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第三章
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第三章
一
雅人は揺れる車内の中で思わず、口元に手を持って行った。酸っぱい胃液がこみ上げてきた。バックミラーでこちらの様子をさっきからちらちらうかがっている白髪交じりのタクシーの運転手は、白い手袋でこめかみのあたりを掻きながら呟いた。
「お客さん、ちょっと勘弁してくださいよぉ。車内で吐かないでくださいね。大丈夫ですか? 気分悪いんですか? 停めましょうか?」
口調は穏やかだが、タクシーの車内で嘔吐されたら困るという感情が滲み出ていた。それはそうだろう。もし車内で嘔吐でもしようものなら、このタクシーは以後、吐しゃ物を取り除き清掃が終わるまでは営業も出来ない。そんなことは雅人にもわかっている。だからこそ、この胃から食道にかけて込み上げてくる不快感を必死に抑え込んでいるのでないか。それにしても会社の送別会で飲み過ぎた。いや飲まされすぎた。もともと酒に強いことは自負しているが、顔色も変わらない分、ついつい周りの雰囲気に流されて勧められるまま飲み過ぎた。今日は自分の酒量の限界値を超えてしまったようだ。
「窓、あけましょうか?」
雅人は左手で口元を押さえたまま、かぶりを振った。この状態をキープしてほしいというのが願いだった。窓を開けて夜風を車内に入れる。運転手はそれが気分をよくする方法だと信じて言ってくれているのはわかるのだが、今全身でこの嘔吐感と戦っている状態では、ほんのちょっとした変化でさえ、それがたとえ窓が十センチ下がっても、張り詰めた緊張のバランスが崩れ、嘔吐してしまいそうだった。
普段なら気にもならないような、容赦のない最後のひと揺れがきた。限界だった。胃がでんぐり返りそうになり、吐しゃ物が食道を駆け上ってくる感触があった。だが口を開かなければ車内の嘔吐にはならない。脂汗が全身から噴き出してくるのがわかった。その様子をバックミラーで伺っていた運転手は、路肩にタクシーを止めるのとドアを開けるのが同時だった。両手で口を押えて車外に駆けだした雅人は、歩道の植え込みの土の部分に勢いよく嘔吐した。口元まで来ていた黄色い吐しゃ物は、送別会で食ったつまみやピザなどの半分消化されかかった固形物が主だったが、茶色や黄土色の液体に十二分に絡み合って植え込みの土の部分を彩った。たっぷり一分間は吐いていただろうか。いつの間にか、ハザードランプをつけて降りてきていた白髪まじりの運転手は、白い手袋を脱いで、雅人の背中をさすってくれながら言った。
「お客さん、大丈夫ですか?」
優しい声だったが、それは多分に車内に吐かれなくてよかったという安堵の響きがこもっていた。家まではあと数分の距離だったので、ここで降りることにして支払いを済ませた。財布を出すときに気づいたが、コートの襟が吐しゃ物ですこし汚れていた。間一髪、クルマを汚される危機を脱出したタクシーは、走り去るときまでも車体をゆすってその幸運を喜んでいるかのように、リズミカルにテールランプをまたたかせながら、夜の幹線道路に消えていった。
雅人は車道と歩道の段差に腰を掛けながら、目の端でタクシーを追っていた。静かだった。時計を見た。午前三時を少し回っていた。見上げると冬の月がきれいに輝いていた。まだ少し胃がぎゅるぎゅるいっているものの、あらかた吐いてしまったので気分はだいぶ落ち着いてきた。
「冬の夜空ってこんなにキレイだったんだなぁ……」
雅人はひとり呟いてみた。息が白かった。右手で口の周りを触ると吐しゃ物がこびりついていた。何年ぶりだろう、夜空をこうして見上げるのなんて……と雅人は思った。代表的な冬の星座のオリオン座がくっきりと輝いていた。
「あれが、おおいぬ座で、ええとあっちにまたたくのがこいぬ座のプロキオンだっけか。んでオリオン座のペテルギウスとこいぬ座のプロキオンとおおいぬ座の一等星の名前なんだっけか。それを結ぶと冬の大三角っていうんだよな~。そうだ! 思い出した! シリウスだっ! 結構覚えてるもんだなぁ」
しばし車道に足を投げ出して車道と歩道の段差に両肘をついて上半身を起こして冬の夜空の壮麗なるレビューを鑑賞したのちに、歩道に置いた手のひらの冷たさにようやく気付くころには、吐き気も気持ち悪さもあらかた消えうせていた。ここからなら自宅まで歩いても十分とはかからないはずだった。今夜が送別会であることはもちろん千草も知るところだったし、彼女はすでに就寝しているに違いなかった。自宅に着くころには酔いも完全に醒めているだろう。少し頭がずきずきしたが、立ち上がると歩道に転がしていたカバンを持ち上げて、吐しゃ物の飛沫が付いたままのコートの襟をハンカチで拭うとその襟をたてて雅人は歩きだした。酔いが醒めるにつけて真冬の寒さを感じ始めていた。
しばらく歩くと、ごみ集積場があった。青いビニールシートの下で何かが動いていた。不燃物は今日だったっけ? 誰かがなにか大きいものを不法投棄したのかなとぼんやり考えていた雅人だったが、次の瞬間にビニールシートの下から異様に白い手が見えた。そして確かに声が聞こえた。
「い、痛いです」
ビニールシートが風で半分以上まくれあがった。瀕死の状態の全裸の金髪女性が助けを求めていた。雅人の酔いは完全に吹き飛んだ。
二
発見したときは、死ぬほど驚いた。それこそ心臓が止まるかと思ったほどだ。ほとんどパニックに陥ったといっても過言ではなかった。瀕死の重症を負った若い女性だと思い込んだ雅人は、危うくスマートフォンから救急車を呼ぶところだった。大丈夫ですかと彼女を抱きかかえたときには、発信してしまった後だった。抱きかかえたときに、違和感を覚えた。これは人間ではない、シリコン製の極めて精巧に作られた人形であるということに気づいた。繋がってしまった消防本部の係員に「どうしました?」と尋ねられ、しどろもどろになって間違えましたといって通話を終了させた。
これが何日か前、クライアントの人が言っていた新型ラブドールというものなのかもしれないと思い至った。それにしても、まるで人間にしかみえない。潤んだ瞳、瑞々しい唇、量感のあるすいつくような肌の感触……、わずかに人と違うのは全く体温が感じられない点だった。異様に冷たかった。人の肌の温もりがなかった。そこに決定的な違和感を覚えたのだった。そして抱き起した時はまだ、バッテリーがわずかに残っていたのか、手足をすこし動かしながら、「助けて…」とすらつぶやいていたのだった。程なくバッテリーは切れてしまったのか、動かなくなった。それにしてもいくら深夜だとしても東京である。誰に見られるかわからないので、雅人は着ていたコートを脱いで、「彼女」に羽織らせて、この部屋まで負ぶってきたのであった。
この部屋は、言うなれば雅人の「衣装部屋」として借りているアパートの一室だった。もちろん妻の千草も知らない。雅人には千草にも言えない秘密があった。それは女装癖だった。そのための部屋を借りて、ここに女性用の洋服や下着類、化粧品などを集めていた。雅人は時々この部屋に来て、自分を解放することで精神の危ういバランスを保っていた。深夜のゴミ集積場で拾った新型のラブドールをここに運び込んだのだった。逆に言うとここしかなかった。この部屋に運び込む以外の選択肢はなかった。
