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祭りと夜空と、浴衣の君と
しおりを挟む今年は幸い晴れだった。毎年雨は降らずとも曇ることが多いこの季節は、天気を待ち望む人々を少しがっかりさせる。
晴れ渡る空、と言っても、もう日は落ち始め。待ち合わせ場所に付く頃には、もう辺りは暗くなっていた。もう七月に入ったというのに夜は少し冷える。念のために、シャツの上から半袖の上着を羽織ってきて良かった。
鳥居の向こうでは賑やかな光が見える。その根元、影になったところに、既に彼女は居た。
どうやら待たせてしまったようだ。
「あら、待ったわよ」
光を背負った彼女の表情は見えない。怒っているのか、悲しんでいるのか。……いや、そんな顔じゃないだろう。
「ごめんね。これでも約束の時間より早く来たつもりだったんだけど」
「そうね、ごめんなさい。私だけがはしゃいでしまったようね」
僕の心臓がドクンと跳ねる。これは恋愛的なものではない。申し訳なさを多分に含んだ、罪悪感だ。
彼女の隣に並ぶ。光がその表情を照らし、美しい横顔が露になる。いたずらの成功したような、にんまりとした笑みだ。
再度僕の心臓が跳ねる。……これは言わずもがな。
「ごめん、僕も楽しみだったよ」
「そ」
僕は緊張で声が震えただろう。こんな言葉を言うのは恥ずかしくて仕方がない。
彼女は短く言葉を返すと、いじわるな笑みを緩め、優し気に微笑む。そして僕に見せつけるように、袖を振ってひらりと仰ぐ。
喉が詰まる。緊張が更に増して上手く言える自信がない。
「……浴衣、とても似合ってるよ。その髪型もすごく素敵だ」
言うと、彼女は何を返すでもなくこちらを見た。切れ長の美しい瞳に、顔の赤くなった僕が映っている。
彼女は僕を横目で見つつ、賑やかな光の方へ進む。思わず目で追ってしまうほど綺麗な歩き姿だった。
彼女の黒髪は簪で結われ、白いうなじが輝いていた。ごくりと生唾を飲んでしまう自分に嫌気が差す。
彼女は僕を待たない。追いついてくるのが当然とばかりにずんずん進む。普段履かないだろう下駄でさえ、彼女は何のこともなしに履きこなしているように見える。
ふいに、彼女がくしゃみをした。僕は羽織っていた上着を脱ぎつつ追いかける。
「寒いよね、これで良かったら」
「脱ぐと寒いでしょ? いいわ」
彼女に掛けようとした上着をそのまま返される。
遠慮しているのかな。僕のことなんて気にしなくていいのに。君が風邪を引いてしまうことの方が、僕は心配なのに。
「大丈夫だよ、僕は寒くないから」
「あなたは浴衣じゃないものね」
……何を言いたいのかはわからないが、ジトっとした目で彼女はそう告げた。
先程の彼女の言葉が尾を引いている。はしゃいでいるのは本当に彼女だけだったと、思わせてはいけないと思った。
「浴衣、綺麗かしら」
彼女は問う。
急な質問に僕は首を傾げる。それに、さっき褒めたところだ。
「綺麗だよ。君にすごくよく似合っている」
顔が熱くなる。本当に寒くなくなってしまった。上着は本当にいらない。無理にでも彼女に掛けてしまおうか。
「そ。ならやっぱり上着はいらないわ」
「……そうなの?」
「そうよ」
「無理してない?」
「してないわ」
彼女がくすくすと笑いだす。口元に手を当てて笑う様子は本当に上品で、しかしこういう時大抵僕はバカにされているか、からかわれている。何か的外れなことでも聞いてしまったのだろうか。いつもより笑う時間が長い。
彼女がひとしきり笑い終えるまで、僕はしばらく待った。
「はー、おかしい。ねえ、あれ買ってよ」
「あれって……りんご飴?」
「そう。私好きなのよね」
彼女はじっとこちらを見つめて言う。
深い意味なんてないはずだ。僕は過剰な自意識を振り切って、りんご飴を一つ購入する。
彼女の顔を半分ほど覆いそうな、大きくて丸い赤。彼女は本当にそれが好きなようで、いつもよりその目の奥の輝きが増しているように感じた。
