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出会い
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逢魔時。昼と夜が混ざり合う時間。
そんな時間に、俺はその音に気がついた。
シャロニカさんは仕事の準備、千宇音と虎弥太は勉強があるからと俺がいる部屋から去り、用意してもらった紙に雇用契約書を一筆認めていた時のこと。
カチカチという規則的な音が聞こえてきた。
今まで聞こえていたのかもしれないが、その音があまりにも身体に馴染み過ぎていて、音として認識していなかった。
俺は音がする方へ視線を向けた。
「…………時計?」
壁に掛けられた木でできた丸い時計。秒針が進む度、カチカチと機械的な音を出していた。形は元いた世界と同じだが、細いコードが壁に這っていて、その先に時計があった。おそらくあのコードは電気を通すものだと思うが、壁掛け時計に直接電気が流れているのがなんだか不思議だと思った。
「電池が無いのか……?」
大体の壁掛け時計は電池で動いていることが多い。もしくはソーラーという場合もある。昔はゼンマイ式だったかもしれない。しかし、電気を直接、というのは少なくても俺は見たことがない。
なんだかムズムズする。この世界に来た時から感じる違和感は、なんとなくこういう些細な所から出てきている気がしてくる。
町並みは時代劇のセットの様。それなのにネオンが光り、電気もある。現代と同じかと思えばそれには追い付いていない部分も多い。『ある』ものと『ない』ものの境界があやふやで、世界全体がチグハグだ。
この様子だと、もしかしたらスマホも当たり前のようにあるかもしれない。パソコンもネットも普及しているかもしれない。逆に警察は刀を振り回して、馬を乗り回しているかもしれないが。
俺はこの先何が現れても驚かないと心に決め、再び時計を見た。
「六時か……」
部屋の中は暗くなりつつあり、そろそろ灯りが必要だと思った。思ったところで自分にはどうすることも出来ず、ただ誰かが声を掛けてくれるのを待つしかない。
と、何やら賑やかな声が聞こえ始めた。シャロニカさんは十八時から営業が始まると言っていた。
丁度、今だ。
この賑やかな声は遊女たちの呼び込みや店にやって来た客の声なのだろう。人の声になんとなく感じていた寂しさが薄れる。すると、無性に声の方が気になり始める。堂々と姿を表すのはやめた方がいいだろうと思い、少しだけ様子を盗み見るために庭に通じる障子戸を開けた。すると、表通りの方から薄ぼんやりとした光が見えた。
俺が今いる部屋はどうやら横道に面しているらしい。ここに来て初めて外を見たが、その風景には見覚えがあった。
(あの池……)
おそらく、俺が落ちた池が部屋から見えた。思っていたより大きな池で、これまた大きな色とりどりの鯉が悠々と泳いでいた。俺がいきなり落ちてきて驚いただろう。怪我をさせていないといいなと思いながら視線を巡らせていると、ぽっかり空いた空間が目に入った。要するに、昨日俺が体当たりして壊した竹垣だ。
「うわ……」
昨夜は必死で分からなかったが、俺の身体丸々一人分ほどの竹が薙ぎ倒されており、裏庭が横道から丸見えになっていた。
(弁償……って、いくらかかるんだろ……)
全く予想ができない分、簡単に想像のキャパを超える。
建物自体は古いが手入れは丁寧にされている印象で、そこかしこから温かさを感じる。途方もない金額を請求されたとしても、頑張って返していくしかないだろうなと肩を落とす。
それ以前に本当にここで働いていけるのか、いずれは元の世界に戻れるのか、考えても分からないことが増え過ぎてもう持てる気がしない。
俺はため息を吐きそうになり慌てて吸い込んだ。ため息を吐くと幸せが逃げていくなんて本気で信じているわけではないが、今はやめておいた方が良いと思った。
「あれ……人……?」
気を取り直してまた俺が壊した竹垣を見ると、空いた穴を横切る人影が見えた。昨日見た化け物とは違い、はっきりと人の形をしていた。ただ、全体的に黒い印象で男か女かまでは分からなかった。
「危なくないのかな……?」
昨日自分が襲われたばかりの場所に人がいるのを見てしまうと途端に落ち着かない気分になってくる。
アレに襲われて大変だったね、とシャロニカさんは俺に言った。と、いうことはこの世界の住人にとってもアレは良いものではないということだ。それにアレに襲われると不幸なことが起きるとも言っていた。多分、前例を知っているのだろう。
なんとなく人影の行方が気になりつつ、だからと言って動き出すことも出来ずに外を眺め続ける。
すると、人影の後を追うかのように、ゆったりと動く黒い塊が通り過ぎるのが見えた。
「え……!?」
形は違う。しかし、はっきりと分かった。
あの人が危ない、そう思うよりも早く俺は部屋を飛び出した。裸足で裏庭を横切り池の端を飛び越える。敷き詰められていた砂利が足の裏に食い込む感覚がしたが不思議と痛いとは思わなかった。
自分が壊した竹垣をくぐり横道へと出る。覚悟を決めた見据えた道の先には、黒い着物を着た男の人が立っていた。
(え…………?)