冷え冷えとした部屋のファンヒーターのスイッチを入れた後、アパートのLEDシーリングライトの白色の光の下で改めて確認すると、「彼女」は悲惨な状態だった。全身に無数の切り傷があり、そのシリコンの肌はあちこちがぱっくりと裂け、場所によっては中のアクチュエータが見えている部分もある。右手と左手も指が欠損していた。明らかに鋭利な刃物で切断された模様だ。一体、どういうプレイをしたのかしれないが、雅人にわかったのは持ち主が「彼女」に対して酷い扱いをして、必要なくなったから廃棄したのだということだった。
自身もシャワーを浴びた雅人は「彼女」を部屋に唯一あるソファに横たわらせ、体についた汚れや埃を払い、きれいなタオルで全身を拭いてやった。 バッテリーが上がって、虚空を見つめる虚ろな瞳、わずかに半開きの唇から除く奇麗な歯並び……動きを失ったまま、アパートの一室に横たわる「彼女」は遺体そのものだった。じっと見つめていると生と死の境界って何だろうという疑問が湧いてきた。さっきまで酔っぱらって正常な判断が出来なかった脳は急速に冷静さを取り戻していてとりとめのないことを考え出していた。雅人にとっては危険な兆候だった。経験上、こうなってくると負のスパイラルに巻き込まれて数日、いや下手をすれば数週間、気分が沈んだままになるのがこれまでの常だった。頭にこびりつく「境界」という言葉を振り払う意味でも、雅人は部屋に置いてあるノートパソコンを起動させた。typeXのWebカタログを開いてみる。
「性能諸元表かぁ。リチウムイオンバッテリー、稼働時間十時間以上、充電時間六時間、おー、センサーは3Dセンサー×二個、ソナーセンサー六個、タッチセンサー三十九個、RGBカメラ……Wi-Fi:IEEE802
11a/b/g/n プラットフォームはOrigan・OS、独自開発なのか?」
各所を確認しながらチェックしていく。
「ん? Wi-Fiないぞ。 これ仕様と違うな。廉価版か? そういえば、顔もヘッドセット一覧の中にこんな金髪碧眼ないし、特注品なのか……」
パーツサプライで充電セットやシリコンリペアセットをオーダーして雅人はノートパソコンを閉じた。
三
雅人は、仕事が終わると真っすぐに家に帰らずにこの衣装部屋に立ち寄る日々が続いていた。切り裂かれて無残な姿だったtypeXの補修には相当の時間を要した。といってもぱっくり割れたシリコン部分に接着剤を流し込んでくっつけるだけだったのだが、頬の深い切り傷はより慎重に作業したせいで、かなり目立たなくはなった。同様に全身に無数にあった傷口も補修した。もちろん完全に元通りというわけにはいかなかったが手足の関節を曲げ伸ばししても傷が開くようなことはなかった。
ただすでに充電は完了しているはずだったが、typeXの反応はなかった。Webの取扱説明書によれば、ウェイクワードによって起動すると記載されていた。それはデフォルトでは「typeⅩ」でいいはずだったが、何度呼びかけても無反応だった。もしかしたら前の所有者によってウェイクワードが変更されているのかもしれないと雅人は思った。
もちろん、全裸のままにはしておけなかったので、服は着せてやった。雅人は自分のコレクションの中からショーツ、ブラを選び、身に着けさせてやった。トップは何を着せるか迷ったが、無難にオフホワイトの地に大胆な黒のざっくりとした花柄が入ったワンピースにした。意外にも自分以外の誰かに着せる服を選ぶのは楽しかった。やはり、服を着せたtypeⅩは、まるで印象が違っていた。元々ブロンドの髪に深い青の瞳というだけで人目を惹くのに、こうして着衣が整うと凛とした美しさが際立って貴婦人のようだった。
試しにWebカタログに載っているすべてのヘッドセットの名前で呼びかけてみた。みなみ、まどか、さとみ、友美、瞳、絵梨花……全部だめだった。頭がかすかに動いて反応するかと思うと、無反応に戻ってしまう。元々棄てられていたのだし、どこか壊れているのかもしれないと雅人が諦めかけたときだった。音がなく寂しいのでつけっぱなしにしていたテレビでは、政治家のインタビュー番組が流れていた。
「今日のお客様は、秋の総裁選出馬も噂される、農水大臣、経産大臣をも歴任されてきた友愛党元幹事長、和久徳一郎氏です」
アナウンサーが、紹介するとテレビの主婦層受けを狙ってか、普段の仏頂面から一転、和久はさわやかそうな笑顔を作ろうとするが、慣れていないせいかその微笑みは若干ぎこちないものとなった。これではかえって逆効果かもしれなかった。
秋の総裁選をにらんだ和久陣営のメディア戦略に他ならなかった。あまり主婦層の受けがよくない和久をメディアでの露出を多くすることによりイメージアップを図ろうという魂胆はみえみえだった。話題は多岐にわたり、和久派の派閥である「菊十二会」結成のいきさつから子供時代の思い出、恩師の話、留学時代の話へとめまぐるしく移っていった。出来るだけ多角的に視聴者に和久徳一郎という人となりを知ってもらおうという、苦心惨憺のあとがうかがわれた。
「和久さんは、ドイツ留学なさっていますねぇ」
「ええ、三年間ほど」
「その当時のロマンスのお話があれば、もう時効ですから披露願えませんでしょうか?」
「いやぁ、当時は一心不乱に勉学に勤しんでいたので女性なんか目にも入りませんでしたよ」
そういって笑う和久を尻目に、女性アナはいたずらっぽく微笑みかけると、こう切り出した。
「実は番組の調査では、ドイツ留学時代に、美しいドイツ人女性と熱烈な恋に落ちたという情報を仕入れました。お名前はタマラさんとおっしゃるそうですね」
これは打合せになかった演出だったのか、明らかに動揺を隠せない和久はしどろもどろになった。
「参りましたなぁ、これは。若気の至りといいますか……」
アップになった和久は、吹き出る額の汗をハンカチで拭っている。
そのときだった。typeXが突然反応した。しゃべったのだ。
「すいません。よくわかりません」
これがtypeⅩの最初の言葉だった。一体何に反応したのだろう? もしかして今のテレビか? タマラ? これがウェイクワードなのか? 雅人はテレビを消した。呼びかけてみた。
「タマラ」
typeⅩの瞳孔が開いた。間違いなかった。いままでどんな名前にもこんな反応はしなかった。心拍数が目に見えて上がったのが自分でもわかった。テンションが一気にマックスになった。
「タマラ……。おはよう」
もう夜だったがとりあえずのお約束だ。
「おはようございます! 今日は二月十七日です。よろしくお願いします」
そういうとtypeXは、それまで雅人が横たわらせていたソファベッドから上半身を起こし、立ち上がろうとした。だが、バランスを崩して倒れそうになった。とっさに雅人は立ち上がってtypeXを抱きとめた。typeⅩは雅人の腕の中に倒れこんだ。それはさながら映画でよくある女が男の胸にもたれかかりお互いの顔を見つめあうシーンのパロディのようになってしまった。雅人とtypeⅩはお互いの顔を至近距離で見つめあう形になった。雅人はなんとなく照れた。だが次の瞬間、照れた自分が奇妙だと感じた。映画のポスターのようなシチュエーションに照れたのだった。
「君の名前はタマラなのかい?」
「はい。そうです」
よどみなく、typeX、タマラは雅人の腕の中で答えた。雅人はタマラをゆっくりとソファの上に座らせた。驚くべきことにタマラは両ひざを閉じ、その閉じた長い脚をやや右側に傾け、欠損した指のまま右手の甲に左手の甲を重ねて、両ひざの上に置くという、極めて上品な人間のお嬢様のような座り方を自ら実践してみせた。そのしぐさはごく自然で、どんなプログラムが入っているのか雅人には見当もつかなかったが、タマラがスペシャルモデルであることは一連の動作から一目瞭然であった。雅人は心の中で感嘆していた。
