11 / 33
一瞬の
しおりを挟むようやく実家の傍まで来れた。時間はそろそろ二十三時になろうとしている。
住宅街とはいえ、実家の周りも街灯が少なく薄暗い。しかもこの時間になると帰りを急ぐサラリーマンを時折見かけるだけで人通りもまばらだった。よく見れば空き家も多い。昔よりも過疎化が進んでいる話を母親から聞いてはいたが、思ったよりも深刻らしい。
もしここで不審者に出会っても助けを求めに行けないな、と思う。
しかし、朝陽は通学に使っていた見慣れた道を歩いていたために、完全に気が緩み切っていた。夜道だということも忘れ、早歩きに疲れてだらだらと歩く。あと少しで実感が見えてくる。
それにしても、と朝陽は苦々しく顔を歪めた。
今思い返しても今日の送別会は最悪だった。人の目など気にせずに断ればよかったと思うが、おそらくまたこのようなことがあっても断れないだろうなと思う。
自分のことなのにままならない。
誰も聞いていないだろうと朝陽は大きなため息をついた。するとタイミングはかったかのように道の横わきにある公園の中から突然名前を呼ばれた。
「朝陽!」
知り合いかと思い、足を止める。
ブランコと滑り台だけの小さな公園から出てきたのは倉島だった。途端に全身の血の気が引いていく。
「え、倉島さん……」
「やっと来た! 待ちくたびれたよー」
「なんで名前……、ていうかなんでここ……」
恐怖で声が詰まりながらもなんとか質問する。倉島はにこやかに近付いてきた。
「はは、質問が多いな! 朝陽って可愛い名前だなって思ってて。ずっと呼びたかったんだよね」
朝陽の反応を窺うようにちらちらと視線を向けてくる。倉島がこちらを見るたびに吐き気のような嫌悪感がせり上がってきた。親しくもない男にいきなり名前を呼ばれ、しかもずっと呼びたかったととどめも刺された。嫌悪感を抱かない方が無理だろう。
「俺のことも祐樹って呼んで」
恐怖で動けない朝陽に倉島は肯定してもらえたと勘違いしたのか、更に親しげに話しかけてきた。
途端に過去の映像がフラッシュバックした。
伊呂波に、呼び捨てで呼んで、と言われたとき、こんなにも恐怖を感じただろうか。全身に鳥肌が立って倒れてしまいそうになっただろうか。
思い出を上書きされたような気持ちに、悔しくなって涙が出てくる。
「そんなに嬉しかったの?」
どこまでポジティブなんだこいつは。
もういっそ恥も外聞も捨てて殴りかかってやろうかと思う。しかし、誰も助けてくれない状況で逆上させても困る。どうしたって力は朝陽の方が下で、暴力を振るわれたら逃れる術はない。
「いやー、そんなに喜んでもらえるなら待ってた甲斐があったよ。ほら、前にこの辺に住んでるって言ってたでしょ。それ思い出してさ」
前に、世間話のつもりで出身校の話をした。ここ、わたしの地元なんですよ、と。それからこの公園の話もした。よく学校帰りに友達と遊んでいた、程度の話題だったが。
過去の自分の迂闊さに唇を噛んだ。
じりじりと距離を詰めてきた倉島を避ける様に身体を引いていると背中がフェンスにぶつかった。
あ、と思った時にはもう遅い。倉島は朝陽の退路を断つように目の前に立ちはだかった。
「倉島さん、あの」
なんとか空気を変えようと声を出す。しかし倉島は朝陽の言葉なんて一つも聞いていない。
「祐樹って呼んでってば」
嫌だ、
気持ち悪い。
「ねぇ、呼んでよ」
倉島の酔いはまだ醒めていないのか、しつこく迫ってくる。ここで断ればなにをされるか分からないという恐怖で足が震える。
朝陽は口を開いた。
たかだか名前を呼ぶだけだ。満足したら帰ってくれるかもしれない。そんな微かな希望に賭けるしかないほど朝陽の心は追い詰められていた。
「ゆ──」
言いかけた言葉は冷たい手に遮られた。次の瞬間には大きな手に優しく引き寄せられて、抱きしめられる。
「は? お前、誰?」
あからさまに倉島の表情に怒りの色が現れる。しかし先ほどまでの朝陽に対する強引な態度は影を潜めた。
不意に優しい花の香りがした。
朝陽は確信を持って自分を抱き寄せている人物を見上げた。
「っ、いろは」
途端にまた涙がこぼれ出す。先ほどとは違う、安堵の涙だ。
「伊呂波、伊呂波」
何回も名前を呼ぶ。
「気をつけてって言ったのに」
優しい声でそう言われ、涙が止まらなくなってくる。伊呂波が優しく涙を拭ってくれるが収拾がつかない。
朝陽は伊呂波の胸に顔を埋め思い切り泣きだした。
「ってか朝陽から離れろよ」
自分より背の高い伊呂波に一瞬弱腰になった倉島だったが、気を取り直して突っかかってくる。
ここまで面倒くさい男だとは思っていなかった。
「朝陽って呼ぶな」
「はぁ? なんでだよ」
「朝陽は僕の妻だから」
伊呂波の突然の発言に倉島は固まった。それもそうだろう、朝陽が既婚者だなんて誰も知らない。そもそも正式な婚姻関係ではないため、人間の世界では朝陽は独身だ。
「妻って……、そんな嘘通用するかよ!」
馬鹿にされたと感じたのか、倉島の怒りのボルテージは最高潮になった。今にも掴みかかって来そうな勢いで一歩踏み出す。
「本当だよ」
伊呂波は静かに怒ったような声を出すとゆっくりと屈んだ。
見惚れるくらい綺麗な指先が朝陽の顎を優しくすくって上を向かせた。
そのまま伊呂波の顔が近付く。
微かに触れた気がした。
周りの音全部が掻き消えた。今起こったことが信じられなくて瞬きをする。
一瞬で伊呂波の顔は離れていってしまった。伊呂波の表情は見えない。
「朝陽は僕のものだから」
今時中学生でももう少しまともなキスをすると思う。
しかし、キスとも言えないような微かな触れ合いは、朝陽の心を動揺させるには充分だった。
「どういうことだよ!」
あんな子供だましのキスでも酔った倉島には効果があったらしい。裏切られたと思ったのか、怒りの矛先は朝陽に向かい始めた。
「社内恋愛は嫌だっていうから退職までしたのに!」
え、なんの話?
