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一瞬の

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 ようやく実家の傍まで来れた。時間はそろそろ二十三時になろうとしている。
 住宅街とはいえ、実家の周りも街灯が少なく薄暗い。しかもこの時間になると帰りを急ぐサラリーマンを時折見かけるだけで人通りもまばらだった。よく見れば空き家も多い。昔よりも過疎化が進んでいる話を母親から聞いてはいたが、思ったよりも深刻らしい。
 もしここで不審者に出会っても助けを求めに行けないな、と思う。

 しかし、朝陽は通学に使っていた見慣れた道を歩いていたために、完全に気が緩み切っていた。夜道だということも忘れ、早歩きに疲れてだらだらと歩く。あと少しで実感が見えてくる。

 それにしても、と朝陽は苦々しく顔を歪めた。
 今思い返しても今日の送別会は最悪だった。人の目など気にせずに断ればよかったと思うが、おそらくまたこのようなことがあっても断れないだろうなと思う。

 自分のことなのにままならない。
 
 誰も聞いていないだろうと朝陽は大きなため息をついた。するとタイミングはかったかのように道の横わきにある公園の中から突然名前を呼ばれた。

「朝陽!」

 知り合いかと思い、足を止める。
 ブランコと滑り台だけの小さな公園から出てきたのは倉島だった。途端に全身の血の気が引いていく。

「え、倉島さん……」
「やっと来た! 待ちくたびれたよー」
「なんで名前……、ていうかなんでここ……」

 恐怖で声が詰まりながらもなんとか質問する。倉島はにこやかに近付いてきた。

「はは、質問が多いな! 朝陽って可愛い名前だなって思ってて。ずっと呼びたかったんだよね」

 朝陽の反応を窺うようにちらちらと視線を向けてくる。倉島がこちらを見るたびに吐き気のような嫌悪感がせり上がってきた。親しくもない男にいきなり名前を呼ばれ、しかもずっと呼びたかったととどめも刺された。嫌悪感を抱かない方が無理だろう。

「俺のことも祐樹って呼んで」

 恐怖で動けない朝陽に倉島は肯定してもらえたと勘違いしたのか、更に親しげに話しかけてきた。
 途端に過去の映像がフラッシュバックした。
 伊呂波に、呼び捨てで呼んで、と言われたとき、こんなにも恐怖を感じただろうか。全身に鳥肌が立って倒れてしまいそうになっただろうか。

 思い出を上書きされたような気持ちに、悔しくなって涙が出てくる。

「そんなに嬉しかったの?」

 どこまでポジティブなんだこいつは。
 もういっそ恥も外聞も捨てて殴りかかってやろうかと思う。しかし、誰も助けてくれない状況で逆上させても困る。どうしたって力は朝陽の方が下で、暴力を振るわれたら逃れる術はない。

「いやー、そんなに喜んでもらえるなら待ってた甲斐があったよ。ほら、前にこの辺に住んでるって言ってたでしょ。それ思い出してさ」

 前に、世間話のつもりで出身校の話をした。ここ、わたしの地元なんですよ、と。それからこの公園の話もした。よく学校帰りに友達と遊んでいた、程度の話題だったが。
 過去の自分の迂闊さに唇を噛んだ。

 じりじりと距離を詰めてきた倉島を避ける様に身体を引いていると背中がフェンスにぶつかった。
 あ、と思った時にはもう遅い。倉島は朝陽の退路を断つように目の前に立ちはだかった。

「倉島さん、あの」

なんとか空気を変えようと声を出す。しかし倉島は朝陽の言葉なんて一つも聞いていない。

「祐樹って呼んでってば」

 嫌だ、
 気持ち悪い。

「ねぇ、呼んでよ」

 倉島の酔いはまだ醒めていないのか、しつこく迫ってくる。ここで断ればなにをされるか分からないという恐怖で足が震える。
 朝陽は口を開いた。
 たかだか名前を呼ぶだけだ。満足したら帰ってくれるかもしれない。そんな微かな希望に賭けるしかないほど朝陽の心は追い詰められていた。