「タマラって名前は誰がつけたんだい?」
「パートナーです」
「タマラのパートナーって誰?」
「その質問にはお答えできません」
なるほど、そう来たか。守秘義務ってやつか。質問を替えよう。
「タマラ、君をそんな姿にしたのは、そのパートナーなのか?」
今度は、答えるまでにちょっと間があった。タマラは両腕の手のひらを上にしてじっと手を見た。その手の指は、右手は薬指と小指が第二関節から欠損しており、左手は人差し指は第一関節から、小指は第二関節から欠損していた。残りのすべての指も折られてあらぬ方向に曲がっていたが、それは雅人が方向だけは直したのだった。タマラは残った指の関節を動かしそうとしたが左手親指だけはアクチュエータが壊れたのか曲げ伸ばしは出来なかった。どう答えようか逡巡しているようにも見えた。
「その質問には……、答えたくありません……」
そう答えた後のタマラは悲しそうな表情をしているように雅人には思えてならなかった。
「そういうプレイが、パートナーのお好みってわけか?」
この質問にもタマラは答えなかった。逆に質問してきた。
「あなたは誰?」
Wi-Fiを搭載していないAIとするとこの質問は画期的だった。
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
「私、パートナー以外の人間と会話するのは初めてなの。あなたに興味があるの」
好奇心を実装しているAIなのか! ディープラーニングなのか! 胸の鼓動が収まらぬまま、雅人は答えた。
「私は、原雅人。君をゴミ捨て場から拾ってきた。君はそのおぞましいプレイのあとにパートナーに無造作に棄てられたんだね」
そういうと、しばらくの間があってタマラは答えた。
「おぞましい……、意味は、いかにも嫌な感じがする、ぞっとするほどいとわしい。私はそうは思わないわ、雅人。それにパートナーに棄てられたというのも正確ではないわ」
そうか、そういうプログラムなのだから、自らおぞましいと思うわけはないのかと雅人は納得した。
「正確ではないとはどういう意味?」
雅人はキッチンに立ってコーヒーを入れた。自分でコーヒーを入れるのは得意ではないが、この場所を千草に秘密にしている以上、自分で入れる以外なかった。
「私が、帰る場所はラボだけ。棄てられたのは不測の事態だったの」
そういいながら、タマラは雅人がコーヒーを飲むのを興味深そうに見ていた。
「コーヒーを飲む人間をみるのがそんなに珍しいか?」
「コーヒー……、コーヒー豆を焙煎し挽いた粉末から、湯または水で成分を抽出した飲料」
そういうとタマラは突然歌いだした。
「♪~昔アラブの偉いお坊さんが~……」
コーヒー・ルンバだった。雅人は驚きの表情を浮かべ、あっけにとられそして思わず吹き出してしまった。そして思った。AIあなどれないなと。
四
黒川淳一は「週刊群衆」の編集部に戻り、自分のデスクに座ると取材用バッグの中からついさっき原雅人から預かってきたブルーレイディスクを取り出してしげしげと眺めた。
「やっぱ、無理だよなぁ」
そう、自分を納得させるようにつぶやくと先ほどまでの原雅人との会話を思い出していた。
黒川淳一が旧知の原雅人から電話をもらったのは昨日のことだった。旧知といってもそれほど深い付き合いがあるわけでもない。たまたま異業種交流会の席で名刺を交換した程度だったからちょっと面食らった。相談したいことがあるというのだ。内容を尋ねると電話ではちょっと……とためらうので喫茶店で会った。ところが原雅人が指定してきたのは個室カフェだった。
「こういうところって普通、カップルが利用するところだと思ってましたよ。なんなんですか。相談したいことって」
個室に入ってもなお、あたりを見回すようなしぐさをした後に、原雅人は切り出した。
「すいません。こんなところに呼び出してしまって。実はひょんなことからtypeⅩを拾ったんです……」
「ええっ? typeⅩって今話題のAIを搭載しているっていうラブドールですか? 拾ったってどういうことですか?」
原雅人は、手早く淳一にも何を飲むか聞いて備え付けの押し釦スイッチで店員を呼び出し二人分のオーダーを済ませた。そして、typeⅩを拾った経緯から偶然にウェイクワードを見つけて会話が始まったこと、どうやら普通のモデルではなく、特定個人の性癖を満たすためのスペシャルモデルであることなどを、一気に淳一に話してくれた。
「その相手が政治家の和久徳一郎だってことなんですか?」
原雅人はまっすぐ淳一の目を見つめゆっくりうなずくと、持参してきたらしいノートパソコンをテーブルの上に置いた。エンターキーを叩き淳一のほうへ画面を向けた。
「タマラに搭載されているカメラの映像です。最初は渋っていたのですが、なんとか説得して動画をノートパソコンへ転送させました」
ホテルの一室なのか、でっぷりと腹の突き出た中年の男が映っていた。次の瞬間、中年男の顔がアップになった。それは確かに友愛党元幹事長、前経産省大臣、和久徳一郎その人であった。
そこには、行為の最中にタマラと呼ばれたtypeⅩの指を切断する和久徳一郎の「性癖」が克明に記録されていた。思わず淳一は目をそむけてしまっていた。そこへ畳みかけるように義憤にかられた原雅人がこう言った。
「こんなこと許しちゃいけないですよ! こんなの犯罪ですよね。いくらラブドールとはいえ私…僕は見ていられない。許されていいはずがないんだ。糾弾する記事を週刊群衆に載せてもらえませんか?」
なるほど、呼び出された意図はこれだったのかと淳一は納得した。確かに見ていて気持ちのいいものではない。人間にはいろいろな性癖がある。はたから見たら変態と思われるような性癖もいくらだってある。これもその一つかもしれない。アポテムノフィリア。肉体の切除や欠損に性的興奮を感じる性的嗜好をこう呼ぶ。いくら人間ではないラブドールのtypeⅩとはいえ、事情を知らなかったら、人間だと思う可能性は大だ。注意深く映像を見れば、不自然な点はいくつもある。まず第一に、指を切断されているのに出血が全くないこと。当然人間であれば夥しい量の出血がある。第二に切断時に悲壮感がない。人間であればもっと絶叫するはずだが、typeⅩタマラはもちろん苦痛の言葉は発しているのであるが、やはりどこか緊迫感というかリアリティを欠いているように淳一には感じられた。
「おっしゃることはわかりますが、これはあくまでも人間ではないラブドール相手の《プレイ》に過ぎません。いくら可哀そうに見えても相手は人間ではないのだから当然犯罪にもなりません。ただ悪趣味な性癖だとは思いますけどね」
腕組みしながら少し首を傾げ淳一は、雅人に対して言った。
雅人は全く納得できないようだった。
「そんな……。そんなバカなことがありますか! タマラは和久をパートナーと言ってるんですよ。ということは対等な関係じゃないですか。和久がとんでもない性癖を持っていて、それを人間では出来ないからとタマラに代行させているんですよ。ならばタマラは人間の代用品なわけです。それならタマラに人権があたえられてもおかしくはないじゃないですか!」
「おっしゃることはわかります。今後おそらくtypeⅩが普及するにつれてそういう議論は出てくるでしょう。外国ではそう主張する法学者が事実出てきていますしね。ただ現状では、なんの罪にも問われないということです。強いて言えば器物損壊なのかもしれませんが、それにしてもあくまで他人の物を壊した場合なので、このタマラとパートナーだということになるとそれも難しいといわざるを得ませんね。原さん、あなたはどうしたいのですか?」
