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丑三つ時
しおりを挟む怒涛の初日が終わろうとしている。
俺は掃除道具を持ちながらふらふらと誰もいない廊下を歩いていた。
時刻は午前二時。所謂丑三つ時だ。
いきなり始まってしまった昼夜逆転生活にげっそりとしながら窓の外を見る。外はとっくの昔に闇に包まれていて、敷地内に植っている木々以外は何も見えなかった。
今日、というよりこの世界に来てからやけに時間が濃いような気がした。多分気のせいではないのだろう。こんな生活に慣れる日が来るんだろうかと考えるが、人間意外とやれば出来るということを俺は知っている。
今はただ、一刻も早く布団に潜り込みたいと思いながら、余計なことを考えないように脚を動かした。
あの事件の後、俺は何故かニコラと一緒に汚れた部屋の掃除を命じられた。完全にとばっちりだったが、ニコラ一人で片付く量ではないと思い渋々了承した。
二人で文句を言いながら片付けを始める。大体がニコラの文句に俺が相槌を打つかたちだったが、それはそれで退屈しなかった。
ニコラが言うには、あの暴れた客はそこそこ羽振りは良い方だが、いつもあんな感じで情緒が不安定らしい。だから、普段使われていないこの部屋をいつもあてがわれていると言っていた。ここまで暴れたのは初めてで、いつもはもっと上手くやるのに、よりにもよって今日のトラブルを俺に見られたことが恥ずかしいと愚痴っていた。
ここがVIPルームだと思っていた俺は、この部屋がまさかの隔離部屋だったと知って思わず笑ってしまった。
俺を巻き込んだ後ろめたさがあったのか、ニコラの俺に対する態度は急に軟化して、まるで気のいい友人と喋るような気軽な関係になった。
それが少しだけ嬉しくて、面倒臭いだけのはずの掃除もなんだか楽しく思えた。
ニコラと話していくうちに色々なことが分かった。
年は俺より一つ下の十八歳り生まれも育ちもこの色町で町の外には出たことがないと言っていた。親は早くに亡くしており、この見世に拾われて育てられた。だから感謝しているが、いつかは外の世界を見てみたいと瞳を輝かせた。
ニコラは心を開いて色々なことを話してくれたのに、自分からは何も言い出せずモヤモヤが募った。だから、一つだけ本当のことを教えた。
「俺も両親がいなくて、引き取られた場所に育てて貰ったんだ」
そう言うと、仲間意識からなのか、ニコラは俺の肩に腕を回し、おんなじだな、と笑った。
そんなたわいもない、しかしどこか心が落ち着く時間を過ごしていると、階段の下からニコラを呼ぶ声が聞こえてきた。
「あ、悪い。馴染みが来たみたいだ」
「あー、もうそろそろ終わりだし、行って大丈夫だよ。俺一人で片付けておく」
「今度埋め合わせするから!」
そう言いながら、ニコラは手のひらを合わせ申し訳なさそうに階段を降りていった。
ニコラの足音が消えるまで耳を傾け、少し残っていた掃除を終えると急に力が抜けてしまった。床に座り込むと大きく息を吐いた。
断じてこれはため息ではない。やり切ったという意味のガス抜きだ。
俺はしばらくぼーっと穴の空いた障子紙を眺め、もう一踏ん張りだと気合を入れて立ち上がった。
裏庭にある納屋から持ってきたと言っていた掃除道具を返すために両手に持ち、階段を降り始めた。
確か、俺の部屋の斜め向かいにある灯籠の側に納屋のような建物があると言っていた。夕方、例の一件で外に出た時はそんなものがあると分からなかったが、あの時はそれどころではなかったので確認がてら外を覗いてみる。
ニコラの言った通り、俺の部屋から数メートル離れた所に小さな納屋があった。木でできたそれは今にも崩れ落ちそうで、扉を開けただけで壊れてしまいそうだった。
俺は意を決して庭に出た。今度はしっかりと草履を履き、周囲に何かいないか確認しながら足早に納屋に近づく。一日の間に二回も襲われたとなればたぶん三回目も平気で起こりうる。出来れば外に出たくはなかったが、他に頼める人もいないので仕方がない。
部屋に一旦置いておいて、朝になってから返しに来ればいいのだと気付いたのは納屋の前に立った時だった。
手早く扉を開け、投げ込むように掃除道具を仕舞うと、小走りで部屋まで戻ろうとした。
しかし。
鯉が大きく跳ねた水の音にびっくりして振り返る。すると、そこには楼主が一人、池の淵にしゃがみ込み鯉に餌をやっていた。
「うわ!」
