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心の準備
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「伊呂波! ただいま!」
朝陽は大急ぎで自宅のドアを開けた。
廊下の先から可愛いらしい幼い伊呂波の顔が覗き、仕事の疲れが一気に吹き飛んでいくのを感じた。
顔は見せてくれるが、子ども姿をあまり見られたくないのか、中々近付いてきてくれない。そんなところも可愛くて堪らなくなる。
一分一秒でも伊呂波と離れ難く、有り余った有給を振り絞って仕事を休もうとしたところ、伊呂波に反対された。
朝陽の日常を壊してまで一緒にいて欲しいとは思わない、とはっきりと言われてしまえば従う他ない。
会社の飲み会に行かないで欲しいと言った伊呂波はもう存在しないらしく、朝陽はいつも通りでいて欲しいと懇願された。
今なにかを自分がお願いすれば、朝陽は何ふり構わずそれを優先してしまうだろうと考えたのだろう。朝陽に負担をかけたくないという伊呂波の思いは痛いほど感じた。
しかし、朝陽もここは譲れない。もう既に朝陽の最優先事項は伊呂波になってしまっている。なんとしても伊呂波の存在を消させないためになんだってやる覚悟でいる。
「伊呂波、ちょっとこっちに来て」
朝陽は伊呂波を手招きすると、思い切り抱きしめた。華奢な身体が朝陽の腕にすっぽりと収まる。片手で背中をさすり、もう片方の手で後頭部を撫でる。
「充電、じゅーでん」
「朝陽っ……!」
「元気出た?」
「…………でた」
伊呂波の話によると、朝陽に触れていると消失の苦しみが和らぐらしい。今まで伊呂波が朝陽と一緒に寝たがったり、朝陽の痕跡に執着するのは、そういうことだったのだろう。しかしそういう理由があるのなら、言ってくれればいいのに、と思う。『決まりごと』まで作って拒否し続けた朝陽が鬼のようではないか。
聞いた直後には色々複雑な思いが湧いた朝陽だったが、明確な目標が出来てやる気を出した。
それが、常に伊呂波に触れていることだった。
「伊呂波、一日変わったことなかった? 体調は大丈夫? なにかして欲しいことない?」
聞きたいことが多すぎてどうしても質問過多になる。伊呂波が子どもの姿のままということもあり、完全にお留守番していた子どもに語りかけるようになってしまう。
膝立ちで伊呂波に目線を合わせると、笑顔で頭を撫でる。伊呂波は少し不服そうな顔をしたが、朝陽の手が気持ちいいのかされるがままになっていた。
「朝陽は……? 大丈夫?」
「あたし? 大丈夫だよ!」
伊呂波は上目遣いでそう聞いてくる。
正直、可愛くて仕方がない。抱きしめたくなる衝動を抑えて、自我を保つ。
伊呂波は真面目に朝陽の心配をしているのだ。ここで茶化すのはよくない。
「あ、そうだ! 今日から一緒に寝ようね!」
「え……ええええ!?」
「だってその方がいいでしょ?」
伊呂波の体調を考えての提案だったが、想像以上に驚かれてしまった。そんなにおかしなことを言ってしまったのかと首を捻る。
「こ、心の準備が…………」
「心の準備? 大丈夫だよ、あたし寝相良い方だし!」
「そういうことじゃなくて……その、色々と…………」
「嫌?」
「嫌じゃない!」
「じゃあ決まり!」
間髪入れずに前のめりでそう答えた伊呂波は、言った後から後悔するような表情をした。
しかし朝陽は上機嫌で夕飯の準備をしに、足取り軽く台所へと向かっていった。
***
朝陽は自室に敷いた布団を眺め、うーんと唸った。
「もしかして、布団一枚じゃ狭い……?」
一人で寝ているときには気にならなかったが、伊呂波に窮屈な思いをさせてしまうかもしれないと思うと、急に不安になってくる。
「でも、親子ってある程度の年齢まで一緒に寝るだろうし、大丈夫かな」
「僕たち親子じゃないんだけど」
朝陽の独り言にふすまの隙間から声がした。少しだけ開いている空間から伊呂波がこちらを見ていた。
「伊呂波、来てるなら言ってよ。そんなところでなにしてるの?」
「心の準備……」
朝陽はおいで、おいで、と布団を叩いた。
伊呂波は覚悟を決めたような顔でゆっくりとふすまを開け、朝陽の部屋に入ってきた。
しかし、布団から離れたところで止まってしまい、動かなくなってしまった。
「伊呂波? あたしもう寝たいんだけど」
「分かってる、けど……」
「伊呂波から来ないからこっちから行くよ」
朝陽は大股で伊呂波に近付くと、軽々と抱き上げ、布団まで連れてきた。伊呂波は抗議の声を上げるが、朝陽は全く気にしない。
「あ、朝陽……!」
「文句があるなら自分から来てよ」
朝陽の物言いに伊呂波は頬を膨らませた。
「恥ずかしいって言ってたの、朝陽の方じゃないか……」
「なにか言った?」
「なにも!」
伊呂波はやけくそ気味に返事をすると、先に横になった朝陽に倣い隣に腰を下ろした。朝陽は横向きになり、伊呂波と向かい合うように体勢を変えた。至近距離で見つめ合うような形になり、少しだけ緊張感のある空気が二人を包んだ。しかしそれは一瞬のことで、朝陽は伊呂波に更に密着した。
手を伸ばして伊呂波の髪を触る。スルスルと指の隙間から溢れる感触は何度触っても心地良い。子どもになったせいなのか、少しだけ柔らかくなった髪の毛は、朝陽の手を離れ、枕の上に広がった。
「もう、寝よ?」
うつらうつらとし始めた朝陽は間伸びした声で伊呂波を誘った。三日間、ろくな睡眠も取らずに伊呂波を探し続け、その後仕事をして帰ってきたのだ。張っていた気が緩んで眠気が一気に襲ってくる。
「伊呂波……」
名前を呼びながら小さな手を握る。安心させるためなのか、はたまた自分が安心するためなのか、分からないまま朝陽は夢の中に落ちていった。
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