「私は……、僕はタマラが、ラブドールがこういう風に蹂躙されるようなことは止めさせたいんです。こんな一方的に望んでいないことを強要させられるのは許せないんですよ!」
「それはあなたのそれこそ一方的な思い込みではありませんか? typeⅩは望んでいないかどうわからないじゃないですか。感情はないんだし。いってみれば機械人形なわけだし……」
そういうと、雅人は少し意気消沈したようにうつむいてしまった。淳一はちょっと言い過ぎたかと思い、慰めの意味を込めてこう付け加えた。
「いずれにせよ、和久徳一郎を失脚させたいのであれば、これだけでは弱すぎます。ほんの少しのダメージしか与えられないでしょう。だけどほかにも何か材料があれば別です。和久は今年秋の友愛党総裁選に出馬する可能性が取りざたされています。もしほかに何か出てくれば、この件と合わせ技で総裁選立候補の時期にその記事をぶつけるってことは可能だと思いますよ。ほかに何か材料があれば、の話ですけどねぇ。私も編集部に戻ってちょっと調べてみますよ」
ようやく個室をノックする音がして、店員が注文した飲み物を運んできた。淳一がオーダーしたのはチョコレートパフェだった。なかなか喫茶店で男はパフェを注文しづらいものだ。周りに女性客がいると男のくせにパフェなんか注文してと笑われるのではないかと意識してしまうからだ。だがこの個室喫茶ならばその心配はなさそうだと踏んで、思い切って注文したのだった。雅人が頼んだのは普通のブレンドコーヒーだった。
「ところで原さん、タマラのこと奥さんにはどう説明してるんですか?」
「そ、それは……、妻にはまだ話していないんです……」
痛いところを突かれたという雅人の心理が淳一には手に取るようにわかった。あまり聞かれたくないのだろうと察した。雅人の美しい顔が曇り、話すべきか話さざるべきか逡巡しているようだった。記者という職業上、この美しい青年が内部になにか大きな矛盾を抱えて生きているのであろうことは容易に想像がついた。今は聞かないでおこうと淳一は思った。
誰の目も気にしないで食べるチョコレートパフェは実に美味しかった。子供の頃母と買い物に行ったとき、食べさせてもらったパフェの味が忘れられなかったのだ。興味深そうに食べているところを雅人が見ていた。別に男に見られているぶんにはどうでもよかった。
「男一人でパフェ注文するのって恥ずかしいですよね。女の子じゃないんだからとか思われそうで……。だから黒川さんの気持ちはよくわかります」
そういうと雅人は力なく微笑んだ。黒川も満面の笑みで溶けたチョコのたっぷりのったアイスをスプーンで口の中に頬張りながら応えた。俺のような元柔道部のガタイのいい男ならともかく、雅人のようにきれいな顔立ちで一見女みたいな優男風がパフェを注文したって全然違和感なんてないんじゃないかなと思ったが、口には出さないでおいた。
雅人はノートパソコンからディスクを取り出すとケースに入れて淳一の前に差し出した。
「念のため、ブルーレイに焼いてきました。すぐ記事にするのは難しいとのことですが、黒川さんが持っていてください」
そういって手渡されたのが、今、編集部のデスクの前に座っている黒川淳一が手にしているディスクだった。プラスチックケースの中のディスクの表面は白無地で何も書いてない。
純一はデスクの前にうず高く積まれた資料の山をどかして現れたディスプレイにキーボードから「和久徳一郎」と打ち込み、検索をクリックした。ずらずらと出てきた和久に関する検索項目に目新しいものはなかった。
五
クライアントに説明する資料を作りながら、雅人は先日会った週刊誌記者の黒川淳一のことを考えていた。黒川とは異業種交流会で知り合った。身長百八十五センチメートル、体重八十五キログラムの堂々とした体躯の持ち主で、学生時代は柔道をやっていたと自己紹介の時に自分から言った。年齢は三十八歳で結婚していて四歳の娘がいる。休みの日は娘を連れてよく図書館に行くといっていた。なんでも娘が図鑑大好きで、図書館で日がな一日、草花や昆虫や魚の図鑑を見ているのだそうだ。その付き合いで行くのだが手がかからなくて楽ちんでいいと笑っていた。その、人の好さそうな笑顔に惹かれて名刺交換をした。あまり深く考えていたわけではなかった。週刊群衆の記者ということで、マスコミ関係者と知合っておくのも悪くないとその時は思ったのだった。
全くの偶然とはいえ、typeⅩタマラを手に入れて、和久が自身の歪んだ性癖を満たすためだけにタマラを慰み者にしていることを知った雅人は、自分の中に湧き上がる激しい憤りを抑えることが出来なかった。なんとかしてこの愚行を、虐待を、唾棄すべき異常な変態性癖を世間に知ってもらいたい、そしてその是非を訴えたいと思った。それには週刊誌というのは恰好のメディアに違いなかった。もちろん今の時代だから、ネットで拡散するという方法も思案の中にはあった。
著名な政治家である和久の動画は、インスタグラムやツイッターやユーチューブなどのソーシャルネットワークサービス、俗に言うSNSにひとたび流せば、名前が知られている分、爆発的に拡散されるであろうことは容易に想像がついた。ただその際に「炎上」する可能性も十二分にある。というか間違いなく炎上するであろうことは火を観るより明らかだった。炎上すればするほど更に話題性が高まるのでより拡散は広範囲に及ぶ。それ自体は雅人の望むところである。
だが、問題はこれが「リベンジポルノ」と区別がつかなくなってしまうことであった。リベンジポルノとは、一般的には別れた恋人などへの復讐のために交際していた当時に撮影したプライベートな性的な写真や動画などを、インターネット上に公開する行為を指すものである。
公開の予定のない私的な画像や動画を、相手の承諾もなく無断でネットに流すのであるから、これは罪になる。どういう罪になるかというと、雅人が調べた範囲では、「私事性的画像記録の提供等による被害の防止に関する法律」に抵触することになる。これを通称「リベンジポルノ防止法」と呼ぶ。この法律の第二条の一、「性交又は性交類似行為に係る人の姿態」に完全に該当する。
ネット上に公開することによって様々な反響が上がることは予測がついた。ラブドール虐待反対の世論が喚起される期待はある。やがてはtypeⅩに人権を認めろという流れが形成されうるかもしれない。しかし、その前にリベンジポルノ防止法の法律の壁が立ちはだかるのだ。「電気通信回線を通じて私事性的画像記録を提供し、又は私事性的画像記録物を提供した者は、一年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処せられる」のである。
もちろん、雅人が独身であったならば、万難を排して和久の所業を全国に知らしめるため、戦う決意は有していた。しかし、現状雅人は妻帯者であった。千草という妻がいる。そして千草はtypeⅩタマラの存在さえ知らないのである。正義感に駆られた「和久の行為の告発」は、はたから見ればまるでリベンジポルノと区別がつかないのだ。それでどれほどの理解が得られるのであろうかと考えたとき、雅人は自らの手でこの動画をSNSに公開する手法は、熟慮の末に断念せざるを得なかった。
ゆえに雅人は次の手段として、知合いとなった週刊誌記者、黒川淳一に連絡するという手法を取らざるを得なかったのである。しかるに黒川は、typeⅩタマラが人間でない以上、これはどんなに目をそむけたくなる動画であっても趣味の一環を逸脱しておらず、器物破損にすら問えないのではないかとうそぶいた。まさにそこが問題であるというのに!