「ゆ──」

 言いかけた言葉は冷たい手に遮られた。次の瞬間には大きな手に優しく引き寄せられて、抱きしめられる。

「は? お前、誰?」

 あからさまに倉島の表情に怒りの色が現れる。しかし先ほどまでの朝陽に対する強引な態度は影を潜めた。

 不意に優しい花の香りがした。
 朝陽は確信を持って自分を抱き寄せている人物を見上げた。

「っ、いろは」

 途端にまた涙がこぼれ出す。先ほどとは違う、安堵の涙だ。

「伊呂波、伊呂波」

 何回も名前を呼ぶ。

「気をつけてって言ったのに」

 優しい声でそう言われ、涙が止まらなくなってくる。伊呂波が優しく涙を拭ってくれるが収拾がつかない。
 朝陽は伊呂波の胸に顔を埋め思い切り泣きだした。

「ってか朝陽から離れろよ」

 自分より背の高い伊呂波に一瞬弱腰になった倉島だったが、気を取り直して突っかかってくる。
 ここまで面倒くさい男だとは思っていなかった。

「朝陽って呼ぶな」
「はぁ? なんでだよ」
「朝陽は僕の妻だから」

 伊呂波の突然の発言に倉島は固まった。それもそうだろう、朝陽が既婚者だなんて誰も知らない。そもそも正式な婚姻関係ではないため、人間の世界では朝陽は独身だ。

「妻って……、そんな嘘通用するかよ!」

 馬鹿にされたと感じたのか、倉島の怒りのボルテージは最高潮になった。今にも掴みかかって来そうな勢いで一歩踏み出す。

「本当だよ」

 伊呂波は静かに怒ったような声を出すとゆっくりと屈んだ。
 見惚れるくらい綺麗な指先が朝陽の顎を優しくすくって上を向かせた。            
 そのまま伊呂波の顔が近付く。

 微かに触れた気がした。

 周りの音全部が掻き消えた。今起こったことが信じられなくて瞬きをする。
 一瞬で伊呂波の顔は離れていってしまった。伊呂波の表情は見えない。

「朝陽は僕のものだから」

 今時中学生でももう少しまともなキスをすると思う。
 しかし、キスとも言えないような微かな触れ合いは、朝陽の心を動揺させるには充分だった。

「どういうことだよ!」

 あんな子供だましのキスでも酔った倉島には効果があったらしい。裏切られたと思ったのか、怒りの矛先は朝陽に向かい始めた。

「社内恋愛は嫌だっていうから退職までしたのに!」

 え、なんの話?

 事情が飲みこめない朝陽に倉島は更に暴言を吐き続ける。

「お前が言ったんだろうが! 社内恋愛は嫌ですねって。だからわざわざ俺が退職してやったのに、結婚してただと!? いい加減にしろよ!」

 あ、と朝陽は思い出した。
 倉島がやたらと構ってくるので牽制のつもりでそんな話をしたことがあった。社内恋愛はしたくない、ではなく、お前とは恋愛するつもりはないぞという意味だったが、歪曲されてとられたらしい。なあなあで流してきたツケが回ってきてしまったと後悔した。

「ふざけんなよ、このビッチ!」

 吐き捨てるような言葉を最後に、急に倉島は倒れこんだ。
 突然の出来事に朝陽は急いで倉島に駆け寄ろうとした。が、伊呂波に手で制された。
 伊呂波の方を見ると、なにやら呪文を唱えている。

「あ……」
「ごめん、朝陽を馬鹿にされたような気がして、つい」

 ビッチという言葉を伊呂波が知らなかった事実になぜか安堵した。

「ううん、ありがとう」
「本当は人間に干渉しちゃいけないんだけど、数時間で目が覚めるし、その……」

 あんなに頼りになる姿を見せたのに、すぐにいつもの伊呂波に戻る。そんなところも安心する。いつの間にか身体の震えは止まっていた。

「分かった。この件は二人だけの秘密ね」
「うん」

 伊呂波は安堵したように息を吐いた。  そしておもむろに朝陽の手を握った。
 先程の微かなキスの動揺が冷めていないのにも関わらずまた触れられて顔が熱くなる。

「家に帰ろう」

 優しい声にまた涙が出そうになる。朝陽は全力で涙を堪えると伊呂波の手を強く握り返した。
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