あの化け物の姿は無い。
ただ表情までは分からない暗がりの中、男が自分のことを見ていた。
どうにかしようと勢いよく飛び出たため、髪はボサボサで下は裸足、竹垣をくぐる時に引っ掛けたのか着物の袖は糸がつっていた。これではどう見ても俺の方が不審者で、見ようによっては目の前の男のことを襲おうとしている強盗のようにも見える。
化け物から助けようと思ったのに、一瞬にして自分の心配をしなくてはいけなくなる。
「あっ、これは、その……!」
今、化け物が背後にいましたよ! で信じてもらえるだろうか。それとも、酔っ払いを装ってふらふらと千鳥足で退散する方が良いだろうか。
必死になって悩んでいると、急に背筋に悪寒が走った。
「許して……許さない……許す……ねぇ……ネェ……」
昨日と同じ臓器を弄られるような声が俺のすぐ後ろから聞こえる。
振り向いたらいけない。でもどうすれば。
俺の視線の先にいる男は動かない。助けて、と声を上げて巻き込んでしまうくらいなら犠牲は自分一人がいい。
せめて別れの挨拶はしたかったな、とシャロニカさん、それに千宇音と虎弥太の顔を思い浮かべる。
「逃げてください!」
俺は思い切り声を上げた。
目の前の男が僅かに首を傾げた。瞬間、ツプツブと不快な音を立てながら、耳の中に何かが侵入してきた。池の水じゃない、もっと重く、どろどろとした何かだ。脳みそを鷲掴みにされるような痛みに意識が遠くなってくる。
すると、男がようやく動き出した。俺の予想とは違い、ゆったりとした足取りでこちらに近づいてくる。俺の状況との温度差に、これは全部俺が見ている夢なのかもしれないと思った。
俺は倒れている俺を抱き起こすと、おもむろに耳に口を寄せた。何をするつもりなのかと問おうにも、もうそんな力は残っていない。俺が黙っていることをいいことに、男はそっと唇で俺の耳に触れた。
きっと、状況がここまで切迫していなかったら、情けないくらい高い声で悲鳴を上げていただろう。男はすぐに離れると、俺を雑に地面に放り投げた。
「痛!」
痛みと共に自分の声に驚く。
頭の痛みはすっかり消え去り、声も出るようになっていた。放り投げられたショックより、痛みが消えた喜びの方が大きく、思わず男を見る。
間近で見た男の顔は怖いほど美しく、それでいてやけに男性的だった。肩の高さで切り揃えられた黒い髪が揺れ、掻き上げられた前髪から逸れた一房がその動きに追従していた。その横にある月のような黄色い瞳が僅かに細められると、雲がかかったように暗くなった。
全体的に、どことなく生気を感じない澱んだ色を纏っていて、それがより一層俺を惹きつけた。俺だけじゃない、きっと、多くの人がこの色から逃れられないだろう。
男は無表情で立ち上がり、何事もなかったかのように、カラカラと下駄を鳴らしながら去っていった。
男は一度もこちらを振り返ることはなく、俺は男が見えなくなってしばらく経つまでその場を動くことが出来なかった。
そんな時間に、俺はその音に気がついた。
シャロニカさんは仕事の準備、千宇音と虎弥太は勉強があるからと俺がいる部屋から去り、用意してもらった紙に雇用契約書を一筆認めていた時のこと。
カチカチという規則的な音が聞こえてきた。
今まで聞こえていたのかもしれないが、その音があまりにも身体に馴染み過ぎていて、音として認識していなかった。
俺は音がする方へ視線を向けた。
「…………時計?」
壁に掛けられた木でできた丸い時計。秒針が進む度、カチカチと機械的な音を出していた。形は元いた世界と同じだが、細いコードが壁に這っていて、その先に時計があった。おそらくあのコードは電気を通すものだと思うが、壁掛け時計に直接電気が流れているのがなんだか不思議だと思った。
「電池が無いのか……?」
大体の壁掛け時計は電池で動いていることが多い。もしくはソーラーという場合もある。昔はゼンマイ式だったかもしれない。しかし、電気を直接、というのは少なくても俺は見たことがない。