雅人は自己矛盾を抱え込んでいた。和久のタマラ虐待を世に問いたい、そしてタマラの人権を認めさせたいと一方で思いながら、妻の千草には迷惑をかけたくないという心理も働いていた、いや迷惑をかけたくないというのは奇麗ごとにすぎなかった。もっと現実的な問題があった。千草に何故そこまでしてタマラに入れ込むのかと問われたときに明確な答えが出せないのだ。そんな出自さえよくわからない拾ったラブドールに一体なんのためにそこまでやらなくてはいけないのかということの説明が、自分の中でつかないのだ。千草を納得させる答えが見つからない……しかし、なんとかタマラを助けたい……、雅人はまたここでも自分の心が、本心がどこにあるのかわからなくなっていた。
「本当の自分はどこにあるんだろう?」
幼いころから、自我を確立させることが出来ずに成長してきてしまったつけがここでも雅人を苦しめていた。雅人はパソコンの前で頭を掻きむしった。クライアントに提出する資料作りはまるで進まなかった。マウスでシャットダウンボタンをクリックするとパソコンのディスプレイは一瞬で暗くなり、電源が落ちたが、雅人の心の中は重く沈んだままだった。雅人は人間も一瞬で電源が切れればこれほどの自己矛盾で苦しむこともないのにと、ふと思い、その発想のバカバカしさに笑いが込み上げてきた。
一
雅人は揺れる車内の中で思わず、口元に手を持って行った。酸っぱい胃液がこみ上げてきた。バックミラーでこちらの様子をさっきからちらちらうかがっている白髪交じりのタクシーの運転手は、白い手袋でこめかみのあたりを掻きながら呟いた。
「お客さん、ちょっと勘弁してくださいよぉ。車内で吐かないでくださいね。大丈夫ですか? 気分悪いんですか? 停めましょうか?」
口調は穏やかだが、タクシーの車内で嘔吐されたら困るという感情が滲み出ていた。それはそうだろう。もし車内で嘔吐でもしようものなら、このタクシーは以後、吐しゃ物を取り除き清掃が終わるまでは営業も出来ない。そんなことは雅人にもわかっている。だからこそ、この胃から食道にかけて込み上げてくる不快感を必死に抑え込んでいるのでないか。それにしても会社の送別会で飲み過ぎた。いや飲まされすぎた。もともと酒に強いことは自負しているが、顔色も変わらない分、ついつい周りの雰囲気に流されて勧められるまま飲み過ぎた。今日は自分の酒量の限界値を超えてしまったようだ。
「窓、あけましょうか?」
雅人は左手で口元を押さえたまま、かぶりを振った。この状態をキープしてほしいというのが願いだった。窓を開けて夜風を車内に入れる。運転手はそれが気分をよくする方法だと信じて言ってくれているのはわかるのだが、今全身でこの嘔吐感と戦っている状態では、ほんのちょっとした変化でさえ、それがたとえ窓が十センチ下がっても、張り詰めた緊張のバランスが崩れ、嘔吐してしまいそうだった。
普段なら気にもならないような、容赦のない最後のひと揺れがきた。限界だった。胃がでんぐり返りそうになり、吐しゃ物が食道を駆け上ってくる感触があった。だが口を開かなければ車内の嘔吐にはならない。脂汗が全身から噴き出してくるのがわかった。その様子をバックミラーで伺っていた運転手は、路肩にタクシーを止めるのとドアを開けるのが同時だった。両手で口を押えて車外に駆けだした雅人は、歩道の植え込みの土の部分に勢いよく嘔吐した。口元まで来ていた黄色い吐しゃ物は、送別会で食ったつまみやピザなどの半分消化されかかった固形物が主だったが、茶色や黄土色の液体に十二分に絡み合って植え込みの土の部分を彩った。たっぷり一分間は吐いていただろうか。いつの間にか、ハザードランプをつけて降りてきていた白髪まじりの運転手は、白い手袋を脱いで、雅人の背中をさすってくれながら言った。
「お客さん、大丈夫ですか?」
優しい声だったが、それは多分に車内に吐かれなくてよかったという安堵の響きがこもっていた。家まではあと数分の距離だったので、ここで降りることにして支払いを済ませた。財布を出すときに気づいたが、コートの襟が吐しゃ物ですこし汚れていた。間一髪、クルマを汚される危機を脱出したタクシーは、走り去るときまでも車体をゆすってその幸運を喜んでいるかのように、リズミカルにテールランプをまたたかせながら、夜の幹線道路に消えていった。
雅人は車道と歩道の段差に腰を掛けながら、目の端でタクシーを追っていた。静かだった。時計を見た。午前三時を少し回っていた。見上げると冬の月がきれいに輝いていた。まだ少し胃がぎゅるぎゅるいっているものの、あらかた吐いてしまったので気分はだいぶ落ち着いてきた。
「冬の夜空ってこんなにキレイだったんだなぁ……」
雅人はひとり呟いてみた。息が白かった。右手で口の周りを触ると吐しゃ物がこびりついていた。何年ぶりだろう、夜空をこうして見上げるのなんて……と雅人は思った。代表的な冬の星座のオリオン座がくっきりと輝いていた。
「あれが、おおいぬ座で、ええとあっちにまたたくのがこいぬ座のプロキオンだっけか。んでオリオン座のペテルギウスとこいぬ座のプロキオンとおおいぬ座の一等星の名前なんだっけか。それを結ぶと冬の大三角っていうんだよな~。そうだ! 思い出した! シリウスだっ! 結構覚えてるもんだなぁ」
しばし車道に足を投げ出して車道と歩道の段差に両肘をついて上半身を起こして冬の夜空の壮麗なるレビューを鑑賞したのちに、歩道に置いた手のひらの冷たさにようやく気付くころには、吐き気も気持ち悪さもあらかた消えうせていた。ここからなら自宅まで歩いても十分とはかからないはずだった。今夜が送別会であることはもちろん千草も知るところだったし、彼女はすでに就寝しているに違いなかった。自宅に着くころには酔いも完全に醒めているだろう。少し頭がずきずきしたが、立ち上がると歩道に転がしていたカバンを持ち上げて、吐しゃ物の飛沫が付いたままのコートの襟をハンカチで拭うとその襟をたてて雅人は歩きだした。酔いが醒めるにつけて真冬の寒さを感じ始めていた。
しばらく歩くと、ごみ集積場があった。青いビニールシートの下で何かが動いていた。不燃物は今日だったっけ? 誰かがなにか大きいものを不法投棄したのかなとぼんやり考えていた雅人だったが、次の瞬間にビニールシートの下から異様に白い手が見えた。そして確かに声が聞こえた。
「い、痛いです」
ビニールシートが風で半分以上まくれあがった。瀕死の状態の全裸の金髪女性が助けを求めていた。雅人の酔いは完全に吹き飛んだ。
二
発見したときは、死ぬほど驚いた。それこそ心臓が止まるかと思ったほどだ。ほとんどパニックに陥ったといっても過言ではなかった。瀕死の重症を負った若い女性だと思い込んだ雅人は、危うくスマートフォンから救急車を呼ぶところだった。大丈夫ですかと彼女を抱きかかえたときには、発信してしまった後だった。抱きかかえたときに、違和感を覚えた。これは人間ではない、シリコン製の極めて精巧に作られた人形であるということに気づいた。繋がってしまった消防本部の係員に「どうしました?」と尋ねられ、しどろもどろになって間違えましたといって通話を終了させた。
これが何日か前、クライアントの人が言っていた新型ラブドールというものなのかもしれないと思い至った。それにしても、まるで人間にしかみえない。潤んだ瞳、瑞々しい唇、量感のあるすいつくような肌の感触……、わずかに人と違うのは全く体温が感じられない点だった。異様に冷たかった。人の肌の温もりがなかった。そこに決定的な違和感を覚えたのだった。そして抱き起した時はまだ、バッテリーがわずかに残っていたのか、手足をすこし動かしながら、「助けて…」とすらつぶやいていたのだった。程なくバッテリーは切れてしまったのか、動かなくなった。それにしてもいくら深夜だとしても東京である。誰に見られるかわからないので、雅人は着ていたコートを脱いで、「彼女」に羽織らせて、この部屋まで負ぶってきたのであった。
この部屋は、言うなれば雅人の「衣装部屋」として借りているアパートの一室だった。もちろん妻の千草も知らない。雅人には千草にも言えない秘密があった。それは女装癖だった。そのための部屋を借りて、ここに女性用の洋服や下着類、化粧品などを集めていた。雅人は時々この部屋に来て、自分を解放することで精神の危ういバランスを保っていた。深夜のゴミ集積場で拾った新型のラブドールをここに運び込んだのだった。逆に言うとここしかなかった。この部屋に運び込む以外の選択肢はなかった。