相変わらず神出鬼没で心臓に悪い。俺が出した叫び声に反応を示すことなく、ただ泳ぐ鯉を見つめている。
(俺に用があったわけじゃないのか……)
ここには俺しかいないため、もしかしたら自分に用があるのかもしれないと思った。
しかし、よく考えてみればこの大見世の楼主が一従業員の俺に用がある訳もなく、単なる俺の考え過ぎだと流すことにした。
俺はお礼だけ言ってすぐに立ち去ろうと池に向かって歩き出した。俺の足音が近付いても楼主は俺のことを見ようともしない。なんだか居ないものとして扱われているようで、その徹底ぶりが不気味に映った。
それでも今お礼を言わなければもうこの先機会はないのかもしれないと思うと勇気を出すしかなかった。
「あの、」
控えめに声をかけると、意外なことに楼主は一回で俺のことを見た。てっきり無視されると思っていたため、次に続く言葉を考えていなかった。
焦った俺が吃りながら言葉を探していると、楼主は首を傾げて目を細めた。今日は前髪を掻き上げておらず、少しだけ幼い印象だったが、相変わらず金色の瞳には近寄りがたさを感じた。
「さっきは……助けてくれてありがとうございました……」
言ってから、これだとどっちに対するお礼か分からないなと思った。よく考えてみれば、俺は楼主に二回助けられている。アレに襲われた時と、ニコラの客に絡まれた時。初めの記憶が強烈過ぎて、すっかり忘れていた。
「別に、ただのお返し」
返事が返ってくるとは思わなかった。しかも、言葉の意味が分からない。それだけ言うと、楼主はまた口を閉ざしてしまった。
「お返し……?」
返して貰えるような何かをした覚えは無い。
「亜莉寿」
いきなり名前を呼ばれ背筋が伸びる。
なんで名前を知っているのかと不審に思ったが、そういえば署名として自分から書いたことを思い出す。しかし、なんの前振りもなく名前を呼ばれるとは思わず、緊張で心臓がうるさく動き始めた。
楼主は何故か悲しそうに見える月影を背負いながら、そっと目を伏せた。
「亜莉寿は僕に関わらない方がいい」
僕、という言葉に強烈な違和感を感じた。
勝手な思い込みかもしれないが、地下室で会った楼主は自分のことを僕と呼ぶような雰囲気じゃなかった。声を聞いたのはたった一言だったが、喋り方もここまで穏やかではなく、どちらというと粗暴なイメージだった。もしかしたら楼主によく似た双子なのかもしれないと思ったが、違う人間とはどうしても思えなかった。
「関わらない方がいいって、どういう──」
俺が言い終わる前に、楼主は俺に背を向けて歩き出してしまった。追いかけることもできず、かと言って直ぐにその場から立ち去ることもできず、一人残された俺は悠々と泳ぎつづける鯉を見つめた。
腹が満たされたせいなのか、鯉は俺に目もくれず俺を見捨てるように離れていってしまった。
「アリスー? そこで何してるの?」
「シャロニカさん……?」
声のする方を振り返ると、シャロニカさんが裏庭に面した渡り廊下からこちらを見ていた。
「そんなところにいて寒くないの?」
言われて初めて寒さに気づく。俺は肩を窄めながらシャロニカさんに駆け寄った。
「シャロニカさんは……仕事終わったんですか?」
「ううん。お客様が寝ちゃったから……ちょっと気分転換に抜け出してきちゃった。あの人、一回寝たら起きないから」
シャロニカさんはまるで悪戯をする子どものような顔でそう言って笑った。その笑顔にホッとしたが、横から吹きつけてきた冷たい風が今の状況を思い出させた。
「あ、こんなところで話し込んでたら危ないですよね」
「? なんで?」
「なんでって……アレに襲われるかもしれないじゃないですか」
焦る俺に対し、シャロニカさんはのんびりと構えている。そこに違和感を覚えてすぐ、シャロニカさんはふふ、と小さく笑った。
「この建物の敷地内は安全よ。夜柯様が守ってくれてるから」
「え……?」
「理由は私もよくは知らないんだけどね」
確かに、俺が襲われたのは二回とも敷地の外だった。そして一回は楼主に助けてもらっている。それだけで詳しい理由は分からなくても、なんとなく納得してしまう自分がいる。
「そうなんですか……」
「うん。でも、もうそろそろ部屋に戻った方がいいかもね。このままここにいたら風邪ひいちゃうわ」
シャロニカさんはにっこり笑って部屋に戻るように促した。俺は小さく会釈をして足早に自分の部屋へと戻った。
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