なんだかムズムズする。この世界に来た時から感じる違和感は、なんとなくこういう些細な所から出てきている気がしてくる。
町並みは時代劇のセットの様。それなのにネオンが光り、電気もある。現代と同じかと思えばそれには追い付いていない部分も多い。『ある』ものと『ない』ものの境界があやふやで、世界全体がチグハグだ。
この様子だと、もしかしたらスマホも当たり前のようにあるかもしれない。パソコンもネットも普及しているかもしれない。逆に警察は刀を振り回して、馬を乗り回しているかもしれないが。
俺はこの先何が現れても驚かないと心に決め、再び時計を見た。
「六時か……」
部屋の中は暗くなりつつあり、そろそろ灯りが必要だと思った。思ったところで自分にはどうすることも出来ず、ただ誰かが声を掛けてくれるのを待つしかない。
と、何やら賑やかな声が聞こえ始めた。シャロニカさんは十八時から営業が始まると言っていた。
丁度、今だ。
この賑やかな声は遊女たちの呼び込みや店にやって来た客の声なのだろう。人の声になんとなく感じていた寂しさが薄れる。すると、無性に声の方が気になり始める。堂々と姿を表すのはやめた方がいいだろうと思い、少しだけ様子を盗み見るために庭に通じる障子戸を開けた。すると、表通りの方から薄ぼんやりとした光が見えた。
俺が今いる部屋はどうやら横道に面しているらしい。ここに来て初めて外を見たが、その風景には見覚えがあった。
(あの池……)
おそらく、俺が落ちた池が部屋から見えた。思っていたより大きな池で、これまた大きな色とりどりの鯉が悠々と泳いでいた。俺がいきなり落ちてきて驚いただろう。怪我をさせていないといいなと思いながら視線を巡らせていると、ぽっかり空いた空間が目に入った。要するに、昨日俺が体当たりして壊した竹垣だ。
「うわ……」
昨夜は必死で分からなかったが、俺の身体丸々一人分ほどの竹が薙ぎ倒されており、裏庭が横道から丸見えになっていた。
(弁償……って、いくらかかるんだろ……)
全く予想ができない分、簡単に想像のキャパを超える。
建物自体は古いが手入れは丁寧にされている印象で、そこかしこから温かさを感じる。途方もない金額を請求されたとしても、頑張って返していくしかないだろうなと肩を落とす。
それ以前に本当にここで働いていけるのか、いずれは元の世界に戻れるのか、考えても分からないことが増え過ぎてもう持てる気がしない。
俺はため息を吐きそうになり慌てて吸い込んだ。ため息を吐くと幸せが逃げていくなんて本気で信じているわけではないが、今はやめておいた方が良いと思った。
「あれ……人……?」
気を取り直してまた俺が壊した竹垣を見ると、空いた穴を横切る人影が見えた。昨日見た化け物とは違い、はっきりと人の形をしていた。ただ、全体的に黒い印象で男か女かまでは分からなかった。
「危なくないのかな……?」
昨日自分が襲われたばかりの場所に人がいるのを見てしまうと途端に落ち着かない気分になってくる。
アレに襲われて大変だったね、とシャロニカさんは俺に言った。と、いうことはこの世界の住人にとってもアレは良いものではないということだ。それにアレに襲われると不幸なことが起きるとも言っていた。多分、前例を知っているのだろう。
なんとなく人影の行方が気になりつつ、だからと言って動き出すことも出来ずに外を眺め続ける。
すると、人影の後を追うかのように、ゆったりと動く黒い塊が通り過ぎるのが見えた。
「え……!?」
形は違う。しかし、はっきりと分かった。
あの人が危ない、そう思うよりも早く俺は部屋を飛び出した。裸足で裏庭を横切り池の端を飛び越える。敷き詰められていた砂利が足の裏に食い込む感覚がしたが不思議と痛いとは思わなかった。
自分が壊した竹垣をくぐり横道へと出る。覚悟を決めた見据えた道の先には、黒い着物を着た男の人が立っていた。
(え…………?)
