この噛み痕は、無効。

ことわ子

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俺のタイプ?

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 食欲が無い。
 具体的に言うと、トキが家に来たあたりから常に胃の辺りがモヤモヤしていてご飯を食べる気力が下がっていた。
 翔から移された風邪が時間差で俺を蝕み始めたのかもしれない。

「はぁ~~~~」
「何? 今日も具合悪いん? 熱測った?」
「熱は無いんだけどさぁ」
「ふーん、じゃあ大丈夫そうだな」

 熱の有無だけで判断され、怒ってやろうかと思ったが、食欲だけでなく怒る気力も湧いてこない。

「今日も購買戦争に参加するん?」
「約束だからなぁ~~」

 自分の食欲の無い時に、他人のご飯の面倒を見なくてはいけないなんて拷問に近い。できるなら俺の食欲が戻るまでパスしたいが、そうなるとトキのご飯が無くなってしまうので、そう言うわけにもいかない。

「そう言えばさ、茜の怪我っていつ治んの?」
「怪我がいつ治るなんて俺が分かるわけ……」
「?」

 確かに、と思った。トキが怪我をしてからなんだかんだで一ヵ月近く経っている。軽度の捻挫ならとっくに治っていてもおかしくない。
 トキからの申告は無かったが、もしかしたらもう具合を聞いてもいい頃合いかもしれない。

「聞いてみるか……」

 呟いてから、自分が気落ちしていることに気がついた。ようやくトキとの関係も終わって、αを克服した、とまでは言えないがそこそこ苦手意識も薄れて、俺の人生これから薔薇色になる予定なのに、何故か気が進まない。
 少なからず、トキに情が移っていたんだと思うと複雑な気持ちになった。

 あんな話聞いたらなぁ……

 トキが家族のことを語っていた時の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
 この気持ちは同情なのか、哀れみなのか、それとも。
 人生経験が浅過ぎる自分には答えを出せるだけの材料が少ない。
 もう少し大人になったら今抱いているの感情の名前が分かるんだろうか。

「もう自分が分からねぇ~~~~」
「厨二病っぽい悩みだな」
「お前も同じ悩みで頭が痛くなる呪いかけてやる」
「やめてくれ、ただでさえ低気圧で頭痛いんだから」

 窓の外を見ると、小雨が降り始めていた。
 空を見れば黒い雲が速いスピードで動いていて風が強いのが分かる。

「台風近付いてきてるらしいよな」
「今日下校指示出るかもな」
「だったら最初から休校にしろって思わん?」
「ほんとそれ」


 案の定、午後になる前に雨風は強くなり、遅過ぎる頃合いで下校指示が出た。既に主要路線のいくつかは終日運休を決め始め、生徒たちからは止まらないブーイングの嵐が学校に向けて贈られた。
 そんな中、俺と翔は悠々と帰り支度をし始める。家まで徒歩30分かかるが、それでも『徒歩』だ。帰宅難民にはほぼならないという余裕が俺たちの表情から滲み出ていた。
 慌ててスマホで状況を確認する生徒たちを横目に昇降口を抜け校門を出る。確かに雨も風も強いが、まだ歩けない程ではない。
 こんな時、徒歩圏内の学校を選んだ自分を褒めてやりたくなる。
 少しの優越感を感じながら学校の前を通る大きめの道路を見ると、大量の生徒たちがバス待ちの列に並んでいた。いつもは自転車で通学している人たちが自転車を捨ててバスに走った結果だろう。駅から離れた場所にあるこの高校は自転車とバスを封じられるとほぼ陸の孤島になってしまう。

「うわぁ……可哀想……」

 翔は今朝からずっと眉間に寄せていた深い皺を更に深くして呟く。俺も思わず頷く。
 と、列の中に見慣れた栗色が透明なビニール傘越しに見えて立ち止まる。

「……トキ?」

 小さい声だったのに、トキは傘を上げ俺を見た。

「先輩?」

 列の群衆から頭ひとつ分背が高いトキは、風に煽られたのか前髪が乱れている。いつもすましていて隙がない格好をしているトキの初めて見る姿だった。

「そっか……バス通学って言ってたもんな……」

 加えて一時間以上電車に乗るとも言っていた。今の様子じゃ地元に着く頃には嵐になっているだろう。

「良かったら、ウチ来る?」

 自然と声が出た。隣で驚いている翔の顔を見てようやく自分が何を言ってしまったのか気付いた。

「あ、えーと……この雨の中帰んの大変かなって思って……それに、ほら! ウチの母親トキの事やたら気に入ってたし! 今度はいつ遊びに来るんだってうるさくて……それで……」

 早口になってしまう。並べなくてもいい言い訳を並べて、喋れば喋るほどなんだか恥ずかしくなってくる。

「あ、でも今日は……」

 トキの断りそうな雰囲気に益々恥ずかしさが増す。

「そうだよな! トキにだって都合があるよな!」
「そうじゃなくて……」
「じゃあ気を付けて帰れよ!」

 捲し立てるように別れを切り出して踵を返そうとした瞬間、トキの陰から人が出てきて俺たちの行く手を阻んだ。
背が大きいトキに隠れていたのか、小柄な男は前に見た顔だった。