事情が飲みこめない朝陽に倉島は更に暴言を吐き続ける。
「お前が言ったんだろうが! 社内恋愛は嫌ですねって。だからわざわざ俺が退職してやったのに、結婚してただと!? いい加減にしろよ!」
あ、と朝陽は思い出した。
倉島がやたらと構ってくるので牽制のつもりでそんな話をしたことがあった。社内恋愛はしたくない、ではなく、お前とは恋愛するつもりはないぞという意味だったが、歪曲されてとられたらしい。なあなあで流してきたツケが回ってきてしまったと後悔した。
「ふざけんなよ、このビッチ!」
吐き捨てるような言葉を最後に、急に倉島は倒れこんだ。
突然の出来事に朝陽は急いで倉島に駆け寄ろうとした。が、伊呂波に手で制された。
伊呂波の方を見ると、なにやら呪文を唱えている。
「あ……」
「ごめん、朝陽を馬鹿にされたような気がして、つい」
ビッチという言葉を伊呂波が知らなかった事実になぜか安堵した。
「ううん、ありがとう」
「本当は人間に干渉しちゃいけないんだけど、数時間で目が覚めるし、その……」
あんなに頼りになる姿を見せたのに、すぐにいつもの伊呂波に戻る。そんなところも安心する。いつの間にか身体の震えは止まっていた。
「分かった。この件は二人だけの秘密ね」
「うん」
伊呂波は安堵したように息を吐いた。 そしておもむろに朝陽の手を握った。
先程の微かなキスの動揺が冷めていないのにも関わらずまた触れられて顔が熱くなる。
「家に帰ろう」
優しい声にまた涙が出そうになる。朝陽は全力で涙を堪えると伊呂波の手を強く握り返した。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。
因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。
そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。
彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。
晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。
それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
そんなにその方が気になるなら、どうぞずっと一緒にいて下さい。私は二度とあなたとは関わりませんので……。
しげむろ ゆうき
恋愛
男爵令嬢と仲良くする婚約者に、何度注意しても聞いてくれない
そして、ある日、婚約者のある言葉を聞き、私はつい言ってしまうのだった
全五話
※ホラー無し
私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?
新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。
※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!
私が死んだあとの世界で
もちもち太郎
恋愛
婚約破棄をされ断罪された公爵令嬢のマリーが死んだ。
初めはみんな喜んでいたが、時が経つにつれマリーの重要さに気づいて後悔する。
だが、もう遅い。なんてったって、私を断罪したのはあなた達なのですから。
【完結】伯爵の愛は狂い咲く
白雨 音
恋愛
十八歳になったアリシアは、兄の友人男爵子息のエリックに告白され、婚約した。
実家の商家を手伝い、友人にも恵まれ、アリシアの人生は充実し、順風満帆だった。
だが、町のカーニバルの夜、それを脅かす出来事が起こった。
仮面の男が「見つけた、エリーズ!」と、アリシアに熱く口付けたのだ!
そこから、アリシアの運命の歯車は狂い始めていく。
両親からエリックとの婚約を解消し、年の離れた伯爵に嫁ぐ様に勧められてしまう。
「結婚は愛した人とします!」と抗うアリシアだが、運命は彼女を嘲笑い、
その渦に巻き込んでいくのだった…
アリシアを恋人の生まれ変わりと信じる伯爵の執愛。
異世界恋愛、短編:本編(アリシア視点)前日譚(ユーグ視点)
《完結しました》
五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
目覚めたら公爵夫人でしたが夫に冷遇されているようです
MIRICO
恋愛
フィオナは没落寸前のブルイエ家の長女。体調が悪く早めに眠ったら、目が覚めた時、夫のいる公爵夫人セレスティーヌになっていた。
しかし、夫のクラウディオは、妻に冷たく視線を合わせようともしない。
フィオナはセレスティーヌの体を乗っ取ったことをクラウディオに気付かれまいと会う回数を減らし、セレスティーヌの体に入ってしまった原因を探そうとするが、原因が分からぬままセレスティーヌの姉の子がやってきて世話をすることに。
クラウディオはいつもと違う様子のセレスティーヌが気になり始めて……。
ざまあ系ではありません。恋愛中心でもないです。事件中心軽く恋愛くらいです。
番外編は暗い話がありますので、苦手な方はお気を付けください。
ご感想ありがとうございます!!
誤字脱字等もお知らせくださりありがとうございます。順次修正させていただきます。
小説家になろう様に掲載済みです。
私は既にフラれましたので。
椎茸
恋愛
子爵令嬢ルフェルニア・シラーは、国一番の美貌を持つ幼馴染の公爵令息ユリウス・ミネルウァへの想いを断ち切るため、告白をする。ルフェルニアは、予想どおりフラれると、元来の深く悩まない性格ゆえか、気持ちを切り替えて、仕事と婚活に邁進しようとする。一方、仕事一筋で自身の感情にも恋愛事情にも疎かったユリウスは、ずっと一緒に居てくれたルフェルニアに距離を置かれたことで、感情の蓋が外れてルフェルニアの言動に一喜一憂するように…?
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる