……『私』だ……)

 幸子の中では、夏に林を赦し、今日亜利沙も意に介さない存在となった。
 それでも<声>が聞こえ、何も無いはずのものが見えたように感じてしまう。
 幸子の心は、駿たちとの交流の中で、少しずつ癒やされていったが、傷がすべて塞がったわけではない。以前の幸子であれば、この場から泣き叫びながら逃げ出したであろう。

 幸子は、チャットでの亜由美の言葉を思い出した。

(「私たち、みんなさっちゃんのこと、大好きだからね」)

(そうだ、私はもうひとりぼっちじゃないんだ……)

 亜由美の言葉に支えられ、幸子は自分の心の中に巣食う『私』と対峙することを決める。

 幸子は、駿に言われた言葉を思い出した。

(「オレはこの歌を、さっちゃんが、さっちゃん自身のために歌ってほしい」)

(そうだ、「私」は『私』にこの歌を歌う!)

「私」を嘲り笑う闇の海を睨む。

(「私」は『私』なんかに負けない!)


 ジュリアとココアに軽く手を挙げて合図を出した。
 淡いブルーの照明に包まれたステージに立つ幸子へスポットライトが当たる。
 観客はまだ少しざわついており、拍手はまばらだった。

 亜由美がそっとキーボードを弾き始める。
 軽やかなピアノの音が、スピーカーから流れ出た。

 四曲目、幸子が歌うのは、十年程前のアメリカの女性シンガーが歌ったヒット曲だ。
 オリジナルは、出だしからポップな音に仕上がっていたが、駿のアイデアで大きくアレンジを加えた。
 曲の頭からサビの半分までは、ピアノ(キーボード)のみの伴奏として、幸子のボーカルを前面に出すようにしたのだ。

 スポットライトを浴びた幸子が、まるで誰かに語り掛けるかのように優しく歌い始める。


「私」は『私』に歌う。

 <私には価値が無いって思ってなかった?>


「私」は『私』に歌う。

 <私はゴミみたいな存在だって思ってなかった?>


「私」は『私』に歌う。

 <でも、私にだって輝くものがあるって気付いたよね?>


「私」は『私』に歌う。

 <それをみんなに見せてみない?>


 ざわついていた観客は、いつのまにか静まり返り、バックに映し出される和訳された歌詞を見ながら、ただ幸子の歌声を聴いていた。
 サビが近くなり、幸子の歌声のボルテージが上がっていく。


「私」は『私』に歌う。

 <私だって輝けるんだってことをみんなに見せようよ!>


 誰かに訴えかけるかのように、声を張ってサビを歌う幸子。
 講堂内に幸子の歌声が響き渡った。

 そして、サビの半分が終わると、ステージの照明が眩しく灯り、ギター、ベース、ドラムが入ってくる。亜由美も立ち上がり、キーボードを弾いていた。オリジナルの楽曲に近い音だ。

 その時、幸子は見た。
 照明により、闇の海が消え、観客の多くが、自分の歌に大きな歓声を上げているところを。

 喜びの感情に包まれると同時に、幸子は自分の中にいる『私』にもう一度向かい合う。


「私」は『私』に歌う。

 <生きてたって辛いことや悲しいことしかないって思ってたよね?>


「私」は『私』に歌う。

 <でも、辛いことだけじゃないって、幸せになれるんだって知ったよね?>


「私」は『私』に歌う。

 <すべてを諦めて、すべてから逃げ出したこともあったよね?>


「私」は『私』に歌う。

 <でも、一歩踏み出せば、たくさんの未来が待っていることも知ったよね?>


 歌の歌詞に合わせて、自然に身体が動く幸子。
 駿たちのような派手なステージパフォーマンスではないが、自然なその行動は、観客が見ていても、決しておかしなものではなかった。
 幸子の歌声と歌詞の内容に心が揺さぶられた生徒も少なからずおり、まるで幸子が自分を励ましてくれるような気持ちになり、感極まって涙をこらえたり、こぼしたりしていた。


「私」は『私』に歌う。

 <「私」が輝いているところを『あなた』にも見せてあげる!>


 駿たちの確かな演奏に、何かに誓いを立てたかのような美しくも力強い幸子の歌声が重なり、観客を包み込む。
 最後まで幸子のボルテージが落ちることは無かった。

 そして、曲が終わる。

(終わった……「私」は『私』に勝ったかな……)

 幸子を包んだのは、観客からの大きな歓声と大きな拍手だった。
 思わず駿たちを見る幸子。
 駿も、達彦も、亜由美も、太も、キララも、みんな満面の笑みだ。
 視線を二階に向ければ、ジュリアとココアが、幸子にサムズアップしている。

(「私」は『私』に勝ったんだ!)

 心の底から喜びの感情が湧き溢れた幸子。
 マイクを握り直し、観客に深々と頭を下げる。

「ありがとうございました!」

 そんな幸子の姿に、観客は惜しみない歓声と拍手を送った。

 そして、駿と幸子は、最後のデュオに挑む。

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