「あ……」
「こんにちは、先輩。オレも先輩の家にお邪魔してもいいですか?」

 筧はお願いしている立場なのに不遜な態度で俺のことを見ていた。

「巳波!」

 トキが筧の名前を呼ぶ。今更だが、名前を呼び合う仲なんだな、とぼんやり考える。自分も翔のことは名前で呼ぶし、友達のことを名前で呼ぶくらいなんて事ないはずなのに面白くない。

「だってこのままバス来るの待ってたら帰る頃には大雨だよ? トキくんの家、今日誰もいないよね?」

 幼馴染なんだから、お互いの家庭事情くらい分かって当然か、と思い込もうと思うのにうまくいかない。

「だからって、先輩のお世話になるわけには……」
「いいよ。二人くらいなら何とかなると思う」
「やったー! よろしくお願いしまーす!」

 筧の言う通りにするのは癪だが、どうしてもこのまま二人で帰らせたくなかった。

 いや、危ないし……

 これは立派な人助けであって他意はない。
 そう、お経のように唱えながら、四人で帰り道を急いだ。
 何か言いたそうな翔とはなるべく視線を合わせないようにしながら俯きがちに歩き続けた結果、三度、側溝に溜まった泥水を車にかけられ、家に着く頃にはちゃんと傘をさしていたとは思えないほど、俺一人だけびしょ濡れになっていた。

「先輩って傘さすの下手なんですね」

 筧に何を言われても反論する気になれない。
俺相手だからまだいいが、こいつはこの嫌味をすぐ口に出す性格を治さないといつか痛い目をみると思う。

 ってか、なんで俺、こいつに嫌われてんだ……?

 そう言えば初対面からそうだった。
 何もしていないのに嫌われているなんて、こんな理不尽なことがあってもいいんだろうか。

「あれ? 千秋? とトキくん!!!!」

 玄関を開けた瞬間、大きな声が響く。息子とトキの名前を呼ぶテンションの差にはもう慣れた。

「こんにちは。度々お邪魔しちゃって申し訳ありません」
「やだ、トキくんが来るなら言ってよ!」
「急遽決まったんだよ……ほら、この天気だし、トキ帰宅難民になりそうだったから……」
「え、じゃあもしかしてお泊まりするの!? ちょっと待ってお客さん用の布団出さなきゃ……!」
「ご迷惑おかけしてしまってすみません」
「いいのいいの! 来てくれて嬉し──あれ?」

 トキの来訪にテンションが上がった母さんはトキの隣にいる筧にようやく気がついた。

「初めまして、トキくんの幼馴染の巳波って言います。僕も帰れなくなりそうな所を千秋先輩に声かけていただいて……なるべく迷惑はかけないように努力するので一晩泊めていただけませんか……?」

 するすると出てくる嘘に開いた口が塞がらない。それに一人称から口調まで俺に対する態度と何もかもが違っていて恐怖すら覚える。

「あら~やっぱりイケメンの友達はイケメンなのね」

 なにが『やっぱり』なのか分からない。

「あ、でもトキくんとは方向性の違うお顔立ちよね。どっちかっていうと可愛い系? あっ男の子に可愛いなんて失礼だった……?」
「いえ、僕、可愛いって言われるのが一番自己肯定感上がるんで寧ろ嬉しいです」
「そうなの? よかった~」

 盛り上がる二人を尻目に俺はトキの顔をじっと見た。
 トキの顔がカッコいいのは分かるが、筧の顔をイケメンの評価する母の気持ちが分からない。少なくとも俺のタイプではないな、と思ったところで違和感に気づく。

 俺のタイプってなんだ……?

 訳の分からない考えに頭の中がこんがらがり始める。ただでさえ最近得体の知れない感情に振り回されていると言うのに、更に追加されてキャパオーバーしそうになる。
 頭痛で苦しむ翔のように眉間に深く皺を寄せながら唸っていると、母さんが突然俺の名前を呼んだ。

「ちょっと! 千秋だけなんでこんなに濡れてるの!?」
「なんか……車に水かけられて……」
「待って! 玄関に上がらないで! タオル持って来るからそこで待ってて! そしたらお風呂に直行ね! あーもう制服ぐちゃぐちゃ!」

 騒ぎながら母さんは人数分のタオルを用意してくれ、客人を残したままお風呂に放り投げられた。
 俺がいない場でどんな話が展開されるか予想が出来なくて怖い。デリカシーが普通の人よりやや少ない母親の持ちネタは大概が俺の失敗談だ。トキはまだしも、筧に聞かれるのだけは困る。
 俺は必死になって頭からシャワーを被り、今まで記録したことがないような早さで風呂を出た。
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