冷え冷えとした部屋のファンヒーターのスイッチを入れた後、アパートのLEDシーリングライトの白色の光の下で改めて確認すると、「彼女」は悲惨な状態だった。全身に無数の切り傷があり、そのシリコンの肌はあちこちがぱっくりと裂け、場所によっては中のアクチュエータが見えている部分もある。右手と左手も指が欠損していた。明らかに鋭利な刃物で切断された模様だ。一体、どういうプレイをしたのかしれないが、雅人にわかったのは持ち主が「彼女」に対して酷い扱いをして、必要なくなったから廃棄したのだということだった。
自身もシャワーを浴びた雅人は「彼女」を部屋に唯一あるソファに横たわらせ、体についた汚れや埃を払い、きれいなタオルで全身を拭いてやった。 バッテリーが上がって、虚空を見つめる虚ろな瞳、わずかに半開きの唇から除く奇麗な歯並び……動きを失ったまま、アパートの一室に横たわる「彼女」は遺体そのものだった。じっと見つめていると生と死の境界って何だろうという疑問が湧いてきた。さっきまで酔っぱらって正常な判断が出来なかった脳は急速に冷静さを取り戻していてとりとめのないことを考え出していた。雅人にとっては危険な兆候だった。経験上、こうなってくると負のスパイラルに巻き込まれて数日、いや下手をすれば数週間、気分が沈んだままになるのがこれまでの常だった。頭にこびりつく「境界」という言葉を振り払う意味でも、雅人は部屋に置いてあるノートパソコンを起動させた。typeXのWebカタログを開いてみる。
「性能諸元表かぁ。リチウムイオンバッテリー、稼働時間十時間以上、充電時間六時間、おー、センサーは3Dセンサー×二個、ソナーセンサー六個、タッチセンサー三十九個、RGBカメラ……Wi-Fi:IEEE802
11a/b/g/n プラットフォームはOrigan・OS、独自開発なのか?」
各所を確認しながらチェックしていく。
「ん? Wi-Fiないぞ。 これ仕様と違うな。廉価版か? そういえば、顔もヘッドセット一覧の中にこんな金髪碧眼ないし、特注品なのか……」
パーツサプライで充電セットやシリコンリペアセットをオーダーして雅人はノートパソコンを閉じた。
三
雅人は、仕事が終わると真っすぐに家に帰らずにこの衣装部屋に立ち寄る日々が続いていた。切り裂かれて無残な姿だったtypeXの補修には相当の時間を要した。といってもぱっくり割れたシリコン部分に接着剤を流し込んでくっつけるだけだったのだが、頬の深い切り傷はより慎重に作業したせいで、かなり目立たなくはなった。同様に全身に無数にあった傷口も補修した。もちろん完全に元通りというわけにはいかなかったが手足の関節を曲げ伸ばししても傷が開くようなことはなかった。
ただすでに充電は完了しているはずだったが、typeXの反応はなかった。Webの取扱説明書によれば、ウェイクワードによって起動すると記載されていた。それはデフォルトでは「typeⅩ」でいいはずだったが、何度呼びかけても無反応だった。もしかしたら前の所有者によってウェイクワードが変更されているのかもしれないと雅人は思った。
もちろん、全裸のままにはしておけなかったので、服は着せてやった。雅人は自分のコレクションの中からショーツ、ブラを選び、身に着けさせてやった。トップは何を着せるか迷ったが、無難にオフホワイトの地に大胆な黒のざっくりとした花柄が入ったワンピースにした。意外にも自分以外の誰かに着せる服を選ぶのは楽しかった。やはり、服を着せたtypeⅩは、まるで印象が違っていた。元々ブロンドの髪に深い青の瞳というだけで人目を惹くのに、こうして着衣が整うと凛とした美しさが際立って貴婦人のようだった。
試しにWebカタログに載っているすべてのヘッドセットの名前で呼びかけてみた。みなみ、まどか、さとみ、友美、瞳、絵梨花……全部だめだった。頭がかすかに動いて反応するかと思うと、無反応に戻ってしまう。元々棄てられていたのだし、どこか壊れているのかもしれないと雅人が諦めかけたときだった。音がなく寂しいのでつけっぱなしにしていたテレビでは、政治家のインタビュー番組が流れていた。
「今日のお客様は、秋の総裁選出馬も噂される、農水大臣、経産大臣をも歴任されてきた友愛党元幹事長、和久徳一郎氏です」
アナウンサーが、紹介するとテレビの主婦層受けを狙ってか、普段の仏頂面から一転、和久はさわやかそうな笑顔を作ろうとするが、慣れていないせいかその微笑みは若干ぎこちないものとなった。これではかえって逆効果かもしれなかった。
秋の総裁選をにらんだ和久陣営のメディア戦略に他ならなかった。あまり主婦層の受けがよくない和久をメディアでの露出を多くすることによりイメージアップを図ろうという魂胆はみえみえだった。話題は多岐にわたり、和久派の派閥である「菊十二会」結成のいきさつから子供時代の思い出、恩師の話、留学時代の話へとめまぐるしく移っていった。出来るだけ多角的に視聴者に和久徳一郎という人となりを知ってもらおうという、苦心惨憺のあとがうかがわれた。
「和久さんは、ドイツ留学なさっていますねぇ」
「ええ、三年間ほど」
「その当時のロマンスのお話があれば、もう時効ですから披露願えませんでしょうか?」
「いやぁ、当時は一心不乱に勉学に勤しんでいたので女性なんか目にも入りませんでしたよ」
そういって笑う和久を尻目に、女性アナはいたずらっぽく微笑みかけると、こう切り出した。
「実は番組の調査では、ドイツ留学時代に、美しいドイツ人女性と熱烈な恋に落ちたという情報を仕入れました。お名前はタマラさんとおっしゃるそうですね」
これは打合せになかった演出だったのか、明らかに動揺を隠せない和久はしどろもどろになった。
「参りましたなぁ、これは。若気の至りといいますか……」
アップになった和久は、吹き出る額の汗をハンカチで拭っている。
そのときだった。typeXが突然反応した。しゃべったのだ。
「すいません。よくわかりません」
これがtypeⅩの最初の言葉だった。一体何に反応したのだろう? もしかして今のテレビか? タマラ? これがウェイクワードなのか? 雅人はテレビを消した。呼びかけてみた。
「タマラ」
typeⅩの瞳孔が開いた。間違いなかった。いままでどんな名前にもこんな反応はしなかった。心拍数が目に見えて上がったのが自分でもわかった。テンションが一気にマックスになった。
「タマラ……。おはよう」
もう夜だったがとりあえずのお約束だ。
「おはようございます! 今日は二月十七日です。よろしくお願いします」
そういうとtypeXは、それまで雅人が横たわらせていたソファベッドから上半身を起こし、立ち上がろうとした。だが、バランスを崩して倒れそうになった。とっさに雅人は立ち上がってtypeXを抱きとめた。typeⅩは雅人の腕の中に倒れこんだ。それはさながら映画でよくある女が男の胸にもたれかかりお互いの顔を見つめあうシーンのパロディのようになってしまった。雅人とtypeⅩはお互いの顔を至近距離で見つめあう形になった。雅人はなんとなく照れた。だが次の瞬間、照れた自分が奇妙だと感じた。映画のポスターのようなシチュエーションに照れたのだった。
「君の名前はタマラなのかい?」
「はい。そうです」
よどみなく、typeX、タマラは雅人の腕の中で答えた。雅人はタマラをゆっくりとソファの上に座らせた。驚くべきことにタマラは両ひざを閉じ、その閉じた長い脚をやや右側に傾け、欠損した指のまま右手の甲に左手の甲を重ねて、両ひざの上に置くという、極めて上品な人間のお嬢様のような座り方を自ら実践してみせた。そのしぐさはごく自然で、どんなプログラムが入っているのか雅人には見当もつかなかったが、タマラがスペシャルモデルであることは一連の動作から一目瞭然であった。雅人は心の中で感嘆していた。
「タマラって名前は誰がつけたんだい?」
「パートナーです」
「タマラのパートナーって誰?」
「その質問にはお答えできません」
なるほど、そう来たか。守秘義務ってやつか。質問を替えよう。
「タマラ、君をそんな姿にしたのは、そのパートナーなのか?」
今度は、答えるまでにちょっと間があった。タマラは両腕の手のひらを上にしてじっと手を見た。その手の指は、右手は薬指と小指が第二関節から欠損しており、左手は人差し指は第一関節から、小指は第二関節から欠損していた。残りのすべての指も折られてあらぬ方向に曲がっていたが、それは雅人が方向だけは直したのだった。タマラは残った指の関節を動かしそうとしたが左手親指だけはアクチュエータが壊れたのか曲げ伸ばしは出来なかった。どう答えようか逡巡しているようにも見えた。
「その質問には……、答えたくありません……」
そう答えた後のタマラは悲しそうな表情をしているように雅人には思えてならなかった。
「そういうプレイが、パートナーのお好みってわけか?」
この質問にもタマラは答えなかった。逆に質問してきた。