あの化け物の姿は無い。
ただ表情までは分からない暗がりの中、男が自分のことを見ていた。
どうにかしようと勢いよく飛び出たため、髪はボサボサで下は裸足、竹垣をくぐる時に引っ掛けたのか着物の袖は糸がつっていた。これではどう見ても俺の方が不審者で、見ようによっては目の前の男のことを襲おうとしている強盗のようにも見える。
化け物から助けようと思ったのに、一瞬にして自分の心配をしなくてはいけなくなる。
「あっ、これは、その……!」
今、化け物が背後にいましたよ! で信じてもらえるだろうか。それとも、酔っ払いを装ってふらふらと千鳥足で退散する方が良いだろうか。
必死になって悩んでいると、急に背筋に悪寒が走った。
「許して……許さない……許す……ねぇ……ネェ……」
昨日と同じ臓器を弄られるような声が俺のすぐ後ろから聞こえる。
振り向いたらいけない。でもどうすれば。
俺の視線の先にいる男は動かない。助けて、と声を上げて巻き込んでしまうくらいなら犠牲は自分一人がいい。
せめて別れの挨拶はしたかったな、とシャロニカさん、それに千宇音と虎弥太の顔を思い浮かべる。
「逃げてください!」
俺は思い切り声を上げた。
目の前の男が僅かに首を傾げた。瞬間、ツプツブと不快な音を立てながら、耳の中に何かが侵入してきた。池の水じゃない、もっと重く、どろどろとした何かだ。脳みそを鷲掴みにされるような痛みに意識が遠くなってくる。
すると、男がようやく動き出した。俺の予想とは違い、ゆったりとした足取りでこちらに近づいてくる。俺の状況との温度差に、これは全部俺が見ている夢なのかもしれないと思った。
俺は倒れている俺を抱き起こすと、おもむろに耳に口を寄せた。何をするつもりなのかと問おうにも、もうそんな力は残っていない。俺が黙っていることをいいことに、男はそっと唇で俺の耳に触れた。
きっと、状況がここまで切迫していなかったら、情けないくらい高い声で悲鳴を上げていただろう。男はすぐに離れると、俺を雑に地面に放り投げた。
「痛!」
痛みと共に自分の声に驚く。
頭の痛みはすっかり消え去り、声も出るようになっていた。放り投げられたショックより、痛みが消えた喜びの方が大きく、思わず男を見る。
間近で見た男の顔は怖いほど美しく、それでいてやけに男性的だった。肩の高さで切り揃えられた黒い髪が揺れ、掻き上げられた前髪から逸れた一房がその動きに追従していた。その横にある月のような黄色い瞳が僅かに細められると、雲がかかったように暗くなった。
全体的に、どことなく生気を感じない澱んだ色を纏っていて、それがより一層俺を惹きつけた。俺だけじゃない、きっと、多くの人がこの色から逃れられないだろう。
男は無表情で立ち上がり、何事もなかったかのように、カラカラと下駄を鳴らしながら去っていった。
男は一度もこちらを振り返ることはなく、俺は男が見えなくなってしばらく経つまでその場を動くことが出来なかった。
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