……僕をからかっている時と、同じくらいか。
「ふふ、妬いてるの?」
「な……。妬いてなんか、ないよ」
「私ばかり飴を食べて悪かったわ」
「…………」
そっちか。と、心の中で溢す。
そりゃそうだ。りんご飴なんかに嫉妬するような男はいない。ましてや付き合ってもいない女の子が、りんご飴に目を輝かせていたからと、僕が何かしらの感情を抱く義理はないのだ。
まあ、だからと言って。僕の買った飴を全て食べられたから、それに拗ねたりすることもないのだけど。
「はい、食べていいわよ。私の噛んだところから食べると、りんごも飴も食べやすくていいわ」
「………………」
何度目かの沈黙。僕の心がかき乱される。僕に向けてりんご飴を差し出している。彼女の小さな一口の跡。
彼女のこういう意地悪なところが本当に、僕は――。
「からかわないでよ。僕はいいから」
「あら? 嫌いかしら。折角食べやすくしているのに……」
彼女の語尾が小さくなっていく。
少しずつ目線を下げ、顔を下げ、俯いていく。そしてポツリ。
「……からかってなんて、いないのに」
ああ、罪悪感で胸が裂けそうだ。
僕は彼女がそっと手を下ろすのを掴んで、飴にかぶりついた。
――見ろ、彼女の嬉しそうな目を。やっぱり僕をからかっていたんじゃないか。先程の切なそうな表情から一変、その目を輝かせて笑っている。
口元に手を当ててくすくす笑う彼女。僕は口の中の飴とりんごをぼりぼりと咀嚼する。甘くて甘くて、少し酸っぱい。
「ふふ、ごめんなさい」
いいよ、君が愉しそうなら。
僕が告げると再び彼女は僕の目をじっと見て笑う。
ああ、りんご飴を見るときとは比べ物にならない程の瞳の輝きだ、と。
そう思ってしまった自分が情けなくなる。
縁日を一通り楽しんだ後、僕たちは家路につく。
夜も完全に更け、辺りは薄い月明かりのみで照らされている。
「天の川、見えたわね」
「ああ、そうだね」
僕たちはコンクリートの道の上で空を見上げる。
昼間はあんなに暑いのに、夜の風はひんやりと心地よく。再び彼女がくしゃみをしたので、今度こそ僕は有無を言わさず上着を掛ける。
「あら、強引なところもあるのね」
「……まあ、君が風邪を引くよりは。僕の恥ずかしさなんてずっとマシさ」
「そ」
彼女は嬉しそうに上着の裾を手繰り、自ら羽織る。彼女の浴衣が半分ほど隠れてしまう。
ああ、なるほど。だからさっきは断ったんだ。……僕がちゃんと、彼女の浴衣を見られるように。
「……」
月は決して明るくはない。月明かりが邪魔になって星が見えないこともあるから。今日が満月でなくてよかった。
「彦星さまと織姫さまは、今年は出会えたかしらね」
彼女は再び夜空を見上げる。
「そうだね。今日はよく晴れたから、きっと出会えただろうね」
僕も返す。
「私、今日は楽しかったわ」
「ん? 僕も楽しかったよ」
どこかぶっきらぼうに言う彼女に首を傾げる。
「私たちは、また明日学校があるわね」
「そうだね。あまり嬉しくないけど、学校があるよ」
そう言うと、彼女が僕の方を見た。
じっと見つめている。表情が読めない。
「あまり嬉しくないの?」
問うてくる彼女に、言葉が詰まる。
ああ、多分僕は言葉を間違えた。でなければ彼女がこんな風に訊ねてくることはないはずだから。
僕は答えに迷う。今日は再三恥ずかしい思いをした。今更男のプライドがどうとか、そんなくだらないことを気にするようなことはないはずなのに。
僕は正直に答えない。
「また明日、学校で会おう」
答えにはなっていない。
だけど、きっとこの言葉で間違いない。
彼女は数歩僕から離れると、こちらを振り返る。揺れる髪型が本当に似合っていて、浴衣姿が綺麗だ。
「そうね。また明日、会いましょう」
そう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。
天の川が、流れている。
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