「あなたは誰?」
Wi-Fiを搭載していないAIとするとこの質問は画期的だった。
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
「私、パートナー以外の人間と会話するのは初めてなの。あなたに興味があるの」
好奇心を実装しているAIなのか! ディープラーニングなのか! 胸の鼓動が収まらぬまま、雅人は答えた。
「私は、原雅人。君をゴミ捨て場から拾ってきた。君はそのおぞましいプレイのあとにパートナーに無造作に棄てられたんだね」
そういうと、しばらくの間があってタマラは答えた。
「おぞましい……、意味は、いかにも嫌な感じがする、ぞっとするほどいとわしい。私はそうは思わないわ、雅人。それにパートナーに棄てられたというのも正確ではないわ」
そうか、そういうプログラムなのだから、自らおぞましいと思うわけはないのかと雅人は納得した。
「正確ではないとはどういう意味?」
雅人はキッチンに立ってコーヒーを入れた。自分でコーヒーを入れるのは得意ではないが、この場所を千草に秘密にしている以上、自分で入れる以外なかった。
「私が、帰る場所はラボだけ。棄てられたのは不測の事態だったの」
そういいながら、タマラは雅人がコーヒーを飲むのを興味深そうに見ていた。
「コーヒーを飲む人間をみるのがそんなに珍しいか?」
「コーヒー……、コーヒー豆を焙煎し挽いた粉末から、湯または水で成分を抽出した飲料」
そういうとタマラは突然歌いだした。
「♪~昔アラブの偉いお坊さんが~……」
コーヒー・ルンバだった。雅人は驚きの表情を浮かべ、あっけにとられそして思わず吹き出してしまった。そして思った。AIあなどれないなと。
四
黒川淳一は「週刊群衆」の編集部に戻り、自分のデスクに座ると取材用バッグの中からついさっき原雅人から預かってきたブルーレイディスクを取り出してしげしげと眺めた。
「やっぱ、無理だよなぁ」
そう、自分を納得させるようにつぶやくと先ほどまでの原雅人との会話を思い出していた。
黒川淳一が旧知の原雅人から電話をもらったのは昨日のことだった。旧知といってもそれほど深い付き合いがあるわけでもない。たまたま異業種交流会の席で名刺を交換した程度だったからちょっと面食らった。相談したいことがあるというのだ。内容を尋ねると電話ではちょっと……とためらうので喫茶店で会った。ところが原雅人が指定してきたのは個室カフェだった。
「こういうところって普通、カップルが利用するところだと思ってましたよ。なんなんですか。相談したいことって」
個室に入ってもなお、あたりを見回すようなしぐさをした後に、原雅人は切り出した。
「すいません。こんなところに呼び出してしまって。実はひょんなことからtypeⅩを拾ったんです……」
「ええっ? typeⅩって今話題のAIを搭載しているっていうラブドールですか? 拾ったってどういうことですか?」
原雅人は、手早く淳一にも何を飲むか聞いて備え付けの押し釦スイッチで店員を呼び出し二人分のオーダーを済ませた。そして、typeⅩを拾った経緯から偶然にウェイクワードを見つけて会話が始まったこと、どうやら普通のモデルではなく、特定個人の性癖を満たすためのスペシャルモデルであることなどを、一気に淳一に話してくれた。
「その相手が政治家の和久徳一郎だってことなんですか?」
原雅人はまっすぐ淳一の目を見つめゆっくりうなずくと、持参してきたらしいノートパソコンをテーブルの上に置いた。エンターキーを叩き淳一のほうへ画面を向けた。
「タマラに搭載されているカメラの映像です。最初は渋っていたのですが、なんとか説得して動画をノートパソコンへ転送させました」
ホテルの一室なのか、でっぷりと腹の突き出た中年の男が映っていた。次の瞬間、中年男の顔がアップになった。それは確かに友愛党元幹事長、前経産省大臣、和久徳一郎その人であった。
そこには、行為の最中にタマラと呼ばれたtypeⅩの指を切断する和久徳一郎の「性癖」が克明に記録されていた。思わず淳一は目をそむけてしまっていた。そこへ畳みかけるように義憤にかられた原雅人がこう言った。
「こんなこと許しちゃいけないですよ! こんなの犯罪ですよね。いくらラブドールとはいえ私…僕は見ていられない。許されていいはずがないんだ。糾弾する記事を週刊群衆に載せてもらえませんか?」
なるほど、呼び出された意図はこれだったのかと淳一は納得した。確かに見ていて気持ちのいいものではない。人間にはいろいろな性癖がある。はたから見たら変態と思われるような性癖もいくらだってある。これもその一つかもしれない。アポテムノフィリア。肉体の切除や欠損に性的興奮を感じる性的嗜好をこう呼ぶ。いくら人間ではないラブドールのtypeⅩとはいえ、事情を知らなかったら、人間だと思う可能性は大だ。注意深く映像を見れば、不自然な点はいくつもある。まず第一に、指を切断されているのに出血が全くないこと。当然人間であれば夥しい量の出血がある。第二に切断時に悲壮感がない。人間であればもっと絶叫するはずだが、typeⅩタマラはもちろん苦痛の言葉は発しているのであるが、やはりどこか緊迫感というかリアリティを欠いているように淳一には感じられた。
「おっしゃることはわかりますが、これはあくまでも人間ではないラブドール相手の《プレイ》に過ぎません。いくら可哀そうに見えても相手は人間ではないのだから当然犯罪にもなりません。ただ悪趣味な性癖だとは思いますけどね」
腕組みしながら少し首を傾げ淳一は、雅人に対して言った。
雅人は全く納得できないようだった。
「そんな……。そんなバカなことがありますか! タマラは和久をパートナーと言ってるんですよ。ということは対等な関係じゃないですか。和久がとんでもない性癖を持っていて、それを人間では出来ないからとタマラに代行させているんですよ。ならばタマラは人間の代用品なわけです。それならタマラに人権があたえられてもおかしくはないじゃないですか!」
「おっしゃることはわかります。今後おそらくtypeⅩが普及するにつれてそういう議論は出てくるでしょう。外国ではそう主張する法学者が事実出てきていますしね。ただ現状では、なんの罪にも問われないということです。強いて言えば器物損壊なのかもしれませんが、それにしてもあくまで他人の物を壊した場合なので、このタマラとパートナーだということになるとそれも難しいといわざるを得ませんね。原さん、あなたはどうしたいのですか?」
「私は……、僕はタマラが、ラブドールがこういう風に蹂躙されるようなことは止めさせたいんです。こんな一方的に望んでいないことを強要させられるのは許せないんですよ!」
「それはあなたのそれこそ一方的な思い込みではありませんか? typeⅩは望んでいないかどうわからないじゃないですか。感情はないんだし。いってみれば機械人形なわけだし……」
そういうと、雅人は少し意気消沈したようにうつむいてしまった。淳一はちょっと言い過ぎたかと思い、慰めの意味を込めてこう付け加えた。
「いずれにせよ、和久徳一郎を失脚させたいのであれば、これだけでは弱すぎます。ほんの少しのダメージしか与えられないでしょう。だけどほかにも何か材料があれば別です。和久は今年秋の友愛党総裁選に出馬する可能性が取りざたされています。もしほかに何か出てくれば、この件と合わせ技で総裁選立候補の時期にその記事をぶつけるってことは可能だと思いますよ。ほかに何か材料があれば、の話ですけどねぇ。私も編集部に戻ってちょっと調べてみますよ」
ようやく個室をノックする音がして、店員が注文した飲み物を運んできた。淳一がオーダーしたのはチョコレートパフェだった。なかなか喫茶店で男はパフェを注文しづらいものだ。周りに女性客がいると男のくせにパフェなんか注文してと笑われるのではないかと意識してしまうからだ。だがこの個室喫茶ならばその心配はなさそうだと踏んで、思い切って注文したのだった。雅人が頼んだのは普通のブレンドコーヒーだった。
「ところで原さん、タマラのこと奥さんにはどう説明してるんですか?」
「そ、それは……、妻にはまだ話していないんです……」
痛いところを突かれたという雅人の心理が淳一には手に取るようにわかった。あまり聞かれたくないのだろうと察した。雅人の美しい顔が曇り、話すべきか話さざるべきか逡巡しているようだった。記者という職業上、この美しい青年が内部になにか大きな矛盾を抱えて生きているのであろうことは容易に想像がついた。今は聞かないでおこうと淳一は思った。
