この噛み痕は、無効。

ことわ子

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休戦

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 トキのために購買戦争に参加し始めて早一週間。
 俺たちはあの手この手でこの戦争に勝利し続けていた。
 結局、あの後、トキに買ってくるのは何のパンがいいか聞いたのだが、毎日焼きそばパンがいいと言われてしまった。
 焼きそばパンが好きな俺でも流石に毎日は飽きる。そこまで焼きそばパンが好きなのかと思うと、少しだけ親近感が湧いた。
 このまま順調に、平穏に、パシリ生活は終わるものだと思っていた。
 そうしたら、俺はもう今後一生αと関わりがない生活をするのだ。
 目標達成まであと少し。そのはずだったのに。


「は? 風邪引いたぁ?」

 俺の相棒兼親友兼幼馴染の翔から朝一通のメッセージが届いた。ボサボサ頭で顔も洗っていない最悪のコンディションで最悪の一文が表示されたスマホを見た。気分は勿論、最悪だ。

『風邪、しんどい。学校、無理』

 簡素で完璧な文章だ。
 つまり、今日は休むという連絡なのだが、今日の俺は翔の心配より自分の心配をしていた。
 翔が休むということは、必然的に自分一人で戦争に参加しないといけないことになる。それまではまだいい。その後のパンの受け渡しを俺一人で行かなくてはならない事に頭を悩ませた。
 初日からずっと翔を盾にし続けた俺は、徐々に慣れてきたとは言え、まだトキが怖かった。
 いや、怖いという感情は少し違うかもしれない。自分の意思とは関係なく、小さい頃のトラウマが蘇ってきてどうしても身体が固くなってしまうのだ。
 今のトキは一見すると普通の男子高校生だ。
 いや、初対面で抱き締められてキスをされた以外は普通の男子高校生だ。

 …………充分普通じゃないな。

 しかし、あの時以降、あんな態度はかけらも見せず、淡々と節度を持って接してきている。あれが無ければ、普通の先輩と後輩の間柄に見えるだろう。
 もし、幼少期のトラウマが無く、俺がαアレルギーじゃなければ、仲良くなれたかもしれないな、と思わないこともない。

 そもそもそのトラウマの元凶がトキなんだから成立しない話だけどな。

 致命的な矛盾に思考を現実に戻られながら、俺はため息をついた。

 とにかく。

 今日の購買戦争はどうしたものかと考える。
 元々俺は考えるのが得意じゃない。悩んでいるうちに頭が痛くなってきた。俺のポンコツの脳みそがもう考えるのはやめろと言ってくる。

 なるようにしかならないか……

 俺は特大のため息を吐くと、学校に行くために嫌々自室のドアを開けた。

***

「嘘だろ…………」

 購買の窓口には黒のマジックで書かれた『本日購買中止』の画用紙が貼れていた。
 焦りながら周りを見渡すと、俺以外にも状況を理解できていないのであろう生徒が何人も、手に財布を持ったまま動けずにいた。
 誰か事情を知ってる人はいないかと更に周囲を見渡すと、丁度、茶色のエプロンをつけたおばちゃんが購買の窓口に近付いてきた。
 確か学食の方で働いているおばちゃんは、本日購買中止の文字の下に良かったら学食へどうぞ、と書き足していた。

「あの、」

 俺は思わず話しかけていた。

「はい、なんでしょ?」

 はきはきと朗らかな態度でおばちゃんが俺を見る。感じが良い人だなと思った。

「今日……購買中止なんですか……?」

 中止、と書いてあるのに頭の悪い質問をしてしまったと思ったが、おばちゃんは大袈裟に申し訳なさそうな表情を作り、俺の質問に答えてくれた。

「そうなのよー! 担当の岩崎さんが急に風邪引いちゃったみたいで……! 学食は開いてるから良かったら食べに来てね」

 風邪……流行っているんだろうか。

「そうなんですね……」

 俺の落胆ぶりに勘違いしたおばちゃんは「あ、明日は開けられるようにするから! ね!」と励ましてくれた。
 購買が閉まっていることよりも、寧ろこの後どうしようと考えていた俺は、え、あ、はい……と生返事してとりあえずその場から移動した。

 さてどうするか。

 順調に進んでいた俺のパシリ生活は突然のトラブルによって窮地に立たされた。しかも、よりにもよって翔が休みの今日に。
 こればかりは仕方がない。トキに事情を説明して、俺のパンを渡すか、もしくは学食で済ませて貰おうと思った矢先、後ろから腕を引かれた。

「千秋先輩!」

 弾んだ声がする。
 振り返るとニコニコした顔のトキが俺を見下ろしていた。
 不意打ちの至近距離に無意識に一歩後ずさる。

「あ…………トキ……」

 まだ心の準備が出来ていない。掠れた声で名前を呼ぶのがやっとで、直ぐに視線を逸らす。

「あ…………急にごめんなさい」

 そう言いながら、今度はトキの方から距離を空けてくれた。

「いや、大丈夫……、それよりさ、今日、購買中止みたいで……」
「え、そうなんですか……?」
「うん。だから代わりに俺のパン食べるか学食に行くか……」

 出来れば後者にしてくれと願いながら提案する。

「俺が先輩のパンを食べちゃったら先輩困りますよね……?」
「え、あーそうだな……」

 トキの想像以上のまともな反応に不意打ちを喰らう。あまりのまともな思考具合に、保健室で会った時のトキは別人なんじゃないかとすら思う。
 トキは少し悩むように小さい声を出した。

「学食行きませんか?」
「あ、学食でいい──ん?」
「先輩の分も俺が払いますから」
「いや、俺は自分のパンがあるから!」
「もしかして、向田先輩が待ってたりしますか……?」
「翔? 翔は今日休みだから……」
「じゃあご馳走させてください! いつもお世話になってるので」

 今日のトキはやけに押しが強い上に声のトーンが高い。俺のトラブルの元凶だと忘れてしまいそうなほどに人懐っこい態度に断りづらい気分になってくる。

「分かった……けど、お金は自分で払うから」

 流石に後輩に奢ってもらうなんて、先輩と呼ばれている立場上プライドが許さない。残ったパンは明日にでも回せばいいか、と考えながら、付かず離れずの距離で学食を目指す。

「向田先輩とはいつからの付き合いなんですか?」

 世間話のネタも浮かばず、結局だんまりで歩いていると、不意にトキが口を開いた。
 翔のことを聞かれるとは思わず、聞き返してしまった。

「向田先輩と仲良いからいつからの付き合いなのかと思って。あ、なにか気に障ったなら……」

 変な誤解をし始めたトキの言葉を遮る。

「いや、翔のこと聞かれると思ってなくて驚いただけだから。翔とは小学生の頃からの付き合いだな。丁度、俺たちが小学校に入学するタイミングで隣に引越してきて」
「随分長い付き合いなんですね……」
「まぁ、そうだな」
「でも俺の方が長い」
「え?」
「いや、なんでもないです」

 急に声を落としてトキが何かを言ったが聞き取れなかった。
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