誰の目も気にしないで食べるチョコレートパフェは実に美味しかった。子供の頃母と買い物に行ったとき、食べさせてもらったパフェの味が忘れられなかったのだ。興味深そうに食べているところを雅人が見ていた。別に男に見られているぶんにはどうでもよかった。
「男一人でパフェ注文するのって恥ずかしいですよね。女の子じゃないんだからとか思われそうで……。だから黒川さんの気持ちはよくわかります」
そういうと雅人は力なく微笑んだ。黒川も満面の笑みで溶けたチョコのたっぷりのったアイスをスプーンで口の中に頬張りながら応えた。俺のような元柔道部のガタイのいい男ならともかく、雅人のようにきれいな顔立ちで一見女みたいな優男風がパフェを注文したって全然違和感なんてないんじゃないかなと思ったが、口には出さないでおいた。
雅人はノートパソコンからディスクを取り出すとケースに入れて淳一の前に差し出した。
「念のため、ブルーレイに焼いてきました。すぐ記事にするのは難しいとのことですが、黒川さんが持っていてください」
そういって手渡されたのが、今、編集部のデスクの前に座っている黒川淳一が手にしているディスクだった。プラスチックケースの中のディスクの表面は白無地で何も書いてない。
純一はデスクの前にうず高く積まれた資料の山をどかして現れたディスプレイにキーボードから「和久徳一郎」と打ち込み、検索をクリックした。ずらずらと出てきた和久に関する検索項目に目新しいものはなかった。
五
クライアントに説明する資料を作りながら、雅人は先日会った週刊誌記者の黒川淳一のことを考えていた。黒川とは異業種交流会で知り合った。身長百八十五センチメートル、体重八十五キログラムの堂々とした体躯の持ち主で、学生時代は柔道をやっていたと自己紹介の時に自分から言った。年齢は三十八歳で結婚していて四歳の娘がいる。休みの日は娘を連れてよく図書館に行くといっていた。なんでも娘が図鑑大好きで、図書館で日がな一日、草花や昆虫や魚の図鑑を見ているのだそうだ。その付き合いで行くのだが手がかからなくて楽ちんでいいと笑っていた。その、人の好さそうな笑顔に惹かれて名刺交換をした。あまり深く考えていたわけではなかった。週刊群衆の記者ということで、マスコミ関係者と知合っておくのも悪くないとその時は思ったのだった。
全くの偶然とはいえ、typeⅩタマラを手に入れて、和久が自身の歪んだ性癖を満たすためだけにタマラを慰み者にしていることを知った雅人は、自分の中に湧き上がる激しい憤りを抑えることが出来なかった。なんとかしてこの愚行を、虐待を、唾棄すべき異常な変態性癖を世間に知ってもらいたい、そしてその是非を訴えたいと思った。それには週刊誌というのは恰好のメディアに違いなかった。もちろん今の時代だから、ネットで拡散するという方法も思案の中にはあった。
著名な政治家である和久の動画は、インスタグラムやツイッターやユーチューブなどのソーシャルネットワークサービス、俗に言うSNSにひとたび流せば、名前が知られている分、爆発的に拡散されるであろうことは容易に想像がついた。ただその際に「炎上」する可能性も十二分にある。というか間違いなく炎上するであろうことは火を観るより明らかだった。炎上すればするほど更に話題性が高まるのでより拡散は広範囲に及ぶ。それ自体は雅人の望むところである。
だが、問題はこれが「リベンジポルノ」と区別がつかなくなってしまうことであった。リベンジポルノとは、一般的には別れた恋人などへの復讐のために交際していた当時に撮影したプライベートな性的な写真や動画などを、インターネット上に公開する行為を指すものである。
公開の予定のない私的な画像や動画を、相手の承諾もなく無断でネットに流すのであるから、これは罪になる。どういう罪になるかというと、雅人が調べた範囲では、「私事性的画像記録の提供等による被害の防止に関する法律」に抵触することになる。これを通称「リベンジポルノ防止法」と呼ぶ。この法律の第二条の一、「性交又は性交類似行為に係る人の姿態」に完全に該当する。
ネット上に公開することによって様々な反響が上がることは予測がついた。ラブドール虐待反対の世論が喚起される期待はある。やがてはtypeⅩに人権を認めろという流れが形成されうるかもしれない。しかし、その前にリベンジポルノ防止法の法律の壁が立ちはだかるのだ。「電気通信回線を通じて私事性的画像記録を提供し、又は私事性的画像記録物を提供した者は、一年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処せられる」のである。
もちろん、雅人が独身であったならば、万難を排して和久の所業を全国に知らしめるため、戦う決意は有していた。しかし、現状雅人は妻帯者であった。千草という妻がいる。そして千草はtypeⅩタマラの存在さえ知らないのである。正義感に駆られた「和久の行為の告発」は、はたから見ればまるでリベンジポルノと区別がつかないのだ。それでどれほどの理解が得られるのであろうかと考えたとき、雅人は自らの手でこの動画をSNSに公開する手法は、熟慮の末に断念せざるを得なかった。
ゆえに雅人は次の手段として、知合いとなった週刊誌記者、黒川淳一に連絡するという手法を取らざるを得なかったのである。しかるに黒川は、typeⅩタマラが人間でない以上、これはどんなに目をそむけたくなる動画であっても趣味の一環を逸脱しておらず、器物破損にすら問えないのではないかとうそぶいた。まさにそこが問題であるというのに!
雅人は自己矛盾を抱え込んでいた。和久のタマラ虐待を世に問いたい、そしてタマラの人権を認めさせたいと一方で思いながら、妻の千草には迷惑をかけたくないという心理も働いていた、いや迷惑をかけたくないというのは奇麗ごとにすぎなかった。もっと現実的な問題があった。千草に何故そこまでしてタマラに入れ込むのかと問われたときに明確な答えが出せないのだ。そんな出自さえよくわからない拾ったラブドールに一体なんのためにそこまでやらなくてはいけないのかということの説明が、自分の中でつかないのだ。千草を納得させる答えが見つからない……しかし、なんとかタマラを助けたい……、雅人はまたここでも自分の心が、本心がどこにあるのかわからなくなっていた。
「本当の自分はどこにあるんだろう?」
幼いころから、自我を確立させることが出来ずに成長してきてしまったつけがここでも雅人を苦しめていた。雅人はパソコンの前で頭を掻きむしった。クライアントに提出する資料作りはまるで進まなかった。マウスでシャットダウンボタンをクリックするとパソコンのディスプレイは一瞬で暗くなり、電源が落ちたが、雅人の心の中は重く沈んだままだった。雅人は人間も一瞬で電源が切れればこれほどの自己矛盾で苦しむこともないのにと、ふと思い、その発想のバカバカしさに笑いが込み上げてきた。
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法術省特務公安課の磐城は法術テロの被害者であり、弟を昏睡状態にさせたテロの重要参考人である「ブラックグローブ」を日々追い求めていた。
お騒がせ銀河婦警セラとミーチャ♡百合の華咲く捜査線
YHQ337IC
SF
―絶対正義を振りかざす者は己の窮地など夢想だにしないか、敢えて無視することでゆるぎなく力を行使するのであろう。
それは、信仰と呼び換えてもいい。だから、イオナ・フローレンスは人を殺すことにした。
超長距離移民船団に悪役宣教師令嬢が爆誕した。彼女は己の正義を実行すべく移民政策の破壊を企てる。巻き添えも厭わない大胆不敵な女刑事セラは狂信的テロ教団を追う。
十万トン級の航空戦艦を使役する女捜査官たちの事件簿
移動砲台KOZAKURA
西山壮
SF
2035年、近未来日本。岐阜県と長野県の境にある標高2000メートルの開発実験都市を舞台に、自分の容姿にコンプレックスを持つ少女、佐倉小町とクラスメイト達はとんでもない事件に巻き込まれていく。
ブラッディ・クイーン
たかひらひでひこ
SF
近未来戦争。
20XX年突如鳴り響く、ジェイアラート。その時飛来した、弾道ミサイル攻撃に、日本は多大な損害を被る。
強引に巻き込まれ、すべてを失った男女たちは、シチズンソルジャーズとなった。
そのひとり鹿野は、失われた秩序を取り戻すべく、戦地に赴く。
そこで出会ったのは、ブラッディ・クイーンと呼ばれる、凄腕の女性中隊長だった。
戦場という究極のシチュエーションで、友情や、愛情がどんな形で表されるのか?
生死を共にする仲間たちの間に、どんな絆が芽生えるのか。
だが、戦争は、そんな個人の想いも、無慈悲に破壊してゆく。
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